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関ヶ原の合戦で、家康は勝利を確信していたのですか?

関ヶ原の戦いですが、山岡荘八の小説によると、「家康にとって大博打であった」としながらも、家康自身は、平地に陣取っていることを確認してから「戦闘は半日で終わるだろう」と言っています。当日は雨が多く土がぬかるんでいるので、山から降るのには時間がかかる。戦は臨機応変に動くべきで、その点(戦略)での勝利を確信していたという描写です。 また、西軍は毛利輝元を総大将に担ぎながらも東軍と全面対決するのは本意ではない、という書状を家老の吉川広家が送っていることや、有名な小早川秀秋の裏切りなどあり、一致団結とは言い難い状況にありました。対して家康は、関ヶ原の一ヶ月前に奥州の上杉景勝を攻めるという名目で大軍を動かしますが、わざとゆっくり進軍し石田三成が大阪で決起することを待ちました。そうすることで自分についてきた日和見の諸大名を一致団結させ、東軍に従わせることが出来た、という描写になっています。 数字の面で行くと、両軍の総勢では大差なかったといいます。しかし西軍から東軍に寝返った軍一万五千、成り行きを山上から見守っていた軍は二万五千ということで、東軍の中で実際に戦闘に加わっていたのは半分に満たなかったとのことで、これが勝負を決めたようです。 こうして見ると、決戦が開始される前にすでに勝負はついていたという見方も出来ますが、実際はどうだったのでしょうか?家康および徳川の重臣たちは、この決戦に対してあらゆる手を打ち尽くした上で臨んだから、勝利の自信があったというこでしょうか? あるいは、周到に準備していたとはいえ、博打であるには変わりなかったでしょうか? 徳川家康が政治の手本としていたのは武田信玄で、戦の手本としていたのは山県昌景だったと言われ、部下の井伊直政に赤備えの軍団を作らせ、大久保長安に武田家の政治のやり方を真似させたのは有名な話ですが、信玄本人は「戦闘が開始する前に八割方決まる」みたいな発言をしていたと思います。(ナポレオンも言っていたような) 関ヶ原に臨む家康も、そうした準備があったということでしょうか? また、このあたり(関ヶ原の事前の駆け引き・攻防)に詳しい書籍などありましたらご紹介頂けますと助かります。よろしくお願いします。

みんなの回答

  • lv48
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回答No.8

関ヶ原の事前の駆け引き・攻防 http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/3affa311dc5168640d2c1f124c06eb9e まさか東西決戦が一日で終わるとは予想できなかった 上田攻め。これは真田・上杉の連携による関東侵入を阻止 http://94979272.at.webry.info/201204/article_28.html 立花宗茂、小早川秀包がキーマンだった?

noname#229784
noname#229784
回答No.7

関ヶ原関連でいつも疑問に思うのが、豊臣秀頼が出陣してたら家康終わってたんじゃ?ってことです。そこはなにか手をうっていたのだろうか?計算していたとしてもやはり大博打なのは否めない。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1972/9601)
回答No.6

OKWaver2013 さん、こんばんは。 そうですね。戦というものは生き物ですから、何が起こるかわからないです。実際、東軍は秀忠の徳川主力の3万8千が到着していません。また、一応密約ができているとはいえ、南宮山の毛利勢及長曾我部勢など約3万が徳川本体にいつ駆け下りてくるかわかりませんでした。家康は出陣する前にたくさんの大名に手紙を出し、自分に味方するように説得しています。この中にはもちろん前述の毛利勢や小早川勢なども含まれます。こう見てみると人事を尽くして天命を待つようなところもあったと思います。また、石田三成の実戦経験やほかの西軍の武将たちを見ると家康に比べてとても若く威厳がない点からどこかで大きなほころびがあるだろうと考えれば、勝つ確信が持てていたとも考えられます。 詳細は下記のURLを参照ください。 関ケ原合戦 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84#.E5.B8.83.E9.99.A3

  • jkpawapuro
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回答No.5

関が原を文字通り狭義にに関が原の戦場だけで切り取ってみれば、家康ははっきり言って薄氷を踏む勝利です。 吉川に関しては毛利軍を閉塞することが約束されていたとしても、結局東軍は西軍に囲まれていることに変わりはありません。小早川の動向が勝敗を握る、小早川が西軍につけば東軍の壊滅は約束されていますし逆もまたしかりです。それにもし小早川が東軍に攻撃を仕掛ければさすがに吉川の妨害も限界になるでしょう。 小早川が勝敗の命運を握り、その小早川が戦いが始まってもまだ日和見をしていた時点で大ばくちであったのは事実です。 では家康は周到に準備したうえで大ばくちを打ったのかというと、私はそうは思っていません。 家康は慎重に慎重を重ねて行動し、見通しが立つまで無茶をしないというのが過去の生き方で、最後の最後だけ大ばくちをするというのはあまり説得力が内容に思います。 徳川家としてもそこまで博打をする必要性はありません。大垣城で対峙しながら本隊を待つ戦い方も可能であったと思います。(万万が一秀頼公出馬があると撤退か和平しかありませんが) 私は単に家康が小早川は日和見ではなく東軍に完全につくと読み違えた瞬間、いざ戦いが始まると小早川が実際には日和見状態で内心家康も焦ったと思ってます。 家康が山から陣地を移したのもあるいは中山道が毛利軍に落とされるのを心配して南に撤退しやすい位置に動いたという可能性だってあります。

  • eroero4649
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回答No.4

古今東西、圧倒的不利な状況から大逆転勝利を収めた戦いがあります。「背水の陣」の語源ともなった渭水の戦い、現代にもその伝説的な精強さが伝わる無敵のスパルタ軍を破ったレウクトラの戦い、10万を超えるペルシア軍をアレクサンダー大王率いる2万のマケドニア軍が破ったイッソスの戦い、世界軍事史上空前にして間違いなく絶後であろう「完全勝利(相手側の軍が文字通りに全滅した)」とはこのことであろうハンニバルのカンナエの戦い、10倍の敵軍に勝利したばかりか敵の大将の首までとった桶狭間の合戦・・・ これらの戦いに勝利した指導者は「名将」として歴史に永遠に名前を残したわけですが、そんな名将たちは何も考えなしにまともに戦えば必ず負けるであろう数に勝る敵軍に戦いを挑んだわけではありません。彼らなりに勝算があったからこそ戦場に出てきたわけです。実は名将と呼ばれる人はいつでもどこでもあたり構わず戦いを挑んで勝利しているのではなく、「こりゃ勝てない」と判断するとそそくさと撤退してるんですね。あたり構わず戦いを挑んでいつも勝利をしていたのは項羽ですが、結局最終的には「四面楚歌」に陥っています。 そして、実際にそれぞれの戦いの場面を見ると、勝利した側が「これはもう負けるか」となるような危険な場面が必ず訪れているのです。例えば、空前絶後の完全勝利であるカンナエの戦いは、最終的にはハンニバルのカルタゴ軍がローマ軍を完全に包み込んだのですが、実はその直前の場面では、強力なローマ軍は寄せ集めのカルタゴ軍の中央を突破しかかっていたのです。そのギリギリのタイミングで側面のローマ騎兵が敗北しその側背を突かれることで大勢が決しました。もしもうちょっとローマ騎兵が踏ん張っていたか、カルタゴ軍の中央が崩壊していたら、ローマ軍が勝利したことでしょう。戦いというのはそういう「ちょっとしたこと」の積み重ねなのです。ミッドウェー海戦の「運命の5分間」はご存じでしょう? また、あの桶狭間の合戦では信長が途中で家臣に「無謀っす。やめてください」と馬の轡を取られて反対されたといわれています。もちろん信長はそれを押し切りました。昔は桶狭間の合戦は「側面奇襲説」が主流でしたが、今はほぼ「正面強襲説」で確定しています。その正面強襲説に基づくと、その場その場の信長の判断は「どう考えても非常識」「どう考えても無謀」なのです。しかし、戦役全体が終わって後から分析すると「その判断はすべて正しかった」のです。名将が我々凡人と違うところはまさにそこです。 さて、話を関ケ原に移すと、後からすべてを分析すると家康の勝利は必然ともいえるものです。家康も天下人になっただけあって名将であることには変わりありません。しかし、「勝利のチャンス」は西に東にうつろってはいたのです。家康は実は野戦の鬼(その真骨頂が小牧・長久手の合戦です)なので、家康本人も「野戦に持ち込めれば勝てる」という自分に対する自信はあったと思います。だからこそ足止めを食っている秀忠を待たずして勝負に出たのでしょう。家康の勘が「長引くとこちらが不利になる。勝負はここだ」と囁いていたのです。 名将は、事前に勝利に対して充分な準備をしますが、名将が名将たるゆえんは、事前の準備はいくつものオプションがあり、ひとつの方法に決してとらわれないことです。宇宙戦艦ヤマトの真田さんのように「わははは、こんなこともあろうかと思って・・・」とちゃんと考えてあるんですね。戦場ではめまぐるしく状況が変わることを知り尽くしていて、そうなったらこうする、ああったらどうなる、ということを柔軟に考えまた、柔軟に対応することができるのです。 そしてここが勝負とみたら小心者ならとてもできないようなギャンブルを打つことができ、そしてまたそれに勝利する胆力と運も持ち合わせているんですね。

回答No.3

家康が勝利を確信できたのは 総大将の息子 秀忠軍3万8千があっての事です 秀忠が間に合わないと知ったときは焦ったようです 小早川だって中々寝返らない 寝返ったは良いが大谷に押し返される始末 さらに当初味方だったはずの島津が行き違いで敵になり 家康の息子忠吉が重症を負うなど 予想外の出来事が色々とあったでしょう しかも福島や黒田、加藤は豊臣憎しではなく三成憎しで東軍加担ですから いくら根回し済みとは言えひとつ間違えば寝返る可能性もあったわけです 家康は関ヶ原で学べば良かったのに学ばなかったようです それで大阪夏の陣で追い詰められましたし

  • titelist1
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回答No.2

中央公論の日本の歴史(全26巻)の江戸開府によるとその小説の内容は概ね史実に沿っています。関が原の合戦が偶発的に起きたものではないことは明らかです。家康は天下分け目の合戦をしかけて政権奪取をしたがっていました。上杉討伐に先立つこと半年前に増田長盛の密告を利用して細川討伐や前田討伐を企てたのですが、両者とも屈服することでまんまと逃げられ失敗しています。上杉は会津ゆえに情報に疎くて反抗したので利用されたのです。 石田三成の誤算は遠征軍の中の豊臣恩顧の大名が簡単に寝返ったことです。西軍の挙兵に大義が無かったのです。上杉討伐が秀頼公の命令で行なわれたからです。この戦が豊臣政権内の家臣の争いと認識されていたのです。毛利家と島津家も嫌々の参戦でそのことを家康は知っていたのです。 西軍は大垣城に籠城し、包囲する東軍を毛利輝元の援軍本隊とで挟み撃ちする計画であったが、三成の居城の佐和山城攻めの噂にまどわされ、佐和山に続く北国街道を封鎖するために関が原に出てきたのです。大垣城で籠城しても徳川秀忠軍が遅れて到着してもまずいと思ったのでしょう。また毛利輝元軍が来ないと思ったのでしょう。だったら関が原でも鶴翼の陣を引きながら一翼を占める毛利軍が戦わないことが分らねばなりません。やはり三成には勝てない戦であったのです。

  • hamazo2004
  • ベストアンサー率27% (292/1068)
回答No.1

少し回答になっていませんが、私も大いに関心があります。基本的には西軍の毛利氏およびその関係者の思惑や裏切りが大きいことと晩年の豊臣家への信望の低下の影響と思います。この山岡荘八氏の「徳川家康」は全10巻以上の大作で、一応小説の形を取っていますが、まったく史実を無視したことではないと思います。司馬遼太郎氏のように膨大な文献を研究されていると思います。そのあたりの原文についてはかなり難しいのでそれを現代文に直して描写を加えてくれています。その原文に当たるのも大変です。また、今と違って負ければお家取り潰しですからどうしても元資料が勝者の観点から書かれています。本能寺の変の新史実の資料も最近出てきたばかりです。とりあえず回答に間に合わないかもしれませんが、「徳川家康」(中に引用先を書いているかも分かりませんので)再読してみます。