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組織としての宗教は違憲ではないか
- 宗教組織は結社の自由になじまないのではないか?信教の自由を侵しかねないかたちと内容をもって憲法違反ではないか?
- 宗教は個人の内面主観において自由に成り立つが、宗教組織は信仰から得られた生活態度を表現したものである。
- 宗教組織では信仰が教義化し組織化されることで、倫理規範となり組織の運営や人間の関係の基準となる。このような組織の権限関係は人間の自由を侵すものではないか?
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要するに、神、謎の何かについては、天啓によって語られる、と言ったところだろうか。そしてそれとは別に謎の何かに対して開かれた窓、主の言う非思考の庭があって、そこで信仰というものが成り立っていると。 このような概要でいいのだろうか。 俺は天啓については寛容だ。それが哲学かどうかはさておき、本人が天啓、啓示だというのだから、それはそれでそうだと認める。 啓示の内容が神の性質を語ったものならば、啓示によって得た知識としてそれは認めるというのが俺のスタンス。 ただ、神学でそれが通用しても、哲学で通用するかどうかは知らん。哲学には哲学の体系に準じた標準となる言語が形作られているだろうから。哲学の言葉で言うならば、非思考の庭というのは所謂、悟性の働くところではないかと思う。 主の独特の言葉も、哲学用語に翻訳できるかもしれんな。俺の知識じゃ無理だが。 ところで、天啓とは何かという問いについてはまだ未提出であり、また別件となると思うから、今は問わない。天啓が何故生じるのかとか、それは何の顕われであるとかは、結構な量のある問答になりそうだから、ここでは問わない。 現行のありとあらゆる宗教組織が、信教の自由を侵しているのではないかという最初の問いに答えようと思う。 答えは侵してはいない。 自らの内的な信仰が、外的な何かの力、例えばヒエラルキーのそれなどによって屈するのであるならば、そもそも内的な信仰などなかったのである。 私的な感想になるが、私の知り合いで、少なからずの人々が宗教者であるが、内的な信仰と、外的な集い、を両立している様に見受けられる。そういうことからも、主の言う信教の自由とはそもそも侵されるのが難しいのであり、個々人で大事にしておればいいものであり、おおっぴらにする必要のないメンタルな部分であり、共有するのも難しいものである。例えば他人が親族になりがたい様に、おのが信仰というものは他者と共有することが難しい。むろん、あくまでも信仰が内的なものと外的なものに分けて考えられるという前提を受け入れて話してはいるのであるが。要するに、結社したくらいで信仰は揺るがないし、破門されたところでどうともない。というのが、主の言う内面主観における信仰の場合である。ただ、繰り返しになるが、あくまで主の信仰の定義を前提にして考えた場合、違憲にはならないということである。他の普遍的な信仰の意味や定義を用いた場合には、いささか複雑な問題になると思う。
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- a_hona
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本来語り得ない何か、というものが、主の言う信仰の場で起こっているというのはわかるんだが。 確かにそれだけでは天啓とは言えないな。しかしそれも、天啓とは何かという定義の問題になるのであって、あながち間違いではない。 純粋性を保ちたいという気持ちがあるのだろうが、それをどこまで妥協して伝わる形にするのかというのは難しいな。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ 確かにそれだけでは天啓とは言えないな。しかしそれも、天啓とは何かという定義の問題になるのであって、あながち間違いではない。 純粋性を保ちたいという気持ちがあるのだろうが、それをどこまで妥協して伝わる形にするのかというのは難しいな。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いや。否定してはいない。純粋かどうかの物差しを当てたわけでもない。 科学者が ときどきヒラメキを得るという場合がある。それを いちいち天啓と言わなくてもよいかと思っただけです。考えてみれば 科学者にしてみれば それも天与の啓示だと受け取っているかも知れない。 ただし それを《信仰》の誕生のときだと捉える場合というのは だいたい人生に一回だという意味では ほかのヒラメキの場合と――並列的に――区別してもよいかも知れない。 といった感じですよ。
- a_hona
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>1. 神については それを《生みだしている》のではない。初めに《想定している》のだから。 ということだが、この始め、というのはどの段階のことを言うのだろうか。今まで聞いた話によると、我に返ったそのときに、謎の何かの存在を感じた。というその時に、経験として感覚したことに基づき、謎の何かについて色々の想定を行ったということだろうか。 別の言い方をすれば、ヒラメキのあった時に、ひらめいたという経験に基づき、ヒラメキをもたらしたとする謎の何かについての想定を色々に行った、ということだろうか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ この始め、というのはどの段階のことを言うのだろうか。 ☆ かんたんな話としては 《かみ》という言葉を持っているという言語習慣のことです。 ★ 我に返ったそのときに、謎の何かの存在を感じた。というその時に、経験として感覚したことに基づき、謎の何かについて色々の想定を行ったということだろうか。 ☆ ナゾの何ものかが或る日 わが心の窓をノックしていると感じた。これを――と言っても すべてナゾなることですが それを――受け容れた。これは 信仰の成立を言っています。わが心に受け容れたとき 《非思考の庭》が成ったというふうに表現して捉えます。 それとは別に 神を概念として捉え その概念にはどのような内容があるかを考える場合があります。 つまり 信仰の成立のことと 神について概念整理することとは 別のこととして捉えてください。後者は 言わば余技です。 信仰がすでに成立していて その対象である神について何らかの説明をおこなおうと思ったとき 大々的には 神学をかたちづくるわけです。神学としてあらわしたその内容が 信仰という動態にはあるだろうと見ているわけです。 一般に その概念整理は けっきょく《非思考》なることがらを《思考》で表わそうとするのですから 余技だと言いました。 ただし この動態として生きたかたちで持たれている《非思考の庭》からは ときにヒラメキが得られます。 すなわち ひとつには そのいま直面しているさまざまな具体的な問題の解決へ向けてのアイディアを示すようなヒラメキでもあるでしょうし もうひとつには いまの余技としての神学を構成する中身がひらめいたという場合もある。こういうことです。 すなわち 非思考の庭からヒラメキとして得られた神学内容であれば あんがいその信仰についての説明として ふさわしいことも得られるものと思われます。 つまり言いかえると たとえば旧約聖書の《詩編》だとかは そういったヒラメキをうたにして表わしたと考えられます。学的な内容ではないわけですが。 随意に例をしめすなら: ▲ (詩編 / 119編 22節) ~~~~~~~~~~~~ はづかしめとあなどりをおまえはこうむっているのだぞと わたしがあなたの明かしを問い求めるたびに 言って来る者がいます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これなどは むしろ事実として起こったことを示そうとしていますが。
- a_hona
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そのお礼内容だと、自分で神を生み出してることにならないか。自身の願望にかなった神を、好きなように。
お礼
あ_ほなさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 たとえば ☆☆(No.24お礼欄) すなわち――《正反対の結論》ですが―― 非経験の場としてのナゾは それにどうとでも《性質や特性・属性》を付与できるのです。真理・無限・絶対・永遠・・・。あるいは 至高の善ないし愛 慈悲。・・・ ☆ というようにその属性をいくつか取り上げていくなら ★ 自分で神を生み出してることにならないか。自身の願望にかなった神を、好きなように。 ☆ ということでしょうか? 1. 神については それを《生みだしている》のではない。初めに《想定している》のだから。 2. その想定に沿って そのあともし神を概念として捉えた場合をなお想定して そのときその特性を推理した。こういうことです。 3. 概念として捉えるにいちばん分かりやすいのは 無限です。三等分しても それぞれの部分も じつはやはり無限であり 全体とひとしいことになるという概念内容のことです。 4. ですから 《絶対》からはさらに派生して 擬人化として《絶対者》。そのチカラの中身として《全知全能》。さらにこの経験世界とのかかわり(世界への言わば介入)として《創造主》。などなどです。 5. これらはみな 経験世界を超えているという《非経験の場》を想定したあと 人間がわざわざその神の属性を考えてみて得た内容です。その推論に――その推論じたいに――大きなマチガイはないと考えられます。 6. 概念として扱いさらに属性を考えるというのは 人間が恣意的におこなうことですが その考えた内容には 恣意性はない。こう言ってよいでしょう。
- hokekyou333
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実際にひどい宗教組織は、深くさぐるほどにけっこうたくさんありますから、ご質問のお気持ちはわかります。 自我を越えているように見せかけることは人間が虚構の能力を持っている限り可能ですので、そのへん疑わしいリーダーのいる宗教組織ばかりとも言えますし、それどころか人の集団催眠的盲目性を利用してあきらかに悪い意味でのビジネス其のものだったり、明らかな権力欲だったりする場合も実際に見られるのですからね。 ですが、そちらの質問は、道徳という自己規律、自己理解の世界と、国家規律の世界とがいっしょくたに、複雑に絡んだ質問になっていて、回答するほうは大変なことになってしまいます。 今、私なりに少し整理してみたいと思うのですが、 この辺、ゴータマブッダ自身は、どのような考えだったのか?という仏教組織のあたりについては、 今となっては知るよしもない歴史記述の世界からしか考えることができないところ、 キリストの場合は、即弟子たちの記録から始まっていますし、 新約聖書なら、そのへんキリストの場合のその後の組織への移行のあたりの心境もつかめるかと思います。 まず、 「善は人前に輝かしなさい」という棚の上の灯の例えがありますよね。 積極的な善の姿勢の気迫のこもった教えの世界です。 その限りからも、一人よりもチームワークでの善の方がパワーがあると考えることはできますし、善の対象の苦しんでいる人たちの苦しみがいかに切々としたものかを考えればパワー全開は必須のところ、個人ブレ―のみで良しと出来るとキリストは考えていたのかどうか?、 ですが、そのチームワークのリーダーが、現実に宗教組織においてみられるように、役割行動の常識的理解を学んですらいないリーダーたちであったらどうするのか?という問題は残りましょう。 キリストの場合は、さらに、でありつつ「善を行う時には、右の手でしていることを左の手にさへ知らせないように」と徹底した無心さ、無心な善であるべきことを語られています。 偉いとか偉く思われたいとかいうこころの全くない状態、つまり、それこそ自我を突き抜けた心の状態ですよね。 もし、そんな心でパウロ以下、教会組織が、そのような理想的(チームワーク論としては当然の基本なのですが)リーダーのもとの組織でありえたのなら、そしてそれが続いてきたのであれば、 キリスト教においてはその伝道の組織自体は問題なかっただろうし、キリストご自身も当然、「そのような集団」なら肯定していたものと推理できるところだと思うのです。 やっと紙による記述も始まったばかりの時代とのイメージ(詳しい知識はないのですが)、さらに交通手段も現在からは想像を絶する貧しさにおかれた時代、ほかにどうやって力強い伝道が可能であったでしょうか? 仏教だって、理想を言えば、本来の縁起の思想と権力欲がどうして混ざってしまうのか?という話となり、同じく伝道のために必要なリーダーとチームワークは必須だったのだという論理自体は成り立つと思うのです。 ここに必要なのは、理解をこそさそう教育のレベルの深さ、あるいは高みの問題だと思えます。 キリスト教も仏教も、そのへんにおいて、失敗してきた歴史を繰り返してきてしまったということが、今の宗教組織の酷い姿を物語っていたりするのでしょう。 さて その次に 》7. つまり 信仰ではないものが信仰と見なされしかもその教義が組織〔としての人間関係〕の中心となる。教義が中心となるということは 組織の権限関係において最高の地位に立つものが解釈したその教義内容が中心となることを意味する。《 とされているところなのですが、 《解釈した協議内容》というところも、複雑な質問内容になってしまいえる言い方だと思います。 個人内面の理解の世界も、教えを理解するのにも,その人の解釈という世界は、その浅深にかかわらす必須です。 解釈という思索を抜きにした理解の世界は、その浅深はあれども、ありえないわけです。 ですので、ここも、教育の深さとパワーこそが、その教えが正しいのであれば、そのすべてを包み込んで解決へみちびくところとなるものと考えます。 》7《以下にて、 そちらは、その解釈した教義内容を、伝道する姿勢を、一方的に、支配欲からの道徳ごっこと決めつけてしまっていますが、 ここの部分です。 ↓ 》10. 自分も他人もそして世の中が 自分の思うようにならないという《苦――生老病死だそうだ――》から逃れようとして いやそれなら自分以外の人間をみなおれの思うようにあやつればよいという支配欲にみづからが支配され この道徳ごっこ――つまり内面における信仰の外面化としての倫理規範のもてあそび――を考案し 結社の自由に乗じて組織化したものである。のではないか?《 そうしておいて、最後に》のではないか?《と付け加えられていても、どのように回答したらいいのか困ってしまいます。 そこから、なだれのように、17の結論へともっていかれても、17は、それこそ権力欲に支配されたリーダーたちが認めるはずがないわけですから、その改心へとむすびつく教育力をその決めつけ方式で作り出せる表現ではないと思うし、 》17. 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきではないか?《 なんのためにこんなところで「自己解体すべきでなないか?」という風に言っているのか、その熱意も問われかねないところとなってしまいそうです。 この結論は、私も同感なのです。 ですけど、それは今や個人が情報を伝達する手段を持ったネット情報化時代だからです。 この時代ならば、チームを組まなくても、教え自体の伝道は、それこそその人の解釈の深み、理解の深み、表現力の深みに応じて、優れた教えの伝道は可能となっているはず、それをいまだに、組織に頼るのは、裏心みえみえ^^というふうに疑われてもしかたがないというふうには、これならすべての現宗教組織に言えてしまうところと思うからなのです。 しかしながら、これこそ、理解を通して、その非を解くべきところ、 ここを、国家の違憲の問題としてしまうと、実際には、中国の宗教弾圧などなどを考えるまでもなく、ここもまた問題となってしまうのではないでしょうか? あくまで、徹底した自我とう心の内面にいたるまでの教育の確立こそがここに求められてくるのであり、 宗教結社、ならびに個人の表現と結社の自由も、そこから判断基準も生まれてくるところ、 それは、時間の許す限りの教育や、解釈の深みどうしからの教え合いの問題であり、国家においては、その教育の深みの実現度に事はすべて帰着するものと考えます。 今私は、例えば、これを、忙しい設備関連の生業の合間に、しかもその他の用事を抱えて、夜はPM12時をまわってから床に就くという状態が続いた中で、やっと今日時間が取れ、書いているという状態で書いていますが、もし国家自体の教育力の質と力がせめて私程度でもあれば、例えば、ここでの質疑にも、徹底して理解と理解をぶつけ合うことが出来るわけですからね。 どんな複雑な思考実験にも、そって回答を続けることも可能でしょう。 しかし、個人では、やはり、今の時代にても、そのへん大きな限界があることも理解しておいてほしいところです。 私の場合、宗教組織に関しては、かの粛清の歴史以上の失敗を危惧するところがあり、今詳しく論じる余裕はないですが、宗教の浅い解釈が、神の権威の仮面をかぶった形でそのまま国家権力と結びついた時の危険の恐ろしさ、そんな時の秘密警察の恐ろしさの因が、まだこの現実世界に現在も残っている点を、危惧し指摘したくなるところなのです。 この危険を避ける道の一つを、私の場合は、直接ネットでの学習と教育とその表現の質とパワーに求めています。 一気に宗教組織に「自己解体」を求めるというのは、実現度薄すぎ^^なのですが、本当に本気なのでしょうか? それとも、宗教組織の矛盾をなんとか語ろうとされているだけなのでしょうか? 今の教育論では「人の欠点の指摘も変革の力となることもなきにしもあらず、ちくたく同時はそこにも求めつつ、まずはどんな人に対してもその長所を見つける作業から始まる」というのが一般的になってますが、いずれにせよ、私はここに、その教育の中身を問うておきたいと思います。 以上です。 …
- a_hona
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これは信仰の真実とはなんであるかという問題になると思う。 信仰の内容は人それぞれ違う、個に帰着するものだというのでは、話にならない。やはり同じ動態を以て、彼らは信仰がある、とか言った文章が成立するのである。 今の所ではまだ、bragelonneの語ったことこそが信仰で、他の、例えば宗教などの信仰は信仰と呼べない、とまでは言えない。言葉は多くの人が使っていて初めて通じるのだから、超マイノリティであると言わざるを得ないbragelonne流の信仰の定義こそ信仰であると受け入れることはできない。しかし、マイノリティだからと言って排除されるべきではない。そういう見解もある、という、数多くの個人的見解の一つとして、bragelonneの言う信仰の定義も数えられるだろう。白紙に戻る、と言う言い方は、分かりやすく、それなら認めても良いと思った。ただ、神が絶対であるとか、包括者であるとかいう話は他の哲学者や神学者も常識的に語っていることであるが、私はそれについては懐疑的である。 特に、bragelonneの言うそれは無根拠に、ということであるため、特に信頼出来ない。 謎の何者かであるならあくまで謎のままであり、それが神であるとか、何かの定義や想定における性質を付与できないことこそが、正当な、謎であると言えるからである。
お礼
★ 謎の何者かであるならあくまで謎のままであり、それが神であるとか、何かの定義や想定における性質を付与できないことこそが、正当な、謎であると言えるからである。 ☆ ここで 正反対の結論が出ます。 まづは ご回答をありがとうございます。 すなわち 《ナゾ》はナゾでも 非経験の場としてのナゾですよ。ここが ミソです。 すなわち 《根拠があるか無いかは 分からない》のです。つまり 分かるか分からないかが分からない。そういうナゾです。 未知のこととして いづれは 分かるようになるというナゾではない。それなら 経験事象です。 非経験の場は 霊というごとく幽霊のごとくであり 雲をつかむような話であり 一般的に言えば 無根拠です。つまり げんみつに言えば 根拠が(または 根拠で)あるかどうかは 人間には分かるか分からないかが分からない。 すなわち ★ 何かの定義や想定における性質を付与できない ☆ と分かったなら――つまり付与できない理由が分かったなら そのナゾについて何らかのことが部分的にでも分かったのだから 付与できないと分かったとき その理由を知り得たのである ならば―― それは 経験世界に属するものごとだとなります。 《正当な ナゾ》というのは 経験的なことがらとしての《未知》のものごとだったという意味です。 すなわち――《正反対の結論》ですが―― 非経験の場としてのナゾは それにどうとでも《性質や特性・属性》を付与できるのです。真理・無限・絶対・永遠・・・。あるいは 至高の善ないし愛 慈悲。・・・ ★ 他の、例えば宗教などの信仰は信仰と呼べない、とまでは言えない。 ☆ この結論だけでは 話がつながらない。その信仰とは どういう定義なのか。これを明らかにすれば 是非が問える。これだけでは批判ができない。 ★ やはり同じ動態を以て、彼らは信仰がある、とか言った文章が成立するのである。 ☆ 《同じ動態》の内容をあきらかにして初めて 議論になります。 初めはマイノリティから。
- a_hona
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神という言葉があるのは、人智と、人智の範疇にないものとがまさしく経験されたからであると俺なら考える。 だから、bragelonneの世界観で言うヒラメキをもたらすものも、何か存在するもの、経験されたものとして、捉える。非経験とは言わない。 但し、全てを経験したとも言わず、人智の範疇の外にある部分も謎のまま存在しているということだ。 その謎の部分をピックアップしているのがbragelonneの信仰ということだろう。 それと、bragelonneの主観、自由、任意の選択によってそれを神と定義していて、また、神の定義をしている以上、bragelonneは自分の言葉で自分の世界像を形作っていると見られ、その事が議論の共有を難しくしているのではないかと考えられた。 話し合いの中で、bragelonneは終始、bragelonneの選択した定義に基づいて語りを進めるからだ。 そのこと自体は否定しないが、主観だけでは議論をするのは難しいだろう。そうは思はないだろうか。 また、信仰は個人の内面主観においてのみ成立可能としているが、これもbragelonne独特の定義であるが、常識には、例えば国家宗教なども存在しているし、集団による信仰というものが存在している。これを今、話あっているのだろうが、集団による信仰は、個人の信仰と矛盾しないだろうか、ということを問うているのだと思う。 俺はここで問いたい。果たして信仰とは、個人の内面主観においてのみ成立する一義的なものであるのか、と。 俺は微妙だと思う。bragelonneの言うこともわかるがそれはあくまで個の内省の世界の話だ。とある集団を一つの塊として見た場合には、別の信仰の定義が存在し得ると思う。同じ神を崇め、同じ共同体に属していることがその場合の信仰の意味ということもあり得る。違うだろうか。
お礼
つづいてです。 ★ 人智の範疇にないものとがまさしく経験されたからである ☆ これを言いかえるなら 《非経験の場(そのチカラ・ハタラキ)》であろうと思われるものが 経験世界に現われたと錯覚するほどであった。つまりたとえば 空の放電現象を 神‐鳴り(=雷)と呼んだ。といったたぐい。 ゆえに ★ bragelonneの世界観で言うヒラメキをもたらすものも、何か存在するもの、経験されたものとして、捉える。 ☆ の《経験されたもの》というのは 《あたかも》ということである。《非経験の場》がじっさいに経験されたというのは 言い過ぎになる。だから ★ 非経験とは言わない。 ☆ とも言えるが 《あたかも》という前提で――すなわち《狼》のことをあたかも《大‐神》だと言うごとく――《非経験の場》として捉える。つまり 《神》という言葉で捉えている。 ★ 但し、全てを経験したとも言わず、人智の範疇の外にある部分も謎のまま存在しているということだ。 / その謎の部分をピックアップしているのがbragelonneの信仰ということだろう。 ☆ じつは 《絶対》としての《非経験の場》についてややこしいところは ここである。 《非経験の場》については なるほど《人智の範疇を超えている》であろうが じつは《その範疇》の内か外かという捉え方には なじまない。 《超えている》なら 人智の範疇をすべておおいつつんでいるということもありうる。 あるいは 《ニュートリノのごとく 突き抜けて行っている》かも知れない。 その範疇の境界などというのは 分からないのである。 このナゾは ナゾのままなのである。《ピックアップ》も何もなく ただただ《非経験の場》をそれとして受け留めるよりほかにない。《遍在》していると言っても まちがいではない。 ★ bragelonneの主観、自由、任意の選択によってそれを神と定義していて、また、神の定義をしている以上、bragelonneは自分の言葉で自分の世界像を形作っていると見られ ☆ 誰もが そうしています。 ★ 主観だけでは議論をするのは難しいだろう。そうは思はないだろうか。 ☆ なにごとも 初めはむつかしい。この仕事をしているのは 世界でもめづらしいと思う。 ★ また、信仰は個人の内面主観においてのみ成立可能としているが、これも bragelonne 独特の定義であるが、常識には、例えば国家宗教なども存在しているし、集団による信仰というものが存在している。これを今、話あっているのだろうが、集団による信仰は、個人の信仰と矛盾しないだろうか、ということを問うているのだと思う。 ☆ そうである。 げんみつに言えば: 1. 信仰は ひとりの人間の主観内面においてのみ生じる。なぜなら 《非経験の場》は 主観をおとづれるのみだから。 2. 一度に複数の人びとをおとづれたとした場合――ペンテコストのときのように―― それでも現実であるのは 一人ひとりの経験のみである。その主観内の経験を言葉にして表現したその内容が 聞いてみるとみな同じようであったということがありうるのみである。 3. つまり 信仰という主観は 内面から外へは出かけない。出かけるのは それの言葉による説明内容のほうである。 4. ゆえに 《集団による信仰》は ありえない。 5. 言いかえると 信仰の言葉化としての一般にオシエ これが 共有されることがありうるというのみ。つまり これは 信仰とは呼ばず《宗教》と呼ぶ。ふたつは 似ても似つかない。宗教は オシエについて 考えるものである。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 俺はここで問いたい。果たして信仰とは、個人の内面主観においてのみ成立する一義的なものであるのか、と。 俺は微妙だと思う。bragelonne の言うこともわかるがそれはあくまで個の内省の世界の話だ。とある集団を一つの塊として見た場合には、別の信仰の定義が存在し得ると思う。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 上記(3)により あり得ない。 ★ 同じ神を崇め、同じ共同体に属していることがその場合の信仰の意味ということもあり得る。違うだろうか。 ☆ 違う。 6. 同じく(3)であるが 《神》との関係は 《わたし》よりほかにあり得ない。あり得るというなら ひとはその人間の内面にまで入って行かねばならない。 7. 共有していると思っているのは 《神》という言葉である。そして 信仰についての言葉による説明内容のほうである。それらは 互いに聞き合って 或る程度共通のところがあるようだというふうに捉えあうのが せいぜいだと考えられる。 8. ゆえにこそ 組織宗教は 《信仰》という看板を下ろさねばいけない。集団としては せいぜい聖典をいっしょにまなぶということくらいである。《信仰》という言葉は出してはいけない。(7)のような場合を除いて。
- koiprin
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☆もし憲法ないし法律一般に条文として規定することにはなじまないとするならば 哲学として思想として基本的な考え方を明らかにして これを社会にとっての常識とするのがのぞまれます。そういうところにまで しりぞくのがよいのかも知れません。 訴訟としての違憲でなくても 憲法の精神には違反しているといううたがいです。 なるほど。 合点がいきました。私は実際主義的に述べていましたが。根本原理をということであればかみ合わないと思います。 個人と組織は、宗教に限らず利益相反するものですので、個人の自由を突き詰めるとどんな組織も認めることができなくなります。 >社会にとっての常識とするのがのぞまれます という考えは、社会主義につながるので、個人の自由ともまた相容れない思想となります。 宗教に限らず、思想を押し付けることで社会は形成されています。 立憲君主制を嫌っている日本時問いますし、資本主義、民主主義を嫌う人もいますが、おしなべて日本人であれば、日本の国に強制されることになります。 憲法の根本の思想を問うのであれば、宗教に限定される問題ではないように感じます。 なにごともバランスですね。
お礼
★ 憲法の根本の思想を問うのであれば、宗教に限定される問題ではないように感じます。 ☆ そうであると同時に ここでは 宗教組織にかぎって 憲法の精神を問うています。 ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >社会にとっての常識とするのがのぞまれます という考えは、社会主義につながるので、個人の自由ともまた相容れない思想となります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 狭い見方ではないでしょうか。 たとえば ★ 宗教に限らず、思想を押し付けることで社会は形成されています。 ☆ ならば 《社会にとっての常識とする》ようにしても ふつうだと考えます。 このあたりでしょうか。引っかかりがあったところは。 ★ 立憲君主制を嫌っている日本人もいますし、資本主義、民主主義を嫌う人もいますが、おしなべて日本人であれば、日本の国に強制されることになります。 ☆ ですから あたらしい思想をもって《強制する》こともありではないでしょうか。 ありがとうございました。
- a_hona
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今回の説明ではまだ、神を持ち出す理由がわからない。 定義の問題というが、信じるとは何を?自身を、という答えを提出することは可能なのか、それともそこは神でなければならない理由があるのだろうか。それとも、あくまでもbragelonneにおいて、自身ならざるものと感覚された故に、神と定義しているのか。 また、自然本性に、二義を付与している(つまり、信じると、考える、感じるの二義)のは理解したが、その中で、信じるの方が、考える・感じるよりも根源的であると見るのだろうか、もしそうなら、それは何故であろうか。両者の違いはただの機能的な違いに還元されるのではないだろうか。
お礼
つづいてです。 ★ 信じるとは何を?自身を、という答えを提出することは可能なのか、 ☆ 自分の努力によってそうなったのなら 《自身を信じる》ということになるかも知れません。経験存在である人間を信じるというのは 言葉として矛盾していますが 強めの表現としてそのアヤだとすれば そういうこともあり得ます。 そうではなく 自分や人間のチカラやまた自然と社会とのチカラなどなど経験事象を超えていると思ったなら 信じるとは神を であると捉えるでしょう。 これは 主観による選択です。自由です。 ★ 信じるの方が、考える・感じるよりも根源的であると見るのだろうか、 ☆ 自分の・人間としてのチカラを超えていると捉えたからには それは 人間存在にとって根源的だと見ざるを得ないと思います。人格の全体にかかわることだと受け留めるでしょう。自然とです。 考えるや感じるは 一般に 部分的・一時的です。 ★ もしそうなら、それは何故であろうか。両者の違いはただの機能的な違いに還元されるのではないだろうか。 ☆ そういうふうに捉えて その実態が明らかになりその理論としての主観内容が共同化されうるならば それが常識になります。 たぶん簡単には こうではないか。つまり なぜわれわれは・そしてじんるいのどの民族も 《かみ》という言葉を持っているのか? です。確かに《信じる》という言葉は 日本語としては 外来語ですし 微妙なところがありますが 神は ことばとして普遍的です。つまり そういう言語習慣は どうしてそうなっているのか。――それは 経験事象(考える・感じる)と非経験の場(信じる)とが 区別されていることを意味しないだろうか。です。
- koiprin
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★ どうして〔日本国憲法によって人びとは〕縛られてないと言えるのだろうか? ☆ でしたら それでよいとしますから 憲法を持ち出すにせよ・それとは別に考えるにせよ 《組織宗教は 信仰を看板にかかげているかぎりは それが――その権威者ないし権力者の意向をつうじて――何ごとについても基準となる。とき 人びとのその人格の全体にかかわるようなウゴキを その基準に合わせてしなければならなくなる。これは 良心・信教の自由の侵害となるおそれがある》という問いについて こたえをどうぞ。 そういう質問です。 ですから、宗教というのは、その宗旨に従う=縛られることを承知して信じるわけだと述べたんですが? 縛られることが嫌だのであれば、その宗教にもともと入らないわけです。 どうやら宗教という定義から考えないといけませんね。 そもそも組織とは、規律を守ることができて存在します。 会社も内規を作り、違反したら処罰します。 信教の自由とは、「信じる対象を変えることは自由ですよ」ということですから、縛られる規則や規律を変えるということにすぎませんので、当然変わった先の基準に合わせることになります。 昔から郷に入っては郷に従えと言われるわけです。 どうやらbragelonneさんは、組織自体を否定しているようですが、憲法にしても国家という組織の規律を正すためのものです。 そのため、憲法を受容しながら宗教組織を受容しないのはどうか?と問うたわけです。 宗教も同様に組織ですから、所属する以上は組織としての基準、規律に従うというのが、マズローが解釈した3段階目の社会的欲求を満たすことになるわけです。 なので、狂信的であろうが、犯罪的であろうが、人格を否定して洋画宗教組織は大小かかわらず存在しているという現状があるわけです。 ということで、違憲ではないということです。
お礼
こいぷりんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ どうやらbragelonneさんは、組織自体を否定しているようですが、 ☆ 《信仰を看板にかかげる宗教の組織》を 別扱いしています。なぜなら 信仰は ひとの人格の全体にかかわる事柄だからです。 じっさいには宗教となっていますから 信仰がそのまま直接にかかわっていないというのが ほんとうなのですが しかもそれでいて 組織宗教は信仰の度合いに応じた権限関係を持ちます。つまりそのヒエラルキアは 《信仰にしたがって》組織内の――しかも ずうずうしくも組織外の――ものごとが評価され決められて行きます。 しかも信仰の度合いという基準は じっさいにはその内容が分からない――人びとにとって共通の判断基準をあてがうのがむつかしい――ものですから けっきょく権威者や権力者の意向に従うかたちになります。つまりは ひとにとっての人権というべき良心・信教の自由が 侵されかねない状態にすでに組織の設立の時点において置かれます。 これを問題にしています。 憲法は 結社の自由をとなえていますが 信教・良心の自由をもうたっています。この後者の基本的人権のほうが とうといと言って 問いを問うています。 ★ 信教の自由とは、「信じる対象を変えることは自由ですよ」ということですから、縛られる規則や規律を変えるということにすぎませんので、当然変わった先の基準に合わせることになります。 ☆ 《信教・良心の自由》を侵す行為は みとめられません。 宗教組織は そのこと自体において 個人の良心・信教の自由を侵すという可能性を秘めている。ゆえに 結社の自由に例外をもうけるのが 憲法の精神であろうという考え方です。 もしくは 宗教は 信仰から得られた生活態度や世界観を オシエとして持ちこれを守るべき教義としているからには 個人の信仰とははっきり違うという定義じょうの内容を明らかにしておくべきだと考えられます。 つまり 組織の内部では 《信仰やその度合いを思想や行動の基準とするのではなく すでに信仰からはその外郭(抜け殻)となっているオシエを基準とするに過ぎない》とはっきりさせるのがのぞまれます。 オシエを基準とするということは それでもまだ一般の組織の目的や事業内容とは違って 分かりづらいものです。けれども そこではオシエの解釈やさらにそれをもめぐる人間の判断こそが 基準になるのであって 個人の主観内面にかかわる信仰とは別であると 明らかにしているなら まだましかも知れないという議論です。 ★ なので、狂信的であろうが、犯罪的であろうが、人格を否定していようが宗教組織は大小かかわらず存在しているという現状があるわけです。 ☆ 一理あります。問題は 行動を強要されるかどうかにあるのでしょう。あるいはつまり その強要をこばむなら 社会的生命がおびやかされるというときが問題です。 もし憲法ないし法律一般に条文として規定することにはなじまないとするならば 哲学として思想として基本的な考え方を明らかにして これを社会にとっての常識とするのがのぞまれます。そういうところにまで しりぞくのがよいのかも知れません。 訴訟としての違憲でなくても 憲法の精神には違反しているといううたがいです。
- a_hona
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誰もに、信じる、ということが起こりえるし、起こっている、というのは理解できるが、我に返る、白紙に戻るということが、神を抱くことに何故なるのかが分からない。それを努力なしに成し得たとしても、それが自信に備わる自然本性のはたらきということはできるだろう。 bragelonneは、難しいこと、個性的な事を言っているようで、実は当たり前のことを言っているのではないだろうか。 また、bragelonneには、はからいというものがないだろうか、ないことをどうやって証明するのだろうか。
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つづいてです。 ★ 我に返る、白紙に戻るということが、神を抱くことに何故なるのかが分からない。 ☆ ですから そのときに《考えると感じる》の経験世界の出来事であるかどうかをまづ考えます。そしてもしそうではなさそうだとすれば それとは区別されるべき場があるかも知れない。 すなわち《我れに還る》そのことは経験事象であるが それがなぜ・どうして起きたかについては 《考えるや感じる》を超えているとすれば(これは 主観としてです) その部分は《非思考 つまり 信じる》の問題となる。 《信じる》という言葉で捉えなければならないと主観が判断したことは けっきょく《神》の問題だとなります。 これは ただの定義の問題です。信じるは 何を? と問うたとき それは《神を》だという簡単な説明としてです。 ★ それを努力なしに成し得たとしても、それが自信に備わる自然本性のはたらきということはできるだろう。 ☆ 自然本性の中に 《信じる》部門と《考える・感じる》部門とがあるという見方です。 ○ 自然本性における《信じる》と《考える・感じる》との区別 ~~~~ 非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ) _______________________ 思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市) 感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観) _______________________ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この区別――経験事象とそしてそれを超えた非経験の場との区別――のみが 《当たり前》でありつつなかなか人は気づかないでいることだと思われます。つまり ★ bragelonneは、難しいこと、個性的な事を言っているようで、実は当たり前のことを言っているのではないだろうか。 ☆ と言うときにです。 ★ また、bragelonneには、はからいというものがないだろうか、ないことをどうやって証明するのだろうか。 ☆ 証明できません。 経験じょうそのような状態に成るよりほかにないと考えます。 たとえば《ハカラヒなき状態》を目指すというとき ハカラヒを無くそうとするのはハカラヒです。したがってそのハカラヒをまた無くす―→ いやそれはハカラヒだ・それを無くそう―→・・・といったハカラヒは 延々とつづくことになります。 これは 白紙状態を俟つよりほかにありません。 わたしは いつのまにか このように説明することができるようになりました。自分のチカラを超えたところで起きたと捉えますから このように神の話や信じるの問題なのだということを 主観の真実のかぎりで 自己表現しています。
お礼
お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ 要するに、神、謎の何かについては、天啓によって語られる、と言ったところだろうか。そしてそれとは別に謎の何かに対して開かれた窓、主の言う非思考の庭があって、そこで信仰というものが成り立っていると。 ☆ 《天啓》と《ヒラメキ》とは 同じものです。 信仰とは――少なくとも本人の意識においては――関係なく得られるヒラメキはあります。 もし何故かは分からないが特別のヒラメキだと思ったものがあったときには そしてそれが初めての体験であったときには これを 神の訪れだと捉えてみるわけです。 この雲をつかむようなナゾを受け容れるなら わが心に《非思考の庭》が――すでに分かっている《思考の緑野》や《感性の原野》とは別に――成ったと捉えるわけです。つまり 信仰のことですが。 信仰にかんするヒラメキなら 霊(スピリトゥス)が注がれるといったこと(つまり インスピレーション)として 天啓とか啓示とかという言葉でも表わします。 つまり言いたいことは ★ 要するに、神、謎の何かについては、天啓によって語られる、と言ったところだろうか。 ☆ というふうに最初から《天啓》があったという捉え方は ふつう しないと思うことです。中国人なら――或る意味で 《神》に関係なく・もしくは神にかんしてあいまいなかたちで―― 《天啓》と言ってしまうかも知れませんが。 ナゾの何ものかを 神として捉えることは すでにしているでしょうね。 そうして わが心に《非思考の庭》が成ったと 自分で確認できて来たとき それを信仰として――つまりは 神とわれとの関係なる動態として――受け留める。 そこでのヒラメキについては 特に啓示としても捉える。 また 最初の訪れというのは わが心の窓をあたかも神がノックしたかのようなものだとタトエとして捉えてみる。 さらには この神を概念として把握しようとこころみる。 ・・・といったことが この順序で起きると見ます。 つまり言っときますが 初めに《天啓》という概念があって その概念(ないしそれを説く人間がいたときには オシエ)によって ヒラメキを得るわけではないということです。先に天啓という概念を持ってそれに合わせてヒラメキを規定するといったことは 信仰をオシエ化してしまっている宗教の規範に毒されています。 だから ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 俺は天啓については寛容だ。それが哲学かどうかはさておき、本人が天啓、啓示だというのだから、それはそれでそうだと認める。 啓示の内容が神の性質を語ったものならば、啓示によって得た知識としてそれは認めるというのが俺のスタンス。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こういったしばしばインテリ層に見られるようなコメントが出て来る。そうではなく 決してそうではなく 初めには ヒラメキがあります。何だか分からない出来事が先です。つまり 白紙状態の問題です。 白紙状態に わざわざもったいぶって《天啓》などと言うような術語があってはたまりません。それは クリスマスツリーの飾りです。カザリとは しばしば世の中のシガラミのことです。世を渡るには必要かも知れませんが 信仰にとっては 余計なもの・余分なものです。 なんで非思考の庭に咲くヒラメキの花を オシエによって枠づけ最後までそのタガを嵌めて見ようとするのでしょう。樅ノ木本体だけの自然本性を思ってください。白紙状態という説明は 分かるとか言っていたぢゃないですか。 組織立った宗教は 余分なものです。カザリですが しばしば足を引っ張るシガラミです。宗教は 信仰の自殺行為として始まり そのような蝉の抜け殻として成立してしまった鬼子です。 ★ 哲学の言葉で言うならば、非思考の庭というのは所謂、悟性の働くところではないかと思う。 ☆ だから 思考の緑野や感性の原野とは別だと言ってるぢゃないですか。なぜなら ナゾの何ものかは 経験世界を超えていると見たからです。経験事象は 有るか無いかです。測定できます。ところが ヒラメキにおいてわたしをおとづれたナゾの何ものかは 有るとも無いとも分からない。波か粒か分からない。ついぞ分からない。分かるか分からないか それが分からない。これが 《非経験の場》と呼んで想定する神のことです。これをわが心に受け容れるなら そこに《非思考の庭》が成るという寸法です。《考える》でも《感じる》でもない。ゆえに 《信じる》と呼んで区別し用いるのです。 《悟性》は 認識にかかわる《考える》です。理性も知性も意識もみな 思考の緑野という領域に属します。 《非思考の庭》として定義し その見方を哲学としてどうですかと提起しているのです。 ★ ところで、天啓とは何かという問いについてはまだ未提出であり、また別件となると思うから、今は問わない。 ☆ 宗教者にとっては カザリとして必要でありあるいは重要であるかも知れないが こちとらには一向に不必要である。また その原形については ヒラメキという説明にすでにふくまれている。《未提出》ではない。まして《別件》ではない。宗教家は どう言うか分からないが。どう言っても くだらんとあらかじめ一括しておけます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 現行のありとあらゆる宗教組織が、信教の自由を侵しているのではないかという最初の問いに答えようと思う。 答えは侵してはいない。 自らの内的な信仰が、外的な何かの力、例えばヒエラルキーのそれなどによって屈するのであるならば、そもそも内的な信仰などなかったのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは じつは 精確な哲学としてのこたえである。 人間の主観内面が 他人の言葉や強要やによって侵されるということなどはあり得ません。心理として心のウワベに波風が立つくらいのものです。 ですが それを知っていて 良心・信教の自由なる人権を侵害しているのではないかと問うています。 これは けっきょく言ってみれば ヒエラルキアの権限や秩序に反対し抵抗する者に対しては どこまでもそれを押さえつけ 抹殺はしないとしても けっきょく社会的生命を消してしまおうとする。ここまでのウゴキは 最初の・信仰の自殺行為としてのオシエ化および組織化としての宗教の成立の時点ですでに孕まれていた。こう見るわけです。 つまり 言わば搦め手から 良心・信教の自由を侵している。こういう論法です。 すなわち ★自らの内的な信仰が、外的な何かの力、例えばヒエラルキーのそれなどによって屈するのであるならば、そもそも内的な信仰などなかったのである。 ☆ と言うのが 筋であると同時に 実際問題は 微妙に違う。そのようにして《内的な信仰》が保たれる――つねに保たれ得る――にしても 生活が成り立たなくされてしまう。という外的な攻撃を受け 言わば内的な信仰も 社会の隅に追いやられ 人間関係の真っただ中にあって孤島となって生き永らえなければならなくなる。こういう情況であり事情であり 実際問題であると考えます。 つまりは ひと言で言って 内面に生きる信仰がわざわざ外に出かけて オシエ化しかつ組織化した宗教 これが その誕生そのものにおいて ひとの自由を侵す鬼子である。と結論づけます。 文献学やそれを基礎とした宗教学については あり得ますが(つまり オシエのみの問題としては あり得ますが) 宗教は そうだとしても 信仰にとってその蝉の抜け殻でしかない。こう結論づけます。 ★ むろん、あくまでも信仰が内的なものと外的なものに分けて考えられるという前提を受け入れて話してはいるのであるが。 ☆ この《外的なもの》は すでに信仰ではない。というのが 証明以前に明らかな命題です。 内面において得られたヒラメキから 何とかして思考や感性の場に言葉化して持ち出して来る。その言葉が オシエであり これを神聖にして侵すべからざる教義とした組織宗教は すでに信仰から別の世界に移ってしまっています。 ★ 要するに、結社したくらいで信仰は揺るがないし、破門されたところでどうともない。というのが、主の言う内面主観における信仰の場合である。 ☆ そのとおりです。したがって最大限譲歩したかたちとしては 組織宗教は その扱うことが《信仰》ではないと言っていなくてはならない。また 信仰を外から扱ってはならないとしっかりと自覚しなければならない。こう言ってやらねばならず それが守られれば 文句を言うのを控えねばならないかも分かりません。 ★ ただ、繰り返しになるが、あくまで主の信仰の定義を前提にして考えた場合、違憲にはならないということである。他の普遍的な信仰の意味や定義を用いた場合には、いささか複雑な問題になると思う。 ☆ 《違憲》という技術的な問題ではなく 憲法の精神として・あるいはまた その以前に 人間とその自由のあり方の問題として 哲学はしっかりと事態を見究め見解を明らかにしておかねばならない。ほかの定義を用いるというのなら わたしの定義とかみ合わせて論じることになると思われます。 というより これまで《信仰》についての定義は なされていないのではないか。《非思考》であるということ。これは アウグスティヌスと親鸞とにわたしがまなんで得た結論のひとつです。ほかに言っている見解は ないのではないか。 (4,000字)