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キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に成った。
( a ) キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭って死んだのだ。 ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。 それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。 ( b-1 ) 原罪をあがなってやったなどと言うはずがない。 ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。 ただこれだけの話である。 ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。 ( f ) つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。 これだけのことである。 ――ご教示ください。 * ( g ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。 ( h ) 思考の対象である教義を 《非思考としての 信じる》と言ったり その教祖や組織の長への崇拝のようなかたちにおいて やはり《信じよ》と言いがちであったりして 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。 ( i ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。 ( j ) 神はその名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。 ( k ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。 さて是非は いかに?
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- 畑 茂夫(@Flareon)
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問いかけをあきらめるといけないから一応言っておくよ。 言いたい事は判る。 何かを返したいところだがそれもなかなか言葉にできない。 これはある程度お互い様だろう。 健闘を祈る。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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こんばんは、 そうさな、他方で私はこんな事を書いた。 > 聖書登場するイエスさんの生きた時代と、彼の生き様とは、神に懇願し、生きる事が自らでかなわないと、自助を放棄した退廃的な時代に、我こそは神そのものであると、待望の救世主を名乗る人物としてイエスさんが現れた。彼はユダヤ教を土台としてその救世主であると主張することで、自らが神である事を信じさせようと寡作したが、当の敬虔なユダヤ教徒には偽物とされ、ユダヤ教の信仰を脅かす、世相を乱す危険人物として告発された、何を吹聴しても無罪である現代日本とは違って、生きる事の尊厳が信仰と密接にかかわり、それを冒涜する事が生死にかかわりかねない時代に、彼は正当な法の裁きにより処刑された。 それは必然である。 そのように犬か何かを遊びで打ち殺す行いに過ぎないイエスの処刑を、パウロは考えた。 もし彼こそが正当な神であれば、処刑は大罪であり、神への反逆であり、死を経過している以上償いはできないものだ。 そして、犬死に過ぎない哀れなイエスは、人間に呪いをかける道具として聖書に登場する。 聖書とは、抜きがたく人は呪われていると吹聴する偽りの神話である。 信仰にまつわる哲学を正当に思考するには、自らが信じ受け入れる事が手段であり、私はこんな怖い事を考えながらイエスを通じて信を結ぶ神について思いめぐらした。それでキリスト教徒の信仰心の内訳は判ったつもりだが、その信仰を理解する過程は、めくるめく夢のように踊り、考えとして結び付けるいとまがなかった。そのキリスト教の信仰の過程は、あなたが指摘している非思考、または思考外で無条件そんな感じだった。 感触としては、これはもしかするとキリスト教特有で、聖書が偽りの神話ゆえに隠された神の姿なり心なりをあぶりだす特有の過程であるかもしれない。
お礼
ふられおんさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 申し訳ないが 磔に遭い犬死にするといったことは イエスがニンゲンとしてその時代に知恵をしぼって考え出したというに過ぎないとは言えません。イエスに先立つこと何百年前かは定かではありませんが すでに旧約聖書のイザヤ書に次のように書いてあるということを ひとつの例証としましょう。 【Q:イザヤ書53:1-7】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6278753.html ▲ (新共同訳 1988) ~~~~~~~~~~~ 1:わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。 主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。 2:乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。 見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。 3:彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。 彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。 4:彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。 5:彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。 彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 6:わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。 そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。 7:苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。 屠り場に引かれる小羊のように 毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。 ◆ (私訳) ~~~~~~~~~~~~~~~ 1:だれが信じたか われわれの耳に届いたことを だれに現わされたか ヤハヱーの腕は 2: けれどもかれはヤハヱーの前に 若芽のように伸びた 水のない土に自らを張る根のように かれには形がない 飾りもないのにわれわれはかれを見ている 見えてもいないのにわれわれはかれを慕っている 3:蔑むべきであって 人びとの忌み嫌う者 痛みの人であって 病いと知られる われわれが顔を覆う時のように さげすまれており われわれはかれのことを思わなかった 4: けれどもわれわれの病いはかれが担った われわれの苦しみはかれが担いだ われわれはかれのことをこう思った 神に打たれ 傷つけられ 懲らしめられていると 5:そしてかれはわれわれの咎によって身を刺し貫かれ われわれの過ちによって砕かれた その懲らしめは われわれの健やかさであって かれの上にある かれの傷の上にあって それはわれわれの救いである 6: ただわれわれは皆 羊のように道に迷い 一人ひとりおのが道に突き進んだ ヤハヱーはかれの中にわれわれの過ちを見させた 7:かれは虐げられ 苦しめられたが 口を開かなかったから 屠り場に牽かれていく小羊のように 毛を切る者の前に黙っている羊のように 口を開かなかった ■ (別の史観によって試訳したもの) ~~~~~~~~~~ 1:誰れが信じたというのか このわれわれの聞いたことを 誰れの上に現われたというのか ヤハヱーの腕が 2:かれはヤハヱーの前で若芽のように伸びたなどということを それはまるで水のない土の中の根のようではないか かれには形などない 飾りもないのにわれわれはかれを見たというのか 見えてもいないのにわれわれはかれを慕うのか 3:蔑むべきである 人びとの忌み嫌う者である 痛みの人である 病気と知られる われわれは顔をおおうべく蔑むべきものを われわれはかれのことなど気にかけていない 4:まったくわれらの病いをかれは運んでいる われらの苦しみをかれは身に帯びている われらが思うには かれは神に打たれ傷つけられ懲らしめを受けているにすぎぬ 5:かれはわれわれにもある咎のために身を刺し貫かれ われわれにもある過ちのために砕かれたと言っても その懲らしめは われわれの健やかさであって かれの上にある かれの傷の上にあって それはわれわれの救いである 6:われわれは皆羊のようであり羊のように道を迷うにしても 一人ひとりおのが道に向かってすすむ ヤハヱーこそがかれの中にわれわれの過ちを捉らえさせた 7:かれは虐げられ 苦しめられたが 口を開かなかったではないか ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ あと イエス・キリストといわゆるキリスト教とは 何の関係もありません。個人の信仰のうちにのみ キリスト・イエスおよび神はあります。
お礼
ご回答をありがとうございます。 健闘を祈られたけれども ★ 言いたい事は判る。 ☆ これが どう分かったのか。それが明らかになって あらたに対話は踏み出されるわけだから これだけでは 何とも・・・。というようにあからさまに言ってしまっては 話がおぢゃんになりましょうか。