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道徳規範は 愚の骨頂
ではないでしょうか? なぜ なくならないのでしょう? 道徳は 倫理としての試行錯誤の中にしかない。おのおのの思考の過程であり 生活共同の動態であるはづです。 ヰキぺディアの記事の中に 次のように 思考の動態であることを示す一節もありました。 ▲ 《ヰキ:道徳教育》~~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%BE%B3%E6%95%99%E8%82%B2 ただし、〔生徒たちに 道徳心を身につけさせるに際して〕 同じ行為においても、徳目どうしが衝突することは頻繁に起きる。 ・ 転倒した児童が自ら立ち上がる強さも大切であるし、それを他の児童が助けてあげるのも大切である。 ・ いたずらを起こした児童生徒を厳しく諌めるのも大切であるし、許すことも大切である。 ・ 身なりが整っていない児童生徒をいじめることはよくないが、身なりを整える習慣を身につけることも必要である。 そのような場合に教師がどのような評価を下したらよいのか、明確な評価基準がないために、評価は流動的である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ その場その時に応じて また 自分や相手や情況に応じて 考えつつ対処するのであって 規範とその応用は 愚の骨頂だと思うのですが いかがでしょう? おしえてください。 * おそらく 宗教という問題にかかわっているとも思います。わたしは 宗教は 個人の信仰が内面から外に出かけるというおのれの自殺行為から出た慣習だと考えているのですが そのような外化としての教義化と 一般における道徳規範とが つながっているかとも思います。このあたりのことについても よろしかったら どうぞ ご見解を示してください。
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ちょっと基本事項を整理します。 まず、法律及び道徳規範の外面性と道徳の内面性、 法律の国家による強制と道徳規範の強制がない部分を図にしてみました。 A部分は、内面的道徳だけ、Bは、強制力を伴わない道徳規範だけ、 Cが法律の実体法、Dは法律の中で道徳とは関連のない手続上の決まりなどの部分で、 Eは、実体法の中で何らかの理由で道徳から外れた不合理で妥当性の見出せない法律です。 法律Cはよく言われる最低限度の道徳とされ、行為が現実に行われたことを問題として, それを評価の対象とするのに対し,道徳は,人の心理の内側を問題として行為の動機を 重視します。法律C部分は、「人間がいるところ争いが起こる」がその存在理由です。 動性道徳は、道徳における「行為の動機」を形成する非常に帯域の広い内面を 各個人が熟成させることであって、この広がりによって結果として究極的にBC部分が 形骸化されることです。 国家による強制力の発動は、そういう意味では形式上最低限に抑えられている ことにはなっていて、国家対個人の関係では自由の保障がされてもいます。 そして、一階と二階では、憲法で一階が主体であることが謳われているわけですが、権力は 実質的に二階に存在します。法律Cを最低限度の道徳としながら、二階の詔勅等E部分を一階に強制すると 上記の形骸化がなされないどうしようもない部分ができることにはなりますね。でも、一階には これを排除する力が法律Cによって与えられています。 なにが言いたいかというと、法律、規範には、究極的に形骸化できるものC部分と なしえないものE部分があるということであり、なしえないものは排除しなければならないという ことですね。 そして、前回、規範の存在を意識することのない人間が存在していると記載しましたが、 単に気ままな暮らしをしていると言うことではなくて、やはり、気づきが重要で、 排除すべき規範への気づき、規範の限界への気づき、及び帯域の広い内面の熟成によって、 規範BCから自由になります。 あと忘れてはならないのは、この全体が時間経過に伴って変化するということに対して、 規範も、法律もその静的態様からCがEに変質することがあると言うことですね。 結論を急いでしまいますが、規範が無くならないのは、気づきがないことと、 動性道徳の不存在がその理由となります。つまり、それがあるなら、BCは自然と 形骸化するということで、二階からのEの強制は排除、Cの強制は即形骸化します。 規範という帯域の狭い情報に、帯域の広い動性が縛られてしまうのは、内在する道徳の不存在 ということでしょうか。二階にいる人の言葉には弱いということも、宗教の話もこの二つで 説明できるように思います。
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- bananasand
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では、ちょっと脱線した話題を最後に。 デパートのトイレットペーパーなんです。 いわゆる公共の場所で、トイレットペーパーを置いておけない国が けっこう沢山あるということですね。 国内でも駅構内はないところもありますし、経済状態にもよるのですが、 有価物であるトイレットペーパーを自分が使う分だけ使って、 残りはちゃんと残しておく。 ほとんどのそのようにするのが当たり前だから、それで支障がないという状態。 ほとんどの人が持って帰るようでは、管理側もとても置いておくことはできないわけです。 他の状況を見渡せば、国内もトイレットペーパーレベルといってしまえばそれまでですが、 これが意外に重要だと思うんですよね。 所有物でない、貸借物でない、公物でない、消費される物・・・・ トイレは清潔に! おあとがよろしいようで・・
お礼
bananasandさん ご回答をありがとうございます。 そうですね。 昔の言葉では 《公徳心》と言っていました。 そう言えば 《パブリック》とは どういうことかという話を NHKのテレビで ものすごく昔に聞いたおぼえがあります。 オランダでの体験を語っていたのでしたか 図書館の本は みんなのもので これは パブリックだと言います。パブリックのものは みんなで 大事に使うのだと。ただし 自分の所有する本は 乱雑に扱うのだとも言っていました。 あまり一般化することは出来ないが 日本では これが 逆ではないかという話でした。自分のものは 大事にするが 図書館の本なら 自分のものではないから 破ろうが 書き込みを入れようが 自由勝手だと思っているのではないかと 話をつづけていました。 図書館の本は きれいに使いましょう! それでは。 あっ あの《羞恥心》現象について 名前をつけておくといいですよ。流行語大賞をめざして 考えてみてください。いくらか時間が経つと この現象を命名し 促したのは ここでの回答からだったということになるでしょう。
- arayata333
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>相手との関係では 問題点を しっかり 処理しておくことこそが あるいは それだけが 重要だと考えます。< この冷静なご判断には、もう少し対応すべきかなと思え、 「先送りされてる」とおっしゃられる問題から ともかく書いてみます。 * >はっきり言えば 何の価値もないという評価をしています。世の中成るように成る これだけの思想です。これだけが 思想です。まったくとるに足りないものだという評価です。それを あなたは 良く評価するところもあると言うのですから 真っ向から対立しているのです。そういう問題が 尾を引いています。< 「Kiさん」のことに絡むわけですが、そちらの問題とされている「世の中成るように成る」という思想との対立点は、 この質疑の問題とも関るものと思えますので、 筆を伸ばしておきます。 *まだ、完全にはOKウェブを去るとは決めていませんが、 それによってその地点を再び考えてみます。 OKウェブを去るのは、ともすれば激しくなってしまう私の筆に 自粛の意味もあるのですが、 もし、ほんとうに問題点を冷静に処理できるのであれば、 そのへんにももっと柔軟に対応すべきかとも思えます。 それは、 おそらく 価値的論議の大きな進展につながるかとも思うところです。(勝ち負けは関係ないです。でもそこに心が傷つく人がいれば、 私には、それは ともかく 出来ないことです。)* まず、その問題に入る前に確認しておきたいことが2点あります。 その問題へと入る前に、 何故? 何故そちらは >何の価値もない<という意見の世界の人が 論争から無責任に逃げたからといって、それをあえて他の質疑の中に持ち出してまで問題としようとしたのでしょう。 そんなに価値の無い意見ならば ほおっておけばいいのではないでしょうか? 規則違反をしてまで、それを問題としたのは、まさに、 《世の中成るように成る》との思想が、深い間違いだとの指摘をしたいということなのでしょうか? 感情的な対立とはいっさい関係ないわけですね。 2点目は >>はっきり言えば 何の価値もないという評価をしています。世の中成るように成る これだけの思想です。これだけが 思想です。まったくとるに足りないものだという評価です。< というところまでの 文章についての疑問ともなりますが、 この文章ですと (A)“「世の中成るように成る」という思想をKiさんが持っている、それは問題だ“ とも読めますし 反対に(B)“「世の中成るように成る」という思想こそ、思想の中の思想と言えるものであり、いやそれだけが思想なのだ。 Kiはそのへんを全く認識していない”というふうにも読み取れてしまいますが、 (A)(B)どちらが言いたいのでしょうか? まったく間逆の二つの解釈が出来てしまうと思うのです。 わたしは、 私の数少ないKiさんとの質疑にては、まったく「世の中成るように成る」という言葉を読んだわけでもなく またそのように解釈したり、そう推理できるようなことは読んでいませんでしたので、 あるいはそう理解できるような理解力が無かったということなのかもしれませんが、 それで余計に 二つの解釈が頭をよぎってしまうのだろうと思います。 たぶんですが、(A)の“「世の中 成るように成る」は おかしい、間違ってる” という方の 考えをbrageloneさんは持たれてるのだとは思うのですが、 神というと 運命予定説のようなものもあるかと思いますので、「成るように成る」という言葉は そのようにも思え、またまた疑いですが、 文章としては そう思えてしまいかねない文となってしまっているわけです。つまり 間逆に(B)の方である という場合も想定できてしまうということです。 ほんとうに そのように疑っているということではありませんよ。 でも 言葉とは時として むごいほど微妙ですね。 はっきりと これは(A)(B)二つに読めてしまうところだと思います。 * では、ともかくここでは(A)の場合を想定して 話を進めておきます。 ↓ 「世の中成るように成る」という文は 運命予定説にもつながる文としても読み取れますが、 もう一つ「世の中成るようにしか成らない」といういう文の裏返しとしても読み取れる文とも思います。 そして、この「世の中成るようにしか成らない」という文自体もまた いろいろ解釈が出来てしまうものなのです。 「だから どうにでもなれ どうでもいいや 世の中なんて」という発想にもつながる解釈が あるう一方、 でもこれは 人間の小ささの自覚の問題を訴えるものとも言えます。 明日 私の命は無いかもしれない。 あるいはそういう命であるということの自覚です。 そしてその自覚からは “世の中 「賭けでしかない」”というこれも2つにとれる考えも生まれます。 “価値なんて言うものはこの世には無いんだ”という 投げやり性にも受け取れますし、 一方は“ 何事もやってみなければならない、 そのうえで限界を見極め ことを決定すべきなのであって ともかく相対的な存在である人間はそうやって前に一度進んでみるしかないのだ”という真反対の科学愛や実験精神の必要性を訴えている良心の叫びとも受け取れる言葉なんです。 どういう人が言っているのかによっても まったく異なってしまいますし、 その微妙な判断は 文だけですとよほど総合的にその人の文をよく読みこなしてからでないと はやとちりして逆の読んでしまう場合もある言葉であり文だと思います。 そのように、二重にも三重にも読み取れてしまうそちらの問いかけ、 その部分が引き伸ばしになった因の一つです。 * あの文だけでは、Kiさんの何が深く問題なのか はっきりわからなかったので 何も答えることは出来ませんでした。 * しかしながら、 この文明の世の中の 「成るようにしか成らないさ」その混迷さの深さは、深いです。 そう思ってしまう人が 大勢いたとしても不思議ではないかと思います。 それでもなお闘うのが いえ出来ないと解ってさへ前に進み続けようとするのが人間の良心だという主張ならば、 それは私の考えと同じであり、 その意味で「成るようにしか成らない」という考えを否定する気持ちも同じです。 しかし、そのあまりにもの根深さを考えると、心虚無の暗闇にあえぐ、あえぎ苦しむだけの人の心にも もっともっと、まず寄り添うところから 説得したい気持ちになるのが私の 気持ちなのですが、 そのへんが理論的にどこか甘かったりするのでしょうか? もし、私がKiさんの心に虚無の闇の中のあえぎをみたのならば、 私ならば対立する形は出きるだけまず避けます。 そこを あのように取り上げたのは、やはり そちらが人間の弱い姿の一つとして何か、攻撃により感情的になってしまい 時としては傷ついてしまうのかな、 と今は思えてしまっているということなのです。 いや、そうではなくて、 愛がゆえに、Kiさんに“重大な思想の地点にて論議なので逃げないようにと促されている”のだとしたら、 これは、 言葉 表現の世界の難しさの問題が ここに大きく立ちふさがっている問題なのでしょうか? * ここにても 「成るようにしか成らなさ」の混迷は深いです。 そしてその「成るようにしか成らない」とい考えを否定してあげるとしてその場合の対応法も また難しいはずです。 簡単に その考え(思想)により添っていっしょに考えてあげる優しさが必要とも言えませんし、 つまりそういう道徳規範だけでは考えられない地点ですし、 かと言って そういう考えをずばり否定してあげる厳しさという 道徳も同じように簡単に たしかに道徳規範だけでは考えられない難しさを持っていたりします。 両方とも 愚の骨頂とまでは言えないでしょう。 ならば何が 必要なのか? 私は それを 感性の進化による説得の道筋として 主としてその面からとらえます。 この場合、 寄り添うしかない という考えとなります。 そこを そちらは信仰の理論として考え、対立は対立とするのかもしれません。 でも それのみでは それ自体解決しない、 あるいは 両方の考えがここには必要というのが私の考えです。 その道はきびしい。 しかし希望はあり 希望はすててはならない。 これが私の考えです。 あくまで「世の中成るように成る」は ここにて否定します。 あるいは、今となっては そんなこと言う資格の無い人間なのかもしれませんが、 Kiさんのことであれば そんな感想をここに回答しておきます。 * ★蚊論争 については、 違い自体は やっと私も解ってきたきがします。 法学理論のあたりは わかりませんが 言葉の意味合いの違いはです。 しかし、 これは、 感性のあたりの違いから来てると思いました。 と、これもまた 表現の違いの問題にすぎないのかもしれませんが、 感性の専門家が論争してはならない地点と認識せざるを得ません。 * では、 もしかしたらですが、 しばらくお会いできないかと思いますが、 ご活躍お祈りしております。(とくに、この論議の発展をねがっています。) 反省と勉強と そして実践と 生活の建て直しにしばし、集中させていただきます。
補足
arayata333さん ご回答をありがとうございます。 まづ 《ひとを傷つける》ということについて 質します。 1. ひとは 外からくる何ものかによって 精神や心が 傷つくということは ありません。あり得ません。 2. 外から来るその何かをめぐって 自分も 一枚 咬んでいて 自分の側に自分をあざむくやましさを持っていたときには それによって 傷つくということだと考えます。 3. 自分には 何も やましさもないのに 心が騒ぐという場合 それは 相手の疾しさの一端を――たしかに その何ごとかの事件に 一緒に 絡んでいたからには―― わざわざ 分かち合って 持ってやるという意味になります。 4. これは 半ば 自動的に 分有しつつ あたかも そのやましさを共有しているかっこうになります。存在は 関係性より成っているからだと考えます。 ★ 《ケ・セラ・セラ》の思想問題を なぜ 持ち出したのか。 ☆ あなたとの間で その内容をめぐって 対立しているからです。その対立が この際 持ち上がったからです。 ★ 二点目 ☆ は (A)(B)どちらでもありません。《ケ・セラ・セラ》の考え方を arayata333さんが 今後 部分的にでも 肯定しつつ 持つとなると この際 行き着くところまで 論議を尽くしておかないと 話が 何も進まないという意味です。このくらげのような思想が どこからともなく 勝手に 入ってくると(という意味は arayata333さんが その思想に 突然 逃げ入るようであるなら) いちいち そのつど 議論を余儀なくされます。 ○ 神を抱くことと 運命予定説とは 何の接点もありません。仮りに 運命があるとすれば それは 神が決めます。だったら 運命によって成るように成ることは いっさい ありません。 ★ 世の中 「成るようにしか成らないさ」〔と見えるとき〕・・・〔成らない・〕出来ないと解ってさへ前に進み続けようとするのが人間の良心だという主張 ☆ ではありません。有効な思想が 現実に《成らない》のは 既成事実としての有力が 前に たちはだかっているからです。有効だが 無力であり 既成事実は ほとんど無効だが有力なのです。ただ それだけのことです。 歴史を ご破算で願いましてはというように 元にもどして 始めるわけには行かないというただそれだけの理由です。有効は どこまでも 有効でありつづけます。 ★☆ 寄り添う寄り添わないは 理論とは 別です。自由です。 ☆ kiさん自身の問題は ここで 扱いません。その意味は わたしとkiさんとの関係としては もうじゅうぶんやり取りを尽くしているという意味です。馬を水飲み場まで連れていくことは出来ますが 水を飲ませることは出来ません。もう 何の問題もありません。 ひとこと言っておけば 神話の神々と信仰の神とのちがいを分からないし分かろうとしないのですが この問題については 学習効果はゼロです。このように ここでも 触れておけば 何らかの効果は出るかも知れません。ただし この場は arayata333さんとのやり取りの問題です。余計な口を差し挟んだことになります。余分なことに触れることによって arayata333さんの理解がすすむと考えるからです。(この前のごとく 勘違いはあります)。 ★☆ 再度 寄り添うのは 自由です。この場合には 相手が 去って行ったわけですから 追わないというのも ふつうの対処の仕方になります。 ★ 蚊論争と感性 ☆ 《無効》の問題をめぐっては 違います。別です。 要するに ものを盗んだとすれば その品物を 持ち主に返します。つまり 盗みという行為は 無効であって すべてのものごとを 原状に復帰させるのが 絶対要請です。それだけのことです。 時間を元にもどすことなど出来ないのですが 考え方の上では 無条件に 原状復帰です。 行為は 有効であり 一般に認められる。ただし その行為は 蚊が刺したようなものだとたとえる。これは つまり 一種の気休めですね。なぐさめです。 無効の宣言によれば なぐさめる必要が ないわけです。なかったことになるからです。人情の問題として 《蚊が刺しただけ》という表現を採ってみるということです。
- bananasand
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>《動性道徳》を旗印にして掲げつつ 説いていくと またまた 規範として間違われるおそれがある。 気づきの必要性とその限界、および、言語表現の静的態様ゆえの限界でしょう。 あと、違いは、個別崩壊説か全体崩壊説とでもいうものでしょうか。 もとに戻りますが、愚の骨頂は、移り変わりゆく全体Xすなわち X+時間の中にそびえ立つ硬直した規範にあるわけで、これを崩落させるのは、 全体Xのダイナミックな動態となることに違いはないでしょう。 でも、この答えは痛いほどの現実の折り重なりの中にあるでしょう。 いわば平和、自由、平等、人権という言語の呪縛と 広い帯域とのギャップはあまりに大きいわけで、方程式を完全に解くことはできないまでも 間違いとは言えない幾つかの解を現実の中から拾ってゆくしかないように思います。
お礼
bananasandさん ご回答をありがとうございます。 《荒削りでよい》と思って 書きこんでいくと けっこう どんどん 思考が 進んでいたようです。我ながらです。 ただし せっかくの法律・規範・道徳などの図式を 何の気づかいもなしに その他人のふんどしをいいことにして 突き進んでしまったようです。おとなげないさまにて 申し訳ありません。 でも かなり いい線を行っていたでしょうか。 ただし 考えてみれば ★ 気づきの必要性 ☆ が 重要です。重要だというよりも 《気づき》があって初めて 全体 X の行為形式としての一般化も 出てくるのでしょうし 第二階における方言形式の問題も 見えてくるというあり方にはなっているようです。 ★ 言語表現の静的態様ゆえの限界 ☆ これは もうつねに そうなのだと思います。言語あるいはつまり文字は ひとを殺すと表現して その観念化の弊害を言いますから。 ★ 個別崩壊説か全体崩壊説 ☆ これは 展望になるのでしょうか。それとも すでに いま現在の行為形式として 捉えようとしていますか。 ★ この答えは痛いほどの現実の折り重なりの中にあるでしょう。 ☆ これは そのとおりでしょうね。 ★ 間違いとは言えない幾つかの解を現実の中から拾ってゆくしかないように思います。 ☆ ですから 広いあるいは全体の帯域を 基礎としつつ いわばどこからでも 個別にも 一定の集団としても 自由自在に 言葉は悪いですが ゲリラ方式のごとくに と言っても 無理に突っ走る必要もないように思いますし そのつど 問題・課題を捉えて その過程において互いに情報交換をもしつつ 一歩一歩 すすめていくとよいように わたしも 思います。 ここまで来たら かなりの収穫ですよね。 たしかに作戦などと言ったら この質疑応答の場では ふさわしくないでしょうから これからも 基本的な考え方を 模索しつつ 進めていくとよいと考えます。あせらず 着実に まいりましょう。 もう少し 寝かせておいて 締めることにします。 今の段階においても ありがとうございます。進みましたね。進めましたね。
補足
一点 補います。 ○ 動機 ☆ については 理論の分析要素などとして 用いるのは 極力 避けたほうがよいとは つねづね 思って来ました。 これを問い始めると 茶の木畑に入って行ってしまうと思うのです。 この点を添えつつ。
あくまで、質問に対する回答として自分の考えを述べてるに過ぎないので、長々と議論する気もないので、これで、最後にしたいと思います。わたしたちの日常生活において 生活によきことは だれもが すすんで 行ないますし そのために 互いに 助けあいます。これで ふつうの生きた道徳です。と書かれていますね。これも、一つの社会正義です。でも、道徳教育などが失われていけば、これらも、なくなるということです。でも、これらが当たり前じゃない奴らが増えているから、道徳教育が継続的に続いてるのだと思います。勉強でも同じだと思います。当たり前のようにできる人にとっては必要ないものでも、出来ない人にとっては必要なものです。和を乱すことを知らなかったのではなく、知っていて行わなかったと言うのが理性であり道徳だと思うのですが、争いごとの火種は少しでも、少ないに越したことはありません。ここに、そのひとの心が表れていると思いませんか?ただ、仲良くしようとしている人。和を乱すことを知って、和を乱すもの、この人は、周りの人間を大切に思ってるとは、とても思えません。他にも社会正義とは人を殺してはいけないとか、人のものを盗んではいけないとか、沢山あると思います。でも、現実に沢山起きています。そして、誰もが、そうなる可能性を秘めているのだとも思います。でも、これらが、心に根付いてることで踏みとどまれる場合も多々有ると思っています。それと、これらの行為を誘発させようと挑発してる人、指示してる人、脅迫してやらせてる人、などのほうが、よっぽど、悪だと思っていますね。こういう人を減らしていかないと、犯罪は増えていくと思います。以上で、終わらせていただきたいと思います。
お礼
victoryroaさん ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 和を乱すことを知らなかったのではなく、知っていて行わなかったと言うのが理性であり道徳だと思うのですが、 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これで じゅうぶんです。満足です。そうですよね。 なぜなら わたしの文章にしたがう限り その前提は ○ 《和を以って貴しと為せ》という表現を知らない前における出来事であるのですから。 ☆ 論理的には ちいさな矛盾がありますが そういう趣旨になるはづです。ですから じゅうぶんだと考えます。 ありがとうございました。
補足、道徳教育が行き届かないと社会正義のない社会になると思います
お礼
補足 ですね。 やはり 正面から ぶつかってみましょう。 ★ 社会正義 ☆ とは 何でしょう? わたしたちの日常生活において 生活によきことは だれもが すすんで 行ないますし そのために 互いに 助けあいます。これで ふつうの生きた道徳です。 《正義》とは なんですか? たしかに その昔 ○ 国ゆづり ☆ という事件が起きたのです。どうしても 幹事をおれにやらせてくれと言って 拝み倒す人間が出ました。例の《神のごとく いかなるものの下にも立つまい》と心(?)に誓ったあの人間たちです。 ときの おほきみ ミワのふつうの市長の系譜の人たちは そのかれらの執念に 根負けしました。お山の大将でいないと それらの人たちは 生きていけないほど気ぐらいが高かったのでしょうね。これは カワチの系譜のおほきみたちですね。 だだをこねくりからかしました。とうとう 根負けして それではと 市長の位をゆづって 好きなようにさせたのです。泣く子と地頭には勝てません。 市長の位をゆづったのが とうとう 国ゆづりにまで 膨れ上がりました。よほど 気ぐらいが高く よほど勉強したのでしょうね。人一倍 がんばりました。ついに 天の高みにまで登りつめました。 現代では 市民主権になっていますが その優秀な種族は むろん 国の中枢にいて 立派な指導者となって わたしたちを 大いなる和の世の中へと導いてくれているというわけです。 世の中が どこか 具合いがわるくなってくると ひとつには 道徳が 乱れていると見立てるのでしょうね。それには 道徳教育が 大切であり しっかりやりなさいということなのでしょうね。そうすれば 社会正義が 回復され しっかりと根づくと見込んでいるのでしょうね。 たぶん すべてが 逆であるというのが ここでの質問趣旨です。これに対する批判を 大いに 展開してください。
2度目です^^えーと、道徳規範が愚の骨頂だと考えるなら、なくなれば、どうなると、お考えでしょうか?自分は争いごとが増え、また、昔の戦乱の世に逆戻りなきがしてなりません。それどころか、科学の進歩した現代の方が戦争の規模もでかくなるでしょう!17条はあくまで、人間心理を書かれているものに過ぎないと思います。こうなれば、こうなるという物事の道理ですね。あなたの中にも道徳規範が根付いてると思いますよ。道徳規範とは、普段の日常の中に充分現れてるお互いを大切にしあう心による言動こそが道徳規範であると、私は考えています。
補足
victoryroaさん ご回答をありがとうございます。 そうですね。べらぼう話をしてみましょうか。 victoryroaさん あなたは こうして わたしの仮説としての意見に反対していますね。けれども 道徳のおしえるところは ▲ 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。 ☆ ではないのですか? もっとも そんな争いをしていては 何にもなりませんで たしかに そのあとに言うとおり ▲ 人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。 ☆ であるわけです。それゆえにこそも ▲ 和を以って貴しと為せ ☆ なのでしょう。ところが 《人みな党あり》の情況にあって どんぐりの背比べであるとき 出した結論は ▲ ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)〔いなさい〕 ☆ というようなことですね。そうではないでしょうか? 仮りにでも 道徳ですから その中身が わるいわけではありません。旧いものもありますが 一般に わるいことを説いているわけではないとしましょう。ですが いま上の結論では――これも 一般にですが―― ○ 思考停止 ☆ に 人びとは 陥るのです。あるいは ○ 《和が大事だ。お上に逆らうな》という音の響きを ちょっとでも 聞いたならば もはや すぐさま いわゆる条件反射をおこなうのみ。 ☆ となります。一つの側面としては ○ マインドコントロール ☆ という見方も 出ていますね。人の中には こういう大切なことに気づかせてくれるから 逆に言って 《道徳規範》は――つまり 反面教師として―― なくてはならないのだと言う人もいるようですが おそらく それは 屁理屈です。なくても 生きた道徳が 実践できれば それで いいのではないでしょうか? ★ 道徳規範が・・・なくなれば、・・・自分は争いごとが増え、また、昔の戦乱の世に逆戻りな気がしてなりません。・・・ ☆ とお考えのようですが わたしから見れば ○ 《和を以って貴しと為せ》という表現を聞かなかったときには わたしたちは 和を乱すことを知らなかった。 ☆ というのが 現実の見方だと考えるのです。けんかは しょっちゅうと言っていいほど していたでしょうが 敵を含めて みな 仲間なのです。だれも あたまの上から――そのてっぺんのさらに上から という意味です―― 《戦争をしてはいけない》とは言わなかったし 聞かなかったのです。それで 村むらの共同体が それなりの平和に生きていたのです。《和を胸にいだけ》と言い出した人間が たとえば 斥侯(スパイ)という手段を考えだしたのです。 あたかも神のように いかなるものの下にも立つまいと 或る日或る時 思いついたのでしょうね。それには 《大いなる和》を 第一の道徳規範として掲げるのがよい。その傘の下で その和を保つためには 自分たちのあいだで 少々 けんかをしてもいいが 《お上には さからうな。君父にはしたがいなさい》という付属条項をも入れておいたのでしょうね。・・・ といった見解のもとに 仮説をかかげ 質問をしております。お応えになったでしょうか。
- arayata333
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>● 《Q:So this is Christmas,戦争のない世界について》~~~~ http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4569432.html (ANo.18) 表現の《ゆとり》が必要< は、ANo、16でコメントが無いうちに再び続けて書いてしまう形の規則破りも、哲学のカテでは 歯車にゆとりが必要なように そのユトリのあたりは認めてください。 と Okウェブの方等に理解を求めたものです。 他にも哲学価値があり、がゆえに質問しつつ、コメントにて自分の見解も述べてしまう人がいて、それのことはここで想定していました。 今 言っても信用してくださらないかもしれませんが、その時はbrageloneさんのことは想定していませんでした。 しかし、そちらの質問も同じ価値があるのに削除の対象となってしまう点があったりするのであれば、それは、ここでそれを守ろうとしているということです。 まして、そちらの回答にゆとりが無いなどという想定は いっさいしていないわけです。 そのような文には一切なっていないわけです。 これは、 やはり、 そちらの感情を害してしまったということなのかと思いました。 だとしたら、 お詫びしてもお詫びしてもお詫びしきれないようなことを私はしてしまったのでしょう。 ひとつだけ オブラスツォーフについては、過去に書いた内容とは別な視点の回答内容である点だけ書いておきますが、 まさに、 蚊論争に手も足も出ずに負けた者に、その地点の答えを出せない者に、次へ進む資格は無い 事態となってしまったのでしょう。 加害者感覚の鈍感さを問われてももしかたない事態となってしまっているということなのでしょう。 わたしは、その意図は演技であったとしても 結果 ほんとうにけんかをおっぱじめてしまったという結果を生んでいるのでしょう。 非常識極まりないことを しでかしてしまったことには変わりなきところ、 私には これ以上 ここに参加する資格はないと思います。 ほんとうに申し訳ありませんでした。
お礼
arayata333さん ご回答をありがとうございます。 ● 《Q:So this is Christmas,戦争のない世界について》における《ゆとり》の問題 ☆ 分かりました。わたしの早合点であると分かりました。お詫びして 撤回します。 ★ オブラスツォーフ ☆ について 新しい情報ではありました。 ★ 蚊論争に手も足も出ずに負けた者 ☆ 結果として そうなのかも知れませんが 問題は 認識の違いを互いに確認することです。 ○ Aが《同じだ》と言った。 ○ Bが《いや これこれの事由で 中身が違う》と言った。 ○ そのあとの確認の問題でした。 ☆ 勝ち負けは さらに そのあとの問題です。どうでもよいはづです。 あとは 《世の中 成るように成る》思想について 論争が 先送りされているという情況です。 心理とは 延々とつづく麻雀競技のごとくで おもしろいかもしれないけれど 果てしのない議論であるに過ぎないと考えます。動機も ある意味で どうでもよいものです。あやまる際にしても その心のありようは おのれの主観としてこそ 大いに問題であったとしても 相手との関係では 問題点を しっかり 処理しておくことこそが あるいは それだけが 重要だと考えます。
はじめまして^^自分は道徳は平和を維持していく上でとても、大切なことだと考えています。例に挙げられたものも、道徳だと思うのですが、道徳と言うのは、長い戦乱の歴史の中で、平和に仲良く笑顔で暮らせるように試行錯誤を繰り返しながら出来たものだと思います。つまり、道徳がなくなれば、社会正義がなくなり、損得や欲望が優先する世の中になるでしょう!そうなりつつ、ある世の中ですが、そうなれば、戦争ばかりが起き、人を大切にすることはなくなるでしょう!それこそ、獣と同じになるでしょう。そういう世界なら道徳は必要ないでしょう。そうなれば、平和だからこそ、得られるいろんな感情はなくなると考えます。そして、いつの日か、また、平和を求め、人は何故争うのだろうとなり、また道徳的考えに戻るのだと思いますが、何事も作ると言うことは、簡単ではありません。ですから、この憲法を作られた方は、本当に偉いと思います。平和を愛し、みんなが、それそれの、幸せを手に入れられるように、考えられたと思います。そして、平和を維持していく為に、お互いの心を大切にするところから入っていると思うのです。同じ行為をしても、善意と悪意とでは、結末が違ってきます。法律でも、善意と悪意とでは違う判決が下ります。だから、自首すれば、罪も軽くなると法律はなっていますが、今の悪党は、その法律を、うまく利用しています。そして、心を軽んじて、人を軽んじて、社会正義がなくなりつつある世の中でしょう!だからこそ、政治家が教育の見直しを訴えているのではないのでしょうか?ルールを守らない人が増えてる世の中だから、日本も戦争が起きる日も近いのでは?と危惧しています。道徳規範とは、物事を考える基準です。これを読んでいただいて、少しでも道徳の大切さを共感出来れば、幸いかと思います。
補足
victoryroaさん はじめまして。ご回答をありがとうございます。 初対面なのに 言いたいことを述べます。 《憲法》と称する次のような《道徳規範》を持っていたのですが そして 初めの《和を以って貴しと為す》は いまも 通用しているように見えますが 果たして 総合的に判断して おっしゃるように 朽ちることのない大事なものであったし いまも そうであると判断できるでしょうか。わたしは 疑問を持つのですが その疑問は このように規範として 頭に頂くなら それは 愚の骨頂でしかないという意味です。もっぱらの公民である人たちだけには 好都合であるかも知れないという意味です。 ▲ (十七条の憲法)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://www.geocities.jp/tetchan_99_99/international/17_kenpou.htm 第一条 (読み下し。以下同様) 一に曰(い)わく、和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。 第二条 二に曰わく、篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏と法と僧となり、則(すなわ)ち四生(ししょう)の終帰、万国の極宗(ごくしゅう)なり。何(いず)れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。人尤(はなは)だ悪(あ)しきもの鮮(すく)なし、能(よ)く教うれば従う。それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん。 第三条 三に曰わく、詔(みことのり)を承(う)けては必ず謹(つつし)め。君をば則(すなわ)ち天とし、臣(しん)をば則ち地とす。天覆(おお)い地載せて四時(しじ)順行し、万気(ばんき)通うことを得(う)。地、天を覆わんと欲するときは、則ち壊(やぶ)るることを致さむのみ。ここをもって、君言(のたま)えば臣承(うけたまわ)り、上行なえば下靡(なび)く。ゆえに、詔を承けては必ず慎め。謹まずんばおのずから敗れん。 第四条 四に曰わく、群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)、礼をもって本(もと)とせよ。それ民(たみ)を治むるの本は、かならず礼にあり。上礼なきときは、下(しも)斉(ととの)わず、下礼なきときはもって必ず罪あり。ここをもって、群臣礼あるときは位次(いじ)乱れず、百姓(ひゃくせい)礼あるときは国家自(おのずか)ら治(おさ)まる。 (現代語訳) 四にいう。政府高官や一般官吏たちは、礼の精神を根本にもちなさい。人民をおさめる基本は、かならず礼にある。上が礼法にかなっていないときは下の秩序はみだれ、下の者が礼法にかなわなければ、かならず罪をおかす者が出てくる。それだから、群臣たちに礼法がたもたれているときは社会の秩序もみだれず、庶民たちに礼があれば国全体として自然におさまるものだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ いかがでしょう? 総合的に見て どういう判断をくだされますか? * これまでの質疑応答を読んだ上で もう一度 ご投稿いただければさいわいですという横着なお応えなのですが どうでしょう? * 言いかえると 今回おっしゃっていることは あまりにも 抽象的なご議論であると受け留めているものです。
- bananasand
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では、動性道徳における道徳に焦点を当てる危険領域に入りますね。 この道徳は言語表現に馴染まないもので、鮮烈で豊かな体験から体得あるいは育成される 性質のものでしょう。特に大きな失敗や苦悩、苦痛から得られるものでしょう。 失敗や苦悩を知らなくとも周りのほとんどが体得していれば 今の我々が規範に染まっているように、この道徳に染まってゆく性質はあると思います。 (1)道徳規範は なぜ なくならないのでしょう?~国家という社会形態をめぐる歴史を~ No10で、 >これは、簡単です。法律、掟の存在です。 >憲法であり、民法の信義則、公序良俗等々があるからです。 と記載しました。 手続法の類は別として何故法律や掟が存在するか。 法律がその前提としている「人間がいるところ争いが起こる」からですね。 とすると、動性道徳における道徳を強いて言えば、 規範を放棄する究極を前提とするなら、「人間がいるところ調和が起こる」となるでしょう。 善と善の対立は有り得ても、調和と調和では対立のしようがありません。 そうすると歴史的展望ということでは、人間の本性にかかわるのですが、人間は欲であるとか、 人間は殺すものであるという、そういった部分が動性道徳にかかわると思います。 人間は目に見えたものが欲しくてたまらない。 だから、他の最も欲っしている者に与えて極自然に自らが喜ぶということでしょう。 自らを律して他に与えているのとは全く異質です。 でも、こうして究極的な記載をするとどんどん動性道徳が異臭を放ちます。 言いたいことは、こういう規範臭いことではないんですよね。 まぁ、でも、歴史的な見通しのポイントは、気づきの連鎖だと思います。 狩猟から農耕へ転換し工業化、経済化の中の人間、そしてその先にあるものでしょうか。 愚の骨頂をやっているうちはダメなんですね。規範の消滅が先か動性道徳が先かを思えば、 動性道徳が先にあって、規範はいずれ消滅するということですね。 規範が消滅して動性が残り内在する道徳が無ければ規範が復活します。 でも、そう考えると今現在においても規範のない(規範と出会わない)人間は存在しているということになります。 (あれ、そうすると道徳規範は なぜ なくならないかというと 個人単位では、各人の動性道徳の不存在といういことか。) まぁ、とはいえ、このあたりから宗教・無宗教、そして教育との関連がでますね。 どちらもその静的な剛直性は、もっと揉みほぐさないと化石になる価値もなくなりますね。 究極を記載してはみたものの動性道徳からずれて規範に近づくのを 感じます。もっと、現実寄りで、規範よりも遙かに帯域が広く豊かでダイナミックです。
補足
bananasandさん ご回答をありがとうございます。 へぇー そういう思考実験もあったんですね。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 動性道徳における道徳を強いて言えば、 規範を放棄する究極を前提とするなら、「人間がいるところ調和が起こる」となるでしょう。 善と善の対立は有り得ても、調和と調和では対立のしようがありません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《善と善との対立》で 世の中を 生きる。これが そしてその発想も いいと思いました。 《道徳規範は なぜ なくならないか》に対する解答としての ★★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ~国家という社会形態をめぐる歴史を~ No10で、 >これは、簡単です。法律、掟の存在です。 >憲法であり、民法の信義則、公序良俗等々があるからです。 と記載しました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 気がつきませんでした。 村の共同自治であれば たいていは 長老がいて 壮年の者らが中心となり 考えを煮詰め合って 村の一人ひとりの自己経営も 社会の経営も いとなまれていくでしょう。成文不文を問わず 掟も持たれるでしょう。しかも おそらく その運用に際しては 融通が効くはづです。 村を束ねてその上に第二階をつくって そこから 掟を発布する場合には 事情がまるっきり異なってくるものと思われます。曲りなりにも保たれていた村の和は 上から《公序良俗》と規定されるに到ります。 御言告り(詔勅)であるから 従わなければならないという論理が 加わってきます。公序良俗を守れというお達しがあるから 和が貴いものだと 錯覚しかねない情況が 醸し出されて来ます。 うんぬんということで 理解を伸ばせていれば 分かったのでしょうが。残念でしたし 欠礼いたしました。 ★ でも、こうして究極的な記載をするとどんどん動性道徳が異臭を放ちます。 / 言いたいことは、こういう規範臭いことではないんですよね。 ☆ ということで その例示のご議論については 省略に従います。短い議論では むつかしい。 あとの箇所についても もはや引用しませんが たぶん どこかに 突破口がある(出て来る)はづなのではないでしょうか。 いわゆる《敵失》を待っているというのも おかしな話になるでしょうが けっきょくたぶんは こういふうに哲学なら哲学として それぞれの主題を取り上げて 考え尽していくことが ひとつの道であるのではないでしょうか。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この動性道徳は言語表現に馴染まないもので、鮮烈で豊かな体験から体得あるいは育成される / 性質のものでしょう。特に大きな失敗や苦悩、苦痛から得られるものでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たしかに この探究では ★ 危険領域 ☆ にも踏み込むような思考実験になるかも知れません。(言論の弾圧といったそういう危険とは 問題が 別のですが)。わたしが 歴史の展望として 方程式のような思想を出して来ることになったように 思考実験においても 決まった形式としての命題が出て来てしまって やはり方程式にも成り かえって ★ 究極的な記載をするとどんどん動性道徳が異臭を放ちます。 ☆ ですかね。
- arayata333
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No28からつづけます。 オブラスツォーフは、ドキュメントには 主題が必要だということを、映画界に参加してすぐに気がつき(でないフィルムの羅列は ただに雑録になる。) 人形劇の大家としての経験と知恵からの独特のその考えを生かす方法や技術を語った人としても有名です。 たとえば、 鉄工所のドキュメントであったとして、そこで働く人の大変さがその主題なのか、 あたらしい製品への開発やその情熱が主題なのか、あるいは 今ではこんなに簡単にその製品が出来上がってゆくというオートメーションシステムのすばらしさが主題なのか それとも、そこにたどりつくまでに、どれだけ大変な歴史があったのかが主題なのかで、 そのドキュメント作品はまったく別のドキュメントとなるということです。 そこを、彼は 長い間に身に付けた演劇人としての直感から ドキュメント映像と それを説明するナレーションとの関係を 深めていき、 その時間とタイミングの理論のように、現代ではさらに効率化されている技術も最初にはっきりとさせた人でもあるのですが、 そこには 現代でもそう簡単には追いつけない彼独自のナレーションの工夫もあったのです。 ロシアの人ですが、 世界中を旅していて日本にも文楽を研究しに訪れています。 また、チャップリンともかなり親交のあった人としても知られています。 その彼のドキュメント作品は どれも興味深いのですが、 その中の『映画は告発する』というドキュメントについて、 書かせていただきます。 スタッフとともに、ヨーロッパ中を取材してのドキュメントなのですが、 その『映画は告発する』というドキュメントの中にも その独自の深いナレーション技術が発揮されています。 フィルムは、取材した段にては、ばらばらな雑録、 しかして、 すでに主題があって取材したまさにドキュメントの主題であったところ、 ↓ ここで、大井数雄訳のオブラスツォーフの「続・人形劇 わたしの生涯の仕事」の中から、その文のままを書きますが。 ↓ 顔いっぱいのほほえみや流れるような涙、超豪華な家や貧民窟、恋人どうしや娼婦たち、教会の礼拝と戦争、死体、拷問、飢え、廃疾、レプラ、乞食、居酒屋、大麻、阿片、クー・クラックス・クラン、幸福そうな子供たちや腹がふくれた骸骨のような子供たち。 画面から私の声による言葉(アラヤタによる註、これがナレーションの部分です。)は、各シーンによってはじまっていく。 はじめの言葉とシーンとは、こうなる。 「家が倒れた。 犠牲者少数。 一名。 だが、この一名が……あなたの子どもだったら? あるいは、あなたの妻だったら? あるいは、あなたの父だったら? そのときに、あなたは、犠牲者がわすかだ、というだろうか? もしかすると、それはあなたの生活のすべてであろう! ひとりの人間は、二人より小さくない。人間を足し算したり掛け算したりはできない。人間はひとりひとり、唯一のものであり、またとないものである。 その人が生まれるまで、そういうひとはいなかったし、そのひとが死んだら、そういう人はあらわれないであろう」 最後の言葉はこうだ― 「すべての人間にはひとつの生命があり、二つ目の生命はない。だれでも、みんなと等しく、子どものときから、幸福になる権利をもたねばならない。そうなるだろう。世界中で、そうなるだろう。今日出なければ、明日。その明日がはやくやってくるよう、ひとりひとりが知らねばならないこと、忘れてはならないこと― 今日、いま、大地が燃えている。 子どもが泣いている。……。」 **** と続いてゆく名文、名ナレーションの部分です。 時代はスターリンの時代へと入っていました。 どんな時代のどんな場所にも おなじ人間の叫び、 リスペクトの魂はあったのです。 今、 この叫びを 情報化時代の良心の旗印としたいです。 そちらの言われる「霊」の世界にも、、 その魂の叫びの一表現としてぶれないシンプルさを垣間見させていただきました。 ここから、語る思いが、その良心からの計算が、そちらの懐疑と質疑と祖の会議を彩っているわけです。 誤解なんてかまわない。 とはそれはわたしには見ていられないところだったわけなのです。 でも そちらご自身がそこをもすでに見つめられた上でのことならば、まさにでしゃばりなずべて 年寄りの取り越し苦労だったというお話です。 * この場をかりて、やはり、私の方から、このいち表現者の専門家の方から あたまのよい人たちへ訴えます。 brageloneさんのこの質問は ふかく正しい信仰からの 魂の叫びと理解してください。 ぶれないその魂からの質問だということです。 深すぎるがゆえの 誤解を わたしは、やはり 恐れます。 * 以上を私のほうからの、今回の回答とさせていただきます。
お礼
どうですかねぇ。 まぁ せっかく書き込みがありましたので 応答しますが そんなことを言ったら 何にでも 誤解はあるでしょう。 こう考えられませんか。誤解を持つのも その人にとって ひとつの過程として必要であるのだと。 避けられる誤解を避けるのがよいと言うのでしょうが 今回の《霊》および《三位一体》に対する誤解は もう何度も わたしは述べてきた内容であって いまさらと思うものです。誤解したい場合には 誤解するのとちがいますか。
補足
bananasandさん とうとう 佳境に入ってきましたね。ご回答をありがとうございます。 ▲ 《ハドソン川の奇跡》 《ハドソン川の英雄》 ☆ の話が しきりです。最後に いま一度機内を見まわって 残った人はいないかを確認してから この機長は 脱出したそうです。Bravo ! ところで このとき 危機管理のマニュアルとしての対処法と そして 道徳上の対処の仕方とが あるかとも思われます。《機長や船長は 飛行機や船と 生死をともにするのだ。危機を脱出するのは とうぜん 乗客乗員すべての最後である》という考え方を 規範ととるか もっとも合理的な対策として考えられたものととるか。 こう考えると どうも 帯域の広い《道徳》というときに わたしは 動性道徳とさえ言わずに もしくはその枠をも超えて 思想または生活態度あるいは行為形式と呼んで捉えたほうが よいように思うようになりました。 例の将来の歴史に向けての行為形式を 方程式と呼びましたが そう呼ぶ限り まだ 規範に近い感覚が残ります。思考実験を煮詰めたあとに残る合理的な形式も 規範のにおいがしないでもない。 ですから ちょうど 法律を 実体の部分と手続きの部分とに分けて捉えたように 基準や原則として扱われる行為形式については 規範の部分と手続き上の規則の部分とに 分けてみるとよいかも知れないと思ったのです。 言いかえると A・B・C・D・Eの全部を包含する X なら X を 思想哲学あるいは生活態度ないし行為形式として さらに 設定してみると どうですかね。あるいは こう言えるかも知れません。つまり 《思惟・内省=生産・行為形式》です。いちど こういう用語を作ったことが じつは ありました。帯域が広いでしょう? その利点は たとえば 《動機》を 必ずしも 扱わなくてもよい。あるいは 規範化の問題について 特別のかたちで 《気づき》として おしえ合わなくてもよいかも知れない。 ★ Eは、実体法の中で何らかの理由で道徳から外れた不合理で妥当性の見出せない法律です。 ☆ このEも いかに 不合理なものであろうと 広く人間の思惟=行為の形式であるとして その基礎の上に乗っけておくと そのEを持ち出してきて取り立てようとする相手に対して それもそうだがうんぬんと言って切り出していくことができる。 あとは 二階族の言語習慣の問題になるでしょう。その方言の特徴や 表現形式の特徴などなどを 基本的に押さえて認識しておくと きわめて便利になると考えられます。 ひとつ 最初に思い浮かぶのは 何でもかでも 相手の思想(思惟=行為形式)を 先取りすることです。おれは おまえの考えや思いを知っているぞ あるいはおまえの心をちゃんといつも思っているのだぞと 思わせようとするその手法のことです。先取りと言っても 時間的なあとさきであるよりは 考え方において おまえの思考や思いを包むほどの思いを おれは 持っておるぞと思わせるものです。 世間の誰が 分からなくても おれだけは おまえの気持ちが分かる ようく分かるという態度を 持ち続け たとえ勘違いが 途中で 見つかっても 絶対的に 初めから 分かっているのだぞという姿勢を崩さない そういう方言形式です。(アマテラス語とは 誰かが 言っていました)。(これだけでは ありません。いろいろ あるはづです)。 ★ 結論を急いでしまいますが、規範が無くならないのは、気づきがないことと、 / 動性道徳の不存在がその理由となります。 ☆ ですから 別の角度からみつめつことも出来るわけです。《気づき》については アマテラス語方言の表現形式を知らないゆえ 気づかないのだとすれば その表現形式の特徴を分かれば そうとう 効を奏す可能性がある。あるいは 《動性道徳の不在》という観点から見るほかに 別様に 最大限に広い帯域としての思想(思惟・内省=生産・行為形式)が あいまい・あやふや・はにかみやの傾向を持ち ともかく 思考の訓練が まだまだ なされていないという観点から 捉えていくなら いいかも知れない。つまりは 《動性道徳》を旗印にして掲げつつ 説いていくと またまた 規範として間違われるおそれがある。――以上のごとくです。 * 今回は 試行錯誤でよいと思って 荒削りのままです。