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道徳規範は 愚の骨頂

 ではないでしょうか? なぜ なくならないのでしょう?  道徳は 倫理としての試行錯誤の中にしかない。おのおのの思考の過程であり 生活共同の動態であるはづです。  ヰキぺディアの記事の中に 次のように 思考の動態であることを示す一節もありました。  ▲ 《ヰキ:道徳教育》~~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%BE%B3%E6%95%99%E8%82%B2   ただし、〔生徒たちに 道徳心を身につけさせるに際して〕 同じ行為においても、徳目どうしが衝突することは頻繁に起きる。  ・ 転倒した児童が自ら立ち上がる強さも大切であるし、それを他の児童が助けてあげるのも大切である。  ・ いたずらを起こした児童生徒を厳しく諌めるのも大切であるし、許すことも大切である。  ・ 身なりが整っていない児童生徒をいじめることはよくないが、身なりを整える習慣を身につけることも必要である。  そのような場合に教師がどのような評価を下したらよいのか、明確な評価基準がないために、評価は流動的である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ その場その時に応じて また 自分や相手や情況に応じて 考えつつ対処するのであって 規範とその応用は 愚の骨頂だと思うのですが いかがでしょう? おしえてください。  * おそらく 宗教という問題にかかわっているとも思います。わたしは 宗教は 個人の信仰が内面から外に出かけるというおのれの自殺行為から出た慣習だと考えているのですが そのような外化としての教義化と 一般における道徳規範とが つながっているかとも思います。このあたりのことについても よろしかったら どうぞ ご見解を示してください。

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回答No.32

ちょっと基本事項を整理します。 まず、法律及び道徳規範の外面性と道徳の内面性、 法律の国家による強制と道徳規範の強制がない部分を図にしてみました。 A部分は、内面的道徳だけ、Bは、強制力を伴わない道徳規範だけ、 Cが法律の実体法、Dは法律の中で道徳とは関連のない手続上の決まりなどの部分で、 Eは、実体法の中で何らかの理由で道徳から外れた不合理で妥当性の見出せない法律です。  法律Cはよく言われる最低限度の道徳とされ、行為が現実に行われたことを問題として, それを評価の対象とするのに対し,道徳は,人の心理の内側を問題として行為の動機を 重視します。法律C部分は、「人間がいるところ争いが起こる」がその存在理由です。  動性道徳は、道徳における「行為の動機」を形成する非常に帯域の広い内面を 各個人が熟成させることであって、この広がりによって結果として究極的にBC部分が 形骸化されることです。  国家による強制力の発動は、そういう意味では形式上最低限に抑えられている ことにはなっていて、国家対個人の関係では自由の保障がされてもいます。  そして、一階と二階では、憲法で一階が主体であることが謳われているわけですが、権力は 実質的に二階に存在します。法律Cを最低限度の道徳としながら、二階の詔勅等E部分を一階に強制すると 上記の形骸化がなされないどうしようもない部分ができることにはなりますね。でも、一階には これを排除する力が法律Cによって与えられています。  なにが言いたいかというと、法律、規範には、究極的に形骸化できるものC部分と なしえないものE部分があるということであり、なしえないものは排除しなければならないという ことですね。  そして、前回、規範の存在を意識することのない人間が存在していると記載しましたが、 単に気ままな暮らしをしていると言うことではなくて、やはり、気づきが重要で、 排除すべき規範への気づき、規範の限界への気づき、及び帯域の広い内面の熟成によって、 規範BCから自由になります。  あと忘れてはならないのは、この全体が時間経過に伴って変化するということに対して、 規範も、法律もその静的態様からCがEに変質することがあると言うことですね。  結論を急いでしまいますが、規範が無くならないのは、気づきがないことと、 動性道徳の不存在がその理由となります。つまり、それがあるなら、BCは自然と 形骸化するということで、二階からのEの強制は排除、Cの強制は即形骸化します。  規範という帯域の狭い情報に、帯域の広い動性が縛られてしまうのは、内在する道徳の不存在 ということでしょうか。二階にいる人の言葉には弱いということも、宗教の話もこの二つで 説明できるように思います。    

noname#80116
質問者

補足

 bananasandさん とうとう 佳境に入ってきましたね。ご回答をありがとうございます。  ▲ 《ハドソン川の奇跡》 《ハドソン川の英雄》  ☆ の話が しきりです。最後に いま一度機内を見まわって 残った人はいないかを確認してから この機長は 脱出したそうです。Bravo !  ところで このとき 危機管理のマニュアルとしての対処法と そして 道徳上の対処の仕方とが あるかとも思われます。《機長や船長は 飛行機や船と 生死をともにするのだ。危機を脱出するのは とうぜん 乗客乗員すべての最後である》という考え方を 規範ととるか もっとも合理的な対策として考えられたものととるか。  こう考えると どうも 帯域の広い《道徳》というときに わたしは 動性道徳とさえ言わずに もしくはその枠をも超えて 思想または生活態度あるいは行為形式と呼んで捉えたほうが よいように思うようになりました。  例の将来の歴史に向けての行為形式を 方程式と呼びましたが そう呼ぶ限り まだ 規範に近い感覚が残ります。思考実験を煮詰めたあとに残る合理的な形式も 規範のにおいがしないでもない。  ですから ちょうど 法律を 実体の部分と手続きの部分とに分けて捉えたように 基準や原則として扱われる行為形式については 規範の部分と手続き上の規則の部分とに 分けてみるとよいかも知れないと思ったのです。  言いかえると A・B・C・D・Eの全部を包含する X なら X を 思想哲学あるいは生活態度ないし行為形式として さらに 設定してみると どうですかね。あるいは こう言えるかも知れません。つまり 《思惟・内省=生産・行為形式》です。いちど こういう用語を作ったことが じつは ありました。帯域が広いでしょう?  その利点は たとえば 《動機》を 必ずしも 扱わなくてもよい。あるいは 規範化の問題について 特別のかたちで 《気づき》として おしえ合わなくてもよいかも知れない。  ★ Eは、実体法の中で何らかの理由で道徳から外れた不合理で妥当性の見出せない法律です。  ☆ このEも いかに 不合理なものであろうと 広く人間の思惟=行為の形式であるとして その基礎の上に乗っけておくと そのEを持ち出してきて取り立てようとする相手に対して それもそうだがうんぬんと言って切り出していくことができる。  あとは 二階族の言語習慣の問題になるでしょう。その方言の特徴や 表現形式の特徴などなどを 基本的に押さえて認識しておくと きわめて便利になると考えられます。  ひとつ 最初に思い浮かぶのは 何でもかでも 相手の思想(思惟=行為形式)を 先取りすることです。おれは おまえの考えや思いを知っているぞ あるいはおまえの心をちゃんといつも思っているのだぞと 思わせようとするその手法のことです。先取りと言っても 時間的なあとさきであるよりは 考え方において おまえの思考や思いを包むほどの思いを おれは 持っておるぞと思わせるものです。  世間の誰が 分からなくても おれだけは おまえの気持ちが分かる ようく分かるという態度を 持ち続け たとえ勘違いが 途中で 見つかっても 絶対的に 初めから 分かっているのだぞという姿勢を崩さない そういう方言形式です。(アマテラス語とは 誰かが 言っていました)。(これだけでは ありません。いろいろ あるはづです)。  ★ 結論を急いでしまいますが、規範が無くならないのは、気づきがないことと、 / 動性道徳の不存在がその理由となります。  ☆ ですから 別の角度からみつめつことも出来るわけです。《気づき》については アマテラス語方言の表現形式を知らないゆえ 気づかないのだとすれば その表現形式の特徴を分かれば そうとう 効を奏す可能性がある。あるいは 《動性道徳の不在》という観点から見るほかに 別様に 最大限に広い帯域としての思想(思惟・内省=生産・行為形式)が あいまい・あやふや・はにかみやの傾向を持ち ともかく 思考の訓練が まだまだ なされていないという観点から 捉えていくなら いいかも知れない。つまりは 《動性道徳》を旗印にして掲げつつ 説いていくと またまた 規範として間違われるおそれがある。――以上のごとくです。    * 今回は 試行錯誤でよいと思って 荒削りのままです。

その他の回答 (38)

回答No.18

No17から続けます。 すみません。 やはり、急ぎすぎの回答だったようです。 通常 私は質問文は徹底してよく読んでから回答を書き始めるようにしています。  それでもなお、 読み落としすらあり、 もちろん、その質問文自体の裏のその人の人生など、読めてなんかいないからです。 慎重にならざるを得ないはずだと思っているわけです。 しかし、 この質問文の場合は それの質問意図の深さを読めなかったというよりも、 何故なのか?自分でも不思議なぐらいよく読まないうちに回答を始めてしまっていました。 肝心のその文自体は後回しで、先に回答者のみなさんの文をざっと読み 突然書き始めてしまった感じでした。   失礼いたしました。 * 道徳規範の規範という言葉も、「べき」という言葉も、 含まれている意味合いは ピンからキリまで、 レベルの低い認識で解釈したものから 高度な深い意味合いで認識されたものまで、 さまざまであり、 これは 確かに“言葉の使い方の難しさ”をも意味するところなのでしょうが、 ご質問文をよく読んでいれば、 《“考えが固定されてしまった「べき」として受け取られた段階の個人の当為としての、動的でない(その場によって違ってくることを理解していない)取り決めとしての 道徳規範”は愚の骨頂である》という意味合いであることは、 すでに明白なところであったわけです。 具体的に言えば URLに掲げられた例にても、 ここは助けちゃいけない甘えさせちゃいけないんだ。 自分で考え、傷ついてでも自分で起き上がることを学ぶべきところだ。 と明らかに思える時ですら、  助けなさいと 先生(> 一定の地位にある公的人物<)が言ったから、あるいは その宗教の教義に書かれてるから なんであれ助けるのが正しいという、そんな内的強制をともなう規範は 愚の骨頂ではないか? ということなのですよね。 実際に 強制力(公的罰)をともなう法律は、けっこう深い理解から生まれている(弱い者の立場の重視、個人の尊厳性の理解、あるいは互いに矛盾する規範の場合におけるバランス、とかの理解の上に、 さすが罰をともないそのコンセンサスを前提ともしているだけ、よく考えられていて、そこには長い間の重みもある。)けれども、 ほんとうは、外からの強制力をともなわない、内的規定こそ、さらなる中道あるいは中庸のより深い理解が必要なものであるのに、   そこを間逆(その状況等の理解とは間逆)にも規定してしまう>規範<は、 まさに>愚の骨頂<なのではないか?  なんで?、 この時代にても その大切な点の大切さに関する疑問の声が何故あがらないのか? という 誠実で強烈な内的叫びからの 質問となっていると思いました。 ☆その観点から 宗教をながめると、 大の大人が なんとそんな地点の>規範<に閉じ込められているすがたが見えてくるではないか。 そんなの 信仰と言えるのか?  信仰の名をかたる、考える行為の自殺なのでは?   という疑問も ここには絡んでいるのですが…?  といった意味合いの質問文ですよね。 * これでは、別な観点からの見方もありますよ。とう回答では それはそうであっても 回答として不十分すぎますよね。 * 先へ論議を進める前に、 まず わたしが 急ぎ書いてしまった(1)キリストの言葉のあたりと、 (2)仏陀のことについて コメントをいただきました点に筆を伸ばしておきます。 >宗教<への疑問という内容もともなう質問だと思いますので、 この論議自体 回答の内と言えるかもしれませんが…。 (1)「私は 律法を否定するために来たのではない。 完成するために来たのだ」と言われるキリストの言葉の中での 律法は、もちろんその言葉(「律法」という言葉)自体が、 動的な道徳の事を言っているのは当然と私も思っています。   >規範<に閉じ込められた道徳や律法のことなど最初から眼中には無い感じの言葉として、 明らかにそう解釈できる言葉だと思っています。 そうでないと、全体の“キリストの言葉”に整合性も生まれませんし、これは ちゃんと考えれば誰もがそのように理解できるところと判断出きるかと思います。 (2)私の中には、 悟りきって戻ってこれなくなった人は この世にいらない(オシャカ様にすぎない^^)という前提がありますが、 マーガンディアのは話がもし実話であれば、 そしてそれが仏陀が悟った後のことであるというならなおさら、  仏陀自体はオシャカとして考えるべきだという前提にもなるところです。 仏教に対しては その上での悟って無い人達の 努力(幻の仏旅)のほうから学ぼうとするという立場ですし、 そこにしか《多元性》という観点からの仏教への《よりそい》の道徳意義は感じません。 ただ単なる ブッディスト規範での 仏界への謙虚さとか仏教への謙虚さを大事にしているのではありません。  たぶん 結論はbrageloneさんにしても同じだと思います。 ↓ これに反論とかがあれば 別ですが、 同感であるならば、上記(1)と(2)については、ここまでとさせていただきたいところです。 * 私の急ぎにての回答の方でも、別意図でこちらから取り上げてしまった問題、 》★ すべての宗教の和解という大きな課題《 については、 ここでのもともとのそちらの質問文とも直接に対応する問題と思われます。 重要な論議の地点であることは理解しているつもりです。 しかし、 これも 後回しの論議課題とさせていただきたいと思います。 もう大の大人であるにもかかわらず、《>規範<に閉じ込められている》姿を 大勢の人が子供でもあるかのように露呈している姿は、 一度その怪奇さ?に気がついた人にとって、  なんとも、簡単には言い表しようがなく 考えがたい感じの問題となってしまいます。 どんなに理性的に批判しても 泣いて怒ってみても、 物語で理解をうながそうとしても、 何かの実践にて体験を通じて事を解かって欲しいと実行してみても、  目的である理解を深める地点には 出てこれないかのように思えてしまう事態と認識しています。 ですので、 ともあれ、 最後の論議として 心にとどめつつも、 回答の筆を 待っていていただきたいのです。 (これも 反論があれば、必ずしもその限りではありません。 規範としてそう思っているわけでは、ないからです^^。) ☆ しかし、そちらの その点についてのコメントの前半部分については、後回しの問題とさせていただきたいということなのですが、その後半部、 その後半部分の、 “深い内実があれば、 >道徳規範<には縛られない、その状況に応じた意義の深い実践性が生まれるはず” という論理については、 ただ賛同するだけでなく、 そこをこそ 私の方からも より具体的な、>一つひとつの主題や現実の課題に対して 何が 必要で 有効であるか この視点を重視するという わたしの側からの 物言いです。<と言われるそちらのコメント意図に添った形の回答にしていきたいと 思っています。 今回は その予告偏回答とさせていただきました。 * なお、>慈悲は 経験現実か。< という部分のコメント文について、少し説明していただけますか。 愛は経験現実か。 という命題とは別ですか? 「経験現実」とは、というあたりの言葉の定義のあたりが 今一掴めていないからです。 かってな私の解釈から言えば 「当然、愛も慈悲も経験現実だ。」ということになるのですが。 それは、もちろん「慈悲とは」のそちらの質問の時に私が回答した内容は前提とした上でのことです。 これも ここでも 論議の対象となりそうですか?

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。少し氷が解けたのではないでしょうか。全部と言いたいところですが 疑問も 残ります。  ★ すべての宗教の和解という大きな課題  ☆ これを 保留ということで あとは そのとき 道徳規範あるいは 規範としての教義の問題にからめて 《道徳規範は 愚の骨頂》とは別の見方が成り立つかどうか に焦点が当てられます。  しかも この質問趣旨としては 別の見方は 成り立たないと仮説しています。むろん どなたかのお応えとして書いたことを覚えているのですが 成り立つという歴史的な事実や 理論が あったなら おしえて欲しいという問い求めになっています。  ★ 慈悲は 経験現実か。 愛は経験現実か。  ☆ これは 字義どおりの問いです。すでに  ★ 「当然、愛も慈悲も経験現実だ。」ということになるのですが  ☆ とお答えいただいても います。ここでは 《当為》とからむこととなったと思って あらためて 持ち出したのですが たいした質問ではないと考えなおしました。  つまり 主観としては できる という答えが返ってくるでしょうから あまり 対話にならないようだと あとで 反省しました。  課題は 保留の件と あと マーガンディヤー問題ですね。  後者は   ★ 悟りきって戻ってこれなくなった人は この世にいらない(オシャカ様にすぎない^^)という前提  ☆ がよく分からないのですが 焦点は 単純です。成道のあと つまり 法を説き始めたあとのブッダが この女性に対しては ほかの人びとに対する接し方・法の説き方とは違って ついに 最後まで 説得し得なかったという問題です。たとえ実話ではなく 虚構であったとしても そういう物語として 伝えられてきたその意図は 何かと問うことができます。  のちに 王の第三夫人となったマーガンディヤーは 第二夫人で ブッダの弟子となった女性を憎んで その館に火を放ち 女官何人かとともに 焼死させた。ブッダから マーガンディヤーは 道徳という見地から見て すでに 死んでいると酷評されたわけですが それでいいのだろうかという素朴な疑問が残ります。それだけです。  ブッダが どういうことを言ったかではなく 事実が 上のようだったという点に 説明が求められるという意味です。もし かのじょにブッダがかけた言葉こそが 深い意味あいを持つというご見解でしたら その意味あいを 上の不幸な事実の解き明かしを交えて 説明しなければならないと思われます。  次のご回答において arayata333さんは 多くの場合に 予告編だけであることがあると言われないようにと 当事者であるわたしが いま 言っても まちがった言挙げではないように思い始めています。と 心より お伝えいたします。

回答No.17

No13です。 ある実践へ向けて急ぐ気持ちはあると言っても、 ここでの対話をすぐに切り上げるという形ではありません。 他の質問様への回答にしても、答え等が中途半端なまま完結していないものも現時点でいくつかありますし、 すくなくともそれは書き終わってからのこととなります。 その実践というのは、 もちろん私の中にて、そうす「べき」実践です。 その「べき」の中には、 身近なせっぱつまった状況(毎月の自転車操業の額が大きくなりつつあるのをなんとかしなければという経済状況とかもあったりします。)もからんでいますが、 ブログ等で 正しいコミュニティーを訴え、かつ創造して行くという過程とともにある実践です。 目的は 経済も含んだ 平和と繁栄(抽象的ですが、これを長く具体的に書いたら、何十冊もの本になってしまいますので^^)のためです。 そしてそれを急ぐ気持ちになるのは、 もちろん、目の前にても経済格差で苦しんでいる人たちを見ていますし、 今では世界中のさまざまの苦しんでいる人のニュースを私たちは知っているからです。 一人では 何もできない あるいは力は微々たるもの。 しかし もし深いコミュニィティーがそこにあるならば…、と考えると、動かないではいられない表現者としての自分が見えてくるわけです。 Okウェブでの 回答や質問は、私にとって大勢の哲学する人どうしのコンセンサスはどのようにして得られるのか?ということの探究の意味合いもありました。 それは、まだまだとても終わったと言いえるものとはなっていません。 《多元性》という言葉は 高校生の時に聞いた言葉であるわけですが、 今では、それもそのコンセンサスのための理論の一環として考えているところのものです。 一つには、妥協とかいう中途半端なすぐ崩れかねない地点ではない、すべての宗教の和解という大きな課題も 私という表現者の課題の中にはありました。 しかし、この論議は この「Q&A」形式の質疑の中では時間がかかりすぎる課題として あまり力を入れて取組んではいなかったものです。 でも、そのためにも、 この道徳をめぐる問題は、実はとても重要な地点にあるとも思っている問題でした。 キリスト教ではこうだ。 仏教ではこうだ。 という形での論議から論じてゆくと、なにが「べき」なのかは、複雑すぎる怪奇とすらいえるような議論となりかねません。  さきに「べき」とは、というあたりを明確にしてから そのお話にも進むという方向が必要と つくづく思いました。 ならば、 実践へと急ぐ心はそのままにも、 この問題だけは、きちっと最後に brageloneさんという知的で反骨精神のたくましい方の質問文での質疑の中にて、コンセンサスを確立しておくべきかとも思いなおしました。 今 昼休みで急いで書いてましたが、 すでに少し時間オーバー、 これにて一度 とぎりますが、  そういうことですので、 よろしくお願いいたします。

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。今回のご投稿をいただいた段階でも 前回No.13でのご返答が 有効だと思います。  お応えを欠いていたと思えるのは  ★ 《べき》論  ☆ でしょうか。さっそくですが わたしの場合には 自己表現ということにかんして 当為と作為と自然発出(自然な自己表現)とのあいだに あまり 区別をつけないというのが 一応の方針です。  その心は 当為であろうと 自己の意志によっておこなう作為ですし 自然表出であっても その結果について 答責性を持つわけですから 作為としてのおこないになります。という意味です。  当為というのは むろん 主観の内では 重い意義があります。それ以外には考えられないというほどの重要性が 主観において 与えられることになります。そういう意思決定をほどこした思惟であり行為です。――しかも この世界にあっては すべてが 相対性の・それこそ規範(法則)に従うという基礎に立っています。  ですから 特別に 《しかるべき》と《ただ このように ある》とを わたしは それほど 区別しているわけではないのです。  ですから ここで ひとつ言えると思えることは  ○ 当為を重要視するか否か  ☆ といった議論が 先に来るのではなく そうではなく 一つひとつの主題や現実の課題に対して 何が 必要で 有効であるか この視点を重視するという わたしの側からの 物言いです。  ★ すべての宗教の和解という大きな課題  ☆ これは 上に述べた課題に直面して 何を 理論するか 何を 政策とするか の問題であるように見えますが そう見えるようですが どうも これまでのご回答内容を総合して考えるには そうではないようにも見えます  けっきょく 感性および幸福の哲学のもとに ひとは 互いに 愛すべきであり 多元であるたとえば諸宗教は 互いに 和解すべきであるという初めの結論から 出て来ていると思われます。やはり 当為論が 先にあり これが 掲げられ すべては そこから 帰結されているように映ります。(先走って 印象批評をしているわけです)。  つまりは もしそうであるとすれば――初めに当為論ありき であるとすれば―― それは 取りも直さず いまの《規範》の問題とからみあっているというように感じます。  もし規範の内容が――愛なら愛という規範の内容が―― 奥深い内実を持っているとしたなら それは 自己の思惟によって当為として立てた観念内容や命題の内容を 当為なる行為ではないかたちで 実践し得たときです。つまり 奥深いなら奥深いほど それは 当為としての行ないであっては だめなのです。自己の特別のはからいによって為したものであり その場合にこそ為し得たことであるからです。  要するに ふつうに 日常生活の一環として ふるまう行為の中で 奥深い意義ある規範内容を実践し実現したというのでなければ ただのいわゆるパーフォーマンスであるに過ぎないことになります。  慈悲は 経験現実か。なのです。  先取りしたような話になっていますので ここまでとしたいと思います。

回答No.16

こんばんは、brageloneさん。 むっちゃ、おもしろい。 何が? wiz0621さんの間のとりかた。 うーん、何だろう?と しばし――― 行間を読む ――― (^O^)/はい、読みました-☆ 何と読んだか? コレはですね、ぴょん ぴょん ぴょん 石飛び? うんにゃ ちゃう 「石飛び伝い」 http://mahoroba.shashin-haiku.jp/e13442.html 赤塚富士夫さんよろしく 柳の枝に猫がいる だから ねこやなぎ. これでいいのだ~ これでいいのだ~ ボンボンバカボンバカボンボン 吟じます! これでいいのだ~ これでいいのだ~  ネコや~なぁ~ぎぃ~ ぎぃ~とくりゃ、「義を見てせざるは勇なきなり」 (*^-^)b いけると思います。とおりゃんせ~♪ ところで、今週の[このカテゴリで人気のQ&A]1.『悪は 存在しない』をクリックしても表示しない。ってことは…『悪は 存在しない』ってと???変くない?たとえば、会計報告書であまりにきれいに000000が並ぶと逆に[ ? ]と。凸凹な数字が並んだ方が実態に近しいように思うんだけど[000000]←コレは何ですか?と、突っ込みいれたくなる。ケスクセ?消すなってば!!!メリット・デメリット両論併記あるほうがいいんじゃないの?『悪は 存在しない』の質問をもとにもどしてよ。消すなってば!!!教えて!gooの真骨頂は、“君子豹変する”君子は過ちを直(ただ)ちに改める。君子は時代に応じて自己を変革する。 【QNo.3463663 ポイントカードシステムのメリット・デメリット】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3463663.html 【データフローダイアグラムの書き方】 http://www.dab.hi-ho.ne.jp/sasa/hyoryuki/dfd/ 【仮想メモリの設定】 http://www003.upp.so-net.ne.jp/shigeri/speedup/speedup2.html 【蘇生の話】 http://www.osoushiki-plaza.com/anoyo/takai/takai2.html おっと、話を『雷見舞』にもどしてっと、 http://hansichi.hp.infoseek.co.jp/contents/miuras10.html http://hansichi.hp.infoseek.co.jp/contents/miura.html 「はゝあ、それは不思議な御縁でしたね。むかしから雨宿りなぞというものは色々の縁をひくものですよ。人情本なんぞにもよくそんな筋があるじゃありませんか。」 虚構 仮構 仮想 現実 …バーチャルリアリティー 岡本綺堂-三浦老人昔話 三浦老人が語る話は本当にあった話だろうか? 何の疑いもなく聞き手は話に聞き入る、そして… 『こぶたぬきつねこ』 http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND51718/index.html

noname#80116
質問者

お礼

 littlekissさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  自分の頭の上を素通りして ほかの人が褒められていると 嫉妬するものですね。と言いますか 飛び石が どうして むっちゃ おもしろいのか そのへんの感覚が 分からないということのようです。批判ではなく 感覚が ぴんと来ていません。  明日香の飛び石は 写真だけでも きれいですね。心休まる風景ですね。  天才バガボンも 作品を見たことがないですし そのへんのことが影響しているのですかね。  そう言えば 昔 削除された質問が 復活したことがありましたね。わたしのもので 一挙に 二件 ありました。そう言えば そのとき 何の説明もなかったでした。  ★ 【蘇生の話】   ☆ が おもしろかった。むっちゃ おもしろい。何が? 死の判定としての科学的な規範を超えるところ。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  岡本綺堂-三浦老人昔話  三浦老人が語る話は本当にあった話だろうか?  何の疑いもなく聞き手は話に聞き入る、そして…  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《そして・・・》どうなった?   考えてみれば 規範は 人間のうそである。小説のうそよりも うそっぽい。むしろ 規範は 死んでいる。生きた日常生活の抜け殻として君臨しているのではないか?    でも 道徳規範が 大事だと思うひとも いるようなんですね。これでいいのら。とは 思わない頑固者として まだ 質問を開いています。

  • wiz0621
  • ベストアンサー率42% (182/430)
回答No.15

おそらく質問者さんの結論と、私の個に対する認識は 近しいものがあると思います。つまり、世界には多様な状況が 存在する以上、多様な考えがあってしかるべきでしょう。 ただし、思想の強制を行わないという、その考えを実行する場合 自分の常識とは異なる、世界の側の「常識」を知らないことは、 重大な問題となるのです。 wikiの例示に「社会科見学で臭いと言わない」というのがありますが 一方で私は「ゴミ処理場や臭いのある工場見学では臭いと言わなければならない」 と考えています。実のところこれが私の目指す道徳であるのです。 というわけで、常にアホの子を体現する私は、社会科見学のときに 「なんでこんなに臭いんですか!」と質問しました。そう、神聖なアホの信念を持って! 工場長さんは苦笑しつつも理由を教えてくれましたが、 翌日当然のごとく教師に呼び出され、ありがたい鉄拳制裁と共に 冬場にリノリウム張りの廊下に正座させられ、何故かその日の 国語の授業に出た漢字書き取り数ページの罰則を受けました。 (殴られるのも正座も人間は普通に慣れるものですが、このアホの存在すべてを 否定するような"漢字の書き取り"が私にとって人の尊厳を奪う、 全き拷問であった・・・・のは、今回全く関係がないので置いておきます。) このアホの子がやらかしたのは、つまるところ真理を追究するあまり 最低限度の礼儀すら弁えていなかったところです。 相手が不快に感じるという可能性を考慮していませんでした。 現状において、相手が最も不快に感じる可能性が高い行動。 それは道徳(上記の場合は礼節という道徳です)から外れた行動でしょう。 繰り返しですが、個々の基準の存在を認めるということは 相手の基準を知る必要があるのです。そして、社会が用意する 規範=道徳は言い換えるならば「社会生活の上で、この範囲ならば 噛み付いてもいいよ」という距離の指標なのです。 道徳の批判者であっても、さらにその批判者であっても、 その最後のラインを踏み越えることは、すでに個々の基準を軽視しているという 矛盾に陥ります。つまり、どちらの側の人間も、道徳(社会思想)を 知っておくことが不可欠であると考えます。 もちろん、お互いが真理を追究している場合、つまり相手の領域に 踏み込んでもいいよと認めている場合はこの限りではありません。 この場合ならば、どんどん 「こいつはくせえッー! ゲロ以下のにおいがプンプンするぜッーーーーッ!!」 と言ってもかまわないと思います。 相手に迎合する必要も、相手に強制する必要もありません。 社会で小利口に生きることを重視する必要もありません。 (もちろん重視しても良いですが) 結論として、最も重要な事は相手の思想を知り、 その上で生きる"距離感"をつかむことなのです。 こういった「パースペクティブ主義」を主張した"狂人"が 過去に居たような居なかったような。

noname#80116
質問者

補足

 wiz0621さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。道徳ないし道徳規範は  ★ 「世界の基準」  ☆ を示すものだから これを知らなければいけない。自分は 別様の考えを持っていても 一向に 構わない。しかしながら この《基準》は いわばパスポートのようなものだから わきまえていて つねに 提示することも出来るようにしておく。  その考え方は   ★ 「パースペクティブ主義」  ☆ と言える。  つまりは 重ねて確認しておくならば  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ただし、思想の強制を行わないという、その考えを実行する場合  自分の常識とは異なる、世界の側の「常識」を知らないことは、  重大な問題となるのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ そうですね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「ゴミ処理場や臭いのある工場見学では臭いと言わなければならない」 / と考えています。実のところこれが私の目指す道徳であるのです。 というわけで、常にアホの子を体現する私は、社会科見学のときに // 「なんでこんなに臭いんですか!」と質問しました。そう、神聖なアホの信念を持って!  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここで べらぼう話をしてもいいでしょうか。  わたしの場合ですが ひととの距離感は わたしは 抜群のものがあったのです。しかも 感覚をとおしてです。《神聖》も《アホ》も何もなく 《信念》など ゼロでした。自意識すら どこかに行ってしまっている状態すら 多かったかも知れません。小学生のときのことです。  ただ 感覚として ひととの距離関係を測る そのことによって すいすいと 学校社会を泳いでいました。ただし そのこと自体が やがて 煙たがられることになりましたが。  つまり まだ要領を得ない説明のままですが そのようなわたしは 《パースペクティブ主義》を通り越していたのだと思います。言いかえると 感覚をとおして――そして 少し 色をつければ 以心伝心のように―― 《くさい》なら《臭い》という反応や思いを まわりの生徒や 工場の人びとに対して 訴えていたことでしょう。実際には そういう社会科見学を体験していないのですが おそらく そういう事態になったのだと思います。  言ってみれば 距離感や基準のことを 嗅ぎ取っているのです。そして 主義や自分にとっての規範は ないのです。このように思惟をするようになっている現在のわたしも 規範から自由でいて 主義主張は ないとも言えるし 逆に 良いものは あらゆる思想から嗅ぎ取り かつ 理解して 自分のものとしている。というような状態です。いわば能天気なる利口です。《パースペクティブ》は 無です。少しは恰好をつけるなら 流動的なパースペクティブを持っているかも知れません。つねに その枠や中身をも 突き抜けて行きますけれど。  どうですかねぇ。能天気の利口は このような主題で質問をするということは 日本社会を相手として その距離感をつかんでいない脳足りんになるでしょうか。まぁ 実際には 計算済みゆえに そうしているのですが。  たぶん 煮詰めていえば こういうことじゃないですか。つまり 工場見学を例にとるなら たまらないほど臭いときには 相手の工場側の人たちが 見学するわたしたちの側から 《くさい》と反応する言葉を言ってもいいと思うように またさらに 言って欲しいとまで思うように その人たちの心と対話をする。だと思います。どうでしょう。

回答No.14

遅ればせながら “ あけまして おめでとう ございます ” brageloneさん。 m( _ _ )m 年明け早々から“がっかり…”とか ドンマイ ドンマイ 次いこう次 (*^^*)v イェーイ! どっからでも つづけられるさ 線路は続くよどこまでも 野をこえ 山こえ 谷こえて 『スイッチガール!! 7』 http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%83%83%E3%83%81%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%AB-7-%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9/dp/4088463544 『スイッチガール!! 6』 http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_ss_b?__mk_ja_JP=%83J%83%5E%83J%83i&url=search-alias%3Dstripbooks&field-keywords=%83X%83C%83b%83%60%83K%81%5B%83%8B%21%21+6+%286%29&x=11&y=26 どかっと、本の山 手渡され 「これおもしろいよ」と 1巻~7巻まで固め読み。読み終えて、『愚の骨頂』の質問眺め見れば…。「あっ!?」6巻目の終りの方でポイント云々の話がでてくる。本の中のとある学校では入学した時点から一人一人にポイントがつくカードが支給される。学業成績、学校生活の中でポイントは積み上げられるとか。このポイント、生徒同士の間で合意があれば交換可能。そして、学年末にこのポイントが一定値に届かないと留年になるとか。ポイントの高い順に希望の学部へ進学できるからとポイントをめぐってのカツアゲやらポイントの現金売り買いが日常化。それがあたりまえと囲った社会の中じゃ、無償の行為は存在しない。 その話を聞いた主人公の仁香が発した言葉 「…それじゃあ…自分の利益になることしかしなくなっちゃう…」 ほじゃ、ほじゃ  さきほど、「あっ!?」と思ったのは… この仁香の言葉を思い出したのでございます。 自分の利益になることしかしなくなっちゃ←コレぞ『愚の骨頂』だべさー “がっかり…”なんて言ってないでつぎつぎ話しすすめよ。

noname#80116
質問者

お礼

 ボンナネ! ユヌ トレ ジョワイユーズ エ ウールーズ アネ! littlekissさん。ご回答をありがとうございます。  励ましてももらって 恩に着ます。(問い合わせたら 質問者が 余計なことを書きこみ過ぎだとか。こちらは 回答者のみなさんと 共通の前提に立つために その説明をしているわけですが しゃべりすぎであるようです。まっ 野生児でいきましょう)。  ★ 自分の利益になることしかしなくなっちゃう←コレぞ『愚の骨頂』だべさー  ☆ なるほど。つまり 規範は 公的なものとして 誰もが従うべき規範というかたちで あたかも アドバルーンのごとく ちらつかせられたら ひとは ひとによっては その規範をも 自己の利益を得るための手段とする てえーことか? 逆手に取る ってやつだ!   そうとでもしなければ やってらんない ということかも知れないなぁ。  愚の骨頂には 愚の骨頂で 対抗するという手があった。    まぁ しかし それは 線路を外れているけれどもね。  それで 仁香ちゃんは どうしたのですか? どうなったのですか?  (*^^*)v イェーイ!

回答No.13

私のほうからは、 別な見解(別な方向からの見方)もあるという点だけ 書いておきます。 論議自体の時間は、あまり無いからです。 * 「道徳規範が 愚の骨頂」 とは言えないという見方です。 道徳規範の理解や解釈の浅さ 抽象性、あるいは網の目の荒さが、 愚の骨頂なる硬い(あるいは非動的)道徳堅持を生む  という考え方もあるという地点です。 例えば 最高徳と言われている「愛」や「慈悲」にしても、 その意味合いの深さを知らない人にとっては、 たんなる規範でしかなかったり、 極端な話が硬い解釈どころかその規範を利用して自分をよく見せる権力欲であったり、まさに最高徳でさへその時 愚の骨頂になりえるということです。 しかし、この最高徳というのは 考えれば考えるほど、哲学すればするほど奥が深いです。 そして それはそうするほどに 生き生きしたさまざまな価値を生み出し始めます。 そこを逆に そうであるからこそ、そのぐの骨頂に気おつけようという、ここでの井戸端会議をなんら否定するものではなくて、 偽善への“知のその闘い”を 私はここでも応援したい気持ちになります。 ただ、一つ一つの道徳なり道徳規範なりに あるいは「べき」にそれぞれ奥があり 深みがあるという見解もあり、  一概に 道徳規範を愚の骨頂としない考えを 簡単に避けたりしないようにする「べき」ところかなと思いました。 また キリストをあえて持ち出してしまいますが、 キリストは「私は律法を否定するために来たのでは無い、 完成するために来たのだ」といった意味合いの言葉を言われているはずです。  文自体は正確には覚えていませんが、そのへんの深さを考えさせられ 憶えているところです。 たしかに、 キリストが言われてることは奥が深いのです。 というよりそのシンプルな言葉は あまりにも端的です。  私は何もキリストを絶対視するというわけではないんです。 そんな意味で それを心のカテドラルの中心の柱の根元(ねもと)と表現するのではないんです。   実際に、 謙虚になるべき どこまでいっても謙虚であるべき そういう言葉を語られているからです。それだけのことなんです。 同様に カテドラルという形の知的図形にてそれを語るから 当然中心の柱が、一神教のあるいは存在が与えられている存在だということの感得の柱となるのは当たり前で それを最初にして語りきったキリストへの謙虚さを語るのも当然なのですが、 その図のにおける脇の梁の一つとしての仏教にしても 同じ殿堂を構成するということであり、  どっちがレベルが上とか下とかいうことでは無いということであり、 同じく仏陀への謙虚さの必要も私は、 ごく普通の語りたいだけなんです。 これが二段ロケット論法ということなのかもしれませんが、 私のその図自体はあくまで《多元的なカテドラル》の図であり、 そこから私の表現は生まれています。 たとえば、 仏陀というかたが、 当時のあの例の美女を 糞尿の詰まった体にすぎない と表現したことも 、  実はいろいろな解釈は可能であり、   阿頼耶識とかで表現されてる仏界を信頼するならば、 その深みから推理すれば、  すでに仏陀が悟ってしまいそのために糞尿の含めて存在のすべてがただただあまりにも美しく快いものとしか感じられなくなり、 静寂のその感性からは、  慣用語を使ってみるしか指導できなかったという見方も可能になります。    これは 何を言ってるのか解からないかもしれませんが、   ?  でなかったとしたら私には悟りってなんだか逆の解からないので、 私の推理の中では その可能性の一つとして成り立ってしまうことです。  つまり仏陀は 教育は下手だったとも言えるということです。    私たちの中に残っている下心とか嘘の心とか 思い出すこともできなくなり、 言葉として憶えてることを下にのみ、それでも新鮮な心を大勢の人と分かち合おうとしたのだと思えるということです。   あくまでそれは推理ですけどね。 推理は推理に過ぎないですから、 結局 事実がどうだかは解からないわけですが、 これは人間の脳ではどうせ人のことですから解からないことなんです。      もしかしたら 仏教の歴史というのは、だだの青二才の理想主義者に、大勢の真剣に生きたかたたちが惑わされ だまされもしてきた歴史かもしれません。 しかし、今となっては、 史実の裏の心の世界とはという観点から過去を探ってもどうせ何も生まれないんです。   必要なのは、より深い人生の解釈でありより深い人生の理解です。 道徳にしても、歴史的には あきらかに 上からの規範、押し付けであり、それがまかり通った歴史とかもあったでしょうし、 それこそ最悪の粛清とかにまでその規範がまかり通ってしまった歴史もあったでしょう。 何が よりよい規範かも含め その規範の深さを学ぶという姿勢が 「今」を生きる姿勢と思います。  さらには、その上での自在の行動とうものも ここでの追求課題でしょう。 論議を深められていってください。 私のほうからは、道徳の中に 最高徳としての「愛」がある点、 そして道徳は、その見方が深まれば規範に縛られたものとしてではなく理解されてもくる という見方^^もある、 というここではちょっとヒネた見解を提出しておきました。 そこから では「愛」という道徳においてはどうなのか?という議論をさらに進めていくのもおもしろいかと思います。 時間が生まれれば また参加します。 では、ご活躍をお祈りしております。 * もし、 前回のそちらの質問の削除の原因が 私の極端な形の表現(いっぽう的に見える)が原因だったとしたら、  私の不徳といたすところ、申し訳ないことをしました。    誤解は ここで同時に解いたつもりですが、 後のまつりですね。 

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。  ううーんんん。表現の問題 表現の差の問題のようにも見えますし。・・・  まづ 道徳と道徳規範とを分けて 捉えて欲しいとも思います。道徳という場合には 特には 人間関係において 互いに不都合なことを慎しみ 好ましく望ましいと思われることを相手にもおこなうといった内容です。ここから 学習効果としても得られる理論 つまりは 特に 望ましいと考えられる内容を形式(形相=イデア)としてまとめたもの これが 規範であり そのとき 重要なことは 社会にあって 一定の地位にある公的人物が これを掲げるという場合です。  単なる規範だけであれば つまりは そういう理論だけであれば 一人ひとりの生き動き存在する過程においても 主観および相互の横の主観関係として 持っています。言ってみれば 切磋琢磨するその過程が 道徳であり そこに 抽象化し一般化した行為形式もしくは 行為関係形式も 持たれます。後者は 理論であり 道徳に内在する単なる規範のことです。  ★ キリストは「私は律法を否定するために来たのでは無い、 完成するために来たのだ」といった意味合いの言葉を言われているはずです。   ☆ 律法が たしかに 規範です。公的な場において共有され はたらくところの規範です。  ですが 残念なことに 見解を異にするのですが 《律法を完成する》ということは この公的規範が その言葉・その確定した言葉としての法的な効力が どうであろうと 一人ひとりの個人としての人間が その内容を みづから 体現して生きる ということだと思うのですが どうでしょう。つまり 動く道徳のほうを言っているのではないでしょうか。規範を 規範として 大切にしようとか 規範が 規範として 公的に 掲げられてこそ その律法規範を完成させるのだとか そういう意味ではないように受け取っているのですが?  ★ 愛  ☆ も 同じですね。たしかに 《神を愛せ および 隣人を愛せ》という これら二つにして内容が同じ一つの命題を 唯一の戒めとして つまり 規範として 持てとも言われています。しかも 中身は 動いている と見るべきではないでしょうか。動いているという意味は 固定しない。愛という何ものかがあったり 固定した理論があったりするのではない。  仮りに理論としてもあったとした場合でも その理論=規範が 問題なのではない。生き動く道徳としての愛は 理論や規範性をも 難なく超え 突き抜けているのではないでしょうか。  もっとも奥にあるその核は 規範から自由な息吹きのような動態であるでしょう。それが 愛であるでしょう。どんな規範や理論による規定をも 突き破って 活動していると思えます。  ブッダの美女マーガンディヤーに対する態度の問題は 言葉のそれではなく また その言葉の奥に秘められた意義のようなものでもなく そうではなく かのじょが 悟りを得るかどうかにあります。ブッダを嫌って 反抗し ほかの仏弟子を殺すまでに到ったという問題です。ブッダが よいことを言ったかどうかの判定ではありません。しこりが残った その結果 殺人事件にまで発展した。そこに 問題は なかったのか これです。  規範化を嫌い たとえ規範を 社会的に持つこと・それに従うことを余儀なくされたとしても 規範も 流動的だと見ている人は――つまり それが 質問者の趣旨ですが その観点からするならば―― ブッダとマーガンディヤーの人間関係 これが 生き生きとして それこそ《和》を表わしているか ここにあります。それ以外のところに 解答を見ようとも思わないという姿勢であり 思想です。  どうでしょう。こうして さらに この質問への解の問い求めが たしかに 深められていくと思います。そういう意味で ご投稿に重ねて感謝を申し上げます。今後とも 自由に ご回答ください。

回答No.12

>この質問においても 出ていますし。 このご質問は、規範を放棄することによって、真の道徳を獲得しようという ことなのに、規範(規則)によって削除対象になるという愚の骨頂がされるかもしれない ということですか・・・削除されればこのご質問冥利につきるということですか(笑) 真意が理解されれば、削除されることはまずないでしょう。 > ☆ いまの日本は 充電が切れて来ていますか? やっぱり、ここに繋がりますか。 充電が切れて来ているのはどちらかというと日本ではなくて、世界ですね。 サブプライムの甘汁は、さぞ、美味しかったに違いありません。 この急速放電は、動的道徳の欠如を表していることになるわけですね。 見方によっては、この状況を作り出したのは、日本に原因(長期に渡るゼロ金利政策)が ある訳でその分の責任を負う必要もあります。 必要なのは、ホリエモン、ムラカミエモン?の類の再来ではなく、 それこそ、力強い動的道徳から発揮される具体的行動でしょう。 日本は何本かあるバッテリーのうち、貯蓄残高、企業の保有資産残高、円の独歩高という 充電はされてますし、精神性だって一部が腐っても鯛ですからね。 空になっているバッテリーへ充電を開始すれば、 飛び立つ準備は完了するでしょう。 キャッシュフローをとにかく増やさなければならないことは解っている訳で、 その具体的施策、行動に動的道徳が必要と言うことだと思います。 この際、大いに憂い、悩み、苦労した方が良く、それでこそ感性が磨かれ、 その実体験である動的道徳を注意深く短期間のうちに熟成させ、それを発揮させるということでしょうね。 国はその総体ですもんね。米国発の経済危機に対し、日本発の「落ち着き」へ 転換できるチャンスではないでしょうか。 この状況は誰が作ったのでもない、人間の動的道徳、動的悪徳?が作ったのですから、 せいぜい苦労してあるべき姿へ戻しましょう。全エネルギーを傾ける価値があります。 それが日本の動的道徳なはづです。 くれぐれも、どこぞの「change」という掛け声だけに直接・間接に踊らされたり、 日本固有の精神論だけで楽な道を選ばないようにということですね。

noname#80116
質問者

お礼

 bananasandさん いやに冴えていますね。(失礼!)。ご回答をありがとうございます。  その言や良し。  ★ 日本は・・・精神性だって一部が腐っても鯛ですからね。  ☆ よくぞ言ったり。よくぞ言ったもんですね。質問者冥利に尽きます。同僚や友だちだったら 何か 悪いものでも食ったんか? と茶々を入れるところです。  とにかく   ★ 動的道徳  ☆ が 鍵語ですな。  公務員をあてにせず しかも その役人たちをも活性化させるほどの・常識の盲をついた動く道徳 いろんな角度から捉えた人間関係としてのコミュニケーション過程 というような描像を 思い浮かべます。  おそらく ただちに このイメージを壊して 社会の今まで見えていなかったところに光を当てつつ 道徳のゲリラ活動が 始まるかも知れません。  たのもしい。(たぶん わたしより若いと思うから えらそうに言っています)。ほんじゃ もう少し さらに質問をかかげて みなさんに おそわってまいりますか。  なかなか よろしいですね。

回答No.11

>道徳の《規範化》という事態を引き起こした人びと自身が~~傲慢にも 挑戦的だったのであり >いまも 挑戦的でありつづけている。 な~るほど。真の挑戦者は、brageloneさんではなかった、つまり、brageloneさんは、 反射鏡ですね。 >あの派遣村に集まる人びとは 果たして はたらく意志があるのか その真偽と規範形成的発言の真意はともかく、動的道徳流に言えば、その解を得ようとるなら、彼らと直接接触をもって、経験体感をしなければならないことになります。 ボランティアに参加している人はそれぞれが体感として解っているでしょう。 これが「動的道徳」的で、そのボランティアの意見を他人が言語として聞くことも「規範」的ということですね。 そのボランティアは言うでしょう。次官、本当に 知り たければ、あなたも参加しなさいと。 >あたかも昔の人びとが ありがたいお経を 後生大事に頂いて途端に~~思考停止してしまう。 確かにその通りでしょうね。でも、明治以前の昔の人びとの感性、言語能力等々から、想像するに、 結果的に思考停止に陥らせていた、そして、挑戦的だったのであって、 最初から、その目的を意識的に持ってはいなかったでしょう。 だからこそ、 >一人ひとりの思考を基軸とした試行錯誤として 始まっているとも言っていいでしょう なのだと思います。そして、これに必要不可欠な気づきは、そこそこ高度だと思います。 逆相の動的悪徳が解り易い。 暴力団、詐欺グループ等の「規範」的悪の類を除けば、悪の「規範」があるから、悪さをすのでなく、 本来の規範があるから、対抗として悪さをしているわけでもない。 まさに、規範があるにもかかわらず、動的悪徳があるから、生の悪さをするわけです。 もとに戻してこれの逆が動的道徳なら、規範は六法に留めておけば良く、豊かな実体験、つまり、 自分と他人との関係、自分と社会との関係、自分と自然との関係の成功と失敗から 個人のおいてそれが醸成され、これらの集合体が社会(全体)において非常にダイナミックな動性を 内に秘めることで、そして、まさにその動性を土台とし緩やかに変化しつつも「落ち着き」といったものを 獲得するんでしょうね。 人間の集団は、この動性道徳のエネルギーが蓄えられていればいるほど、その集団が安定するということ になります。そして、何がなくとも常に充電しておかないと砂上の楼閣に化すということでしょうか。

noname#80116
質問者

補足

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。  もうひとつのわたしの質問が削除になってしまって がっかりしています。要らぬことですが 回答以前の中身による投稿に対して 対処の仕方が――むろん 自信をもって おこなっていますが―― ここの管理者の考えに反しないようにするには むつかしいようです。この質問においても 出ていますし。民主主義は 投稿の自由を守るとすれば それに対する応答も 質問者の自由にするのが 妥当な方針であると考えます。  まぁ 規則は ここでの規範の問題という段階ではないとは思います。  そのつてでは  ★ 〔派遣村ではたらく〕ボランティアの意見を他人が言語として聞くことも「規範」的ということですね。  ☆ というのも 未確認情報であるとか 参考資料・参考意見という程度に捉えるのは どうでしょう? 確認ということ自体が これまた どこまで 証明できていれば いいかで 変わってくるでしょうし。  〔わたしの場合は 年末からの夜中の《朝まで生テレビ》に出ていた・解雇された派遣社員の自己申告(三人ほど)が 情報源ですが これとて 本人が言ったことだからと言って 鵜呑みにしていいかと言えば まだ いけないということになります〕。    昔の人びとが 規範に出会って 思考停止になったり 上の人びとの中には その規範化を 挑戦的に 行なったりしたと言っても たしかに その基礎には やはり庶民の人びとの地道な日常生活における人間関係構築の積み重ねがあると 見ておくべきでしょうね。  ★ 動的悪徳  ☆ 規範は だいたい ひとつでしょうね。その情況その時代に 基本的なものは 悪徳や徳のどちらの側にとっても 同じものではないでしょうか。そして 規範は 善悪観とは 切り離して捉えたほうが 分かりやすいようにも思います。  殺すなかれというような善と呼ぶべき普遍的な規範にしろ 姦淫するなかれというようなその行為じたいを抽象的に取り上げて善悪を判断してもあまり意味のないと思われるような規範にしろ(――つまり ひとつには 合意の問題であるように思われるからですが――) いづれにしても 善悪観とは別にも 規範は ここでも あまり意味がないと捉えられます。《殺すなかれ》という言葉のスイッチを押したら そのとおりに言葉を守って行動するというのは 実際の人間として 考えられません。規範は 現実からすらも 浮いたものだと思われます。  浮いたものでない場合というのは あとでも触れますが 上下関係において 規範が 持ち出されたときではないでしょうか。  なぜ悪をおこなうかの問題は 保留しておきます。  あと 最後の二つの段落は 合点しました。うまく表現しますね。  あと 強いてつけ加えるとすれば やはり  ○ 規範は 社会にあって おもに 縦の上下関係において 問題になる。そしてまた そもそも この上下関係そのものから 規範は 出て来ているのではないか。  ☆ ということのように思えます。横の関係においては 仮りに規範を持ち出しても あれっ どうしたの? いつから 原理主義になったんだい? と訊かれるくらいが 関の山でしょう。  ★ 人間の集団は、この動性道徳のエネルギーが蓄えられていればいるほど、その集団が安定するということ / になります。そして、何がなくとも常に充電しておかないと砂上の楼閣に化すということでしょうか。  ☆ いまの日本は 充電が切れて来ていますか?

回答No.10

brageloneさんもかなり挑戦的なご質問をなさいますね。 >なぜ なくならないのでしょう? これは、簡単です。法律、掟の存在です。 憲法であり、民法の信義則、公序良俗等々があるからです。 でも、そんなご質問じゃありませんよね。 全然次元を異にしていて、 これら規範そのものの静的態様と、具体的事象への動的なあるべき行動との間の 乖離をおっしゃっておられるのですね。 であるなら、その通りだと思います。 道徳自身も変化します。まさに、動的です。 しかし、文章というか言語の静的な思想表現からして、そこはそれの限界です。 とはいえ、この動的性質を予定しない規範は愚の骨頂。 変化を許容しない規範は悪臭を放つということでもあるでしょう。 ご質問の趣旨と思われる時間軸を持たせた生の道徳は、これを手渡してゆくのが本来の道徳伝授である としか言いようがないように思います。 これは、規範にはなり得ず言語表現の限界を超えて、生の体験をベースにしたものにしか成りようが ありません。研ぎ澄まされた感性と思考力、知力、行動力を養い、そこから生み出される行動の根底には 規範があるのではなくて生の動的道徳があるということでしょうか。 何にしても、六法にしろ宗教書にしろ図書館では成立しないものですね。 愚の骨頂には賛同しますが、ではどうするかがまた規範になってしまうので、 どうしたものか頭を抱えてしまいますよ。

noname#80116
質問者

お礼

 んっ? と一たん いぶかったら おおうーーっと納得する流れですね。bananasandさん ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  時間軸を持たせた生の道徳は、・・・規範にはなり得ず 言語表現の限界を超えて、生の体験をベースにしたものにしか成りようが / ありません。   研ぎ澄まされた感性と思考力、知力、行動力を養い、そこから生み出される行動の根底には / 規範があるのではなくて生の動的道徳があるということでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《過程/ 動態》などとだけ言っていないで こういうふうに 説明するとよかったのかなぁ・・・。あぁ 遅かりしゆらの助。  このあと たしかに  ★ 愚の骨頂には賛同しますが、ではどうするかがまた規範になってしまうので、 / どうしたものか頭を抱えてしまいますよ。  ☆ という課題が 待っています。まぁ 《規範になってしまう》と決まったわけではないでしょうし すでに ただ 一人ひとりの思考を基軸とした試行錯誤として 始まっているとも言っていいでしょうし あるいは そう言わなければ何にもならないでしょうし なのですが。  一点 あります。あたかも昔の人びとが ありがたいお経を 後生大事に頂いて わけの分からない漢文を呪文としてのごとく唱えるかのように そのように 《和を以ってうんぬん》という響きを耳にするなら 途端に 思考停止してしまう。こういう事態を避けることだけは 心してまいりたいと考えるのです。  ★ brageloneさんもかなり挑戦的なご質問をなさいますね。  ☆ これは 道徳の《規範化》という事態を引き起こした人びと自身が その行為において すでに 社会一般においてふつうに生活している善良な市民たちに対して 《大胆に あるいは 傲慢にも 挑戦的だったのであり いまも 挑戦的でありつづけている》のだという社会認識になります。  いわく 《あの派遣村に集まる人びとは 果たして はたらく意志があるのか》!?!?!?!? (撤回したようですが)。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.9

参考程度に 道徳規範を持ち込めばその規範に縛られ、なくすれば猿のような人間が増え、人間社会のありようはまことに頭痛の種ですね。 ジハードといえばジハードに縛られ、憲法を作れば憲法が神器になり一歩も出られなくなる。これらを総称して原理主義と呼びます。 すべての人間を分類すれば多様に分類できます。決して同じではありません。乳幼児、幼稚園、小学生、中学生、高校生、大学生、院生、博士課程、助手、講師、準教授、教授、学部長、学長、学長さえピンからキリまで分類可能です。これは学生のことを言ってるわけではありません現実の個々の人間の総合レベルの分類を比喩として述べているのです。 つまりこのように多様な人間が二次元的な同一平面に隣人として社会人として生きているのが社会ですね。 あるレベルの人間には道徳規範が必要であるし、あるレベルの人間にはそのようなものは必要がないのは明白ですね。社会を形成するには最低限の共通の価値観は必要ですが、それもケースバイケースですね。 例えば、田舎道の交差点に信号機があり、誰も通ってないときに赤信号を無視して渡るのは当然しても良いことですが、誰もいなくとも規範は規範として止まる人もいるわけですね。規範の意味を知れば意味の無いこととわかるはずですが規範に縛られる、あるいは規範が有る故に不要な罪悪感を持つ人もいるわけですね。こんなところから道徳規範は愚の骨頂だともいえなくはないんですが、人間は皆同じレベルではないことを認めれば、道徳規範の必要性もあるといえますね。 そういう点で、学校として、幼稚園、小学生、中学生ぐらいには最低の共通価値観は教えてもいいと思いますね。 一方、宗教が規範を持ち込んでいるとの指摘については、その通りですね。特に間違った罪悪感をもたらすような規範は特に寛容であるべきものですがこれも人間のレベルの問題に起因しますね。つまり宗教であれ教育であれ多様な人間レベルが存在する以上、規範の否定も肯定も難しいかと思います。道徳規範教育もやってみて朝令暮改でしょうね。理由は、やはり分類もピッラミッド構造なんですよね。上へ行くほど少なくなりますから、逆に言えば下ほど多いのですね。規範に縛られる人のほうが多いという意味ですね。そういうもんだと思ってしまいますね。

noname#80116
質問者

補足

 mmkyさん ご回答をありがとうございます。  そうですね。思考過程としての・動態としての道徳=倫理は 必要と言いますか ふつうの生活にふつうに伴なうものだという理解が 一方に あります。ところが この道徳する試行錯誤の過程から 命題のかたちで その経験成果を取り出し これを 規範化する。じっさい こういった道徳規範を わたしたちは 持っています。  《和を以って 貴しと為す》 これが いわば典型であり 最大の事例だと思います。  そこで これは 哲学としての視点の取り方の問題になると思うのですが わたしの場合 こういう見解にたどりつくのです。  ○ 《和を以って 貴しと為す》と言われなければ わたしは 和を乱すことを知らなかった。  ☆ です。つまり 試行錯誤の過程だけで いいのだという見方です。次の物語を参照していただければ さいわいです。  ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ 現実の個々の人間の総合レベルの分類  ☆ としてですが   (あ) 原始心性: 何ごとにも 憑依する。それこそ《規範》を知らない。   (い) 歴史知性: 時空間ないし歴史の中にあり 歴史を生きる自己に到来した。死すべき動物であると知っているその線分としての人生を 知性によって生きる。   (う) 超歴史知性: 上の歴史知性の得た成果を 規範として 掲げ これを 守る生き方を唱えた。実際には 自分は (い)の歴史知性であるのだが (あ)の歴史知性以前の心性に対しては その道徳規範を覆いかぶせ それによって 寄らしめる。つまり 規範を 統治のための手段とする。  ちなみに スサノヲは 原始心性のひとが多い社会にあって 統治者アマテラスが 寄らしめるべき民は 原始心性のままでよいと言ったとき これに異を唱え ここに 知性のふたつの形態が衝突した。歴史知性に目覚めた自由のひと・スサノヲが あらゆる悪の手段にうったえることによって ともに 自由になろうと主張しつづけたとき ここに アマテラスによって 天つ罪が創成された。  この罪は 殺すなかれといった普遍的な規律ではなく ただし 普遍的な内容を含めてのものであるが 要するに 次のようです。水平的な市民どうしの横の連帯としての和をとうとぶのではなく それだけではなく アマテラス統治体制としての秩序を乱してはいけないという垂直的な和を 第一に掲げたことだと捉えます。むらの和から 国の大和(つまりまた やまと)に成り この大和が 人びとの頭に 上からかぶせられたのだという認識です。  昔のふつうの和を乱す場合は わざわざ新たに 《国つ罪》として規定され 先の《天つ罪》と 区別されるようになった。  要するに 人間に 階級という区分けが あたかも 生まれつきのものであるごとくに 出来た。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これ以外の道筋で 規範化が現われたといった歴史事例を おしえていただけるなら ありがたいと思っての質問になっています。  性急なかたちで 拙速をおそれずに 述べていると思います。