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オシエは 考えるもの。信じるものではない。
1. 宗教のオシエは 経験思考の対象であり 考えるもの。 2. それを神として 信じるということはあり得ない。信じるとは 無条件に受け容れることである。 3. よって オシエは 考えるもの。信じるものではない。 4. それでもこれを信じなさいと言うのは まだわれわれの知らないよほどの神秘がそこにあると言いたいのか さもなければ よほどのバカである。 5. ○ 真理と事実と真実 ~~~~~~ 普遍真理――信じる 世界事実――考える 主観真実――《信じる》 / 《考える + 感じる》 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 6. 宗教のオシエは 一般に文章表現として《事実》に属する。むろん もとはと言えば 《真理》を何とか――無理なのだが何とかして――人間の言葉で指し示そうとして引いた或る種の補助線である。 7. 《となり人を 自分と同じように――〈自 分 を 愛 す る の と 同 じ よ う に〉である――愛しなさい》や《なんぢの敵を愛しなさい》といったオシエがある。けれどもこれらは 神ではなく 信じるものでもない。鵜呑みにするものでは断じてない。 8. それらは 考えておのれの判断にもとづき意志行為として振る舞うという問題である。強いて言うなら そこでは《信じる》は 《考える・心づもりを決める》のうしろに隠れている。 9. さらに言えば このとき《信じる》は――《考える》に非ずその思考を超えているからには――じつは 万人にひとしい。 10. つまり 《普遍真理(いっぱんに 神のことである)》とわれとの関係は けっきょく誰にとっても・どの銀河系に行こうとも ひとしく同じである。 11. その《信仰という生きた動態》について人間の言葉で表わそうとしたオシエは――宗教の教は―― それぞれ工夫をこらしてさまざまである。 12. ぎゃくに言うと 考えて腑に落ちない内容がそのオシエにあればこれを問い質し マチガイがあれば自由に批判しあい正して行かなければならない。ただすことは 避けてはならない人間の義務である。 13. 阿呆なオシエは 廃れるに任せるその最初のひと押しを成すつとめが われわれ一人ひとりにある。 14. シュウキョウは 聖域を成すものではない。《信じる動態》は 良心・信教の自由として――その証明抜きの自同律としても――言わば聖域を成す。 ご見解を明らかにして添削をお願いします。
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「信じる」というより、「分かる」「納得する」「共感する」ということから、「本当のこと」だと「気づく」ということです。 教え自体は、本来、言葉では言い表せないもので、それをなんとか伝えるために、言葉に翻訳する、ということです。 頭で「分かる」というよりは、心で「感じて」体得していくのが、教え教わるということです。 誰しもが、自分が可愛いのですが、自分という小さな殻を破って、この世の真理に生きる、本当のことを知って、より良く生きる。
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- kohichiro
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お邪魔します。 前回も同じような段階でしっくりいかないままBAをいただいて文句は言えない身wなんですが、 もういちどそのあたりを確認させていただきます。 ブラジュロンヌさんは神を信じておられるようです。しかし その神がのたまった様々な言葉は信じておられない、それらは一旦留保し、考えるものだと仰る。 ここが私には整理できていません。 宗教にもいろいろあります。 巨大な岩、巨木、山 そういったものがご神体になる場合があります。 これらは理屈ではなく、信じるべきものでしょう。 キリスト教のご神体は、キリスト者、イエスさまその人だろうと私は思っています。 その”かってのひと、人格、今は神”を無条件に信じるのがキリスト教だと私は解釈しています。 そのキリストがのたまったといわれる聖書(オシエでしょうね)を信者は絶対のものとして信じているのではありませんか。文はひとなり、と申します。キリストの言った言葉はキリストそのものではないのでしょうか(他の宗教についても同じことかもしれませんが、また別の問題として)。 信じていなければそのひとは信者ではないと私は思います。 キリストは信じ、聖書の中身は信じない、ブラジュロンヌさんは信者を自任しておられるのなら、信者だろうと疑うことは失礼ですし、たぶん、信者なのでしょう。でも、いわゆる信者ではない、普通の信者ではないと私は思います。 「オシエをまるまま信じるのはバカ」これは理解できます。まるまま、言葉通り信じるということの中身が問題なのはわかります。しかし、いずれ言葉じたいは信じねば成らないのが信者の義務だと私は思います。もちろん、おしえの言葉をそのひとなりに一生懸命考える、その真面目な姿勢は当然であり、必要だろうと思いますが、私見では、それは当然真理なのだ、そうに違いない、という前向きの姿勢であるべきだろうとおもいます。 聖書のなかのモンゲンを選り好みして、あれはいい、これは間違い、そういう市井の人間は信者ではなく、単なる聖書読みか研究者にすぎないのではないか。 補足をよろしく。
お礼
こういちろうさん あらためましてこんにちは。ご回答おありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ しかし その神がのたまった様々な言葉は信じておられない、それらは一旦留保し、考えるものだと仰る。 ここが私には整理できていません。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですか。この一文にかんするかぎりおっしゃるとおりではあります。そのとおりにわたしの中では整理されています。 すなわち 《神が言った》言葉を――ヒラメキをとおしてでしょうか――人間が聞いて人間の言葉に表わした。聖書ですね。でも 言葉として概念と成ればすでに 考えるべき世界事実です。思惟の問題です。よね。 さもなければ 誰でもおれが今から言うことは 神の言った言葉だとつけ添えれば みんながそのまま信じることになるというおかしなことになります。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 宗教にもいろいろあります。 巨大な岩、巨木、山 そういったものがご神体になる場合があります。 これらは理屈ではなく、信じるべきものでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここは微妙です。つまり げんみつに言えば (6)に触れました《補助線》だと捉えます。 《ご神体》と呼ばれるものも ほんとうは《ご神体そのもの》のいわゆる依り代だと見るわけです。それが 《正解》をみちびくための《補助線》なのだというわけだと考えるのですが どうでしょう。 ですから オシエもそして磐座やカンナビ山などの依り代も 類型としてともに同じく補助線である。 したがって 補助線は考えるもの――もしくは 信じるへの導きの糸でしょうか――であり 信じるものそのものではありません。 ★ キリスト教のご神体は、キリスト者、イエスさまその人だろうと私は思っています。 ☆ でもその《言葉》でもなければ《概念や理念や理想やマジナイ》でもないわけです。《普遍真理》であり この《真理》という言葉も 信じるへとみちびくための補助線です。そういう区別が必要だと考えています。 《正解》を――ということは キリストならキリストという名をつうじて――無条件に受け容れるのが 信じるだとわたしは考えます。 ★ その”かってのひと、人格、今は神”を無条件に信じるのがキリスト教だと私は解釈しています。 ☆ では あいまいですね。なぜ曖昧かと言えば その《その”かってのひと、人格、今は神”》はすでに言葉であり概念であり ひとはそこで思考をおこなっているからです。無条件ではなく また何らかの人間の考えた根拠を見出そうとしています。 《信じる》のは 無条件に無根拠で受け容れます。これこれの根拠や理由によってではあり得ません。あり得るとしたら それは《考える信念や理念や信条》にはなります。これは 思想です。信仰ではありません。 もし文字通りに《その”かってのひと、人格、今は神”を無条件に信じる》とすれば 正解としての神本体が あたかも人間の思考や想像の次元に現われ出たゆえにそれを受け留めた。と言っています。 神(普遍真理)とそしてその神にかんする世界事実としての思惟や観念とが言わば地続きであると言ったことになります。果たして そうでしょうか? ★ そのキリストがのたまったといわれる聖書(オシエでしょうね)を信者は絶対のものとして信じているのではありませんか。文はひとなり、と申します。キリストの言った言葉はキリストそのものではないのでしょうか。 ☆ 次はイエスの言葉ではなく パウロのものですが: ▲ (パウロ:コリント後書 3:6) ~~~~~~~~ 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。 文字は殺しますが、霊は生かします。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《文字はひとを殺し 霊は生かす》。この《文字》は このくだりでは具体的にモーセの示した律法のことです。《なんぢ むさぼるなかれ。姦淫するなかれ》といった倫理規範であり だいたい禁止命令です。(《不妄語戒や不邪淫戒》も 禁止命令ですね)。 つまり 文字としてのイマシメは 神そのものではなく――あるいは神の言葉であると言っていても そのままそうなのではなく神の言葉にみちびかれて行きうる人間の言葉であって―― もしそのまま鵜呑みにすれば なるほど人間としてのおのれに罪があるという自覚を持たせそのことを促すとは言うものの そこまでである。と言っています。 《霊は生かす》というのは むろんその文字なる規範を補助線としてみちびかれて行くところの神本体 としての霊であるわけです。 イエスの言葉も 同じではないでしょうか? ▲ (ルカによる福音書 18:20-22) ~~~~~~~~~ 20: 〔イエスによる或る高等法院の議員に対する発言:〕[・・・]『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」 21: すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。 22: これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 [・・・] ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たとえばこのイエスの言葉をそのまま受け容れ信じ実行するなどは 無理です。 ▲ (パウロ:コリント後書 3:6) 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。 ☆ の段階に到っています。モーセの律法の時代(旧い契約の時代)にも じっさいにはその文字規範にしたがえばよいということではなかった。アブラハムのときから むろんのこと霊に仕えるというのが じっさいの信仰でした。 つまり次のように《真理》と《経験世界(世界事実+主観真実)》とのあいだには 明確な隔たりがある。こう言わねばならないのではないでしょうか? ☆☆(趣旨説明欄) 5. ○ 真理と事実と真実 ~~~~~~ 【霊:神本体】: 普遍真理――信じる ---------------- 【文字・人間の文化:神の依り代】: 世界事実――考える 主観真実――《信じる》 / 《考える + 感じる》 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ すなわち: ★ でも、いわゆる信者ではない、普通の信者ではないと私は思います。 ☆ と見る見方が いわゆる常識であることは百も千も承知で こういう問いを問いかけています。常識が間違っています。と断言します。 ★ 聖書のなかのモンゲンを選り好みして、あれはいい、これは間違い、そういう市井の人間は信者ではなく、単なる聖書読みか研究者にすぎないのではないか。 ☆ えり好みするのではなく そうではなく 文字(発言をふくみますが)のすべては 神本体の《依り代》であり《補助線》であるという見方をします。全面的にです。 聖書からの――文字としての・それだとことわっての――証拠をもっと引いて来るべきでしょうか。
- ways
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No.6です。追加で。 まず、事実が先ですよね。言葉が後。 「りんご」がまずあって、初めて「りんごだ」と言える。「せつない」という感情がわいて、初めて「せつないな」と感じることができる。 教えは、行動、行いについて言っている面もあります。心の持ち様で行動が変わってくる、というか。「嘘をつかない」「よこしまな見方をしない」「盗みをはたらかない」などです。 生き方の姿勢を説いていたり。 「汝の敵を愛せよ」というのも、憎しみあって争うのではなく、大抵がお互いの考えや利害が絡んでいると思うので、目指すもののために戦う、目の前の相手が悪いかどうかというより、目的のためなので、それさえ果たせればいい、ということでしょう。
お礼
そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。 今回は だいたい経験的な世界事実(人間の思惟の歴史をもふくむわけです)について述べておられる。と思います。 たとえば ☆☆ (趣旨説明欄) 7. 《となり人を 自分と同じように――〈自 分 を 愛 す る の と 同 じ よ う に〉である――愛しなさい》や《なんぢの敵を愛しなさい》といったオシエがある。けれどもこれらは 神ではなく 信じるものでもない。鵜呑みにするものでは断じてない。 ☆ このとき《自分と同じように》と言えば 自分を表象してその自分をどう扱っているのかについて《考える》ことをします。あるいは 《なんぢの敵》と言えば だれが敵なのか どういうかたちで敵なのかについてやはり考えます。 オシエをめぐっては総じてそういうふうにして《考える》がともなわれますし 基本的に《考える》の問題です。(《信じる》は 排除する必要はありませんが その思考のときには背後にしりぞいています)。 このような《考える》ことの内容やその過程について 今回は具体的にくわしく分析し明らかにしようとされています。 のではないでしょうか? 《むさぼるなかれ・ぬすむなかれ》というのは オシエです。(律法ともいうごとく 現代では法律としてもあります。むさぼるのも ぬすむと同じように所有権を侵すつまり奪う行為をもふくむと見られます)。 あとは 《愛する》とは何ぞや? とみづからにも問わなければならない問題をふくむでしょう。すなわちこれは じっくりいつもいろんな情況においてその相手に応じて自己の力量をも考慮して 何が愛することかを《考える》ことを余儀なくされます。 オシエを信じるというのは そもそも矛盾です。意味をなしません。これを 問うています。
関心が無いのでは無く 信じるのも 考えるのも 実践に結びつけば良いって事です・・・ 教えを解いて 実践しなければ 信じてても 考えてても 何もならない・・ 人間が 草木の様に立ってるだけで無いのは その為です・・・
お礼
天の邪鬼をなおつらぬきますが: ★ 教えを解いて 実践しなければ 信じてても 考えてても 何もならない・・ ☆ 《教えを解いて》というのならば そのとき《オシエの内容をしっかりと考え理解する(あるいは 批判的に捉える)》ことをおこなっているのではありませんか? 鵜呑みにはしませんね。 ご回答をありがとうございます。
- catpow
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>>つまりあなたにとっては エクスタシーが神なのですか? 論理的に考えて、 神秘体験=エクスタシー の等式は成立しません。 質問者さんは、他人の文章をきちんと読み取る能力、論理的な考え方ができない人のようですね。
お礼
エクスタシーは 脱自(エクス‐)の存立(スタシー)ですよ。 ご回答をありがとうございます。
- pigunosuke
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信者はただ信じれば良いし 宣教師となるなら、考え、理解を深めた方が良い あなたの教えは、私にはいらない 以上
お礼
では アホバカ状態をたのしんでください。 ご回答をありがとうございます。 考え直したときには またどうぞ。
- catpow
- ベストアンサー率24% (620/2527)
宗教の教え、信仰は、考えるものではありますが、それは入門レベルであり、質問者さんのようにゴダゴタ言っているうちは分かりません。 それは、自分で神秘体験をしないと超えられない一線があるのです。 ある意味、童貞の男性、処女の女性が「セックスってどんなものなんだろう???」と思い悩んで、いろいろとエロマンガやアニメで想像しているような段階です。 セックスを何度か経験した男女は、無意味な妄想はしませんが、質問者さんは、そういう段階にあるといえます。
お礼
セックスは 《普遍真理》ですか? つまりあなたにとっては エクスタシーが神なのですか? ご回答をありがとうございます。 ゴタゴタ言わないかたちだと言えば 批判をまぬかれるとでも? 自由な批判が 無意味な妄想だとでも?
どちらでも良いだけです・・
お礼
関心がない。ということでしょうか。 ご回答をありがとうございます。 関心が出て来ましたら またどうぞ。
お礼
ご回答をありがとうございます。 質問者の考えるところをぶつけるかたちで読み取り受け留めてまいります。 ★ 「信じる」というより、「分かる」「納得する」「共感する」ということから、「本当のこと」だと「気づく」ということです。 ☆ わたしの考えでは 両方の道筋がある。と思います。 すなわち 《本当のこと》だと《気づく》という結果には ふたとおりの筋があると見ます。: ・ 普遍真理とわれとの関係としての《信じる》 ・ 世界事実をわれなる主観が知覚し認識する《考える:分かる・納得する・他人の認識内容に共感する》 信じるばあいに《本当のことだと気づく》のは ひとつには――論証し得ざるところの――ヒラメキ(直感およびすでに理論的な直観)があり もうひとつには その《信じる》をつづけた結果としてよきヒラメキを得たという〔単なる〕主観的な〔ですがの〕証拠です。 ★ 教え自体は、本来、言葉では言い表せないもので、それをなんとか伝えるために、言葉に翻訳する、ということです。 ☆ よい問題点・よい論点を明らかにしてくれました。 (あ) 信じる動態から ヒラメキが得られる。その観想(テオーリア)から理論(テオリ―)を得て来る。 (い) ヒラメキは直感として まだほとんど何が何だか分からないイメージです。直観としてはすでに概念として明確な論理的にまとまった観想ないし理論です。 (う) 《ヒラメキ直感》は 《本来、言葉では言い表せないもの》もしくは《まだ何だか分からないが イメージとして或る程度意味を持つような中身があるもの》です。 (え) 《それをなんとか伝えるために、言葉に翻訳する》 これが イメージのような瞑想から中身を抜き出して来て得られる命題です。 (お) かのアブラハムは その長子をささげよと神から命じられたところ 迷いに迷い悩みに悩み考えに考え続けた結果 その命令に従おうと決めて実行に移そうとした瞬間 あらたなヒラメキが成った。 (か) これを何とかして言葉にして表わそうとする。どうも《ひとは 自己をにしろ他人をにしろ 〈わたしがわたしである〉なら ころしはしない》ということだと分かった。 (き) この観想のごとき命題から やがてモーセなる男はさらに《なんぢ ころすなかれ》という命題に表わしこれを《オシエ》とした。わけです。 (く) このオシエになったならそれはすでに 《考える》問題です。《信じる》動態はそれとしてありつづけていてもそれは 背後にしりぞいています。かくれています。 (け) すなわち: 普遍真理とわれ:信じる(人は人をころさないという 内容として生まれつき出来ている) 世界事実とわれ:考える(それでもヤツをころしたいと 思うことがあったとき それを考える ひとつのよすがとして《ころすなかれ / 不殺生戒》なるオシエがある)。 というふうにふたつの領域がある。こう捉えます。 (こ) すなわち 人びとは 《神(普遍真理)を信じる》のであり 《オシエ》は《考える》のである。《なんぢ ころすなかれ》なる命題は 信じるものではありません。 ★ 頭で「分かる」というよりは、心で「感じて」体得していくのが、教え教わるということです。 ☆ これは 総じて《世界事実》とわれとの関係ではないでしょうか? ★ 誰しもが、自分が可愛いのですが、自分という小さな殻を破って、この世の真理に生きる、本当のことを知って、より良く生きる。 ☆ 《この世の真理》 この概念は 片や《ひとは人をころさない》という内容をすでに含んでいる《信じる動態》と片や《なんぢ ころすなかれ》なるオシエとしての《考える》とが どこかでつながっているかも知れないという前提で 得たと捉えているのではないかと思われます。 問題は つながっているかも知れないと同時に つながっていないかも知れないとも見られることにあります。つまり 結論は分からないとなるはずです。げんみつに言えば 分かるか分からないかが 人間には分からないそういうナゾになります。 (ヒラメキをつうじて 真理と事実とはつながっているはずだ。と言うべきかも知れません。けれども どのようにつながっているか これは人間には分からないでしょう)。 ということは 《この世の真理に生きる》ということは 或る一人のひとの主観内面においては そう確信を持って言える部分がある。《信じる》においてである。と同時に それがほんとうに真理であるかどうかは ほかの人たちに証明することは出来ない。こういう問題だろうと考えます。 真理を人間が知ることが出来ない。これは 人間のつつしましやかさのためには よいことだと思います。