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道徳規範は 愚の骨頂
ではないでしょうか? なぜ なくならないのでしょう? 道徳は 倫理としての試行錯誤の中にしかない。おのおのの思考の過程であり 生活共同の動態であるはづです。 ヰキぺディアの記事の中に 次のように 思考の動態であることを示す一節もありました。 ▲ 《ヰキ:道徳教育》~~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%BE%B3%E6%95%99%E8%82%B2 ただし、〔生徒たちに 道徳心を身につけさせるに際して〕 同じ行為においても、徳目どうしが衝突することは頻繁に起きる。 ・ 転倒した児童が自ら立ち上がる強さも大切であるし、それを他の児童が助けてあげるのも大切である。 ・ いたずらを起こした児童生徒を厳しく諌めるのも大切であるし、許すことも大切である。 ・ 身なりが整っていない児童生徒をいじめることはよくないが、身なりを整える習慣を身につけることも必要である。 そのような場合に教師がどのような評価を下したらよいのか、明確な評価基準がないために、評価は流動的である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ その場その時に応じて また 自分や相手や情況に応じて 考えつつ対処するのであって 規範とその応用は 愚の骨頂だと思うのですが いかがでしょう? おしえてください。 * おそらく 宗教という問題にかかわっているとも思います。わたしは 宗教は 個人の信仰が内面から外に出かけるというおのれの自殺行為から出た慣習だと考えているのですが そのような外化としての教義化と 一般における道徳規範とが つながっているかとも思います。このあたりのことについても よろしかったら どうぞ ご見解を示してください。
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ちょっと基本事項を整理します。 まず、法律及び道徳規範の外面性と道徳の内面性、 法律の国家による強制と道徳規範の強制がない部分を図にしてみました。 A部分は、内面的道徳だけ、Bは、強制力を伴わない道徳規範だけ、 Cが法律の実体法、Dは法律の中で道徳とは関連のない手続上の決まりなどの部分で、 Eは、実体法の中で何らかの理由で道徳から外れた不合理で妥当性の見出せない法律です。 法律Cはよく言われる最低限度の道徳とされ、行為が現実に行われたことを問題として, それを評価の対象とするのに対し,道徳は,人の心理の内側を問題として行為の動機を 重視します。法律C部分は、「人間がいるところ争いが起こる」がその存在理由です。 動性道徳は、道徳における「行為の動機」を形成する非常に帯域の広い内面を 各個人が熟成させることであって、この広がりによって結果として究極的にBC部分が 形骸化されることです。 国家による強制力の発動は、そういう意味では形式上最低限に抑えられている ことにはなっていて、国家対個人の関係では自由の保障がされてもいます。 そして、一階と二階では、憲法で一階が主体であることが謳われているわけですが、権力は 実質的に二階に存在します。法律Cを最低限度の道徳としながら、二階の詔勅等E部分を一階に強制すると 上記の形骸化がなされないどうしようもない部分ができることにはなりますね。でも、一階には これを排除する力が法律Cによって与えられています。 なにが言いたいかというと、法律、規範には、究極的に形骸化できるものC部分と なしえないものE部分があるということであり、なしえないものは排除しなければならないという ことですね。 そして、前回、規範の存在を意識することのない人間が存在していると記載しましたが、 単に気ままな暮らしをしていると言うことではなくて、やはり、気づきが重要で、 排除すべき規範への気づき、規範の限界への気づき、及び帯域の広い内面の熟成によって、 規範BCから自由になります。 あと忘れてはならないのは、この全体が時間経過に伴って変化するということに対して、 規範も、法律もその静的態様からCがEに変質することがあると言うことですね。 結論を急いでしまいますが、規範が無くならないのは、気づきがないことと、 動性道徳の不存在がその理由となります。つまり、それがあるなら、BCは自然と 形骸化するということで、二階からのEの強制は排除、Cの強制は即形骸化します。 規範という帯域の狭い情報に、帯域の広い動性が縛られてしまうのは、内在する道徳の不存在 ということでしょうか。二階にいる人の言葉には弱いということも、宗教の話もこの二つで 説明できるように思います。
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- masa2211
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>その場その時に応じて また 自分や相手や情況に応じて 考えつつ対処するのであって >規範とその応用は 愚の骨頂である そうやって「考えて対処する」ことを「応用」というので、 ・規範を応用して対処すべきところ、そうするのは愚の骨頂である。 ということになり、何を言いたいのか全く理解できません。 規範は個々人で異なる、とか、規範は支配者に都合の良いように作られたものだから従う必要がないと言う主張なら、同意はしないけど理解可能ですが..... >道徳規範は何故なくならないか 道徳規範が無い場合、「自分さえ良ければ他人はどんなに不幸になってもよい」 ということが正当化される、つまり強盗殺人okと言っているのに等しいため。 そういう主張は自由ですが、自分が殺されることに対しての歯止めが無くなってしまいます。 >ヰキぺディアの記事の中に 次のように 思考の動態であることを示す一節もありました。 >>ただし、〔生徒たちに 道徳心を身につけさせるに際して〕 同じ行為においても、徳目どうしが衝突することは頻繁に起きる。 私は、〔 〕内を補完するつもりはありません。 道徳心を持っていても頻繁に起こる実践問題であるため。 以下を参照。東京大学の倫理の講義内容(具体例てんこ盛)が示されているHPです。 http://www.tokai.t.u-tokyo.ac.jp/~madarame/rinri_note.html で、徳目どうしが衝突することが思考の動態であるいう見解も私はとりません。 徳目どうしが衝突するのは、二律背反であり思考の動態ではないため。 で、道徳(倫理)が思考の動態であるのも間違いないけれど、それは、道徳規範事態が時代と共に(or集団により) 価値観が変わるため道徳規範も変わることを指し、試行錯誤では、道徳規範は変化しない、という立場です。 ※具体的に、最近、どのような点が変わったか、というと、 父親的温情主義が現在では通用しなくなった、というような具体事例も上記HPに載っています。
補足
masa2211さん ご回答をありがとうございます。 そうですね。総じて言って 正直に申せば 批判のための根拠が 薄いと感じました。一つひとつ見てまいります。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >その場その時に応じて また 自分や相手や情況に応じて 考えつつ対処するのであって >規範とその応用は 愚の骨頂である そうやって「考えて対処する」ことを「応用」というので、 ・規範を応用して対処すべきところ、そうするのは愚の骨頂である。 ということになり、何を言いたいのか全く理解できません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いいですか。 ○ 《考えつつ対処する》=《応用》は 動態としての道徳をあつかっているのであって 《 規 範 の応用》ではありません。 ☆ お門違いになります。 ★ 規範は個々人で異なる、 ☆ とは言っていません。《規範》は愚の骨頂だと言っています。 ★ 規範は支配者に都合の良いように作られたもの ☆ だとは おおむねその趣旨を――この質疑応答の過程で―― 言っています。ところが ★ だから従う必要がない ☆ とは言っていません。規範じたいが 愚の骨頂だと言っているのみです。そういう見識のことです。 ★ と言う主張なら、同意はしないけど理解可能ですが..... ☆ これは ですから わたしには 関係ありません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >道徳規範は何故なくならないか 道徳規範が無い場合、「自分さえ良ければ他人はどんなに不幸になってもよい」 / ということが正当化される、つまり強盗殺人okと言っているのに等しいため。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ まさか!! あまりにも 決めつけた議論です。根拠として何が提出されているのか分かりません。《試行錯誤ででも 思考しつつ道徳=倫理として 社会生活をいとなむ》という事実は 《道徳規範が無い場合》に あり得ないと決めつけることが出来るのですか。 ★ 道徳心を持っていても ☆ 《道徳心を持つ》というのは 規範を抱くという場合と 思考過程としての道徳という場合と 両方があるでしょうね。 ★ 徳目どうしが衝突するのは、二律背反であり思考の動態ではないため。 ☆ 二律背反は 単に論理的な問題です。思考過程としての道徳は とうぜん 人格の全体の問題として 徳目の矛盾に対処するでしょう。そんなことは 問題でもありません。 ★ 時代と共に(or集団により) / 価値観が変わるため道徳規範も変わる ☆ 規範が変わるかどうかは ここでは 問題ではありません。変わろうが変わるまいが 規範化じたいが 愚の骨頂だと言っています。 ★ 父親的温情主義 ☆ は 道徳規範であるとは 考えません。たしかに 人間関係の問題であり その限りで 倫理の過程を形成することですが いわば世間の知恵に属します。倫理規範というよりは 倫理形式のうちいくつかある手法の一つといったところでしょう。人間関係のドライな手法も ありうるでしょう。 参照サイトは 規範の是非といった質問趣旨に合った議論が なかなか 出て来ません。途中で あきらめました。あしからず。
- wiz0621
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道徳を規範することは決して愚かしいことではありません。 そして子供にいわゆる「道徳教育」は必ず行うべきです。 道徳とはなんであるか、というと、質問者さんが例示された 記事の記載どおり、一言で言えば社会常識です。 常識とはなんであるか?というと、世間一般の人の考えと 言い換えることができるでしょう 。 事実、道徳を守る人間は社会的に評価されますが 一方、道徳を守らない人間は社会的に評価されません。 その実行上、様々な問題が生じることももちろん事実ですが、 一方で社会で生きるにあたって、道徳は守ったほうが良い基準である ことは、否定できないのではないでしょうか? 特に子供は、誤解を恐れずに言うならば、人間として完全ではありません。 彼らは知識を得ることにより、より人間として完全に近づくのです。 もちろん、この場合の人間とは社会生活を営む生物を指します。 「子供である」とは、こういう生き方をすれば社会的にも評価される、 逆を行えば社会的に非難される、こういった基本的な社会の状態すら 知らない状態です。 もちろん、道徳がこの世のすべての真理を体現した完成された 究極の思想である、などと言うつもりはさらさらありませんが それでもなお、これから社会に生きようという準備段階である 子供は必ず「他の人が何を考えているのか」 「これまでの人間が何を考えてきたのか」を知る必要があるのです。 何故か?もちろん、社会で生きるための準備という意味が強いのですが、 それ以上に「世界の基準」を知ることは、子供がモノを考えるという 技術を得る第一歩なのです。 道徳を教えたときに何が起こるか。道徳、つまり 「他の人が何を考えているのか」を教えれば、そのまま子ども自身が 「道徳は正しい。世界はすべて道徳の実行者たるべきである」 という結論を出す、というケースは考えにくいです。 そこまでの強制力を学校が持ちえるのでしょうか? 恐らくもっとも多い反応は 「なんで道徳があるの?」「どうして道徳を守らなきゃいけないの?」 というものでしょう。世界への疑問、これこそが 「思考を行う生物」の最初の一歩です。 (余談ですが、ここで教師が別の大人に答えをなんて教えればいい?と 逆に問うのは、残念なことではありますが子供が 教師をやっているのでしょう。答えは「そんなもん子供に考えさせろ」です。 もちろん両方の意味で。) その子供が真に道徳に、あるいは道徳が説くような思考や 論理に誠実であった場合には「道徳には虚偽が存在する。 その上で我々は何を行うべきか」と指摘する力を得て、 新時代の道徳を生み出すこともあるかもしれません。 あるいはそれすら超えて、旧来の道徳の実行者たることもあるでしょう。 もちろん、どちらの場合においても、途中で思考を停止する 可能性もありますがそれもまた、一つの人間の形ではないでしょうか。 道徳教育とは、道徳の体現者と道徳の否定者。双方に必要なものなのです。 存在そのものの否定から何かを生み出すのは非常に困難を伴います。 どちらの人間も、まず道徳という「世界の思考」という基盤の存在を 受け入れた上で、肯定と否定を行うのです。
補足
wiz0621さん ご回答をありがとうございます。 そうですね。二つの側面を捉えて 応答して行きます。ただし けっきょくは それら二つの視点も 融合して来ることになります。 (1) わたしが 《道徳》と《道徳規範》とを分けて捉えているところを wiz0621さんは 一緒にして論じておられる。 (2) それでも 見解が分かれるところ。 まづ(1)ですが わたしは 規範化していない道徳という場合には 倫理と同じように 生活の中でのいわば哲学過程であると見るわけです。たとえば ○ (質問趣旨) 道徳は 倫理としての試行錯誤の中にしかない。おのおのの思考の過程であり 生活共同の動態であるはづです。 ☆ ところが 規範化した道徳については ○ (質問趣旨) 〔動態としての道徳は〕その場その時に応じて また 自分や相手や情況に応じて 考えつつ対処するのであって 〔しかしながら〕 規範とその応用は 愚の骨頂だと思うのです。 ☆ というように区別しています。 その中身としては こうです。 ○ (No.2補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ もし規範にしたがうことによって 和が維持されたとすれば 規範の内容を理解したからではないでしょうか。理解によって その規範を超えて みづからの意志行為として 和としての考えやおこないを表現するからだと思われます。それ以外では すべて 《愚行》であるのとちがいますか? 思考停止 あるいは この《和を以って貴しと為す》の音のひびきを聞くとともに ただ条件反射しただけというのでは 愚行にならないですか? なぜ規範にしたがうか。その内容を みづからの意志の表現として 妥当だと考えるからでしょう。規範がなくても そのひとは 考えるでしょう。規範があるから――世間で その規範を やかましく言うから―― それに従うのでしょうか? もしそれなら 愚考かつ愚行であるのではないでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この区別をした上でも 《道徳》も《道徳規範》も 大事であり 《道徳教育》も 必要であると主張される(2)に移ります。字面では そう述べておられますが じつは どうも 結論は わたしの仮説と違わないと思われます。すでに前もって そのようにも お伝えします。 ちなみに その前に (1)にかんするわたしの側の趣旨は 次のご指摘に けっきょく同じように 明らかなかたちで現われていると確認しておくことが出来ます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ その子供が真に道徳に、あるいは道徳が説くような思考や 論理に誠実であった場合には「道徳には虚偽が存在する。 その上で我々は何を行うべきか」と指摘する力を得て、 新時代の道徳を生み出すこともあるかもしれません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ それでも 規範は 愚かなことではないというご見解についてですが ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 何故か?もちろん、社会で生きるための準備という意味が強いのですが、 それ以上に「世界の基準」を知ることは、子供がモノを考えるという 技術を得る第一歩なのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ けっきょく この場合は いわゆる世間の知恵を身につける あるいは 世間を生き抜くすべを知ることであるようです。現実的であるというわけです。 つまりは 哲学は この《移り変わり行く「世界の基準」》としての道徳規範について ★ 虚偽が存在する。その上で我々は何を行うべきか」と指摘 ☆ することになるわけです。ということは (2)は 必ずしも (1)と違ったことを言おうとしているものではないとも 受けとめることができます。 どうなんでしょう。wiz0621さんは たとえ机上の空論でもよいから 哲学として倫理を究めなさいというのか あるいは それではだめなのだ 世の中を生き抜くことこそが 哲学の生きる道である まづそちらが大事であるというのか どちらなのでしょう? でも これとても 二者択一ではないでしょう。哲学は 世間の知についても 自分の体系の中に 整合性をつけて やがて 取り込むことになるでしょう。 とおっしゃっているのではないですか。つまりは 規範は 無用の長物であり それがあることによって ひとが思考停止になるようなら 百害あって一利無しという結論にいたるのではありませんか? どうでしょう。
- maimaisus
- ベストアンサー率8% (6/75)
maimai.susです。 それは、質問ではなく、たんに世の中に対する不満でしょ。 そして、こうあるべきだと言う自分の主張でしょ。 brageloneさんは、どうやら根本的なところの間違いに気付いていない部分が多いと思いますよ。話の内容もそうですが。
お礼
maimaisusさん ご回答をありがとうございます。 ★ それは、質問ではなく、たんに世の中に対する不満でしょ。 ☆ この《それ》が 何を指しているのか 必ずしも 明確ではありませんが わたしの文章の全部を言っているとして お応えするならば それは 哲学が 何を考えおこなうかを はっきりさせないところから来るご反応であると受け止めます。 ★ 世の中に対する不満 ☆ であろうが 満足であろうが 哲学は 独自に 主題をとらえて 考えを進めます。それだけのことではないでしょうか。主題を提示したなら 問い求めは 始まります。 ★ そして、こうあるべきだと言う自分の主張でしょ。 ☆ 《自分の主張》を持たない質問があるとお考えですか? 《こうあるべきだ》と主張しない考えがあるでしょうか? 哲学としてです。 あとの書き込み部分については 説明を受けないことには 対応のしようがありません。
補足
お礼欄を補います。 ★ brageloneさんは、どうやら根本的なところの間違いに気付いていない部分が多いと思いますよ。話の内容もそうですが。 ☆ この部分もそうですが 全体として maimaisusさんのご投稿は わたしの言葉に翻訳するならば 次のように言っていると受け止めます。 ○ brageloneの見方考え方を わたし(=maimaisusさん)は 採らない。 ☆ あとは その根拠を明らかにされると よいでしょう。自分の願望や勝手な決めつけを書きこむのは 回答として どうかということになりますから。 ここまで 説明すれば 次のように言っても ふつうのことになるのです。 ○ maimaisusさんは、どうやら根本的なところの間違いに気づいていないと思いますよ。話の内容も まだ 説明になっておらず 回答以前のようです。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
あっはぁ、brageloneさんは戦前の空気を、隣組や在郷軍人、出征兵士の家という表札を知らないでしょうね。 隣組みんなの消防や警防の訓練など。6ヶ月の妊婦だって、病人だってことわるなんて非国民って、みんなに指差しされるのですよ。 隣組長が怖いから、梯子に乗って、バケツ・リレーして、水を屋根の上の人に渡していたのです。近所のおばさんが、思い出を語ってくれました。思っただけでぞっとしてきます。 治安はいいでしょうし、躾もいいでしょう。 いわゆる道徳もその意味では完璧でしょう。 しかし、それって人間性が活きる余地がないですよ。 一定の規格にはまらない、一定の水準にいかない、早産虚弱の私は、出来損ないです。まぁなんか恵まれていたのか、それとも拾う神さまのおかげか、いたわられ、大事にされ、後ろの役をしていましたが。 姉や兄、そして家に居た徒弟たち、兵隊前の職人たちが面倒も見てくれていましたが。 なにもかも足並み揃え、一斉の統一行動ですから、それが出来ない能力だとはじかれてしまいます。違う考えは認められません。 そういうことになるような、国や統治のための教育であったり、或いは規範化はしてはいけないでしょうね。 この国は昔からそういう意味では統治しやすいのではないですか? 焼け野原の瓦礫の間にコスモスが咲き乱れ、雲ひとつ無い青空はとても人間を解放してくれるものでした。胸いっぱいに空気が吸えるのです。 権力は表に出るものでは在りません。 生活や教育、文化や思想には介入したりしてはいけません。 政治・統治の権力も、社会や経済の権力も、新聞やジャーナルの評論権力も、踏みとどまるところを、自制するところを心得るべきです。 教科としての道徳なんて、なんとセンスもない、露骨な思考をして設置したものでしょう。 ロマン・ロランも「何だって、道徳を教えるだって?それは不道徳を教えるってことだ」と、もう昔に喝破しております。 道徳は規範にはなりません。 パタンジャリのヤマ、ニヤマは規範ではありません。 個人の生き方にゆだねられているものです。個人が経験から認識するものです。 ガンディーのアヒムサも無論そうです。思想が規範などを創るわけがありません。 (今度は調子に乗っていて、brageloneさんにまた叱られるかな?)
補足
krya1998さん ご回答をありがとうございます。 ★ ロマン・ロラン / パタンジャリのヤマ、ニヤマ / ガンディーのアヒムサ ☆ これらに しゃれたお応えをできればいいのですが 残念です。 ★ 隣組 ☆ に反応します。どういうわけか この制度の名を聞くと わたしは イスラーム社会を思い浮かべます。まちがっていたら ごめんなさいなのですが どうもそのような共同体としての互いの絆があるとも見られるようですし また なにがしか相互監視のような窮屈な感じを覚える要素もあります。 ちょうど 今朝の朝刊に ムスリム社会の話がありました。 ▲ 山内昌之:中東の混迷も見落とすな ~~~~~~~~~~~~ 《危機を超えて――世界新秩序と日本――》#3・・・日経 要旨として 1. 人口急増するイスラム 《自己主張》強める 2. 若い世代の多さが失業やテロの温床に 3. 解決には中東市民の《意識改革》が重要に ▼(1) イエメンの出生率6.2を筆頭に 多子若齢化が進んでいる。・・・世界人口のうち四分の一を占めるムスリム市民は 2030年代には三分の一に達する。・・・ 人口増は不完全雇用という歪みを生み出す。 (2) 四人の息子がいる家族でも二人は何とか手近なところで就職できるかも知れない。 / だが あぶれた二人に残された道は・・・国外移住 犯罪 国内クーデター 内戦または革命 集団殺害と追放 越境戦争という六つしかない。 (3) それでもテロの根絶には 長期的には教育と産児制限・・・が大事であろう。 例えば女性解放や文字改革による識字率向上に取り組みつつ イスラム圏全体の近代化を刺激したトルコの世俗主義経験は 転換モデルとして学ぶに値する。 ・・・《道義的な世界救済》として多数の移民を受け容れる選択肢もありうる。 ムスリム市民の意識改革を含めた長期の展望〔が重要〕。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ とにもかくにも 隣人を愛せという一種の規範を持っていても 人殺しを止めなかった西欧キリスト教世界に比べても ジハードを一種の規範の中に含むイスラーム世界は どう捉えればよいのでしょう。 この問題は もうわたしの生きている間には わたしに出来ることはないとあきらめていますが それにしても 考え方として どう捉えればよいのか 道徳規範の問題にからまっているとは思いました。 半ば余談になりましたが ★ 焼け野原の瓦礫の間にコスモスが咲き乱れ、雲ひとつ無い青空はとても人間を解放してくれるものでした。胸いっぱいに空気が吸えるのです。 ☆ なる情況を 願い つくっていきたいものです。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
《ヰキ:道徳教育》をちょいと読みました。 昔の修身や躾教育ですね。国や統治の立場や社会や大人の側からの、何らかの考えやご都合で、お託宣されるのはどんな効果があるのでしょうね。 私はこういうことには早熟でしたので、外在からのお仕着せや押し付けは、子供の頃から反発し、いわれたことの反対のことばかりしてきました。何かいわれたら、言い返してきました。 独善やおしてきではない民族教育や、生活の仕方、世界と人類のありようなどの参考的情報は必要でしょうが、私は宗教の教育も反発します。宗教は自分でそれに近づき、自分のものにしていくのだと存じておりますので。 《ヰキ:道徳教育》を担当する教師は、まじめなのでしょうかね。 悩みはないのでしょうかね?まぁその授業の仕方、取り上げ方ではありましょうが。 しかしこういう教科がないと教育できないとは、教育の貧困、社会の未成熟ですね。 仰せのとおり当に愚の骨頂もいいところですね。 宗教や倫理、道徳を哲学や学問で教えたり、論じたり、することも私は全くナンセンスだと存じます。 その外形的状況や歴史と社会のことであれば、存在価値も無くは無いと存じますが。 昔の修身って、強制力も加わっていたのでしょう?brageloneさんはこの辺のご経験は豊富ではないでしょうか? お国のための、ご都合、国の統治と運営のためが主眼だったのでしょう?まことに不愉快ですね。 戦前のわが国の歴史と社会・文化性には大きな評価をしているわたしですが、修身や愛国教育、軍国教育はまことに不愉快、大嫌いです。
お礼
おおおおおおおおおおおおおっ。 ★ 仰せのとおり当に愚の骨頂もいいところですね。 ☆ krya1998さん ご回答をありがとうございます。今回は 快晴も快晴 空が突き抜けてしまいますね。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ お国のための、ご都合、国の統治と運営のためが主眼だったのでしょう? まことに不愉快ですね。 戦前のわが国の歴史と社会・文化性には大きな評価をしているわたしですが、修身や愛国教育、軍国教育はまことに不愉快、大嫌いです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 政治の問題に いづれ なるとは思っていましたが そして ちょうど 直前のNo.3で まだ自重しようと思ったところでしたが ご回答をいただいて 我が意を得たり でありまして この種の議論も みなさんにも 加えていただこうと考えます。 つまり では どうすれば いいのかです。規範化をしない / 道徳教育をしない だけでいいのかです。 たぶん ひとつには ★ 宗教や倫理、道徳を哲学や学問で教えたり、論じたり、することも私は全くナンセンスだと存じます。 ☆ なのですが そのとおりだと思いますが たぶん 哲学史なり宗教地図なり あるいは 論理学のような基礎の学問を おしえるのは よいだろうし 必要だとも思われます。どうでしょう。 ★ 昔の修身 ☆ は――戦後うまれですから―― さすがに知らないのですが 人びとの頭は つねに ひとの目を気にする癖と相いまって 《和をとうとべ》というあたかも強迫観念によって 動かされているように見えました。むろんご存じのように その当時は 治安が 抜群に よかったですから 《和が大事》という規範は たしかに 共同の幻想などではなく 現実的な感触もあったとは つけくわえておかねばならないのでしょうね。 要するに 学校の事情に詳しくはありませんが PTAなり 生徒会なりにおいて その対話をつうじて 和なら和 道徳なら道徳を 互いに 磨いていくとよいかも知れません。 たいへんありがとうございました。
- maimaisus
- ベストアンサー率8% (6/75)
>道徳規範は 愚の骨頂ではないでしょうか? なぜ なくならないのでしょう? んー、単に必要と考えている人が無くさないからでは?もしくは他に思惑のある人がいるかもね。 個人的には、中身はどうであれ、それが無いと、何も始まらないと思うのですが・・・。そう言う意味においては、必要かと思うね。
お礼
maimaisusさん ご回答をありがとうございます。 ★ んー、単に必要と考えている人が無くさないからでは?もしくは他に思惑のある人がいるかもね。 ☆ これは 単に示唆的であるだけではなく 現実の問題を言い当てていると わたしは 考えるのですが そのお話は もう少し 探究が煮詰まって来てからと考えました。要するに 共同自治をどうするか。つまり 現状としては 自民党政治をどう揚棄するかになると考えます。 総じては No.1&2での質疑応答を ごらんください。そこでのわたしの述べたところをもって まづは ★ 個人的には、中身はどうであれ、それが無いと、何も始まらないと思うのですが・・・。そう言う意味においては、必要かと思うね。 ☆ に対して お応えできるかと思います。 その昔 九州の筑紫の市民たちあるいは対馬の住民は 或る日或る時 どこかからの詔(みことのり)を受けました。ここから向こうは別の国だが ここから内側は 畏れ多くもわがおほきみの国だ その領界線に従い 領土をしっかり守りたまえと。対岸とは それまで 自由に行き来していたであろうのにです。 道徳規範というのは ちょうどそのように 頭の上から かぶさって来るあほらしいものではないでしょうか。中身は いいものですよ。和をとうとぶのですから。けれども 《朕は国家なり》とのたまう勢力の言う《和》とは なんでしょう? 対岸のプサンの市民との横の交流と和のほうが よほど 大事であって それに並ぶ和は ないくらいではないですか? 人間関係の動態としての倫理なり道徳なりは まだしも その規範化は 要らないのではないですか?
- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
>なぜなら 道徳やその規範によって われわれは 生きているのではなく それによって 社会生活をいとなんでいるのでもない。 そうですかね。 私にはこれもまた真なりと思います。 生きるうえで他人の存在を考慮しないわけにはいきません。 その道具としての道徳規範じゃないでしょうか。 生きることの側面のひとつとして規範に従うことも愚行とはいえないと思います。 それにbrageloneさんも道徳規範がなければ道徳規範に問題点があるとは気づきえなかったでしょう。 つまり道徳規範を土台にしてこの質問は成り立っているのではないでしょうか。
補足
shift-2007さん ご回答をありがとうございます。 そうですね。印象だけで ものを言ってよいとすれば たぶん shift-2007さんは この問題を 哲学としては 半分程度にしか 取り扱っておられない。まづ こう感じます。 ★ (No.1) 〔道徳規範にかんして〕 それだけ人はパターン化しているということだと思います。 ☆ この《パターン化》の現象は 今回のご回答を合わせて捉えるなら 必ずしも 法律問題としてではなく 道徳規範の問題として 扱われていると見られます。つまり ★ 生きるうえで他人の存在を考慮〔するため〕の道具としての道徳規範じゃないでしょうか。 ☆ というように 《生きる》という現実に 組み込まれていると見ておられるようだからです。 文章なり片言隻句なり 言葉で表わされたものは 規範としてあるかどうかにかかわらず 記号である要素として 道具になるでしょうし あるいは いわば時と場合によっては 琴線に触れる重みをもって告げられたもののようにもなるでしょう。そのような側面を別として 道徳規範が どういう 意味を持つかなのですが ですから 回答いただいたところの ★ 生きることの側面のひとつとして規範に従うことも愚行とはいえないと思います。 ☆ を取り上げてみましょう。規範の具体例としては やはり 次が いいでしょう。 △ 和を以って貴しと為す。 ☆ そうしますと けっきょくのところは ○ なぜ 規範に従うか。 ○ 愚行とは言えない従い方が ひとつの側面としてでも あるか。 ☆ こういう問題になります。 もし規範にしたがうことによって 和が維持されたとすれば 規範の内容を理解したからではないでしょうか。理解によって その規範を超えて みづからの意志行為として 和としての考えやおこないを表現するからだと思われます。それ以外では すべて 《愚行》であるのとちがいますか? 思考停止 あるいは この《和を以って・・・》の音のひびきを聞くとともに ただ条件反射しただけというのでは 愚行にならないですか? なぜ規範にしたがうか。その内容を みづからの意志の表現として 妥当だと考えるからでしょう。規範がなくても そのひとは 考えるでしょう。規範があるから――世間で その規範を やかましく言うから―― それに従うのでしょうか? もしそれなら 愚考かつ愚行であるのではないでしょうか? ★ つまり道徳規範を土台にしてこの質問は成り立っているのではないでしょうか。 ☆ つまり人間の知恵と思考とによって 道徳(倫理)を 生活の動態として考え出すのであって また そのように行動するのであって 規範は それとは別に そう(規範化)したい人びとが 勝手に作ったものではないですか? そんなものは 要らないのではないですか? 思考――それが いくら試行錯誤であっても――が 土台であって その土台の動態として 道徳ないし倫理が編みだされるのであって これらの規範化は 何の意味もないのとちがいますか? 道徳規範は 現在の社会において 既成事実です。既成事実であるからと言って この今の質問が その既成事実という土台の上に成り立っているというのでしょうか? あなたは いま 日本語を使って ものを言っている。その言語は 土台であるはづだ。そのように 日本語を土台として この質問は成り立っているのではないでしょうか。――と言われても おかしいでしょう? そういう問題ではないはづです。いかがでしょうか。 * 道徳規範が 既成事実であることと 日本語が 土台であることとは 性質のちがう二つのことですが それでも 例示に取り上げたのは ★ 道徳規範を土台にして ☆ というときの《土台》という言葉の用い方が 適宜なものではないからだと思います。 * 相手が shift-2007さんなので わたしも 余裕をなくして 論議に夢中になっているかも知れません。そのへんのことは あしからず ご海容のほどを ねがっておきます。
- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
愚の骨頂とまでは言えないですよ。 だって規範は便利じゃないですか。 人を殺してはいけないという規範で人を裁いても殺人事件の99%は問題ないんじゃないですか。 のこり1%に正当防衛とか例外的な事例があるだけじゃないでしょうか。 それだけ人はパターン化しているということだと思います。
補足
shift-2007さん ご回答をありがとうございます。久しぶりにご投稿をもらった感じです。 ★ だって規範は便利じゃないですか。 ☆ 一般に 規範化したということは それまでに じゅうぶん 何人ものひとが 思惟を重ねた結果であろうと推測されます。それゆえ 便利な方法であり手段になるかと思われます。 もう少し詳しくは したがって たぶん その規範をあてはめる際には その事態の当事者としての人びとの思想や環境をめぐる条件や また広く情況という条件について それらを 一般化したかたちになっているのでしょう。つまり その一般化したかたちで 規範を採用してよい場合なのだと推測されます。 さらには 一般化してわるい場合についても すでに 考えられていて その但し書きも 備わっているのかも分かりません。 さて そのように ★ パターン化 ☆ してよいのだろうかという問いになります。どうでしょう。言いかえると ★ 人を殺してはいけないという規範で人を裁いても殺人事件の99%は問題ないんじゃないですか。 ☆ このお考えについては 規範として持たれる道徳の問題と そして その道徳の思想を法律に援用したあとの問題と ふたつの側面が あって ここでは 残念ですが 法律〔への応用〕については 一応の基本としては 扱っていないのです。 片や 殺人を犯すなら これこれの刑罰に処するという思考形式と そして ここで取り扱うところの ★ 人を殺してはいけないという規範 ☆ とは 違いもあると考えられます。刑法や法律は――細部に到っては その事情などの特定が争われますが―― ほとんど一義的に その条文にもとづいて 対処します。規範とその執行が それとして 対応しています。むしろ機械的であってよいし そのほうが 取り決めとしては 誰もが 予め情報が得られるので よいわけです。そのように秩序のために 規定が決められます。 ですから 道徳規範のばあいには どうかと問うています。 この質問による物言いは そのような規範は なくてよいし なくすべきだという内容になりますが それは こうです。 ○ たとえ 事態や事件や情況としての条件や あるいは当事者の思想や生育環境といった条件が 一般化して 捉えてよいものであるという場合にも 規範の言葉を 右から左へ あてはめてよいとは 思われない。 ○ なぜなら 道徳やその規範によって われわれは 生きているのではなく それによって 社会生活をいとなんでいるのでもない。人間として 人間の社会として 生きているのだから つねに その人間関係としての倫理は――つまり それとしての道徳は―― 生きているし 動いている。 ○ その生き動き存在するひととして そのひとという位置に立ってでなければ 倫理(その意味での道徳)は あり得ない。 ○ したがって 道徳規範は 無用の長物である。 ☆ と考えたのですが いかがでしょうか。 * 《和を以って貴しと為す》という規範によって わたしたちは 和を尊ぶのではないし 和を乱さないのでもない。生きる過程で 一人ひとりが それぞれ 考えつつ 試行錯誤をも伴ないつつ そうするのです。 逆に この思想を《道徳規範として》おしえられることによって 和を乱すことを知ることになる。そうなれば 愚の骨頂だと考えられるのではないでしょうか。
補足
bananasandさん とうとう 佳境に入ってきましたね。ご回答をありがとうございます。 ▲ 《ハドソン川の奇跡》 《ハドソン川の英雄》 ☆ の話が しきりです。最後に いま一度機内を見まわって 残った人はいないかを確認してから この機長は 脱出したそうです。Bravo ! ところで このとき 危機管理のマニュアルとしての対処法と そして 道徳上の対処の仕方とが あるかとも思われます。《機長や船長は 飛行機や船と 生死をともにするのだ。危機を脱出するのは とうぜん 乗客乗員すべての最後である》という考え方を 規範ととるか もっとも合理的な対策として考えられたものととるか。 こう考えると どうも 帯域の広い《道徳》というときに わたしは 動性道徳とさえ言わずに もしくはその枠をも超えて 思想または生活態度あるいは行為形式と呼んで捉えたほうが よいように思うようになりました。 例の将来の歴史に向けての行為形式を 方程式と呼びましたが そう呼ぶ限り まだ 規範に近い感覚が残ります。思考実験を煮詰めたあとに残る合理的な形式も 規範のにおいがしないでもない。 ですから ちょうど 法律を 実体の部分と手続きの部分とに分けて捉えたように 基準や原則として扱われる行為形式については 規範の部分と手続き上の規則の部分とに 分けてみるとよいかも知れないと思ったのです。 言いかえると A・B・C・D・Eの全部を包含する X なら X を 思想哲学あるいは生活態度ないし行為形式として さらに 設定してみると どうですかね。あるいは こう言えるかも知れません。つまり 《思惟・内省=生産・行為形式》です。いちど こういう用語を作ったことが じつは ありました。帯域が広いでしょう? その利点は たとえば 《動機》を 必ずしも 扱わなくてもよい。あるいは 規範化の問題について 特別のかたちで 《気づき》として おしえ合わなくてもよいかも知れない。 ★ Eは、実体法の中で何らかの理由で道徳から外れた不合理で妥当性の見出せない法律です。 ☆ このEも いかに 不合理なものであろうと 広く人間の思惟=行為の形式であるとして その基礎の上に乗っけておくと そのEを持ち出してきて取り立てようとする相手に対して それもそうだがうんぬんと言って切り出していくことができる。 あとは 二階族の言語習慣の問題になるでしょう。その方言の特徴や 表現形式の特徴などなどを 基本的に押さえて認識しておくと きわめて便利になると考えられます。 ひとつ 最初に思い浮かぶのは 何でもかでも 相手の思想(思惟=行為形式)を 先取りすることです。おれは おまえの考えや思いを知っているぞ あるいはおまえの心をちゃんといつも思っているのだぞと 思わせようとするその手法のことです。先取りと言っても 時間的なあとさきであるよりは 考え方において おまえの思考や思いを包むほどの思いを おれは 持っておるぞと思わせるものです。 世間の誰が 分からなくても おれだけは おまえの気持ちが分かる ようく分かるという態度を 持ち続け たとえ勘違いが 途中で 見つかっても 絶対的に 初めから 分かっているのだぞという姿勢を崩さない そういう方言形式です。(アマテラス語とは 誰かが 言っていました)。(これだけでは ありません。いろいろ あるはづです)。 ★ 結論を急いでしまいますが、規範が無くならないのは、気づきがないことと、 / 動性道徳の不存在がその理由となります。 ☆ ですから 別の角度からみつめつことも出来るわけです。《気づき》については アマテラス語方言の表現形式を知らないゆえ 気づかないのだとすれば その表現形式の特徴を分かれば そうとう 効を奏す可能性がある。あるいは 《動性道徳の不在》という観点から見るほかに 別様に 最大限に広い帯域としての思想(思惟・内省=生産・行為形式)が あいまい・あやふや・はにかみやの傾向を持ち ともかく 思考の訓練が まだまだ なされていないという観点から 捉えていくなら いいかも知れない。つまりは 《動性道徳》を旗印にして掲げつつ 説いていくと またまた 規範として間違われるおそれがある。――以上のごとくです。 * 今回は 試行錯誤でよいと思って 荒削りのままです。