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全ては意識の中の存在 2
こんばんは。 私は素人なので、易しく教えて頂けたら助かります。 前回「全ての存在は自我と別個に存在するものではなく、自我の意識の中の存在でしかない可能性もあると言うのは本当ですか?」と言う質問をさせて頂きました。 今回も前回と同様の質問ですが、もう少し的を絞った質問とさせて頂きます。 ★今回の質問★ ご回答を頂いている皆様方、頂いたご回答、当サイト、インターネット、パソコン・・・友人、親戚、兄弟、親、自分の肉体(感覚器官含む)・・・等の存在も含め、全ての事物は私の意識の中の存在である可能性の有無について教えて下さい。 宜しくお願いします。
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可能性はあるのか?という問いに簡潔に答えると、「あります」。 なぜなら、可能性はない、という証明は不可能だからです。 もちろん、「全ての事物は私の意識の中の存在である」ことの証明も不可能ですから、実際どうなのかを確かめる術はありません。決して解けない問いです。 では、なぜ証明が不可能なのか。 それは、「私の自我と別個に存在するもの」を私が認識するのは不可能だからです。 認識というのは、ある種の観念を抱くことです。 その観念は、私の自我と別個に存在する「物自体の世界」に由来するのかもしれないし、あるいは私の意識が勝手に作り上げたものかもしれません。 どちらにせよ、私が認識できるのは、観念だけです。「物自体」は認識できません。 なので、「物自体」が本当に存在するのかどうかは誰にもわからないのです。 このへんは、いわゆるイギリス経験論(バークレー、ヒュームなど)の考え方ですね。 ちなみに、このイギリス経験論と対立する思想としては、大陸合理論(スピノザ、ライプニッツなど)というのもあります。こちらは反対に、観念やら意識やらいうのは全てまやかしであって、本当に存在するのは「物自体」だけだ、という思想です。 更に言うと、この2つの対立する思想を止揚させ、合体させたのが、あの有名なカントになります。
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- chikyuujinn
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「全ての事物は私の意識の中の存在である可能性の有無」の結論としましては、「私の意識」が存在しなけれ ば「全ての事物は存在しない」が真理だと洞察します。 なぜならば「私の意識」の存在する以前(過去)には 「私の意識」に対して、「全ての事物は存在していなかっ た」わけですから。 また、未来に「私の意識」が存在しなくなったら、「私の意識」に対して「全ての事物は存在 しているかどうか不明(意識が存在しなくなっており、認 知不能」だからです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 参考にさせて頂きます。
- sirayukihime
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追伸です。 http://personal.okweb.jp/kotaeru.php3?q=20857 を御覧になるならANo.10に続けてANo.11をお忘れなく。彼ってケッサク!
お礼
ありがとうございます 了解致しました。
- sirayukihime
- ベストアンサー率30% (63/207)
やっぱり御質問者様には、下記の過去スレを読んでいただけたらなあと思います。 http://personal.okweb.jp/kotaeru.php3?q=20857 http://personal.okweb.jp/kotaeru.php3?q=153804 特にQ20857『違う精子だったら・・・』のなかのANo.10のかたの回答読んだら何で気が狂いそうになるかという理由も分かって一挙両得! もっと現実に即した分かりやすい事例はないかいなと思ってたら、こういうのもありました。 私何年か前に手術で全身麻酔をかけられたことがあるんですが、その間の意識というのは確かになかったです。痛みも感じないし時間の感覚もないし、眠ってるときの感じとも違う。全くの空白状態、暗黒世界、「無」の世界でした。 でも、その間、私の身体を切り裂いてコチョコチョやって縫ったり留めたりしてた人たちがいるんですよね。 その間、私の意識は、どこへ行ったの?? そして、ややあって意識を取り戻したと同時に猛烈な痛みが襲ってきたわけです。 意識はどこから帰って来たの?? で考えるんですが「麻酔」って脳のどこら辺に作用して意識をふっ飛ばすのかなあって。麻酔科医に聞いてみたら分かるのかな? 麻酔が意識を奪うために働きかける領域というのに注目してみたら科学的な面からのアプローチの手がかりになるのかも知れません。 私は確かに手術中のことは意識にないです。だから、傷跡がなければ手術なんてしてないよ、と気持のうえでは言える。では、この傷跡は私の錯覚なの?でも、この傷が存在しているのは何人もの人が知っている。 実は手術前の私なんて存在してなくって麻酔が切れると同時に激しい痛みと共に「意識」が注入されて、でっち上げの過去の記憶と、でっち上げの親たちと、でっち上げの医師たちが私の脳にインプットされ・・・ていても、それらを追い出すことすらできない。プログラミングを受け入れることしかできない。自己意識の檻のなかから出る事ができない。 ・・・というようなことを私が言い出したら私の周囲の人間たちは「気が狂った」と騒ぎ出すでしょうね。私はだまされているんでしょうか?何の必要があって? 私の意識は手術の直後にプログラミングされ注入されたものだと主張させていただけるとして皆さんに、それを信じていただけるのでしょうか??
お礼
ありがとうございます。 URLも拝見させて頂きます。 麻酔って眠るのとはまた違う感じなのですか。勉強になります。
- cafatabaco
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質問者さんに質問されたのでまたまた回答させていただきます^^ 私は哲学を授業で受けたことはありません^^; 単なる趣味のようなものです。私の小学校からの夢がドラえもんを造る!というものだったのですが成長するに連れ ロボットと人間の境はどこにあるのか?ロボットは人間になれないのか?ということに興味を持って哲学に惹かれていっただけなのです。私のことはこのくらいで・・・ >やはりそうですよね・・・ >自我が認識する対象が、自我の外に自我とは別に存在 >していることを証明する方法は皆無なのですかね? 今の私にはその方法は皆無のように思えます。しかし質問者さんの気持ちはとてもよく分かります。私もその証明する方法を考え続けましたが、やはり行き着く先は皆無なのです。でも知りたいですよね^^;理屈でいくと皆無なのですがやっぱり考えてしまいますね。しかもこれを考えるのがまた楽しかったりするのでなかなか諦められません(笑)
お礼
ご回答ありがとうございます。 ドラえもん良いですよね。友情を熱く描いた「のび太の宇宙開拓史」は最高ですw >今の私にはその方法は皆無のように思えます。 やはり皆無ですかー >しかし質問者さんの気持ちはとてもよく分かります。私もその証明する方法を考え続けましたが、やはり行き着く先は皆無なのです。でも知りたいですよね^^;理屈でいくと皆無なのですがやっぱり考えてしまいますね。しかもこれを考えるのがまた楽しかったりするのでなかなか諦められません(笑) ありがとうございますー そうなんですよ。気になるんですよ。もう少し考えてみようと思いますー 追伸 「ドラえもん」って一発で変換できるのですねーw
#14です。 引用ばかりで済ますのもどうかと思い、自分なりに解釈をまとめていたのですが、#2さんと同く「サーバーが見つかりません」の表示と共に、2度も回答が消滅してしまいました、ヨロヨロ。再度同じ内容を打ち込むことに飽きてしまったので、気楽に思いつくままに回答します。 >ご回答を頂いている皆様方(中略)全ての事物は >私の意識の中の存在である可能性 原始的なのは「胡蝶」ですよね。全てが夢だった、っていうオチです。今風に言えば#11さんが挙げている「マトリックス」ですね。この場合、少なくとも夢を見ている主体は何らかの状態で存在すると思われます。しかし、その主体に最後に辿り着けるか?は分からない訳です。要するに永遠に夢の中に閉じ込められている場合は自我と別個に存在するものが確認できないわけですよね。 >>自我が消滅したら世界も消滅するようなもの >>同様に世界が消滅したら自我も成り立たないのです。 >それらに合理的な根拠はあるのでしょうか? 根拠ではありませんが、先にあげたラカンの考え方は私にはかなり合理的であると思われます。結論としては#1さんの意見と同じなのですが、ラカンは「自意識」と「自我と別個に存在するもの」の間に「言葉」を置いたのが現代的で、その3つの世界の依存関係で解いているのが説得力を感じます。 前回の質問への回答の中にもありましたが、#4さんの仰っている量子力学の考え方も面白いですよね。有名なのは「シュレディンガーの猫」の例えでしょうか? http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/kasetsu/subject/sub13.htm この場合「自我と別個に存在するもの」はあるが、その存在は観察者(自意識)によって規定されてしまう、と考えるようです。これをSF的に解釈したグレッグ・イーガンの長編3冊が面白いので、宜しければお読み下さい。 http://sazanami13.client.jp/rec/rd3055.html まあ、原始的なSFの話をすれば、3次元に存在する私たちは4次元、5次元、あるいは「超ひも理論」の10次元でさえ考えることは出来ますが、でもそれは単なる机上の理論でしかないかも知れない、つまり「意識の中だけの存在」である可能性は(少なくとも今の自意識の状態では)ありうると思いませんか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >引用ばかりで済ますのもどうかと思い、自分なりに解釈をまとめていたのですが、#2さんと同く「サーバーが見つかりません」の表示と共に、2度も回答が消滅してしまいました、ヨロヨロ。 お手数をお掛けしてしまい、申し訳ございませんでした~ (;▽;) >根拠ではありませんが、先にあげたラカンの考え方は私にはかなり合理的であると思われます。結論としては#1さんの意見と同じなのですが、ラカンは「自意識」と「自我と別個に存在するもの」の間に「言葉」を置いたのが現代的で、その3つの世界の依存関係で解いているのが説得力を感じます。 早速ラカンを勉強してみようと考えております。合理的ですかー 楽しみです。 教えて頂いたサイトや書籍等も拝見させて頂きます。 >「意識の中だけの存在」である可能性は(少なくとも今の自意識の状態では)ありうると思いませんか。 はい、私にはそう思えます。
- sirayukihime
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はーやれやれ・・・ せやから、合理的な根拠の立てようがないから、古今東西の哲学者が、あーでもないこーでもないと言い続けておるんじゃあーりませんか。哲学科の人に聞いたっておんなじことですわいな。 仏教とかヒンドゥー教とか・・・って言うのは、もし断定を御望みならっちゅう話ですがな。 はあはあ・・・ううう 気ぃ狂いそ。
お礼
ありがとうございます。
- sirayukihime
- ベストアンサー率30% (63/207)
どうも御質問者様は名の通った哲学者が出てくるとピクッと反応なさる傾向があるようですが、どんな有名な哲学者だって、この命題に関しては我々ど素人同様、無知の仲間なのです。 断定して欲しいと御望みでしたら、回りくどい哲学書なんか読むより仏教とかヒンドゥー教の御勉強したほうが早いかも知れませんよ。「ヴァガバット・ギーター」とかね。近代の哲学者が、あーでもない、こーでもないと言ってるより何千年も前に人間には自我の視野を越えて世界を見渡す能力なんかないって言い切ってるようですよ。 手っ取り早くモノにたとえて表現しましょうか。 自我意識と外界は合わせ鏡のようなものです。お互いに写し合っているのです。両方が存在して両立している不即不離な関係なのです。自我が消滅したら世界も消滅するようなもの、同様に世界が消滅したら自我も成り立たないのです。そーゆーこと。
お礼
ありがとうございます。 >どうも御質問者様は名の通った哲学者が出てくるとピクッと反応なさる傾向があるようですが、 どうしてそのように思われたのかは存じませんが、ご指摘ありがとうございます。 >仏教とかヒンドゥー教の御勉強したほうが早いかも知れませんよ。「ヴァガバット・ギーター」とかね。近代の哲学者が、あーでもない、こーでもないと言ってるより何千年も前に人間には自我の視野を越えて世界を見渡す能力なんかないって言い切ってるようですよ。 >手っ取り早くモノにたとえて表現しましょうか。 >自我意識と外界は合わせ鏡のようなものです。お互いに写し合っているのです。両方が存在して両立している不即不離な関係なのです。自我が消滅したら世界も消滅するようなもの、同様に世界が消滅したら自我も成り立たないのです。そーゆーこと。 それらに合理的な根拠はあるのでしょうか?
前回の質問が見つけられなかったため、既出の回答と内容がダブってしまったらゴメンなさい。 このような疑問に対して、私はラカンの「三界」という考え方が一番腑に落ちるように感じています。 ラカンは難解とされているので、私がどの程度理解出来ていて、どの程度的確に説明出来るか?正直自信がありません。 ですので、斉藤環の文章を引用します。 「ラカンはたとえば、こんなふうに考えた。こころは、言葉だけで出来ている。そして、言葉にはもともと意味などなく、ひとまとまりの音にすぎない。言葉は記号みたいに、直接に何かを示すことはしない。つまり、言葉はものの身代わりじゃない。」 「僕たちはふだん、意味とイメージの世界を生きている。これをラカンは「想像界」と呼ぶ。ところが、意味を生み出すはずの「言葉」は、じつは言葉だけで独自の世界を作っている。こちらは「象徴界」と呼ばれる。」 「言葉だけの世界、つまり「象徴界」のメカニズムを、僕たちはじかに知ることができない。だからそれは、「無意識」と呼ばれたりもする。」 「ラカンは人間のこころを作り出しているシステムを3種類に分類したんだね。それが「現実界」「象徴界」「想像界」だ。」 「ものすごく単純化して説明しよう。今ヒット中のディズニー映画『モンスターズ・インク』は、フルCGのアニメーションだけど、このCG画面を例にとって考えてみる。このとき画面上に映し出された女の子やモンスターたちの画像イメージが「想像界」にあたる。ところで、そのイメージを作り出すには、何万行ものプログラムが背後にあるわけだ。もちろん、プログラム言語をどんなにじっと眺めても、イメージのかけらも浮かんでこない。それはどこまでも、無意味な文字の羅列にしかみえないだろう。この文字列が「象徴界」にあたる。さらに、プログラムが走るには、パソコンのハードウェアが動かなくちゃならない。そしてもちろん、このハードウェアの作動については、僕たちは何もじかに理解することができないし、そこに手を加えることも不可能だ。いわば認識のラチ外にある世界なわけだ。これがラカンのいうところの「現実界」に相当するということになる。」 どうですか?琴線に触れるモノがありましたか? ありましたら、上記はココから引用しています。 よかったらご覧下さい。 http://www.shobunsha.co.jp/h-old/rakan/01.html http://www.shobunsha.co.jp/h-old/rakan/02.html http://www.shobunsha.co.jp/h-old/rakan/03.html と続き、現在 http://www.shobunsha.co.jp/h-old/rakan/18.html まであります。
お礼
ご回答ありがとうございます。 教えて頂いたURLにも、早速行ってみます。 前回の質問はhttp://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1229181です。お手数をお掛けしてしまい、申し訳ありませんでした。
- IHATOV
- ベストアンサー率36% (7/19)
ANo.#12のIHATOVです。 「認識されようがされまいが、物自体は「ある」でしょうし…」に対して、ha-ha-hakkusyonさんから「それは証明できるのでしょうか?」というご質問がありましたので、再度お邪魔します。 結論からいえば、それは証明できないと思います。「物自体」とはカントの提出した概念で、認識主体(人間)が感覚を通して認識した物や現象の原因となる何かで、それ自体としては認識できない不可知物であり、思惟可能な仮定として要請されたものです。不可知なものを仮定した概念ですから、これがあるとは証明はできないでしょう。 しかし、「物自体」はともかく(それを認めるかどうかが一つの議論の対象ですから)、「物」とは、外界に存在する意識を持たないものであり、意識の対象として意識によって捉えられるものという意味ですから、それが「ある」ことの証明は必要なのでしょうか? そもそも、外界に「ある」ものが「物」なのですから、それが「ある」ということは、証明云々以前の同義反復になるのではないかとも思えます。素朴に言えば、雨が降っている時に、見たりぬれたりして雨を感覚で受け止める以外に、「雨が降っている」ことの証明が必要かどうかということです。感覚的には誰でも経験することですが、「雨が降っている」ことを「証明」しようとすると、これは容易ならぬ難問ではないでしょうか。「感覚」は「証明」の根拠にならないからです。 私には良く分からないのですが、哲学では、「もの」が「ある」か「ない」かが問題になったりするのでしょうか? 「存在」が「認識」や「現象」との関係で問題になるのはわかるとしても、「存在」それ自体を証明しようとするのは、(「本体論的証明」は神の存在証明に向かおうとするものですが)果たして実りのあるものなのかどうか、ちょっと疑問に思われます。どうでしょうか。
お礼
度々のご回答、ありがとうございました。
- IHATOV
- ベストアンサー率36% (7/19)
素人ですが、ちょっと面白そうなので参加させてください。 ANo.#1seinzeitさんが、この問題は主観と客観の二元論をどう克服するかというカントの例の問題だと言っておられますが、確かに問題の根幹はここにあると思います。 seinzeitさんがおっしゃるとおり、人間は「全ての事物」を「主観」を通してしか認識できませんから、「私の自我と別個に存在するもの」を私が認識するのは不可能」だと思います。果たして客観的な存在が意識を生み、規定するのか、それとも人間の主観的な認識が客観的な存在を意味づけるのか…。いったいどっちが正しいのか、といわれれば、どっちも正しいとしか言えないわけです。 人間の「認識」以前の世界は単なる混沌でしかなく、それはいかなる意味も持ちません。例えば森の木々は人が「森」「木」と認識することで初めて「森」「木」になるのであって、主観によって名づけられる前は何者でもないものにすぎません。しかし、認識されようがされまいが、物自体は「ある」でしょうし、それが人間の「認識」以前に存在することも否定できないでしょう。いったいどっちが先かと考えても、二者択一で考える限り、答えは出せないと思います。 だから、「答えは出ない」というだけでおしまいにすることもできますし、それはそれで個人の自由なのですが、ある意味ではこの難問をヘーゲル、フォイエルバッハ、マルクスというという天才達が引き受け、自分の答を出しながら、一歩一歩考えを進めてきたのが近代の哲学史だともいえると思います。また、マルクス以後の哲学者もなおこの問題と無縁ではありません。 哲学といっても非常に広い領域をもちますが、上に挙げた人々の示した考えの内容を簡単に言えば、主観と客観を対立する二つのものと見るのでなく、一つの全体に含まれた二つの契機とみるということでしょう。人は「主観」を通じてしか「客観的現実」は認識するが、その「主観」は「客観的現実」によって作られるというのですから、この二つは相互媒介の関係です。その相互往復作用を重視すれば、主観と客観はある全体の二つの契機と捉えられます。この「全体」を歴史的社会的な「総体性」と考えることで、主観客観の二元論を克服するということでしょう。この考えの元では、人間は歴史の主体でもあり客体でもあるという両義的存在として捉えられるわけですね。 私は素人ですから、あまり厳密な議論になると怪しいかもしれませんが、ha-ha-hakkusyon さんも素人だということですので、ちょっと勇気をだして立ち寄らせていただきました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >しかし、認識されようがされまいが、物自体は「ある」でしょうし それは証明できるのでしょうか? >私は素人ですから、あまり厳密な議論になると怪しいかもしれませんが、ha-ha-hakkusyon さんも素人だということですので、ちょっと勇気をだして立ち寄らせていただきました。 ここまで詳しいのであれば素人ではありません(笑)
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お礼
ご回答ありがとうございました。 断定も否定もできないのですね。 教えて頂いた辺りを、もう少し勉強してみます。