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ウィトゲンシュタインの逆説について
L・ウィトゲンシュタインの著名な「論理哲学論考」に以下のような不可解な逆説がありました。 「私は世界の出来事を私の意志で左右することはできない。私は完全に無力である。 ただこのような仕方で、すなわち世界の出来事への私の影響を断念することによってのみ、 私は世界から私を独立させることもできる。そして、ある意味で世界を支配することもできる。」 この一説の「・・・私を独立させることもできる。」までは何とか理解できる気がしますが、 最後の「ある意味で世界を支配・・・」の部分は完全に僕の理解を超えています。 この逆説に類似した(?)F・ベーコンの 「自然はこれに服従することによってのみ、征服される」 という言葉がその理解の助けとなるかとも思えますが(要するに、自然現象に従ってその観察・観測を 行えば、その法則化が可能となり、その法則によって自然現象は予測・予言が可能なものとなり、そしてついに人間による自然現象の制御・征服が可能となる、ということ?)、ベーコンの言う「自然」とウィトゲンシュタインの言う「世界」とは似て非なるものだとも思われ(ベーコンの「自然」とは端的に自然科学のことで、ウィトゲンシュタインの「世界」とはその科学をも含む論理的に可能な世界の全体のこと?)、不可解さは増すばかりです。 なぜ「私の影響の断念」が「世界の支配」につながるのか・・・。論理が飛躍しているとしか思えません。 皆様はこれをどのようにお考えになるでしょうか。
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- ghostbuster
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まだここを見ておいでなら良いのですが。 まず、ご質問の文章は『論考』ではありません。『草稿1914-1916』に所収されている、1916.6.11に書かれた文章です。 「草稿」というのは、自分の考えを日々ノートに書き付ける習慣のあったウィトゲンシュタインの、一種の日記のようなものです。なかでも1914年から1916年にかけてのものは、『草稿1914-1916』として出版され、今日もよく読まれています。なかでも1916年のものは、『論考』では断片的にしかふれられていない自我の問題や自由意志、神や死の問題が扱われており、極度に圧縮されている『論考』を読解する手がかりとされています。 1916年当時、ウィトゲンシュタインはオーストリア軍の一員として最前線にいました。6月4日に開始されたロシア軍の大攻勢を前に、オーストリア軍は総退却を余儀なくされるのですが、まさにそのさなか、文字通り、死と隣り合わせの中で書かれたものの一部が、質問者さんのあげられた文章です。ただ、重要な部分が欠落しており、意味がとれなくなっていますので、ちょっと長いですが、全文を引用します。 「神と生の目的とに関して私は何を知るか。 私は知る、この世界があることを。 私の眼が視野の中にあるように、私が世界の中にいることを。 世界について問題となるものがあり、われわれはそれを世界の意味と呼ぶことを。 世界の意味が世界の中になく、その外にあることを。 生が世界であることを。 私の意志が世界を満たしていることを。 私の意志が善か悪であることを。 それゆえ善悪が世界の意味と何らかの形で関連していることを。 生の意味、すなわち世界の意味を我々は神と呼ぶことが出来る。 そして父としての神という比喩をこのことと結びつけることができる。 祈りとは生の意味に関する思考である。 世界の出来事を私の意志によって左右するのは不可能であり、私は完全に無力である。 私は出来事への影響を断念することによってのみ世界から独立できるし、それゆえある意味で世界を支配することができる。」(『草稿1914-1916』p.253-254) つまり、ここでは「神」についての考察がなされているのです。 この「世界」というのは、あらかじめ与えられた自然的世界のことではありません。 自然的世界にあっては、非生物も生物も、ともにあるがままに存在しています。そこには善悪もなく、また、意味もありません。 そこに人間が、言語をもち、それによって世界と生に意味を見いだし、あるがままに存在するのではなく、主体として、「自我」として、みずからの「世界」を生きようとした。このとき、所与の自然的世界は一変します。ここで言われている「世界」とは、こうした人間の「生」と同一の「世界」です。 > 「世界の意味が世界の中になく、その外にあることを。」 「世界の外」とは、異空間のことではなく、「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」(1915.5.23)という言葉をふまえるならば、「私」の言語の外、すなわち「私」が考えることも語ることもできないことがらです。 この箇所で「世界の意味」といわれているのは、神のことです。 わたしたちは神について、何の経験も持ちません。つまり、神は本来、「私」の言語の外にあるものです。ところがわたしたちは、実際には考えることも言葉にすることもできないはずの「神」について語ります。それはいったい何を語っているのでしょうか。 「考える」というのは、もともと、わたしたちの「言語の限界」の内側で、その中にある対象について考えることを指します。けれども、「神」について「考える」というとき、わたしたちはほかの対象とはちがう関係のもちかたをしている。ウィトゲンシュタインは、その関係のもちかたを「祈り」と呼ぶのです。 ウィトゲンシュタインは1916.7.8の日付の箇所で、こうも言っています。 「神を信じるとは、生の意味に関する問いを理解することである。 神を信じるとは、世界の事実によって問題が片付くわけではないことをみてとることである。 神を信じるとは、生が意味を持つことをみてとることである」(1916.7.8『草稿』p.256) わたしたちと「世界の意味」との関係は、このようなものです。 > 世界の出来事を私の意志によって左右するのは不可能であり、私は完全に無力である。 これは、当時のウィトゲンシュタインの置かれていた、砲撃を受けながら退却するという状況を考え合わせると、まさに実感であったことと思います。 けれども、自分にふりかかる運命に対してどうしようもない無力感を感じながらも、同時にこうも言っています。 「私は運命から独立しうる。 二つの神的なもの、すなわち世界と私の独立した自我が存在する」(1916.7.8) > 「私は出来事への影響を断念することによってのみ世界から独立できるし、それゆえある意味で世界を支配することができる。」 降りかかる砲撃は、自分の力ではどうすることもできません。けれども、たとえ自分にどうしようもないとしても、「私」は世界と運命に抗して、独立した自我として存在することができる。意味のある生を生きることができる。 この箇所は上記のように読むことができると思います。 以上、参考まで。
- man1113
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ウィトは清楚なA子に惚れていました。A子はウィトの友人でもあるモテ男のB男に惚れていました。しかしウィトはB男が女にだらしないのを知っていたので、A子に何度も忠告しました。しかし恋は盲目、A子の耳には届かず、そのうち2人は婚約しました。 ウィトは何を言うのも諦め、自分の無力を感じ、2人と一切の関係を絶ちました。 ある時2人を知る他の友人が、ウィトに、2人のすったもんだの結婚の顛末を教えてくれました。 時間の経過と共に心を回復したウィトは、今では、A子の尻に敷かれているであろうB男の事を妄想し、たまにほくそ笑む日々を送っています。 (ベーコンさん風に) A子は付き合い始めてすぐに、はらぼてになりました。 A子には分かっていたのです。 B男に他にも女がいる事、B男がすぐに女に手を出す事、分かってて敢えて身を委ね、妊娠しました。 当然、双方の親が怒り心頭で出て来ました。傷物にするとはどういう事だ!実は、A子はとても強かな女性だったのです。 哀れ、B男はその後、双方の親の監視のもと、結婚生活を送るハメになりました。 ちゃん、ちゃん♪
- miko-desi
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「自然」は概して悩めません。が、 困難を克服した歓喜=「幸福感を味わいたい」は持っているかも。 人間にも快楽を約束するより困難の克服に興味を持ったなら、 それが人間に適った願望の「餌」になり得るのであり、 味わうかわりに「餌を征服する」にはと意志する、考えるようになる。 無力であることの自覚は、 自己を把握して自由に動けるようになる証であり、 その責任を自ら負う判断(動き出す)をしたともいえ 意気をくじくと逆になる。 世界を支配…これは世界を軽蔑していたら 「支配」とか「その理屈には屈する」「自由でありたい」という願望の理屈も出ますが、 世界や自然に敬意を抱けてたり、同意していれば 私は影響も与えないし無矛盾ということではないでしょうか。
- 雪中庵(@psytex)
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物質(肉体)的な自覚によれば、世界は決定論的に感じられ、 肉体的な可能性は限られ、それさえも決定論的な歯車に組み 込まれているように感じられるでしょう。 しかし、そういう自己の肉体性に由来した即物的な欲求や 物質的願望から解脱し、「全ての宇宙は自己の内面の現象」 と考え、自己存在のための必要(自我仮説(時間の流れ= 記憶=時間軸)と時空仮説(空間的広がり=予測=空間軸) の相補分化)として捉える時、その他我的自覚=愛において、 全てのものは自己成立の補完として常なる充足が可能となる、 という話なのかも知れません。 ベーコンの場合は、プラグマティズムなので、自然(生物進化 や社会の発展)はそれに逆らう力を淘汰する事によって生じる 流れゆえ、それに抵抗しても抵抗にはならないので、そうした 法則に従う事で、力を得る=自由度が高まる、という話でしょう。
- corpus
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私の影響を断念するということは、 私が世界と無関係になるという意味で、 独立するということにもなります。 そして、独立するということは、 植民地が独立するというように、支配から逃れることです。 そして、自ら支配するのです。 私は、ふつうに読めばいいと思いますよ。 そんなに難しいことは書いていないと思います。 ただ一つ、私と世界の関係というのは、 ほぼ同じ意味になっていくでしょう。 これがベーコンの対立とは別の問題です。 対立でなく融和、消失です。
- mmky
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>>なぜ「私の影響の断念」が「世界の支配」につながるのか・・・。論理が飛躍しているとしか思えません。 皆様はこれをどのようにお考えになるでしょうか。 ○仏教的に考えればいいんですよ。外観と内観という見方があるのですね。内観は外の世界から隔絶し、自身の内の世界を観ることですね。心の世界に宇宙が見えるということですが、心の世界は制御できる、心の世界の王者にはなれるということですね。L・ウィトゲンシュタインはそのことを表現しているだけですね。 一方、外観は自身を自然や世界の一部として観る見方ですね。この見方が、F・ベーコンですね。西洋哲学は外観が主流ですので、西洋哲学からでは、L・ウィトゲンシュタインが理解しがたいかもしれませんが、東洋哲学は内観が主流ですので、「すなわち世界の出来事への私の影響を断念することによってのみ、私は世界から私を独立させることもできる。そして、ある意味で世界を支配することもできる。」は、至極当たり前のことですね。仏教では「諸行無常・諸法無我」から始まる内観方法のことですね。 これには多少の説明が必要でしょうね。 望遠鏡で見る世界、その世界で起きるあらゆる出来事が起きていますが、その世界が実は全て心の世界に存在する世界の一部でしかないということなのです。目で見る世界は限界があって全てを見ることはできませんね。その弘大無辺と思える世界が実は心の奥にそっくりそのままある心の世界の内の小さな小さな世界と同じものなのですね。目で見える世界は3次元でしかないですが心の世界では高次元から見る世界ということなのです。そういうことを知っているということをL・ウィトゲンシュタインは述べているのですね。 余計に理解困難になるかもしれませんが、そういうことなんですよ。
- kanto-i
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>ただこのような仕方で、すなわち世界の出来事への私の影響を断念することによってのみ、 私は世界から私を独立させることもできる。 ただこのうような仕方とは、依存をやめることではないでしょうか。 親が子供が友人が、上司が同僚が部下が、社会が政治家が「○○をやってくれない」 「○○が常識でしょう」「当たり前のことをしない」などなど。 他者依存から、自分の思うように相手をコントロールしようとすると上手くいかない。 それを止めると、私は精神的な自立を意味します。 >そして、ある意味で世界を支配することもできる。 こちらは自律になった自らの状態を表していると思います。 じ‐りつ 【自律】 1 他からの支配・制約などを受けずに、自分自身で立てた規範に従って行動すること。「―の精神を養う」⇔他律。 2 カントの道徳哲学で、感性の自然的欲望などに拘束されず、自らの意志によって普遍的道徳法則を立て、これに従うこと。⇔他律。 自律すると精神的束縛に囚われず、自身として確立できるので自由になります。 その時に、ある意味での世界の支配が確かにできます。 ご自分がそうなってみると、その立場に立てるのでよく分かると思います。 哲学は単なる分析に使うより、自分がやってみることに使う方が はるかに分かりやすく、有益だと思います。 あなたがと言う訳ではありませんが、哲学をやってて使わない人を よく見かけますので、勿体ないと思ってしまいますね。
お礼
お返事が大幅に遅れまして大変申し訳ありません。 上記の文章は中央公論社の「論理哲学論考」で、その訳者が本文の理解のために付した注解に引用された一節だったようです(僕が興味深い所や意味不明な文を抜き書きして、それが注解であったことを失念して投稿しまった!)。 誠にお恥ずかしい限りです。 ところで、回答者の方が仰りたいことは、この一節は世界や生の意味や価値について語られたものであり、当時のウィトゲンシュタインの切実な思索(苦悶?)の跡であり、広い意味での倫理的問題を論じたものであるということだと思われます。 そう言えば一説にウィトゲンシュタインは「論理哲学論考」と後期の代表作「哲学探究」を同時に公刊し、前者で論理世界の内側にある「語りうるもの(科学・事実)」を、後者で論理世界の外側にある「語りえざるもの(倫理・価値)」をそれぞれ扱う予定だったといいます。 そうであれば、上の「日記」の一節は以下の「~論考」の、 「世界は私の意志には依存しない。」 「世界と意志との間にはいかなる論理学的連関もない。」 「世界の意義は世界の外側になくてはならない。世界の中ではすべてはそのあるがままにある。すべては起こるがままに起こる。世界の「中には」いかなる価値もない。・・・」 という数節と共に後期への過渡的な思想の一端であると解しえ、腑に落ちる気がします。 貴重なご叱正誠に痛み入ります。 ありがとうございました!