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「存在」の問題を軽視し「枝葉」な問題を重視すること

これは私の体験談ですので、普遍性があるかどうか疑問ですが、もし特殊でなさそうであれば質問が意味を持つと思うので投稿します。 私は肉体上のハンデが多少あって、障害者枠には法的には認められないという程度ですが、明らかに状況によっては不利なものもあって、そのてんちゃんと考慮して、行く末や適職などを考えねばならなかったと感じています。しかし子供のころから、そのハンデについて真剣に悩んだことはなく、それなりに上手くこなせているような気がしたし、不自由を感じなかったので、そのことについて考慮してきませんでした。しかし考えてみると、記憶の方々にその障害のせいで普通なら上手くいったことが非常に苦痛であったり、人に誤解を招いたりそのせいで惨めな思いをしたりと、そういう例が色々と思いつきます。しかしこれは後年になって、その障害を強く意識してからのことです。 つまり、もし、その問題を相対化できて、たとえば一日だけ五体満足とはこういうことなんだよと人の肉体に乗り移って暮らしてみるという体験をできたとして、そうすると「ああ、自分はこういう不利があるんだ、じゃあ考えなくちゃ!」という強い気持ちが起こると思うのですが、そういう体験はできない。なので、問題を意識できなかったしまた、 ☆しようとしなかった です。つまり、希望的観測を持っていたあるいは一種の信仰心を持っていたといえるかもしれません。 これは、たとえば自分の家族にもそんなことはいえませんかね。ろくでもない親や兄弟を「これは結構いい家族なのだ」という風に無理に納得しようとしているとか。これは割りとすぐ否定的な限度が来るかもしれませんが。 つまり、「存在」の問題に関して軽視する傾向が私だけでなくて、人間一般にないでしょうか?相対化し自分の位置というものを客観視しすれば、すぐ自己の悲観的な面限界点を意識できるかもしれないのに、それがなければ、人は楽観的に考える、なにか信じたい、希望を持ちたいという痛々しい習性を持っているように思えます。 それと並ぶ問題として、その「存在」に比べて軽いこと、何かの選択だとか、試験だとか、対人関係とか、そういういまある「存在」に比べれば明らかにランクの低い問題にたいして、過度に悲観的にあるいは慎重になるという、救いようのない矛盾に満ちていないでしょうか? この不合理、矛盾というのは、人間のおろかさから来ているのでしょうか?あるいは人間には無理な問題なのでしょうか?

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回答No.6

結局、今生きている以上の感動なんてどこにもないのに、 ドラマを演出することの方が大切だと錯覚しているんですね。 本当は、逆で、ドラマが進行するから、今生きているのであって、そこに感動があるんですよね。 >希望を持ちたいという痛々しい習性 自ら選択に囚われることはないんですよね。 パンドラの箱に残った希望は、物事がそうであるから抱く精神性ではなくて、物事がそうであるにもかかわらず抱く精神性です。 確かに、これまで悠久に渡りこれを痛々しいと見ることも出来ますが、そうでない者は、生存してこれなかった、つまり、今生きている感動がえられなかったということでしょうね。 希望は持ちたいというようなものではなくて、既に人間が「存在」を目的として備えている本能に近いものです。そうでないと「存在」してこれなかったでしょう。 矛盾ではなくて、存在の基盤なのであって、存在からみれば、そういうことは素直に希望にやらせておけば良いことだと思います。 なにせ、驚いたことに、今生きているのですから。

garcon2000
質問者

お礼

「演出」しなければならないという強迫観念みたいなものが確かにあって、それは「不明」から来ています。あるいは、集団心理とか慣習とか、存在とは反対を向いている事柄です。ドラマ本来をどう生かすのか、そっちの工夫がなくなっている。まるで、食器に凝って料理はレトルトのような。 希望を宗教信仰のように根拠なく持ってしまう、そして、「不明」への道を進んでしまうということが、希望を必要としていることの反作用としてでてきてしまうことがある気がするのです。思考停止状態ですね。 人間の「不明」を明快な「勇気」に変えて、一ランクアップしないと私のようにろくなことにならなくなってしまうでしょう。

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  • thymos
  • ベストアンサー率8% (2/23)
回答No.5

自分の体験談ですが… 自分が「お母さんに携帯を買ってほしい!」という「枝葉」な問題に対して 「どうでもいいメールとか電話とかするだけでしょ!そんなことする暇があったら読書なり勉強なりしなさい!」 と自らの「存在」の重要視を促します 自分としてはそのために携帯が欲しかったのです 他人とメールや電話など「枝葉」なことをして改めて自分の存在に気付くこともあると思う そういったらお母さんは買ってくれました 他の例でいえば 「存在」という小説を読むだけでは理解できなかったのでネットのアマゾンにあるいろんな人の書評(枝葉なもの)などを見て 「存在」という小説をもっといろんな視点で見たかったのです 「存在」の軽視 自分もすごく感じます 小説を読まず書評だけ見て「あ~この小説はつまんないんだな~じゃあいいや」みたいに その小説という「存在」すらまともに見ないで 書評という「枝葉」に流されて、その「枝葉」が全てと思い込んでる人が非常に多いと思います 枝葉は存在をよりよくするための一要素に過ぎないということをもう少し自覚すべきではないかと思います

garcon2000
質問者

お礼

存在と枝葉はどう境目があるのいか、非常に難しいですね。あるいは、すべて有機的結合があって、不可分なのかもしれません。でもその不可分性の中にも流動性はあると思うので、可能な限り合理的で矛盾のない、最も幸せに近いものを選んでいけないだろうか?と感じます。 大変、存在を大事にされるいいお母さんじゃないですか。そういう合理性が大事なんですよ。 昨今の風潮に、じっくり物事をあじあわない、評判を鵜呑みにする、心が動かない、その他いろいろ精神の死滅現状がありませすね。人間性の限界がここにある気がします。

noname#82286
noname#82286
回答No.4

いやなかなか、心地いい質問ですね答えてみたいと思います。 まず多少質問の内容が読み取れないのですが以下の様な内容でいいでしょうか? 「存在」を楽観すると自分に幸福は来るがもし存在が現実的な内容の場合すぐに現実から否定されてしまう。 「存在」以外の「存在」に重要に関連した現実に対して過剰に適応しようと思って逆に存在を痛めつける。 この矛盾はどこからくるのか?そして人間には解決することが無理なのか? という質問ということでしょうか? そうだとして答えてみたいと思います。 これは現実というある種の矛盾が存在すると思います、現実というのは現実以外のなにものでもありません、ある種我々肉体も現実の一部です。そう考えれば矛盾が出てきて当たり前であり矛盾が発生しない出来事というのはないと思います。その意味で存在の矛盾というのは主体と現実との矛盾から発生しているものと思います。 そういう意味では相互作用で発生したり発生しなかったりするという話になるでしょう。 「救いようのない矛盾に満ちていないでしょうか?」いや違うあなたは 「救いのない矛盾に満ちていて欲しい」と思っていますねw しかしそうはいかないですよ。「そうはいかないですよ」と書くと「しかしですね」とか反論が着そうですがまあ書くだけですっ飛ばしますw 矛盾に満ちている事自体に問題というのは全く起こっていません。それを問題と思っている人が問題だろうと思います。そう考えると人の心の破壊性から来ているでしょう。その破壊性が世間や自分も含めた総合的な心理の方へ向かうと悲観ということになると思います。 しかも矛盾といいますが矛盾というのは不可能という意味なのでそうではないでしょう。なぜならその言葉は次のように変えられるからです。 「存在」の問題に関して楽観する傾向が私だけでなくて、人間一般にないでしょうか?相対化し自分の位置というものを客観視しすれば、すぐ自己の面限界点を意識できるかもしれないのに、それがなければ、人は楽観的に考える、なにか信じたい、希望を持ちたいという素晴らしい精神を持っているように思えます。 その「存在」と違う事に、何かの選択だとか、試験だとか、対人関係とか、そういういまある「存在」の関係にたいして、喜んだり安心したりしりという素晴らしさに満ちていないでしょうか? 「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%A0%E5%8A%B9%E6%9E%9C http://www.oak.dti.ne.jp/~xkana/psycho/social/social_01/index.html」的に矛盾を作っても通用しませんよw

garcon2000
質問者

お礼

質問の趣旨はそのとおりとっていただいて結構です。私もそうはっきりといい直していただけると助かります。 現実は矛盾の塊だという認識には賛成です。その矛盾になぜ自ら墓穴を掘るように突き進むのかと思いますね。まるで、タナトスのように。 できれば、調和的な矛盾の少ない葛藤の少ない生き方社会人間存在であってほしいと願うものです。 矛盾も美しいといえば遭難なのですが、やはり、もっとうまく生きられるはずなのだから、そうありたい。もっと知恵が自動的に降りてきてもいいじゃないかという疑問が消えません。

  • hakobulu
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回答No.3

絶対的なプラス面が無いように、絶対的なマイナス面というものもおそらく無いように思います。 虹における色と色の境が明確でないように、「ここからマイナス」という判断自体があくまで相対的な、しかも感覚的なものではないでしょうか。 それが、その時代における社会的風潮によって「決定的な不利」と評価されてしまう。 あいまいな虹の境目を無理やり区切ろうとするわけですから、その認識自体に必ず誤謬が含まれることになるでしょう。 何が言いたいかというと、 「ああ、自分はこういう不利があるんだ、じゃあ考えなくちゃ!」 というのは、あくまで一時的な処世術に過ぎないと思うのです。 不要なことと言っているわけではありません。 むしろ大事なことでしょう。 ただ、「不利」というのは社会的平均値を想定してのことになるわけですが、この社会的平均値というもの自体がまた曲者かもしれない、という気もします。 実際に可変的でもありますし、詳しいことはわかりませんが、お国柄などによってもかなりの開きがあるのではないでしょうか。 つまり、garcon2000さんのお考えとは逆行するかもしれませんが、 「希望的観測を持っていたあるいは一種の信仰心を持っていた」としても、それが通用する社会でなければならないのではないか、と考えるわけです。 あるいは、希望や信仰に頼らなくとも、ごく当たり前のこととして、なんらかの違いや不利・不便さをフォローし合える社会。 これが、フォローされる側もフォローする側も共に成長させることになるという気がします。 ただ、家族に対する過大評価という点に関しては、少し違ってくるかもしれません。 これは個人の停滞、あるいは過去への逆行という要素も絡んでくるように思えるので。 感想として、 ・「(garcon2000 さんがここで取り上げている意味での)存在」の問題に関しては、そこから出発するしかないのですし、軽視できるほうがむしろ自然であるということ。 ですから、「>明らかにランクの低い問題にたいして、【過度に】悲観的にあるいは慎重になる」ことについては別問題として考えると良いでしょうし、「>救いようのない矛盾に満ちて」いるということにはならないのではないかということ。 ・客観視することによって「>自己の悲観的な面限界点」を明らかにできたとしても、それはあくまでそれこそ相対的な価値判断であって、単に処世術の材料として役立つにすぎないということ。 また、その場合、「>自己の悲観的な面限界点」というのは、むしろ、自分自身をより可能性のある場所へと引き上げる道標にすらなり得るのではないかということ。 ・以上のような理由で、提起されていることに関して不合理、矛盾とは思わないのですが、ただ、「存在」ということに関して素直に解釈すれば同意はできます。 これを、ご質問文のつぎはぎによって表現すると、以下のようになると思います。 『「存在」の問題に関して軽視する傾向が私だけでなくて、人間一般にないでしょうか? その「存在」に比べて軽いこと、何かの選択だとか、試験だとか、対人関係とか、そういういまある「存在」に比べれば明らかにランクの低い問題にたいして、過度に悲観的にあるいは慎重になるという、救いようのない矛盾に満ちていないでしょうか?』 端的に表現すると、 『人間の本質的な事柄から目を背けるためとしか思えない愚行(あるいは愚考)が世の中にはまかり通っている。』 といったようなことになるでしょうか。 このこと(本質を無視して瑣末なことを重視する)について、 「>この不合理、矛盾というのは、人間のおろかさから来ているのでしょうか?あるいは人間には無理な問題なのでしょうか?」 と問われたとすれば、 「愚かな部分とそうでない部分の拮抗によって人間というものが出来上がっていると思うので、時間はかかるかもしれませんが、ほんの少しのきっかけによってバランス移動が行われ解決の方向に向かうような気がします」 と答えると思います。  

garcon2000
質問者

お礼

すべておっしゃる様に弁証法的に考えると統一されるような気がします。そして、おっしゃるとおり、肉体上の不利というものが「不利」となり得ない社会もある(この社会じゃなかったら)という相対的思考も必要でしたね。希望に満ちていますが、この先人類に実現可能かどうか、それが、人間のおろかさによって、その落差を土台として可能になっていくかどうか、あまり期待はしていませんが、そうなってくれればいいです。家族の問題も同じように考えれますね。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.2

選択だとか対人関係とかを離れた存在があるなどと、昔どこかの国の人がイデアのイデア、じゃなかったアイデアを出したとき見たいなことを言っておられますね。私は#1さんのおっしゃることに賛成で、選択だとか、対人関係が、貴方と言う存在を規定し意味あるものにしているのだと思います。ですから、それらが「存在」と比べて軽いことではなく、それらが貴方の存在を造り上げているのだと思います。 したがって、それを不合理とも、矛盾とも、人間の愚かさとも思いません。そのように生きて来たのが、貴方であり、他者ではない貴方の個性なのです。

garcon2000
質問者

お礼

そのとおりですね。状況があって私がある。それは生得的条件とそれほど違う要素だろうか?交じり合って曖昧模糊としているといえるかもしれませんね。

noname#140971
noname#140971
回答No.1

Q、「存在」の問題を軽視し「枝葉」な問題を重視すること。 A、それは、生き様としては余りにも当たり前のこと。 生き様との関係で考えれば、「存在」は動かし難い大前提です。 生き様との関係で考えれば、「枝葉」のみが重要な大問題です。 ですから、「存在」と「枝葉」とは相対立する二つの傾向ではありません。 例えば、障害を持って生れてきたかどうか、生きる上での与えられた条件。 例えば、貧困家庭に生まれ育つかどうかも、生きる上での与えられた条件。 例えば、経済成長期に遭遇するかどうかも、生きる上での与えられた条件。 例えば、過酷な戦時に生まれるかどうかも、生きる上での与えられた条件。 生まれる者にとっては、これらの諸条件は選ぶことができない性質ももの。 ならば、その与えられた条件下で、どのような選択を蓄積するのかが大問題。 >生まれた時が 悪いのか >それとも俺が 悪いのか >何もしないで 生きてゆくなら >それはやさしいことだけど (昭和ブルース) 人生の選択の蓄積を「枝葉」と切って捨てているのは、正に、「昭和ブルース」。 存在が悪いのか それとも、俺の選択が悪いのか 何も選択しないで、生きてゆくなら それはやさしいことだけど 生き様としては余りにも当たり前のことを不合理、不条理と描き出す独特の考え。 それは、「昭和ブルース」の焼き直しにしか過ぎないと思いますよ。

garcon2000
質問者

お礼

選択できるものとできないもの、その差異によって同然変わるべき態度ということになるというお考え、納得できます。しかし、おろかさや信仰心めいたものも漂っていますね。

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