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リビドーとデストルドー
リビドーとデストルドー、相対し矛盾する二つの欲求が何ゆえ人間の中に存在するのでしょうか?リビドーはわかります。生物として生きてゆくんだから必要でしょうから。デストルドーがなぜ存在するのか。なぜ人は死にたいと思うのでしょうか?嫌なことがあり、鬱になるとなぜ自らしのうとするのか。どうしてもわかりません。どなたか御享受くださいませ。
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- kettt
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> 鬱になるとなぜ自らしのうとするのか。どうしてもわかりません。 リンク先URLの最下部、「メランコリーにおいては……」以下をお読みください。フロイトの考えが書いてあります。
- kettt
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デストルドーは、リビドーの地平に見える地平線のようなものです。地平線を追いかけても実体はありません。 FIX_007さんの例えを援用して、もともとのデストルドーの意味を確認しておきましょう。 「飛行機が怖い」、このときもしデストルドーが勝れば、飛行機には【乗る】のです(反復強迫)。 初期のフロイトは、「アンチリビドー」として「自己保存欲動(自我欲動)」というものを想定していました。その働きは読んで字のごとくです。 「飛行機が怖い」、このときもし「自己保存欲動」なるものが勝れば、飛行機には【乗らない】でしょう。 「デストルドー」は、「自己保存欲動」とは別の働きをするものとされていることを、確認しておいてください。(「自我の自己保存欲動は死の欲動に含めない」『快感原則の彼岸』フロイト)
- FIX_007
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私はリビドーとデストルドーはコインの裏表の様なもので人間の行動には常に両方存在すると思います。デストルドーの意味を「死への欲動」と捉えると解釈が難しいので、アンチリビドーと考えてはどうでしょう。 たとえば、飛行機に乗って海外へ行く。これは地上を歩く人間としては明らかにデストルドーのように思えるし。飛行中の爽快感や目的地での満喫感はリビドーだとおもいます。「技術が進歩して安心して今の世の中飛行機に乗れる」と思うでしょうがそれは知識がデストルドーを押さえているだけに過ぎないように思えます。または「飛行機は怖いけど海外に行きたい」というようにリビドーがデストルドーに勝った結果です。もしデストルドーが勝れば飛行機には乗らないでしょう。人は無意識のうちに知識や経験でリビドーとデストルドーを天秤にかけているようにおもえます。 人は行動すれば死の危険性が高くなります。コンビニに食料を買い物に行くだけでも事故や事件に遭う可能性が有ります。でも食料を食べないとそのうち死んでしまいます。コンビニに行くのと食料を食べないのはデストルドーでコンビニに行かないのと食料を食べるのはリビドーでしょう。これは私の見解ですがもっと適切な例えが有るかもしれません。例えが下手でスミマセン。
- kettt
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多くの精神分析家はタナトスやデストルドーの存在を認めておりませんし、生物学的な裏付けも得られていないようです。 以下私見ですが、人が死にたいと思うのは、死ぬと楽になれるという信仰を持つからです。人は故人の幸福を願うゆえに、死を安らかなものとみる信仰を持っています。また人間は知識で苦しみを克服する生物であります。ですから他に克服方法の見つからない苦しみに直面すると、死んで楽になることにすべてを賭すことがあるのでしょう。 鬱は重症化するとむしろ自殺が少なくなります。不用意に治療すると自殺を誘発するため、抗うつ剤の説明書きにも注意が喚起されています。自殺を企図する判断力が回復してきた頃が最も危ないと言えそうです。
- saori1983
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リビドーとデストルドー、相対するものがあるからこそバランスを取れるのではないでしょうか。 リビドーだけでは欲の塊になりそうです。 デストルドーだけでは自殺してしまいそうです。 デストルドーは無への回帰しようとするエネルギーなので、適度にバランスが取れていると、良いリラックスになるかと思われます。 簡単に言うと、『頑張りすぎてもダメ、休むことも必要』ということです。 上手く説明できなくてすみません…