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道徳規範は 愚の骨頂。(感情について)
○ 感情をあらわにするのは なぜ いけないのでしょう? ☆ という問いです。 趣旨説明です。 《心が傷つく》ということは 次のようだと考えます。それによると 気持ちを明確に表に出したほうが よいと 一般的に言って 思うのですが いかがでしょう? 1. ひとは 外からくる何ものかによって 精神や心が 傷つくということは ない。あり得ない。 * 《悪は 存在しない》――すなわち 内面において おのれの自由意志が へそを曲げることによって 心のゆがみとして 悪は起きるが ならば 悪は 少なくとも 外面には 存在していない――ゆえ。 cf.《Q: 悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html 2. 外から来るその何か(悪のようなもの)をめぐって 自分も 一枚 咬んでいて 自分の側に自分の心をあざむくやましさを持っていたとすれば そのときには その歪みによって 傷つく。 3. 自分には 何も やましさもないのに 心が騒ぐという場合がある。それは 相手の疾しさの一端を――たしかに その何ごとかの事件に 一緒に 絡んでいたからには―― わざわざ 分かち合って 持ってやるというに過ぎない。 4. これは 半ば 自動的に 分有しつつ あたかも そのやましさを共有しているかっこうになる。 5. 存在は 独立存在であると同時に 社会的な関係性よりも成り立っているからである。 こうして (2)の場合を除けば ひとは 感情をあらわにして 相手に対して 問い質すのが ふつうであると考えますが いかがでしょう。なぜ 常識は そうではないのでしょう? * この《なぜ》のほうは 《Q:道徳規範は 愚の骨頂》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4607794.html において みなさんから ご回答をいただき――ありがとうございました―― かなりのところまで 迫ることが出来たと考えております。 * そのつてでは 《〈羞恥心〉現象》――この内容については 上の質問のNo.24&26を参照されたし――が はにかみ屋のおとなしさから 明るい開いたおとなしさへと 世界の窓を開け道を拓いたという見方が出ています。続編としての質問ですから そのあたりについても どうぞ 自由なご見解をご教授ください。
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本来、感情をあらわにすることに躊躇する必要はありません。 感情というのは、前のご質問で話題ししていた帯域の非常に広い ところからの出力にすぎないでしょう。 感情のみを取り出すと、言語表現と同じように帯域がかなり狭くなります。 感情も、言語表現も、論理思考もその背後にある帯域の広い ところに裏打ちされていて、感情は、そのバロメータにすぎません。 機能の一部であることに気付く必要があります。 前に動性道徳と表現していたダイナミックな帯域の広い領域が、 現実的で具体的経験に基づいて培われ、醸成されているのであれば、 感情、論理思考、言語表現等のいずれも、その発信を躊躇することなど あり得ません。ここに正、誤、善、悪の基準やら、規範はありません。 (ここで繰り返しになりますが、「人間が存在するところ対立が起こる」を肯定しているうちは、成立しません。) >なぜ 常識は そうではないのでしょう? とはいえ、問題は、具体的行動にあります。 具体的なものごとに対して、80%快、20%不快という風に感じますが、 その対応としての具体的行動は、80%やる、20%やらない訳にはいきません。 感情表現ならともかく、トータルとして60%快が上回っているならもはや 行動に移ります。ここに感情の機能があります。 そして、だからこそ、ダイナミックでなければなりません。 特に他人の権利に関わる行動は、時間経過に伴って変化する作用、反作用に俊敏さが必要なんだと思います。
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- hakobulu
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> 『三位一体論』(中澤宣夫訳) :面白そうですが難しそうですね。 1:9の割合で。^^; 無駄な抵抗はやめて、どうしても知りたいことが出てきたらその都度、このカテのみなさんに教えてもらうことにしましょう。 ありがとうございました。
お礼
hakobuluさん 分かりました。了解しました。 ありがとうございました。 たのしかったですね。 * 図書館の本でなら 見てみても おもしろいかも知れません。昔 ¥3,600ほどでした。いまは たしか ¥10,000ですよ。
- hakobulu
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ありがとうございます。 疑問符が混じっていましたので、その点について補足させていただきます。 『この場合の悪としては暫定的にですが、「反撃できないことが明白である者に対する攻撃」を想定します。』 には、たとえば、今回の例に挙がったような犯罪が含まれています。 表現が上手とは言えなかったのですが、 「(相手が)反撃できないような状態での攻撃」 でもよいと思います。 おっしゃるとおり「>悪が存在する一例」として挙げましたが、どちらかというと「悪の最たるもの」ということです。 また、そのこととは別に、 『《反論できない》つまり 自分もその妥当性を認めた議論に対して やけくそになって 《攻撃》するのは 心のへそ曲がりですから 善の欠損であり ふつうに定義としての悪ですけれど?』 とのことでしたが、これは単なる「弱」と捉えたほうがよいのではないでしょうか。 受ける側が悪と認定すれば悪なのでしょうが、しかし、反撃できる余裕があるのならば、「問い質し」への活路を開くきっかけにさえなるのではないか、と思います。 無論、その「やけくそ」が、反論すらできないほどのダメージを受けるような相手に対して行使された場合は強制を伴うわけですから悪、と呼べるでしょうが。 つまり、問い質しの一形態と考えます。 これこそ「悪は存在しない」の典型的例ではないかとさえ思えるのですが、おそらく私が何か取り違えているのでしょうね。 >後者の《気づき》は 前者の原則に 従属する問題だと言ってよいと思います。 :この部分は珍しくよくわかります。 しかし、《気づき》が従属するに値するだけの確かな原則である必要はあるでしょうね。 そうでなければ、「傷ついてはいない」を信じることによってさらに傷を深めることにもなりかねませんから。 しかし色々と勉強になりました。 ついでと言ってはなんですが、私のような哲学初心者にお勧めの本などありましたら、教えていただけませんか。 その本で少し顔を洗ってみたいと思っていますが。
お礼
○ 『三位一体論』(中澤宣夫訳) ☆ で わたしは 自分がつくられました。これを ただブッディスムのライワ゛ルとして読んでいたとき 聖霊によるバプテスマを受けました。すべて なぞです。なぜ受けたか どういう内実か すべて 最終的には(つまり 説明しきったという判断を下すことは無理のようですから) なぞです。そのあと 三年ほどは 集中して これに取り組み 格闘しました。 でも 抹香臭いですよ。道徳規範でかちかちの文章がずらりと並んでいます。ときほぐせば 一流だと思いました。ここまでやって来て 世界の――もし 人生は たたかいだとすれば――最前線の哲学を 千六百年経っても いまだに 提供していると考えます。 そんなこんなです。気持ちとつもりは むろん 次のようなこととは違いますが それでも そのことつまり お茶をにごす程度のことしか わたしには 言えないかも知れませんね。(うわぁっ このわたしが 謙遜するようになってしまいました。うわぁっ。)
補足
hakobuluさん ご回答をありがとうございます。 余韻さめやらぬところです。 ★ 「(相手が)反撃できないような状態での攻撃」・・・どちらかというと「悪の最たるもの」 ☆ わたしが誤解してしまったところですが でしたら それは 《強制》の事例ですよね。前回のごとく 《悪は 存在しなかった》で対処すると思います。 基本的に言って ○ 悪は 現象としては 存在するし 現実に起こったのだけれど けれども そもそも 善と想定しうる存在とその意志(もしくは 善悪を超えていると想定しうる存在とその精神)にとって ひとの精神を傷つけるほどのものとしては その自分の精神(つまり 意志の自由選択としてのへそ曲がり)のほかには 何も ない。 ○ 外側とのかかわりとしては おもに知覚として こころの海に波が立つけれど そして そのことに悩みがつづくことがあるけれど そのような心理の動きは 明らかに精神(こころ)とは 別である。 ○ 精神(または 精神が精神するというほどの意志としての 存在の愛)は おそれから自由である。愛は おそれを知らない。しかも この人間の意志としての相対的な愛は おのれの相対性にかんして きわめて徹底したおそれを持つ。このきよらかなおそれのないところには 愛はない。きよらかなおそれを持つ愛には 心理の動きとしてのおそれは わが存在の外側にしかない。 ○ 《悪の最たるもの》も つまりは いかなる悪も この愛のもとにある精神を傷つけることは あり得ない。むしろ この愛のほうが その悪をつつむものと思われる。ただし それは われらが人間の意志によっては 成るものではないと考えられる。 ★ 《やけくそ》になるときの こころの《弱》 ☆ については 一般に 心理の問題だと たしかに 考えます。心理の問題と捉えるなら たしかに ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ つまり、問い質しの一形態と考えます。 これこそ「悪は存在しない」の典型的例ではないかとさえ思えるのですが ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ とおっしゃるとおりだと わたしも 考えます。 理論的には その基礎において 存在の相対性から来る人間の条件としての弱さが あるのでしょうね。 もし 時として起こるのではないかと思ったゆえに前回でのわたしの反応になったと考えるのですが もし 意志のへそを曲げていると捉えるのなら その結果の《問い質し》としては同じですが 海面に立つ波だけの問題ではないとも思います。 たとえば 質疑応答で 《ピンポンダッシュ》のような発言(投稿)があるのです。書きこんだあと もう 応答はないという場合です。他愛無いと言えば それまでですし 心理だけの問題なのですが ただ このくせが こころのゆがみにまで固まっている場合があるように思われます。もしくは そのように歪みにまで行きつくおそれのある場合があるように感じます。検証が必要かも知れません。これは 覚え書きになりますね。 ★ しかし、〔精神は傷ついていないこと もしくは 自己の救いということにかんする〕《気づき》が従属するに値するだけの確かな原則である必要はあるでしょうね。 ☆ これが――この《原則》について 少しく わが記憶という記憶を振り絞って 上に 表現を試みましたが―― これこそが 大問題であるわけですよね。 ★ お勧めの本 ☆ という問題にも わたしの柄にもなく なるのですが わたしは もはや 何を隠そう すべて アウグスティヌスに拠っています。すべて 請け売りです。ただし しかも ねじ曲げているはづです。 ▲ (コリント前書9:24) ~~~~~~~~~~~~~~ あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このパウロに対して アウグスティヌスは 《いや そうではない。一人ひとりが 一等賞を得るのだ》という意味合いのことを言っています。 旧くは 信仰のあかしとして 割礼が命じられましたが これは不要となりました。新しく洗礼がはじまりましたが そしてアウグスティヌスは むろん これを絶対的に必要な秘蹟として命じていますが わたしは 水による洗礼を受けていません。受けません。請け売りと言いながら 反逆しています。
- hakobulu
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2点について感想を述べます。 1、 > ○ ひとは その自己を最大限に表わすという自己表現において あらゆる表現の自由を 享受する。言語表現 然り。感情表現 然り。 :「>中間の結論」ということで、まだ先があるのでしょうし、この点に関しては基本的には最初から賛同しております。 また、「>自己を最大限に表わすという自己表現において あらゆる表現の自由を 享受する」ことによって問題が生じなければ誰しもこれを望んでいるはずです。 しかし、社会がそういう方向で推移したときに、それでは問題が生じると考える、あるいは感じる人々によって支持されているのが、たとえば道徳規範としての常識ということなのでしょう。 つまり、「中間の結論」自体に異を唱える人はおそらくいないと思われます。 そのとき(社会がそういう方向で推移したとき)生じる問題(あるいは懸念)を否定(あるいは払拭)するために、「悪は存在しない」論が出てきたように受け止めています。 とすれば、「中間の結論」としても実効性を持たせるためには、「悪は存在しない」が普遍的真理として説得力を持つ必要があるように思います。 普遍性を持つか否かは案外重要であるように思います。 つまり、仮にですが、(また失礼かもしれませんが)普遍性が無いとする余地があるのであれば、「悪が存在する場合」を明確にする検討こそがむしろ必要になるのではないか、ということです。 そのことによって「(このような場合において)悪は確かに存在するが、圧倒的殆どの場合において悪は存在しない。常識で悪とされていることなども、悪と認定することはむしろ人類にとって実は不利益なのだ」という説得力にもつながるような気がするわけです。 この場合の悪としては暫定的にですが、「反撃できないことが明白である者に対する攻撃」を想定します。 2、 次は(bragelone さんの見解を少しでも理解するために)一番知りたい点です。 #14の補足で、次のように述べられています。 ★ 《強制》 ☆ としての意志行為は へそ曲がりであり 悪であるだけではなく 無効であるという判断です。人情の問題としては 《蚊が刺しただけである》というべきものです。なら 傷つくことは ないでしょ? :「傷つくことはない」という見解は、 1、論理的真理としてはそうなる。 という意味でしょうか。 2、被害者側がこの論理を理解することによって救われるほどの普遍的真理である。 という意味でしょうか。 つまり、【もし被害当事者が理解できるとするならば、という条件つきで結構ですが】、 被害当時者に対して同様の論理を以って「傷ついていない」旨を証明する、 というアプローチによって「救い」を与えることは可能だとお考えになりますか? ややこしい質問内容ですが、要点としては、 「悪は存在する」という論理によって徹底的に憎みきることによって憎悪の膿を出し切るという方法論がもし有効だとすれば(私は単純にこのようにしか考えていなかったわけですが)、その有効性の比較という意味において、どちらが実効性があるでしょうか。 ということです。 ---------------------------------- 他にも色々お尋ねしたいこともありますが、疑問点があれば新たな質問として立ち上げるべき潮時であると考えます。 また、質問されているのは bragelone さんであって、私ではなかったですね。^^; どうも的外れなことばかり述べてしまったような気もしており、ご迷惑おかけしました。 また、お忙しいところ、懇切丁寧にお相手いただきまして誠にありがとうございます。 感謝しております。 いずれ、機会がございましたら何か質問投稿させていただくやもしれませんので、その節は懲りずによろしくお願いいたします。
補足
hakobuluさん ご回答をありがとうございます。 (1)は おっしゃるとおりだと思います。 (2)は 「悪は存在する」「しない」で大きく分かれる問題点だとおっしゃっているようですが その点について 理解が 行き届かず それほど 複雑な問題ではないように思っています。 (1) ★ 「中間の結論」としても実効性を持たせるためには、「悪は存在しない」が普遍的真理として説得力を持つ必要があるように思います。 ☆ おっしゃるとおりだと存じます。ただし ★ 「悪が存在する場合」を明確にする検討こそがむしろ必要になるのではないか ☆ とは考えておらず 原則は どこまでも 原則であると思っておりますが 証明という点では まだ 《中間の結論》ということになるでしょうか。 ★ この場合の悪としては暫定的にですが、「反撃できないことが明白である者に対する攻撃」を想定します。 ☆ この一文が 飲み込めていないように感じていますが これは 《悪が存在する》一例なのでしょうか? 《反論できない》つまり 自分もその妥当性を認めた議論に対して やけくそになって 《攻撃》するのは 心のへそ曲がりですから 善の欠損であり ふつうに定義としての悪ですけれど? (2) ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ :〔《強制》によって〕「傷つくことはない」という見解は、 1、論理的真理としてはそうなる。 という意味でしょうか。 2、被害者側がこの論理を理解することによって救われるほどの普遍的真理である。 という意味でしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この設問でしたら 両方です。 わたしの見るところでは 当事者が――たしかに 主観の中だけの問題であるという性格を脱し切れないところがあるのですが―― けっきょく いちばん よく知っていて 自分の心のありか また その経過については じゅうぶん 分かっているのだと言いたいのです。 その《気づき》が つねに 難なく 得られているかと言えば それはまた 心細くなる一面はありますが それも また 別の問題だとしてよいのではないでしょうか。つまり 後者の《気づき》は 前者の原則に 従属する問題だと言ってよいと思います。 その意味は 潜在的には 気づいているという意味です。潜在的な気づきによって すでに 生活の上に よい(つまり 気づきに対応するような)影響を得ていると考えるのです。心配ないという意味です。もっと言えば すでに ★ 「救い」 ☆ は 成っていると見ます。その《気づき》のためのきっかけになることも 実際には あるし 必要ですし わたしたちは そのために むしろ 走らなければならないとさえ思って そうしていますが でも だいじょうぶだと理解しています。つまり このわたしたちの側の《だいじょうぶだ》から すべては 始まるというふうにも 捉えています。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「悪は存在する」という論理によって徹底的に憎みきることによって憎悪の膿を出し切るという方法論がもし有効だとすれば(私は単純にこのようにしか考えていなかったわけですが)、その有効性の比較という意味において、どちらが実効性があるでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしとしましては 原則に固執していますので 《悪は 存在しない》を さらに 追究してまいりたいと思います。むろん 批判の視点を ことごとく 自分で 吟味してみたいと思っております。これからですね。 ただし 別の視点から行けば 同じようにも 考えるところがあります。 ○ わたしたちは ひとを愛し欠陥を憎むのであって 欠陥ゆえにひとを憎んではならず ひとゆえに欠陥を愛してはならない。 ☆ 善の損傷としての悪は 現実にあるわけですから その欠陥については 上のように 扱うものです。欠陥を愛してはならないとき これは 徹底的に憎むのですから 同じようでもあります。 ★ 憎悪の膿を出し切る ☆ という表現とは ちょっと 違うようですが どうでしょう。と言っても 《欠陥を憎む》とは ここで言う《問い質す》ことですから 同じことでしょうか。 どうでしょう。ここで 一たん お休みとしますなら 今回のご投稿に対して まとめて 重ねて お礼を申し上げたいと思います。たいへん ありがとうございました。 そうとう 進めることが出来たのではないでしょうか。ありがとうございます。 それでは 次の節にも こちらこそ また よろしくどうぞお願いいたします。
- bananasand
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>《悪は 存在しない》《存在は 善である》 これには、存在とは何かという難解な話になると思うのですが、 このご質問のいわゆる道徳(道徳規範でない)は存在するという立場に立つと、 悪も存在し、善も存在するということになります。 その所在は、基本的に確かに内部ではありますが、連帯というか、共有しているというか、 共通認識しているところにその集団における悪なり善なりが完成してしまう訳です。 Aさんが某ラーメン屋はおいしいと思い、BさんもCさんもおいしいと思っているなら、 その中では「おいしい」が完成します。 そのラーメンそのものが、おいしいかどうかは別の話です。たぶん、おいしいんでしょう。 ちょっと、この話は、置いておきましょう。深すぎます。 >人間存在は 互いの対立を超えた自然本性から成っている。しかも そうであるがゆえに 時には 互いの対立をあそぶ もしくは もてあそぶ傾向を持つ厄介な動物である。 これの解消は、個人レベルでは思うほど<狭き門>ではないように思います。 これは幸の分配であって、なるべく自分が多く取ることを基本としたバランスの 結果としての平等と、なるべく他を優先しようとすることを基本としたバランスですね。 しかし、集団となると簡単ではありません。対立をもてあそびますね。 完成されたラーメンのおいしさがあるからです。Aさんは、BさんCさんの為に 戦わなければなりません。個別崩壊説と全体崩壊説で、全体崩壊説の難しさを 物語ります。 >○ 《羞恥心》トリオは そして かれらを受け容れる日本人たちは その社会の中にあって >みづからの《自己表現》を全開にする道を開いた。 >☆ という言い方で言って いいですか? 「羞恥心」はギネス認定(今はどうなったかしりませんが・・)されてますし、 視聴者側を冷静に観察する悪くない事象です。 彼らの凄さなのか、我々が受容する準備ができたのかは、解りませんが、 これまでの、天然ボケが「こいつバカだな。ギャハハハ」という単なるおもしろさだけでなく、 「これも、いいんだ。これもアリなんだ。」という気づきの要素があるとところにこの事象の新しさを感じます。 前者には、規範があって、どこかに自分はこうはなりたくないというのが、 あるのですが、後者は、規範なくそのままの自分でいる心地よさがあって 自分がこうなるもならないも、そもそもそれがないところがあるんですね。。 「天然」が何よりということでしょうか。 若い人達に誤解して欲しくないのは、優等生なら、優等生のままでいる ことがいいんだということで、決して、天然ボケそのものがいいわけではない ということですね。 今後、●●であるべきだと言う規範らしきものが、内面から崩れてくるなら、 その道を開いたことになりますし、「羞恥心」がどうあれそういう傾向は 我々側で続くと思います。 いずれ、お二階さんへの「愚の骨頂」「ふざけるな」という気づきへ繋がりますでしょうか。 「道徳」を置き忘れては、なんにもなりませんが・・・・・・
補足
bananasandさん ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・悪も存在し、善も存在するということになります。 その所在は、基本的に確かに内部ではありますが、連帯というか、共有しているというか、/ 共通認識しているところにその集団における悪なり善なりが完成してしまう訳です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 用語・概念の整理のみ しておきます。 1.人間存在は 善悪の判断能力を持つが その判断行為に先行している。 2.存在は 善悪を超えている。 3.善と悪の判断というのは 《うそでない》(意志・心・本意)か《うそである》かが 基準である。 4.つまり 悪は 心のへそ曲がり ないし 歪み・ゆがめに発する。 5.善悪を超えた《存在》もしくはその能力である《意志》を 《善悪を超えた自然本性》と言えば よいだろうが 早い話としては 想定として 《善》と言ってしまっておく。 6.すなわち 善の折れ曲がったその損傷・欠損として 悪と呼ぶものが 現象する。 7.《これが 悪そのものだ》というものは 存在していない。 8.悪は 善の欠如である。 9.殺人は 存在という善の抹殺行為であり 善の欠如であり 悪である。 10.この殺人という悪が 戦争あるいは死刑として 社会の制度ないし仕組みにおいて 外形的に 残っている。 11.人びとは 共同して その仕組みの責任を負っている。 12.社会として 悪の共同自治をおこなうのであるが その解決方法に 悪を持ち出すことから 人類は まだ 自由になっていない。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 〔《羞恥心》は〕 規範なくそのままの自分でいる心地よさがあって / 自分がこうなるもならないも、そもそもそれ(規範)がないところがあるんですね。。 「天然」が何よりということでしょうか。・・・ 「道徳」を置き忘れては、なんにもなりませんが・・・・・・ 彼らの凄さなのか、我々が受容する準備ができたのか ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 何度も触れますが ひとつの窓ですね。《社会に 窓が開いた》。この《窓》から さらに 《道》が出来て 開拓が始まるか。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 今後、●●であるべきだと言う規範らしきものが、内面から崩れてくるなら、 その道を開いたことになりますし、「羞恥心」がどうあれ そういう傾向は 我々側で続くと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 一歩一歩 歩んでまいりましょう。 そうして 個別に歩むことと さらには 社会一般の次元において ★ いずれ、お二階さんへの「愚の骨頂」「ふざけるな」という気づきへ繋がりますでしょうか。 ☆ お偉い方々=アマテラス語族・アマテラス種族。そうして その応援団も います。アマアガリ症候群 もしくは アマテラス予備軍シンドロームにかかってしまった善良な市民の方々。 われわれ市民スサノヲは 何もしないたたかい=対話です。たぶん この質問は そういう方向を示唆して――むろん 道徳規範およびそれにまつわる感情表現の問題をめぐり―― さらに 吟味を要請しているものと思います。 * 《〈羞恥心〉現象》=《スサノヲ〔たち〕のルネッサンス》・《スサノヲ万葉集のルネサンス》 (万葉集は 半分以上が 無名の人びとの作品である)。
- hakobulu
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ご回答いただきどうもありがとうございます。 1、 > 身体を拘束され その移動なり行為なりの自由が侵されたなら その行為は 無効です。 :「無効」とはそういう意味だったんですね。 > 無効という場合には 無条件に その行為はなかったと見なされます。したがって その行為が起こる直前の原状に復帰させることが 義務づけられます。これが 特には 被害者の側から見た問題内容であるはづです。 :ということになるわけですね。 私にとってはなかなか新鮮な視点です。 「>無条件に その行為はなかったと見なされます」という理屈も理解できました。 しかし、 「その行為が起こる直前の原状に復帰させることが 義務づけられ」ているだけであって、実行されることはないわけですから、果たしてこのような論理は有効なものでしょうか。 哲学素人には難しいと感じます。 この場合の「実行」とは、まさに「原状復帰」を指したつもりですが、どう考えてもそれは不可能で、それこそ擬似的原状にしか復帰することはできません。(盗まれたお金を返してもらう、という次元の話と一緒にはできないでしょうし) それが確約されていないのに、「>無条件に その行為はなかったと見なされます」と言われても、「なるほど」と納得できるものでしょうか。 しかし、このような疑問を抱くということは、哲学というものを私がよく知らないからなのでしょうかね。 2、 >殺された娘のことは 措きます。推測になるからです。その母親は 伺った限りでは 心で怒ったわけです。 :これはわかります。 >すなわち その事件が 起こったのだと捉えたわけです。その意味は 被害者である娘が その心に 何らかの歪みを持っていて 直接ではないでしょうが その殺人事件にからんで 何らかの悪を生じさせていたと捉えたことになります。(その当否を別として そうなります)。ですから 徐々に その心が癒やされ その心において犯人との和解が 出来てきた。 :この箇所全体の論理が全く理解できません。 特に、どうして、 「被害者である娘が その心に 何らかの歪みを持っていて 直接ではないでしょうが その殺人事件にからんで 何らかの悪を生じさせていたと捉えたことに」 なるのでしょうか。 「何らかの歪み」の具体的な例を挙げていただけないでしょうか。 また、そう捉えなければ娘を殺された怒りは出るはずがない、ということですか? 3、 > ベルギーの誘拐・監禁・強姦事件の被害者は むろん 事件は起きたし 犯人において悪は生じていますが その被害者自身の心に歪みを持たなかった。この一点で すべてが 決まるというものだと考えます。 つまり 何もなかった。つまり 事件の直前の原状に そのまま 復帰した。 :ここもよくわかりません。 この方がもし殺されていたとすれば、どのような解釈になりますか? 4、 >感情の反応において 《常識はなぜ凹か》 :については、「>専門家に任せます」とのことですので、一素人としてはこれ以上言及しません。 たしかにそれが一番確実ですね。 色々教えていただき大変勉強になりますが、教えるほうとしてはお疲れになりませんか。 私としては、好奇心の為すまま質問攻めにしてますが、適当なところで上手に切り上げていただいても構いませんよ。
補足
hakobuluさん ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 4. >感情の反応において 《常識はなぜ凹か》 :については、「>専門家に任せます」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 確認しました。 ★ 3.ベルギーの誘拐・監禁・強姦事件の被害者・・・この方がもし殺されていたとすれば、どのような解釈になりますか? ☆ それは 分かりません。生きていれば その《自己表現》をつうじて かなりのことが 分かると思いますが 死んでしまえば 手がかりが 薄くなります。日本の殺された娘――つまり その母親のことではなく その本人――についても 同じです。 そして 判断は 主観の問題ですし 主観の問題という域を超えないというべきでしょうね。つまり このように見ているわたしの見解も 主観の問題です。でも 見解を出し合うことは出来ます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 2.・・・「被害者である娘が その心に 何らかの歪みを持っていて 直接ではないでしょうが その殺人事件にからんで 何らかの悪を生じさせていたと捉えたことに」 なるのでしょうか。 ・・・ また、そう捉えなければ娘を殺された怒りは出るはずがない、ということですか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここは ですから 母親の主観において という問題です。しかもそれを わたしという主観が そう捉えたというものですが ★ そう捉えなければ娘を殺された怒りは出るはずがない ☆ という推論になるはづです。もっとも 娘に何ら歪みがなかったと 親が判断した場合にも 別様の怒りは 起きるでしょうが そのときには 犯人の裁きに 伝えられるような執念を持つことはないと思われます。つまりまた その途中で 娘が 「お母さん、もういいよ」と言っていると受け取るような事件にもならないはづです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 1.・・・〔無効という場合の〕「原状復帰」・・・どう考えてもそれは不可能で、それこそ擬似的原状にしか復帰することはできません。(盗まれたお金を返してもらう、という次元の話と一緒にはできないでしょうし) それが確約されていないのに、「>無条件に その行為はなかったと見なされます」と言われても、「なるほど」と納得できるものでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 言ってみれば どちらかと言えば 世俗的で便宜上の処理方法であるに過ぎないと思われる法律も 無効とその場合の原状復帰は うたっているようです。つまり 非現実的なことではないと言えると思います。 そして 要は ここでも 主観の問題であるという性格も 大きいのではないでしょうか。 ★ 疑似的原状 ☆ であろうとも 原状復帰という原則にのっとる。これだけだと言ってよいと思います。その当人の主観が 何もなかった・何も起きなかったと決めれば そう決まるという筋合いのことがらなのです。人間の自由は これを 保証しており 法律の考え方にも 採り入れられているのだと受け取られます。 ○ 主観の問題・その自由 ☆ というつてで言うとすれば ○ 感情反応における凸か凹か ☆ これは これも おのおのの主観に任せてもよいとは考えます。凸凹どうしの凸凹があってもよいのではないでしょうか。だから いつも けんかが絶えないということでもないでしょうし 仮りに絶えず けんかになるとしても その程度のけんかで済めば そのほうが ずっと 社会の安寧にとって よいでしょう。というよりも それが その適度のけんかを交えているほうが 動態的な道徳の実践であると言えるのではないでしょうか。 もしそれを困ると見るのは あるいは それでは困ると言うのは そうなると もはや 自分たちの統治とその権威が 不必要になると思いおそれる人びとだけなのではないでしょうか。つまり もともと 村々の共同体は そのように 共同自治し自己経営していたはづなのですから。 したがいまして 次のように 中間の結論としてでも 宣言したいと思いますが いかがでしょうか。 ○ ひとは その自己を最大限に表わすという自己表現において あらゆる表現の自由を 享受する。言語表現 然り。感情表現 然り。
No13,あるいは17です。質問者様の凄い情熱に引きずられています。 なるべく貴方の言葉で話しましょう。 動態倫理(道徳)としてのある人間相互間のとりきめの存在には前向きのお考えだという事が分かりました。またこれは人間がこれから自発的創造的に、前向きに捉えて人間社会を向上させていくべきものだというアイデアを持っておられるらしいことも分かりました。更に、もしそのようなものが前途に見つけられたなら、貴方は進んでそれらに縛られてもよいと仰います。ただ既成の道徳規範を毛嫌いしておられる。このメビウス環のような厄介な二重性が私には理解しにくいわけです。これ、HENだと思いませんか? 倫理、あるいは道徳のアイテムは既に人間の文化が始まった5000年でほぼ出尽くしていると思います。その中でどんなアイテムを(最低限)選ぶか、または選ばないかという選択の問題だと思います。私自身これまでに出た倫理のアイテム以外に新たな厄介ものを創造する意思はてんでありません。それにこれはおそらく、一旦選んだならば死ぬまでそれに首尾一貫するべきなのです。それが本来の倫理というものでしょう。 少なくも「羞恥心」のような天衣無縫、感情の垂れ流しが現実社会で成功する可能性はほぼ0です。わたしたち社会人は現実として前後左右にひりひりさせられるような「いやらしい逆鱗ども」がうようよ這い回るのを眺めつつ、完全に意識的な綱渡り的曲芸を演じる必要に迫られ続けています。基本的にそんな社会を良くするために創造的倫理性を考える余裕などないはずなのです。そこではいかにマインドコントロールを避けてあくまで醒めにさめながら少しは酔いを演じ、最低限の倫理性を演じつつ、あやういところでたてまえ(道徳規範の遵守)と本音(あるいは感情の吐露)の二面性を武器として、少なくも皆に嫌な思いを与えないで切り抜けられるか、いいこでいられるかという一心で懸命なはずなのだと思います。 貴方の例示される天邪鬼人間はやはり例外でしょう。 人間の意思的な行為は、悪をなさないかぎりにおいて倫理に添ったものだと考えます。意思を離れた「感情の暴露」に不幸な反倫理的行為が含まれるのでしょう。天衣無縫と許されるのは例外的に幸福な人種なのだと思います。
補足
amazo007さん ご回答をありがとうございます。 ★ 《羞恥心》現象 ☆ については 趣旨説明の中の参照の例にしたがってください。すなわち それを取り上げるのは 道徳規範としてのその枠組み もしくは その枠組みが呼び水となったかたちでの道徳の実践方式(やはり それとして枠組みになりますね) これを 打ち破ったとすれば そのことを褒めたたえているものです。 ★ 感情の垂れ流し ☆ があったとは知りませんでした。つまり 三人とも 一人ひとりは テレビで見ていますが 歌も あるいは 三人一組での活動も わたしは 見ていませんので その点 情報不足のままに 取り上げているということになっています。この事情を告白して すすめます。(横着ですが)。 でも 同じような問題が 次の主題としても 上がっております。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 動態倫理(道徳)としてのある人間相互間のとりきめの存在には前向きのお考えだという事が分かりました。・・・ ただ既成の道徳規範を毛嫌いしておられる。このメビウス環のような厄介な二重性が私には理解しにくいわけです。これ、HENだと思いませんか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち ここで わたしが《毛嫌いして》いるのは 単純に《既成の道徳規範》というわけのものではなく そうではなく 頭のてっぺんよりもさらに上から 降りてくるその方式のほうに対してです。 筑紫や対馬の住民たちは 或る日或る時 そのこちら側は やまとの国であり わが領土であるが あちら側は よその国である その国境に従って 自分たちの行動を規制し また その国境と国土を守りたまえと みことのりを受けたのだろうと思われます。 このような命令に対しては 非戦論と主戦論 両方の意見が出たでしょうが どちらも 心の弱きによって 主張を出しているに過ぎないと分かった人びとは あっさり その命令に従う道を選びました。国ゆづりという歴史事件です。 この国家という枠組みによって 道徳規範が 発布され 人びとは 従うようになっているのだと考えられます。市民主権をうたう現在の世の中においても その後遺症は 甚大なものがあるように思われてなりません。 おっしゃるように 動態倫理も道徳規範も その理論的な中身は それほど 違わないわけです。その守り方 あるいは 実践のあり方に差が出てくるのは 何と言っても お上には逆らうなという《常識》が もはや幽霊でしかないでしょうが はびこっていて のさばっていることからでしょう。そのことに 哲学は 分析のメスを入れる必要があるでしょう。 それに関連して 感情の発露が 押さえられても いけないのではないか。この問題にも 取り組みたいというのが ここで おしえを乞うている趣旨です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ わたしたち社会人は現実として前後左右にひりひりさせられるような「いやらしい逆鱗ども」がうようよ這い回るのを眺めつつ、完全に意識的な綱渡り的曲芸を演じる必要に迫られ続けています。基本的にそんな社会を良くするために創造的倫理性を考える余裕などないはずなのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ それでも 迂回生産の英雄たる哲学は 進みます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そこではいかにマインドコントロールを避けてあくまで醒めにさめながら少しは酔いを演じ、最低限の倫理性を演じつつ、あやういところでたてまえ(道徳規範の遵守)と本音(あるいは感情の吐露)の二面性を武器として、少なくも皆に嫌な思いを与えないで切り抜けられるか、いいこでいられるかという一心で懸命なはずなのだと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですから あたらしい時代を 羞恥心が 切り開いたと言えるのではないでしょうか? ★ 貴方の例示される天邪鬼人間はやはり例外でしょう。 ☆ 哲学は 例外から入る。もしくは 例外を取り扱うのでなければ 価値は ないでしょう。それに ★ 天邪鬼人間 ☆ は そもそもは 《マインドコントロール》を仕掛ける側の人びとであると知るべきです。そのこと自体が 悪であり 反倫理的なのです。哲学が これを言わないとすれば やはり 自殺行為です。 この自由がなくて 何が 人生なのですか。この自由がなくて 何が 和を以って貴し・・・なのですか。魂の集団自殺は そろそろ やめにしませんか。千五百年ほど つづいたでしょうか。 すなわち 理論的には 賛同をいただいたようです。ありがとうございます。
- hakobulu
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難しくて、おっしゃることの意図(あういは意味)がよくわからない。 と感じる方はおそらく私の他にもいらっしゃると思います。 もちろん逆に、 「bragelone さんの言う通り。そんなこともわからんでよく哲学カテで議論しとるのお。」 と感じている方もいらっしゃることでしょう。 そのへんは、哲学というものに対する無理解が私(たち)にはあるのではないかと素直に推測することにします。 bragelone さんがこれほど強調されるのであれば、哲学的にはそのような解釈も有効である。 と一応心に留めておきます。 しかし、その論理が理解納得できているわけではありません。 そこで、許されるなら、で結構ですが、哲学素人の私(を含めこのカテにお立ち寄りになっている哲学初心者の方々)のために、もう少し解説をお願いするわけにはいかないでしょうか。 私が代表する形で質問させていただきます。 無知ゆえに、言葉尻を捉えて、あるいは、揚げ足をとるかのような形で疑問を呈することになるやもしれませんが、どうでしょう。 お引き受けいただけるでしょうか。 ピカソに筆遣いを教えろと迫っている小学生のようなかたちとなりますが、忍耐が許されるようなら是非お願いしたいと思います。 以下より始めますが、スルーしていただいても恨みはしません。 哲学論議は無理、とご指摘いただいても構いません・・・、というほどの初歩的質問のオンパレードになっているかもしれませんので悪しからず。 1、《「無効の行為」とは何か》 A. #14で、 「逆らいようのない強制〔という〕悪〔については〕・・・ / 恐怖というよりは傷つきそのものに直結するような気がします。」 という私の見解に対し、 「>それ(=逆らいようのない強制〔という〕悪)は 傷つきの疑似体験であり 傷つきそのものではないのだという意味です。 無効の行為によって わたしの自由が奪われたとしても つまりそれは 無効なのであり 初めから まったく 無かったことになるのですから。確かに とばっちりがありますが あたかも その悪行者が みづからの自然本性の善に戻るのを わたしは 助ける役割を担ったというかっこうになります。身体や財産には傷を負ったことになるでしょうが。」 とおっしゃっておられます。 【無効の行為】である理由を説明されている箇所だと思いますが、なぜ、「それは 傷つきの疑似体験であり 傷つきそのものではない」ということになるのかよくわかりません。 「無効の行為によって ~助ける役割を担ったというかっこうになります」という部分の論理は理解できるのですが。 今回あげられたレイプの例で言うと、 レイプによって(精神的に)傷ついたという場合でも、それは「傷つきの疑似体験であり 傷つきそのものではない」 という解釈が哲学的には可能だということになるでしょうか。 (わからん奴だとお思いでしょうが)「どのような意味で《疑似》という解釈が可能なのか」という点も改めて教えてください。 B. 無効の行為に関しては、#18で再度次のようにご説明いただいています。 >○ 無効の行為 ☆ をめぐって まったく誤解されております。無効ですから はじめから 何も 無かったのです。いっさい 何も 起こらなかったと見なされるという意味です。拉致と同じですね。 原状復帰が 絶対要請になる特異な社会行為です。事件は あったのですが そして 時間を元に戻すことなど出来ない相談ですが その初めの意志は 効力が無く 意志じたいとして 存在していなかったと見なされる問題です。そういう悪としては 存在しますし 起こったということも 他方での認識ですよ。 :ますますわからなくなりました。^^; 全体的にもう少し噛み砕いていただけませんか。 子ども電話相談室風に、単純な疑問を列挙します。 せっかく拉致という例を挙げていただいたので、 その拉致に関して、 ・「>はじめから 何も 無かったのです。いっさい 何も 起こらなかったと見なされる」というのはどういう意味でしょうか。 ・また、なぜ「>その初めの意志は 効力が無く 意志じたいとして 存在していなかったと見なされる」のでしょうか。 ・「そういう悪としては 存在しますし 起こったということも 他方での認識ですよ。」 とはどのような意味でおっしゃっているのでしょうか。 C. #18では、 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そのとき彼女は「犯人を許してやろう」と思ったそうです。 犯人の為した悪を超越し新たな心の地平を開いたわけです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ に関しても述べていただいていますね。 娘を殺された母親の話です。 どのような点で、拉致やレイプと「>まったく 違います」ということになるでしょうか。 >無効の場合には 犯人あるいは犯行あるいはその悪は いっさい 問題になっていません。赦す・赦さないの問題も ありません。はじめから 何も起こらなかったのですから。 :という論理はよくわかりますが、なぜ拉致やレイプの場合が無効の行為で、娘を殺された場合は有効なのかよくわからないので解説をお願いします。 たとえば拉致に関する具体的言葉を以って説明していただけると、理解しやすいかもしれません。 子どもニュース(ご覧になったことあります?)の解説者になったつもりでよろしくお願いいたします。 ギャラは出ませんが。(っていうかどっちが回答者なんだっつうの!) 2、《常識はなぜ凹か》 >わたしたちは 幼児のときから 特別には 他者のことをおそれるというわけでもないと考えられるからです。むしろ 誰かれとなく あたかも 同じ《わたし》であるとさえ思ってのごとく 初対面の相手に対しても 接していくのではないでしょうか。警戒するというのは やはり 派生した癖 ないし習慣であるように見る視点も 成り立つように思うからです。 :これはおそらく逆ではないかと推測しています。 大多数に対しては怖れるのではないか、と思います。 ただ、母親など、明らかに自分を利するものとその関係者(と幼い脳が認識した対象者)に対しては、生存のために「媚を売る」。 このように考えています。 >泉のごとく いつまでも尽きない どこまで行っても涸れない愛の本能が 息づいているのではないか。 :ある側面としては真理でしょうね。 しかし、かわいいと言いつつ育てた家畜をも殺さねば生きていけないのもまた人間ですから、愛のみにて生きるものにあらず、というのが実際のところではないでしょうか。 >《無効の行為》を考えるだけでも 人類は 何を 血迷ったかということになるでしょうし 《蚊が刺しただけ》などと よくも 他人事とは言え 抜かしたもんだ 消え失せろとでも なるでしょう。 :いえ、そんなことは思いません。 そこに至る過程をただ知りたいだけです。 >けれども 悪は 存在しないという哲学にあっては 絵空事が 現実的なのです。自然本性にしっくりと合うのです。 :(-_-;)。 やはりよくわかりません。 お手数ですが解説お願いできれば非常に有難いと思います。 ジッドがお好きですか。 とりあえずよろしく。
お礼
補います。 ☆ 殺された娘さんのことについては 心のゆがみやら なぜ 殺されることになったかなど いっさい 触れていませんし 分かりません。 ベルギーの事件について 紹介記事は ○ 世間の目 ☆ について 触れています。 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ サビーヌさんは12歳のとき、自転車に乗って学校に向かっている途中、誘拐されました。80日間を幅99センチ、奥行き2メートル34センチの黄色い壁に囲まれた不潔な地下の穴蔵で生き延び、救出された後に待っていたのは、世間の好奇の目でした。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 補いたいことは この《世間の好奇の目》というときには あの娘の母親が 心に抱いたような判断が あるということだと思います。 つまり 被害者の心に 何らかの歪みがあったのではないか あるいは その事件の途中のどこかで 歪みやへそ曲がりが 出て来たということはなかったのだろうか こういう疑いだと思われます。 もとより これについても 外側から来る悪と言えば悪であって 何の問題も ないわけです。ないわけですが あたかも その人びとの疑いの目を 事件の当事者であるからか どうなのでしょう 共有するはめに陥ることは あり得ます。むしろ 歪みがなければ ないがゆえに 共有する度合いは 大きいかも知れません。つまり 白紙の心には 余計に どんどん 人びとの感情や気持ちが 入って来ます。 これは けっきょく 何にもないし 何でもないのですが しばらくは その濡れ落ち葉のようにひっつき くっついてくる世間の目は 厄介なものです。そして すきとおった心の奥深く その疑いの放射線が入れば入るほど 突き抜けて行ってしまいますから 無実の証しにもなって やがて 消えていくでしょう。 ここで 直接に 何かを言ってくる人がいれば その見解をただして 感情をも表わして 応対してよいと考えます。遠くから 視線だけを送ってくる場合には ほうっておけば よいのだと考えます。 こういうサビーヌさんの事例は 必ずしも 多くはないと思います。その意味で 《狭き門より・・・》という発想が思い浮かびました。 でも 哲学は 次善の策よりも 最善の思想を模索すべきです。その意味でも 狭き門より・・・です。
補足
hakobuluさん ご回答をありがとうございます。 そうなんですか。《無効》の問題ですが。 法律の問題として 細かい規定やら理論やらがあるかと思いますが 考えるところを述べてみます。 或る母親が 娘を殺されたというその事件と 母親の個人としての心の問題を 分ける必要があると思います。そして わたしが きちんと触れ得なかったこととしては その娘が死んだということで 娘から見た問題としては 取り上げなかったところです。親にとっての問題だけを取り上げたというところです。 表現の自由を例にとるとよいと思います。特に 自己表現の自由 そして さらには 自己を表現するすべてという意味で 行為一般ととってもよいはづです。すなわち 身体を拘束され その移動なり行為なりの自由が侵されたなら その行為は 無効です。拉致でも 誘拐でも 殺しでも 当てはまります。 無効という場合には 無条件に その行為はなかったと見なされます。したがって その行為が起こる直前の原状に復帰させることが 義務づけられます。これが 特には 被害者の側から見た問題内容であるはづです。加害者については 意志をなくすという意志行為をおこなったわけで 無論 それは 悪です。善を減らしました。 (相手の意志を拘束することで 意志をないがしろにした。つまり 自分の意志を それがどうなってもよいと言わんばかりに すでに 失くした)。 法律によって処理されることを別として考えますが その加害者本人にとって 悪は 生じています。その分 減った善を 元どおりに修復することが 義務づけられます。 これで 基本としては おしまいです。 あとは 被害者やその遺族のそれぞれの心の問題になります。 殺された娘のことは 措きます。推測になるからです。その母親は 伺った限りでは 心で怒ったわけです。すなわち その事件が 起こったのだと捉えたわけです。その意味は 被害者である娘が その心に 何らかの歪みを持っていて 直接ではないでしょうが その殺人事件にからんで 何らかの悪を生じさせていたと捉えたことになります。(その当否を別として そうなります)。ですから 徐々に その心が癒やされ その心において犯人との和解が 出来てきた。 ベルギーの誘拐・監禁・強姦事件の被害者は むろん 事件は起きたし 犯人において悪は生じていますが その被害者自身の心に歪みを持たなかった。この一点で すべてが 決まるというものだと考えます。 つまり 何もなかった。つまり 事件の直前の原状に そのまま 復帰した。その間の時間は 蚊が刺した夢を見ていたのと同じこととすることが出来る。つまり たとえば 心における犯人との和解や あるいは 自身の心の癒やされ自体さえ 必要ないという意味です。 その場合には 身体に傷がつきますし 時間を奪われています。ですが 心に傷は ひとつも つけられていないし 負っていません。むろん 恐怖体験は つきまといました。それが 心の傷つきに似ているでしょうが 厳密には 違うはづです。大蛇が 目の前に現われたら 恐いですが 心が傷つくというものではありません。恐怖体験の後遺症ということも考えられますが それは 身体が身体のほうで 反応している或る種の症状であるのではないでしょうか。 ★ 感情の反応において 《常識はなぜ凹か》 ☆ これは 凸凹の両様があるように思えていますが 凸のほうでも ありうるという見方を してみました。 ★ ただ、母親など、明らかに自分を利するものとその関係者(と幼い脳が認識した対象者)に対しては、生存のために「媚を売る」。 ☆ 最後の《生存のために「媚を売る」》という表現は 少しおかしくて笑いかけますが 生存本能なのでしょうか それとも 意識的な 自己保存の欲求のようなはたらきなのでしょうか。どうですかねぇ。幼児は もっと でーんと構えているようにも 思えますが。 これは 専門家に任せます。専門家でしたら さらに 教授ください。つまり 友だちだとか身内のあいだで 感情が 凸のほうでも 自然に現われるという側面もあると 確認できていれば よいように 今は 思います。 ☆☆ 意志と同じ意味で用いる愛 ☆ に関しましては 好きと嫌い あるいは 愛情と憎悪 思いやりと嫉妬や敵がい心 これら おおむねプラスとマイナスの両方の感情や意志を含めています。その意味での愛の反対概念は 無関心です。 無関心は 心の死です。それでも この停滞する心を打ち破る力あるいは みづみづしい息吹きは 人間にそなわっていると捉えます。 ★ ジッドがお好きですか。 ☆ 男女の愛についての狭き門のことではなくて・・・。
>○ わたしは 《感情を あらわにして 相手の悪と疑われる事柄について 問い質すべきだ》と言ったとき それは 相手に けんかをふっかけることを意味するものです。 ☆ こう言ったなら どういう対応をされるでしょうか? そこから 話が 実質的に 噛み合ってくると思うのですが?> 喧嘩をふっかけるという行為が妥当であると考えていらっしゃるんですか?まあそうだとしてもその喧嘩によってまとまる場合もあればそうでない場合もあるということでしょうね >○ 《★ 相手から制裁を食らわされる嵌めにな》っても 構わない。 ☆ という意味です。> 【構わない】と感じるのなら大いにみな喧嘩をふっかけていると思います、現にチンピラは平然と喧嘩を吹っかけますからね、吹っかけてスッキリすることと問題を解決することと一致するということになると一致する場合もあれば一致しない場合もあるということでしょうね、喧嘩ですっきして問題解決するとすれば大抵感情のトラブル位なものでしょうね、喧嘩で消費税問題が解決するわけでもありませんから、解決する場合もあれば解決しない場合もあるというのが一つでしょう、そして質問の趣旨の常識はなぜそうではないのか?ということに関しては相手から制裁を加えられるのが【構わない】と感じないということになるんではないでしょうか、制裁を加えられて耐えれれば別ですが制裁を加えられることに関しては大抵避けたいのではないでしょうか
お礼
TENNTENNSEVENOKさん ご回答をありがとうございます。 分かりました。TENNTENNSEVENOKさんのお考えは いまある社会の仕組みで したいようにするし 成るように成るということだと受け取りました。 ありがとうございました。 すなわち それほど ばからしい考えはないと わたしは 考えております。つまり 考えではないという意味です。あたかも撞球の球が 打たれて転がり 跳ねかえっては また転がり そのように 生きていくということだと理解しました。
>どのように常識を疑っているのかというところを 述べていただくと 話が 無理なく 滑り出すように思うのですが?> 正直意図が見えなくてどうしていいかわからない状態です、つまりご自身の言う常識というのは本音と建前というやり方に疑問がありそれに対してなぜそうせねばならんのか?それに対して疑問を呈しいてるというところでno10に回答を書いたんですが、そのなかで常識をどう疑っているのかということを詳しく述べていただきたいというそういうことでよろしいですかね?僕からしていみると本音と建前を前提とした行為が冷静に判断する行為としての方向やご自身が仰る被害が大きくなる可能性などの多面的な可能性を秘めていると思います、それが良き悪きと判断するならばその現状や人の質によるところが大いにあると思います。もっと大きくいうと現象論や発生論にゆだねられると思います。 なので >常識を疑って その結果 やはり 今の常識が妥当であるということになれば・・・・・> が【妥当】な現象としてあらわれる場合もあればそうでない場合もあるというが真ということになりえると思います、つまり【妥当】だと感じるのもっぱら人間ですので、その人間に及ぼす影響に永久にゆだねられるというのが回答になると思います、折り合いがついて物事うまく運ぶということは大いにありえるだろうと考えますしその逆もまたありということではないでしょうか、ご自身が言うように【問い質す】という行為により折り合いをつけるとなるとその次元が折り合いがつくということが発生する場合に限られると思います。なのでその行為に対する現象は折り合いをつけるように答弁をすることによって折り合いを成功させなければ不安であるということなのだろうと思います、そうしなければ相手から制裁を食らわされる嵌めになるのではないかというある種の迎合ルールが勝手に出来上がっているといのがご自身の言う常識であるということです、それがこの質問の答えになると思います。
お礼
TENNTENNSEVENOKさん ご回答をありがとうございます。 だいじょうぶですか。こんなに対話をつづけるおつもりは なかったのではないですか。 ま けれども 質問者としましては お応えしつつ すすめてまいるほかにありません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ なのでその行為に対する現象は折り合いをつけるように答弁をすることによって折り合いを成功させなければ不安であるということなのだろうと思います、 そうしなければ相手から制裁を食らわされる嵌めになるのではないかというある種の迎合ルールが勝手に出来上がっているというのがご自身の言う常識であるということです、それがこの質問の答えになると思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 飲み込めていない部分もあるかと思いますが それでは 話を先へ進めるために こういう問いかけ方をしてみたいと思います。 ○ わたしは 《感情を あらわにして 相手の悪と疑われる事柄について 問い質すべきだ》と言ったとき それは 相手に けんかをふっかけることを意味するものです。 ☆ こう言ったなら どういう対応をされるでしょうか? そこから 話が 実質的に 噛み合ってくると思うのですが? ○ 《★ 相手から制裁を食らわされる嵌めにな》っても 構わない。 ☆ という意味です。
- hakobulu
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#14です。 1、 > ★ 《強制》 ☆ としての意志行為は へそ曲がりであり 悪であるだけではなく 無効であるという判断です。人情の問題としては 《蚊が刺しただけである》というべきものです。なら 傷つくことは ないでしょ? :こうなると見解の相違としか申し上げようはないかもしれませんね。 おっしゃっているような例は想定しておりました。 似たような例で、娘を殺された母親の話をしてみましょう。 テレビのドキュメンタリーでしたが、その母親は長引いた裁判に10数年通い続け、常に犯人を心の奥底から、憎み続け、また、それを表明し続けました。 日々の暮らしが全て憎しみで満たされていました。 10数年経った冬のある夜、事件関連の何かの会合の帰り(だったと思う)、とぼとぼと道を歩いていてふと目をあげると枯木のてっぺんあたりにひときわ輝く星に気づいたそうです。 チカチカチカチカと彼女に語りかけるようにまたたくのを見つめているうち、その星が娘の生まれ変わりのように思えてきました。 そして、彼女に「お母さん、もういいよ」と言っているように思えたというのです。 「憎しみに満たされた生活から早く抜け出して、心安らかな日々を送って欲しい」 娘がそう言っているように思えたというのです。 そのとき彼女は「犯人を許してやろう」と思ったそうです。 犯人の為した悪を超越し新たな心の地平を開いたわけです。 もし私の理解が間違いでなければ、これを以って、bragelone さんは、 「そら見たことか。悪はやはり存在してないではないか。」 こうおっしゃるように思います。 (無論、違っていればご指摘お願いします) しかし、果たしてそうでしょうか。 結果として悪の痕跡を超えたことは事実でしょうが、それは並々ならぬエネルギーを投入した、憎しみというものの浄化作業の果てに彼女が獲得したものでしょう。 bragelone さんがもしそうおっしゃるのであれば、傷ついた皮膚と肉が長年かかってかさぶたになり、やがて目立たぬほどに癒えたとき、「本当の意味で、傷ついてなんかいないよね」と言ってるのと同義としか、この単純な頭では思えません。 以下に要点を明確にしておきますので、このことについて教えていただきたいと思います。 「>80日間監禁されていて 救出された当時十二歳の少女は ちょうどその数年後の裁判の際に現わした姿を わたしもヱブ映像で見ましたが 《あぁ この人間は 傷ついていないな》と思ったものです。」 :とのことですね。 (結果として)「傷ついていない」ことには同意しますが、その点に殊更着目することによって何が得られるのでしょうか。 物事は多様な側面を持っていますが、あえてそこに着目する理由はなんでしょうか。 被害者に心の歪みが無かったので、外部からきた悪と共鳴することがなく、結果として傷つかなかった。 このように、 >ひとは 外からくる何ものかによって 精神や心が 傷つくということは ない。あり得ない。 :のであるから、 >感情をあらわにして 相手に対して 問い質すのが ふつうであると考えます :という展開になりますか? もしそうであれば、「(結果的に)傷つかない」状態にまで持っていく精神の営みには殆ど留意されておられないような気がしますが、この点はどうでしょうか。 ここを過小評価してしまうと、「悪は存在しない」といっても、命題として無理が生じてくるのではありませんか。 海は水溜りである。 は正しくもあるでしょうが、そう言ったところでどのような意義を持つのでしょう。 あるいは、そう規定することで見逃されてしまう重大な事柄はないでしょうか。 おっしゃっていることは概ね同意しているわけですが、遮二無二普遍的な法則を打ちたてようとしているように見えるのは私の勉強不足ということになるのでしょうかね。 状況によって異なると思いますし、ther is no lule withput~云々とも申します。 あえて固執なさる必要性がさほどあるとはどうしても思えませんが・・・。 この問題に関しては、私はむしろ次のように思います。 かの母親のように、憎んで憎んで憎み切るがいい。 その果てにいつか安寧と悟り(のようなもの)が訪れる可能性がある。 心のダムを想定すれば、貯まった怨念なり怒りなりを放出してこそ、常時水の圧迫感に耐える必要性から(ダムが)【自然に】解放されるように。 2、 >《和を以って貴しと為せ》は わたしたちの脳裡に刷り込まれているのではないでしょうか。 :そうですね。 昨今は幸か不幸か薄まってきてるきらいもありますが、一般的にはそう思います。 >つまりそのようなけんかもするが和気あいあいの情況のほうが 本能にとっても ふつうであり 合っていると思われます。 :それは、友人という「親しい間柄」に限定されるのではないでしょうか。 「和を以って~」が適用される、見ず知らずの人間同士では、まず警戒し見定めを行おうとするのが本能でしょう。 > 問題は 《WA》という響きが 頭の上から 縦の関係において 降りて来る場合です。これは 意識していないでしょうが もしそのように意識していないとすれば ますます マインドコントロールによるしわざであると断定したい気持ちに傾くのです。 :このへんはよくわかります。 「統治手段としての道徳規範が具の骨頂」であるということに関しては同意できます。 ただ、明文化された道徳などであれば別ですが、「常識」などが上からの画策によって植えつけられたものという見解は持っていません。 本能的に他者を警戒し、しかし、単に攻撃するのみではなく、防衛線として常識というものが暗黙の了解の下に築かれていく、ということではないか、と思います。 無論、統治者がそれを利用するという側面はあるでしょう。 しかし、統治者の意に反して変化することもしばしばあるのが常識ではないだろうか、という印象を持っています。 漠然とですが。 3、 《☆ 常識では 感情を 凹凸の凹のほうつまり 抑制するほうを 選んでいる》――もしこれが 《本能》もしくはそれに近い自然本性であるとしますと それは それでも あくまで 横の人間どうしの関係において 現われる状態なのだと考えます。 :やや重複するかもしれませんが、この場合は「怖れとしての本能」と思っていただけるとよいと思います。 慎ましやかな抑制ではなく、生命を脅かすものとして警戒し刺激しないようにしよう、という意味での抑制です。 上下どちらでもあるでしょうし、あらゆる環境全てが対象になり得ると思われます。 まとまりありませんが、こんなところです。
補足
hakobuluさん ご回答をありがとうございます。 ○ 無効の行為 ☆ をめぐって まったく誤解されております。無効ですから はじめから 何も 無かったのです。いっさい 何も 起こらなかったと見なされるという意味です。拉致と同じですね。 原状復帰が 絶対要請になる特異な社会行為です。事件は あったのですが そして 時間を元に戻すことなど出来ない相談ですが その初めの意志は 効力が無く 意志じたいとして 存在していなかったと見なされる問題です。そういう悪としては 存在しますし 起こったということも 他方での認識ですよ。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そのとき彼女は「犯人を許してやろう」と思ったそうです。 犯人の為した悪を超越し新たな心の地平を開いたわけです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここに挙げておられる事例とは まったく 違います。無効の場合には 犯人あるいは犯行あるいはその悪は いっさい 問題になっていません。赦す・赦さないの問題も ありません。はじめから 何も起こらなかったのですから。 どこか一定の時点で 被害者もしくはその遺族のこころに 変化が萌すというようなことも まったく 最初の構えがちがっています。最初から 心は傷などついていないのです。何も無かったのです。蚊が刺したという夢を見ていただけです。そのほかに いっさい 何も無かったのです。――これが 《みづからの側に 心のゆがみがなければ》という条件のもとに起こることがらです。 そのような被害者――ちなみに 悪は 外側に・つまり悪行者の心の内側に 存在します。無効を内容とする意志の行為は はたらいたし 実行に移されました――は その犯行者に対して 何でも 罵倒でも呪いでも言っていいと思われます。感情をあらわにして いいはづです。しかも 考えてみるに そういう場合には 往々にして もはや 感情さえも 何事もなかったように おさまっているでしょうから 更生しなさいとでも言うのでしょうね。 ★☆ 問い質すことによって 相手が 問い質すこちらの側の悪によって 傷つくことはなくても 自分の悪に気づき それによって 傷つくことがあるはづだ。それを どう扱うか。 ☆ そうですね。ここは はじめの考えをつらぬくことにしましょう。そもそも その相手が 自分の心に歪みを持ち始めたときに 悪は起こっており 必然的に その悪によって 傷つくことが 約束された状態にあります。この約束を――早めても よいとさえ 思いますが―― 先送りをしないという行為は ごくふつうのことである こう考えることにします。 そうすると 《本能》もしくは《他者に対するその何者であるかについての分からなさから来る警戒心またはおそれ》の問題になります。 どうでしょう。ここでは わたしは 両様の見方があるという地点に立ちたいと思います。 というのも わたしたちは 幼児のときから 特別には 他者のことをおそれるというわけでもないと考えられるからです。むしろ 誰かれとなく あたかも 同じ《わたし》であるとさえ思ってのごとく 初対面の相手に対しても 接していくのではないでしょうか。警戒するというのは やはり 派生した癖 ないし習慣であるように見る視点も 成り立つように思うからです。 《おそれのない状態が初めにあって おそれを知り 適度におそれを持つ状態になった》。あるいは 別の角度から考えるに 《〈和を以って貴しと為せ〉という規範の頭への刷り込み》が 一方にあって 他方には 実際には 時間的にも理論的にも先に 《和を欲する・そう言ってよければ本能》あるいは《安寧第一主義》が 存在とその自然本性には じゅうぶんにあふれているのではないか。泉のごとく いつまでも尽きない どこまで行っても涸れない愛の本能が 息づいているのではないか。 そうでなければ たしかに 《無効の行為》を考えるだけでも 人類は 何を 血迷ったかということになるでしょうし 《蚊が刺しただけ》などと よくも 他人事とは言え 抜かしたもんだ 消え失せろとでも なるでしょう。けれども 悪は 存在しないという哲学にあっては 絵空事が 現実的なのです。自然本性にしっくりと合うのです。そうではないでしょうか? この狭き門より・・・。
補足
bananasandさん ご回答をありがとうございます。 なるほど。なるほどですね。 そろそろ 出番であるかのように 現われてくださいました。 かなりのことが 全体的に つながって 捉えることができるようになります。 ★ 動性道徳と表現してい〔る〕ダイナミックな帯域の広い領域 ☆ これを そう言えば 今回の途中から わたしも ○ 自己表現 あるいは 自己の表現 ☆ という言葉で 言い表わそうとしています。すなわち この自己表現のうちで ★ 感情というのは、前のご質問で話題にしていた帯域の非常に広い / ところからの出力にすぎないでしょう。 ☆ つまり 冗長になりますが ○ 《自己表現》は 人間の行為にかかわる全帯域における出力である。むろん 感情をも含む。 ☆ と規定するとよいですね。考えてみると ☆☆ 相手が 最初に みづからの心に歪みをもって 自己表現するとき わたしは すでに えっ? とか はぁっ? とかいうふうに 感情表現をもって 反応している。 ☆ という意味合いのことを 今回 言って来ています。 こうして つながって来るというものです。 どうして 今回 このように 感情を それとして 取り上げたか。こう考えてみると どうも 感情は いわば対話の先端かつ尖端を形づくってのように ひとは それを受け取りがちである このような実情からなんでしょうかねぇ。 そのような感情の受け取りに際しての《快不快》にかんして ★ 感情表現なら ともかく、トータルとして60%快が上回っているならもはや / 行動に移ります。ここに感情の機能があります。 ☆ という見方であれば 逆に 不快が 過半数の部分を占めているとすれば 躊躇することもある。一たん 立ち止まって考えてみる。こともありうるのでしょうね。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そして、だからこそ、ダイナミックでなければなりません。 特に他人の権利に関わる行動は、時間経過に伴って変化する作用、反作用に俊敏さが必要なんだと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ と結ばれております。《自己表現》の醍醐味といったところでしょうか。 と こう述べて来て 課題がないわけではありません。 ★ (ここで繰り返しになりますが、「人間が存在するところ対立が起こる」を肯定しているうちは、成立しません。) ☆ これです。《理論また理想は そうかも知れないが 現実は どうかな》の問題とからんでいるようです。この問題の説得が つづくと思われます。《狭き門》であるようにも感じられます。やりがいもあるようです。 そして この「人間が存在するところ対立が起こる」説に対しては 《悪は 存在しない》よりも もう一度視点を変えて――つまり そこでは 《存在は 善である》という想定で出発しているけれども この視点を変えて―― 《存在は 善悪を超えている》http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4614356.htmlという切り口での基礎理論も 重要になるようなのです。 ○ 人間存在は 互いの対立を超えた自然本性から成っている。しかも そうであるがゆえに 時には 互いの対立をあそぶ もしくは もてあそぶ傾向を持つ厄介な動物である。 ☆ は どうでしょうか。 ところで ○ 《羞恥心》トリオは そして かれらを受け容れる日本人たちは その社会の中にあって みづからの《自己表現》を全開にする道を開いた。 ☆ という言い方で言って いいですか? * ここんところ 十一時の声を聞くと 就寝の時間にしています。わづかの差で 翌る朝でのお応えになったようです。