ベストアンサー 関ヶ原の前夜、家康は。。。 2008/12/24 19:12 関ヶ原の戦いの前夜、徳川家康は緊張して眠れなかったんでしょうか? 石田三成なんかも緊張していたんでしょうか? 記録が残っているのであれば、どなたかお教えください。 みんなの回答 (1) 専門家の回答 質問者が選んだベストアンサー ベストアンサー pri_tama ベストアンサー率47% (679/1423) 2008/12/25 02:24 回答No.1 関ヶ原の戦いの前夜って確か西軍は夜通しかけて、関が原に布陣する為に雨の中移動中でしたから、寝ている暇なかったのでは? 東軍も翌朝の決戦及び、夜襲に備えて気軽に寝られる状況ではなかった気がします。 関が原の場合、戦場に立つ武将は前日の雨の中の行軍で、満足な睡眠や食事も取れず、疲労と睡魔に抵抗しながら敵軍と戦った物と思われます。 広告を見て全文表示する ログインすると、全ての回答が全文表示されます。 通報する ありがとう 0 カテゴリ 学問・教育人文・社会科学歴史 関連するQ&A 関ヶ原の戦い 関ヶ原の戦いで石田三成はなぜ小早川の裏切りを読めなかったのですか あとなぜ石田三成が大大名の家康に対抗できたのでしょうか? あとこの戦で小早川が裏切らなかったらどっちが勝っていたと思いますか? 関ヶ原の戦い 石田三成は豊臣秀吉の権力を笠に着て威張る嫌な奴で敵が多いため、気に入らなかった武将が関ヶ原の戦いで豊臣秀吉の配下の武将にかかわらず徳川家康の味方についたため敗北したのですか? 関ヶ原の戦いで 関ヶ原の戦いで加藤清正や福島正則みたいに石田三成が嫌いで東軍についた人もいますが他に東軍に味方した人は豊臣家を裏切った人達ですか? 徳川家康が勝った結果、豊臣秀頼は知行や領地が減らされたし… 天文学のお話。日本ではどのように考えられていた? OKWAVE コラム 関ヶ原の寝返り 関ヶ原では小早川が寝返りしましたが、石田三成はじめ、豊臣もふくめて全武将が寝返り、徳川につけばどうなりましたか? 関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた 関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた 小早川秀秋がもし東軍(家康側)に寝返らなかったら関ヶ原の戦いは西軍(石田三成側)の勝利となっていたのでしょうか。 小早川秀秋は家康から寝がいりを要求する手紙をもらっていたらしいのですが。 もし寝が入り、の決断をできなかった、もしくは家臣に反対されて西軍を裏切らす東軍と戦ってた場合 関ヶ原の戦いの結果はどうなっていたのでしょうか あと裏切りという作戦を家康が立てていたのですが 裏切ってくれなかったとしたときのために 家康は何か策でも立てていたのでしょうか 皆様の考えをどうかよろしくお願いします。 徳川家康は、なぜ当然のように天下人になったのか 一般的な歴史では、関ヶ原の戦いの後、徳川家康は、当然のように天下統一をしているようなのですが、疑問があります。 もともと、関ヶ原の戦いは、豊臣政権の内部での権力闘争でしかなかったはずであり、徳川家康も、関ヶ原の戦い以前には、 「豊臣家打倒」 などとは、全く言っていませんでした。 豊臣家内部の権力闘争に打ち勝ったというだけなのに、なぜ、徳川家康が、「当然のように」日本全体を統一する政権をつくってしまえのかが不思議でなりません。 今日の私たちは、実際の歴史を知っているので、疑問をもたないかもしれませんが、当時の人々からすれば、関ヶ原の戦いに勝ったからといって、 「だから家康が天下人」 という意識は、まだなかったのではないか、と思うのですが、なんで、家康が天下人ということになっていったのでしょうか? 関ヶ原後の豊臣の衰退 関ヶ原の戦いの後、家康によって豊臣家の領土・勢力は大きく削がれますよね? 一応、徳川方の言い分としては、忠臣家康が奸臣三成一派を成敗した・・・というものであったはず。 だから主君である豊臣家が徳川方の大名達に、恩賞を与えなくてはならない という名目は分からないでもないのですが・・・ だからといって、豊臣家の身をあそこまで急激に削らせるのは、 いくら秀頼が幼いといっても豊臣家または豊臣恩顧の大名から異論や抵抗はなかったのでしょうか? あまりにもあっさりと家康が豊臣家の勢力削減に成功したように見えて不思議です。 家康はどのような手段を使ったのでしょうか。 関が原家康陰謀説 徳川領255万石に対し石田三成は20万石であり圧倒的な差が存在した。 それに対し、三成は分散する反徳川勢力を知力と大義(豊臣政権における家康の専横の危惧)により結合し対抗することを計画。 しかし、パズルならば各一片の形は変化しませんが、反徳川勢力の内部は幾らでも手を突っ込めますし元々が不安定。 「反徳川」というパズルは短い期間しか輝きを発することができない宿命。 その結果、三成の知力に頼った反徳川勢力連合の時間(の経過)に対する弱さを家康に突かれ、三成は急かされるように関が原に誘導される。 (似たような状況は現在にもありますが・・・) 以上が正しいならば、石田三成に生き残っていただくためにはどうしたらよいでしょうか? 関ヶ原の合戦で、家康は勝利を確信していたのですか? 関ヶ原の戦いですが、山岡荘八の小説によると、「家康にとって大博打であった」としながらも、家康自身は、平地に陣取っていることを確認してから「戦闘は半日で終わるだろう」と言っています。当日は雨が多く土がぬかるんでいるので、山から降るのには時間がかかる。戦は臨機応変に動くべきで、その点(戦略)での勝利を確信していたという描写です。 また、西軍は毛利輝元を総大将に担ぎながらも東軍と全面対決するのは本意ではない、という書状を家老の吉川広家が送っていることや、有名な小早川秀秋の裏切りなどあり、一致団結とは言い難い状況にありました。対して家康は、関ヶ原の一ヶ月前に奥州の上杉景勝を攻めるという名目で大軍を動かしますが、わざとゆっくり進軍し石田三成が大阪で決起することを待ちました。そうすることで自分についてきた日和見の諸大名を一致団結させ、東軍に従わせることが出来た、という描写になっています。 数字の面で行くと、両軍の総勢では大差なかったといいます。しかし西軍から東軍に寝返った軍一万五千、成り行きを山上から見守っていた軍は二万五千ということで、東軍の中で実際に戦闘に加わっていたのは半分に満たなかったとのことで、これが勝負を決めたようです。 こうして見ると、決戦が開始される前にすでに勝負はついていたという見方も出来ますが、実際はどうだったのでしょうか?家康および徳川の重臣たちは、この決戦に対してあらゆる手を打ち尽くした上で臨んだから、勝利の自信があったというこでしょうか? あるいは、周到に準備していたとはいえ、博打であるには変わりなかったでしょうか? 徳川家康が政治の手本としていたのは武田信玄で、戦の手本としていたのは山県昌景だったと言われ、部下の井伊直政に赤備えの軍団を作らせ、大久保長安に武田家の政治のやり方を真似させたのは有名な話ですが、信玄本人は「戦闘が開始する前に八割方決まる」みたいな発言をしていたと思います。(ナポレオンも言っていたような) 関ヶ原に臨む家康も、そうした準備があったということでしょうか? また、このあたり(関ヶ原の事前の駆け引き・攻防)に詳しい書籍などありましたらご紹介頂けますと助かります。よろしくお願いします。 小早川秀秋と家康の心理 関ヶ原の戦いのとき 中々寝返らない秀秋に対して家康は鉄砲を撃ち掛けました 普通だと 家康から鉄砲を撃たれたら怒って寝返りの約定を反故にして三成に付きそうな気がするんですが 家康もそうなる事を覚悟で鉄砲を撃ったのでしょうか? 結果はビビッて小早川は山を下って家康にとっては やれやれでしたが もし逆に それでキレて小早川が三成の方に行ってたら家康は負けていたと思います 関ヶ原以降の豊臣石高について 関ヶ原以前豊臣家の石高は二百万石ですよね。 で関ヶ原以後の石高は家康によって六十五万石になりましたよね。で不思議に思うのですが関ヶ原の戦いは豊臣家対徳川家の戦いではなく豊臣家の内部争いでそれを東軍の総大将家康が豊臣をまとめたわけでこの時点では少なくても形式上は家康は豊臣家の家臣なわけで関ヶ原の戦い後家康が豊臣家を二百万石から六十五万石したけどなぜ家臣である家康が豊臣家を二百万石から六十五万石にできるのですか? 普通出来ないですよね。 そこらてへんがよくわからないので教えてください。 加藤清正と福島正則はのちに石田三成に着いたほうが良かったと思ったのか? 石田三成は民にはやさしい男であったが、頭が切れて気真面目すぎるために、加藤清正と福島正則のやり方と相容れることはできず仲は悪かった。 関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。 こんな疑問が浮かんだのは理由があります。 今まで清正と正則は家康の勢力拡張政策に貢献するかたちを取ってしまったので、こいつらは馬鹿だと思っていた。三成が頭が切れて気真面目すぎてうまがあわないといっても、冷静に考えたら三成のほうが秀頼を大切にする可能性が高いので、なぜわからないのだろうと思っていた。 しかし僕の目の前に石田三成に近い人間が現れたとき、最初は良かったのですが、最終的に 「この人のやり方が合理的に合っていても、僕のやり方を無視しているものなので、心情的にこの人に賛成できない」 と強く思うことになったのです。僕の今の心情から思うと、清正と正則も似たような心情になり、三成が死んで家康が勢力が増大しても、「三成に味方したほうがよかった」なんて思っていないと考えています。清正と正則もどうしようもなかったのかなあと思うようになりました。 ●みなさんは清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。 日本史の転換点?:赤穂浪士、池田屋事件、禁門の変に見る武士の忠義と正義 OKWAVE コラム 戦における兵の集め方のその後の行方 こんにちわ。日本史に関連する質問です。 僕には昔から疑問に思っていることがありました。 それは戦における兵についてです。 たとえば関ヶ原の戦いを例に挙げます。 石田三成 VS 徳川家康 というのは知ってると思うんですが、実際は当然ですがこの二人がタイマンで戦ったのではありません。 何万という兵を集め、そして戦ったと思うんです。 そこで質問です。 このような何万という兵はどっから集められてくるのでしょうか? また戦が終わればこの人たちはどこへいくのでしょうか? ご回答のほうよろしくお願いします。 関ヶ原の戦い 関ヶ原の前哨戦で、石田三成はなぜ大坂城を攻撃しなかったのですか? 関ヶ原の戦いで・・・・ 関ヶ原の戦いで、「影武者 徳川家康」では、戦の前に島左近の刺客(甲斐の六郎)によって討ち取られたが、 本当はどうなんですか?小説だけのことなんですか? 専門的な人にききます! 関ヶ原の戦いの構図について 関ヶ原の戦いは、毛利対徳川の構図で見た方が、より分かりやすくなるというのは本当ですか?(石田・大谷も、頑張ってはいましたが)毛利は、五大老筆頭の地位を狙っていたのですか? 石田三成の欠点 関ヶ原の合戦では、始め数で有利だったのに、いつの間にか小早川秀秋とかに裏切られて、徳川家康に負けてしまいましたね。 なぜでしょうか??ドラマとかだと、忠義に生きた武将で、性格も頭も良さそうですが・・。 石田三成の欠点って何ですか?? 関ヶ原は、 家康の関ヶ原の戦いの、関ヶ原は、 現在は岐阜県にあるのですか? 愛知県にあるのですか? 関ヶ原その後、家康 もしもの可能性として、質問。 関ヶ原の後、豊臣を滅ぼす前に家康が なくなった場合、それでも、豊臣滅亡・ 徳川幕府成立・数百年の安定政権になったのでしょうか? 細かい時期によって変わるかもしれませんが、 関ヶ原の次の年、家康が征夷大将軍就任の次の年、 秀忠就任の次の年、秀頼・家康が会談した後、 豊臣恩顧の武将たちの相次ぐ逝去の後、 などで、どう変わる可能性が あったのでしょうか?それぞれ、予想があれば、お願いします。 年齢的には豊臣家を滅ぼす前にある朝ぽっくりと なくなっていたのを発見されるということもあったはずです。 豊臣対策・天下取りへの遺言は用意されていたかもしれませんが。 もしも大垣城に立てこもっていたら? 歴史にもしもが無いのはわかっていますが 関ヶ原の戦いのとき 石田三成は大垣城に居ましたが家康が佐和山城を攻めると言う流言に踊らされて関ヶ原に誘い出されました もしもこの時 このまま大垣城、あるいは堅固な岐阜城に立てこもって篭城戦になっていたら 結果はどうなっていたと思いますか? 家康はもとより、東軍の武将は殆どが城攻めは苦手な連中な気がします(だからこそ野戦に誘い出したんでしょうけど) 注目のQ&A 「You」や「I」が入った曲といえば? Part2 結婚について考えていない大学生の彼氏について 関東の方に聞きたいです 大阪万博について 駅の清涼飲料水自販機 不倫の慰謝料の請求について 新型コロナウイルスがもたらした功績について教えて 旧姓を使う理由。 回復メディアの保存方法 好きな人を諦める方法 小諸市(長野県)在住でスキーやスノボをする方の用具 カテゴリ 学問・教育 人文・社会科学 考古学・人類学文学・古典歴史経済学・経営学心理学・社会学地理学美術音楽哲学・倫理・宗教学その他(人文・社会科学) カテゴリ一覧を見る OKWAVE コラム 携帯料金を賢く見直す!格安SIMと端末選びのポイントは? 友達って必要?友情って何だろう 大震災時の現実とは?私たちができる備え 「結婚相談所は恥ずかしい」は時代遅れ!負け組の誤解と出会いの掴み方 熱帯魚の飼育って簡単に出来る趣味なの? あなたにピッタリな商品が見つかる! OKWAVE セレクト コスメ化粧品 化粧水・クレンジングなど 健康食品・サプリ コンブチャなど バス用品 入浴剤・アミノ酸シャンプーなど スマホアプリ マッチングアプリなど ヘアケア 白髪染めヘアカラーなど インターネット回線 プロバイダ、光回線など