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梶井基次郎「檸檬」での檸檬の意味
表通りを嫌い裏通りが好きになり、裏通りを彷徨う様になっに歩いていた「私」は、表通りでも裏通りでもなく、キッチュともいえる奇体な京極を下っていきます。このような「私」の変化は「檸檬」によってもたらされたものですが、「私」にとって「檸檬」はどのような意味をもったのでしょうか?
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「檸檬」の一節でこう書かれています。 実際あんな単純な冷覚や触覚や嗅覚や視覚が、ずっと昔からこればかり探していたのだと言いたくなったほど・・・・云々 昔から漠然と梶井の求めていたものであったと推測できます。檸檬に出てくる「私」とは勿論、梶井自身の事ですが、梶井はこの檸檬を書いた当時、「肺病」にかかっています。梶井にとっては「昔から漠然と探してきたもの」であり、同時に「安らぎ」だったと思います。当時は肺病は不治の病でした。ですからその檸檬に安らぎを求め、同時に自分の命が爆発する様な衝動に駆られ、丸善の本の上にチョコンと置き爆弾に見立てたと思います。 書いた本人にしか分からない「檸檬の意味」ではありますが、作品全体から察するに、上記の様な意味合いだったのだろうと思われます。
- osan_01
- ベストアンサー率0% (0/0)
非日常を生み出した、ということでしょう。 毎日同じ生活をしてその退屈さに辟易していた作者は、 まずレモンのもつ生命力のみずみずしさに惹かれます。 そしてそれを丸善の本の上に置き新鮮な空間を作りだし、さらにそれを置き去りにする行為が、それが病んだ精神によい刺激となり、心がうきうきしたということだと思います。
うつ状態にあった「私」にとっての「檸檬」の意味を教えることはできないが、 それとは別にして、我が校では考査におけるこのような不正は決して許されることではない。 だから、きみのような自分で解答を考えない生徒の現代文の中間考査は0点とする。 よく反省し、今後このような不正を断じて行わないように。
- hp_1200
- ベストアンサー率53% (106/200)
梶井基次郎の「檸檬」では、なぜ丸善を爆破しようとしたのか。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1183598.html 梶井基次郎作品「檸檬研究」 http://contest.thinkquest.jp/tqj2000/30191/index.html
- suunan
- ベストアンサー率14% (224/1569)
それは小説に書いてありますよ。 面白い事をしたから面白い気分になって変わった行動をとった ということです。
お礼
ありがとうございます。 表通りと裏通りは対象的な存在に位置づけられているように思うのですが、「キッチュで奇体」な京極はそれらに対して何を象徴しているのか教えていただけませんか?