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ヴィトゲンシュタインの哲学とは?
初歩的な質問で恐縮です。ヴィトゲンシュタインの哲学とはどういうものなのでしょうか? 私が勉強したことがあるのは経済学などで、哲学はド素人なのですが、マルコムの書いた「ヴィトゲンシュタイン:天才哲学者の思い出」読んで、彼の哲学に興味を持ちました。しかしこの伝記では彼の哲学そのものについての記述はほとんどないので、それについては全く分かりませんでした。 そこで、乱暴な質問で申し訳ないのですが、ヴィトゲンシュタインの哲学とはどういうものなのか、教えて頂けますと有難いです。また一般人でも読めるような入門書があれば教えて頂けますと助かります。
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じゃ、俺の出番?(笑。 事物 事実 自分という事物とはいわん。自分という事実。 世界は自分の外だけでなく、自分の内も、世界ですよってことじゃないか? で、脳の分析とか進んで、精神構造が明らかにされていって、自分の内といわれていたものがなんやかんや科学的にいちゃもんつけられて、外の、世界の産物(事物)とされるようになった。 そんな傾向も、自分の内をより深く見つめる契機になるってことかな。 ウィトゲンシュタインの思考一族は、者の構造を分解、原子とか、陽子とかまでばらばらに分析しちまうような凄腕(笑。おもしろいな。その一族が、総体を語るんだよ。自分においてもそう。自分をばらばらにして、どんどんどんどん明らか(彼らの言う所の)にしていく。明らかになったものというのは、自分の外にあるもの、つまり、対象としてとらえれるもので、それを事物という。例え精神的なことでも。たいして事実とは、いまだ分解できていないが、確かにあるといわざるを得ないもの。 つまり、ウィトゲンは世界、自分を分解するトコまで分解したのだけれど、越える事ができなかった。なぜなら、分析、つまり、全てを外に出し、さらけ出させようとしたから。そうやって、事物として確認しようとしたんだよ。世界や自分を。で、けっきょく、語りえないもの(事物にできない事実の部分)があるというところまでいったが、その語りえないもの側に立つ事はできなかった。というよりも、しなかった。あくまで、一族の凄腕として、その語りえないものに対峙した。対峙するという行為、立場が、それ(語りえないものの立場から世界をみること)を成しえないとわかっていても。で、哲学の限界を見たんです。限界を超える事は、できなかった。限界を越えても、そこには越えたところの世界がある。世界という事実を越えたことにはならない。言語ゲームとは、世界の背景に根ざすものであり、それはどこにいこうが逃れれない。 つまり、世界を語りながら、世界を越えた事を言うのは成らないってことかな。 だって、その語っている場所は、世界なんだから(笑。 場所を越えるって事を知った人間だよ。どこらへんが天才かって、たくさん本をかいたとこかな(笑。
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- starflora
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ヴィトゲンシュタインの思想については、わたしはあまり詳しくないので、回答 を躊躇していたのですが、何かの参考にでもなればと思い、主に、前期ヴィトゲン シュタインの思想をわたしなりに説明してみます。 ヴィトゲンシュタインは、元々数学者で、ラッセル、ホワイトヘッドなどと共 に、「記号論理学」の構築を行った人で、「論理実証主義」という哲学の流れの源と も考えられ、また「自然言語学派」という言語哲学の考え方の起源に立つ人ともされ ます。彼はウィーン生まれで、その名は、ドイツ語読みすると「ヴィットゲンシュイ タイン」ですが、英国で学問的活動を行ったので、「ウィトゲンシュタイン」とも呼 ばれます。 ヴィトゲンシュタインの思想は、前期と後期に大別され、前期は、『論理哲学論 考』という記号論理学の哲学的基礎付けのような著作で代表され、後期は、『哲学研 究』などの著作にその考えが示されています。 前期ヴィトゲンシュタインの考えは、存在するのは「事物」でなく「事実」であ るという言葉に端的に示されるのですが、事物・ものとは何か、人間は認識できない としたのは、カントですが、その考えをもっと進めると、人間が知っている・認識し ている・認識できるのは、事物・ものではなく、世界のなかのある局面について、そ れがどうなっているのかの「事態のありよう」であるということになります。 「事態のありよう」が「事実」なのですが、この「事態のありよう」は、論理学 的な「命題」で表現されるとヴィトゲンシュタインは考えました。例えば、「庭の樹 の葉は緑だ」というのは、事物について語っているようで、実は「事態」について 語っているのです。「葉自体」は事物ですが、そういう葉自体は、どこかで人間の言 語のなかで捉えられるかというと捉えられないのです。常に、葉を含む、事態の命題 のなかに出てくる葉の捉え方の総合として葉とは何かという把握が行われることにな ります。 ヴィトゲンシュタインの特徴は、人間の「言語の命題」が、「世界の事態」と対 応していると考えたことです。そして事態の命題には、これ以上分解できないという 「原子命題」があるはずであると考え、記号論理学で「原子命題」の結合によって 色々な命題が造られるのと似て、世界というものも、原子命題の結合・組み合わせで 成り立っているとしました。 人間の言語が持つ構造としての原子命題とその結合規則が、丁度、世界それ自身 にも、そういう構造があり、対応しているとしたのが彼の前期の思想です。 「世界とは事物の総体ではなく、事実の総体である」というのは、人間の言語構 造と対応した構造が世界にあり、世界は、「原子事実命題の結合による総体」として 存在しているという意味です。事物があるかないか、そもそも語ることができない、 知りようがないということです。 こういう風に世界を捉えると、例えば、価値に関すること、倫理に関すること、 また「私は何か」というような「私に関すること」は、事態の命題ではないというこ とになります。「善」とか「美」とか、「なすべきこと・当為」とか「私の霊」と か、「世界の存在目的」とか「存在とは何か」というようなことや、これらを含む、 言語上での色々な命題は、人間の思考のなかにはあるのですが、「世界の事態の総 体」のなかには、対応するものが「ない」ということになります。「形而上学的問 題」とされて来た、哲学の多くの問題は、こういう風に考えると、みな、世界に対応 する構造がない、人間の言葉のなかだけにある問題だということになります。 「幸福」というのを考えると、「わたしはいま幸福」と感じている人の事態はあ るかも知れませんが、「幸福」自体は、世界のどこにもありません。「幸福とは何か ?」という問いの答えは、世界には「ない」ということになります。 ヴィトゲンシュタインは、世界に対応のないものについて語るのは、本来、無意 味であり、それは語っていることになっていないとしました。また、世界とは、「語 ることのできるもの=命題になるものの総体」ですから、「言語の外には、世界はな い」ということになります。 「わたしの言語が、わたしの境界を決める」とは、言語で語れるものが世界であ る以上、言語の限界が、世界の限界になるのです。また、「語り得ぬものについて は、沈黙せねばならない」という有名な言葉があり、これは『論理哲学論考』の最後 に出てくるのですが、これについて色々な解釈があります。 しかし、素直に考えると、「語れないもの」は、「世界にない」のですから、そ ういうものについて語るのは、「世界の事実性」に則さない、つまり、空想の類に なってしまうので、語るのはやめよう、語るべきでないという意味だと考えるのが妥 当なはずです。 ヴィトゲンシュタインのこの考えから、哲学の伝統的問題、特に、形而上学的問 題は、「善」や「美」や「倫理」、「私は何か」とか、「世界の存在目的」とか「成 すべきこと=当為」などについて論じているので、本来「語り得ないもの」を語って いることになり、みな、「無意味」だとなります。 後期ヴィトゲンシュタインは、よく知らないのですが、「語れぬものについて は、沈黙せねばならない」で閉じた、『論理哲学論考』の課題を再度展開し、考え直 した所から出発したのだとも言えます。 「善」や「美」や「倫理」や「価値」、「意味」「世界の目的」などについて、 ヴィトゲンシュタインは、「多様な自然言語」での意味という観点から考察します。 前期の原子命題の結合が世界という措定では、「一つの論理的言語」を考え、この論 理言語と同じ構造を世界が持つと考えたのですが、「一つの論理的言語」というもの を彼は自己批判します。 多様な自然言語は、現に存在しており、それぞれの言語の表現のなかで、「善」 や「価値」などは、意味を持って使われ、把握されています。世界は、このように、 多数の多様な自然言語での用法で、具体的に捉えられており、「善」や「倫理」も、 それぞれの自然言語のなかで意味を持っているので、自然言語での用法、構造を分析 することで、これらの事態の把握へと進むことができるだろうしました(ということ だと思うのですが、前期の思想に較べ、後期は、色々な考えを試みているので、こう であると言えるかどうか疑問です)。 後期ヴィトゲンシュタインは、形而上学的に、「善」や「価値」や「倫理」や 「世界の目的」「存在の根拠」などを考察するのは、間違いであるして、具体的言語 での「意味」の分析を志向したということです。 なお、「ヴィトゲンシュタイン 思想」とか「ヴィト- 哲学」、あるいは 「ヴィット- 」「ウィト- 」「ウィット- 」などで、検索すると色々な解説が 出てきます。
お礼
starfloraさん、とても詳しく教えてくださいまして本当にありがとうございます!!!とても深遠で難解な内容を、分かり易く噛み砕いて頂いたお陰で、イメージがつかめました。starfloraさんの回答の論理が、大変しっかりなさっているので、非常に読みやすかったです。ウィトゲンシュタイン哲学を非常によく理解なさっているというのが、よく伝わってきました。おかげでイメージがつかめたので、早速、教えて頂いた検索方法で探してみようと思います。本当に有難うございました!
02esさん、今日は、偶然、今読んでいる本にウィトゲンシュタインの名前が載っていましたので、これも何かの運命かと観念し、専門でもないのに回答いたします、回答にならないのでアドバイスと言うことで。 -ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の冒頭で、「世界は事実の総体であって、事物の総体ではない」と述べている。-(科学の基礎を考える、思想の科学社より) 上記の引用は、著作権を侵害していますが、慣例として問題の無い範囲と考えますが、問題であれば解答のみ削除してください(管理者さんへ) 事実と事物の違い、ご安心下さい私にも判りません。 ちなみに、Wittgenstein又は、ウィットゲンシュタインで検索した方が沢山ヒットしました。
お礼
fishbowl66さん、早速のアドバイス有難うございます。「科学の基礎を考える」私も参照させていただきますね。また良い検索方法をありがとうございました。私もその方法で調べてみます。ありがとうございました。
お礼
難しい内容を分かり易くご説明くださいまして有難うございます。とても参考になりました。