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石川啄木の歌について
石川啄木の「悲しき玩具」におさめられている歌、 新しき明日の来るを信ずといふ 自分の言葉に 嘘はなけれど の、訳を教えて頂きたいです。よろしくお願いします。
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- jakyy
- ベストアンサー率50% (1998/3967)
いい歌ですね。でも大変、悲しい、重い歌ですね。 この歌集は石川啄木が死ぬ1週間前に土岐哀果を通じて東雲堂に 出版を依頼したもので、この時の原稿料は啄木の最後の薬代になりました。 生活が苦しく、肺結核で苦しんでいる啄木の気持ちが出ている歌ですね。 新しい未来がもうすぐやってくると、 私は信じてはいるが、本当に来るであろうか こんな内容ですね。 この時の歌としてこんなのがあります。 「百姓の多くは酒をやめしといふ もっと困らば 何をやめるらむ」 この頃は啄木自身がややニヒリズムになっていますね。 歌集の稿料が最後の薬代であったとは、涙が出ますね。 啄木はこの歌集を出して27歳でなくなりました。 啄木の無念な気持ちをゆっくり、味わってください。
- maris_stella
- ベストアンサー率71% (241/336)
「短歌・和歌」は一応、それ単独で、意味を持つものが多いのですが、石川啄木の場合のこの歌は、日常語の表現に近すぎて、記されている通りの意味しか読みとれないようにも見えます。しかし、もちろん、書かれている言葉の調子や選び方から、作品のテーマを鑑賞することは可能です。 >新しき明日の来るを信ずといふ 自分の言葉に嘘はなけれど >(訳)新しい明日が訪れると確信していると述べた、かつての自分の言葉は間違っていなかったはずであるが、しかし…… >新しい明日、――つまり、新しい社会や変革された時代、あるいは自分自身の人生の展望において、明るく可能性が開かれた未来――などが、必ず訪れる、実現すると、考え、確信している、そのように自分自身に言い聞かせ(また、他の人にも告げた)言葉に間違いや嘘はなかったと思う。しかし、新しい社会や、新しい自分の人生の未来などが開け、訪れるという、確かな予兆がないようにも思える(これはどういうことなのか、どうすればよいのであろうか)…… 「新しい明日」について、色々と考え、その到来をかつて確信し、それを言葉でも述べた。その確信や考えは、いまでも間違っていなかったと思う。しかし、現実はどうなのだろうか、そういう新しい展望はどうなったのだろうか? こういう意味の感じられるうたです。啄木は、大きな望みを持って、東京に出てきて、色々な意味で「未来を信じ」ましたが、夢破れというか、夢や展望の実現しないまま、不遇に倒れました。このうたは、自分が展望したように、現実は動かなかった、未来は開かれなかった、あるいは、自分の夢は実現せず、このままにわたしは倒れてしまうのだろうか……という不安や焦燥の思いが読みとれるように感じられます。
こんばんは。 訳ではないですけど、↓は解説の様なHPです。
- ogura-an
- ベストアンサー率59% (51/86)
「新しい明日が来るのを信じるという自分の言葉に嘘はないけれど」 前後の文があるともう少し正確を期せるのですが。
お礼
非常に助かりました。どうもありがとうございました。