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梶井基次郎の「檸檬」では、なぜ丸善を爆破しようとしたのか。
檸檬は梶井にとって、自分の手に入るほどの西洋の象徴であった。しかし、梶井にとって丸善の存在は手に負えない西洋であった。まだ見ぬ未来である丸善を前に、不吉な塊を感じた梶井は、手に負える西洋(檸檬)で手に負えない西洋(丸善)を爆破しようとしたのではないだろうか。 という風に自分は考えたのですが、言葉足らずでしょうか? どなたか教えてください。よろしくお願いします。
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>檸檬は梶井にとって、自分の手に入るほどの西洋の象徴であった。しかし、梶井にとって丸善の存在は手に負えない西洋であった 上記のように解釈される所以は何でしょうか? あまりよくわかりません。多くの文学者が 西欧を向いていた頃に梶井がその雰囲気の中で活動していたことはありますが。 福永武彦は 檸檬の冒頭「『えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧へつけてゐた』は梶井の「一種世紀末的なデカダンス」を表している。それは梶井の全作品を流れる主調低音である。」と言っています。 その闇の中で唯一彼が見出した光が檸檬。 その檸檬を持って少し幸福になった私は「平常あんなに避けてゐた丸善がその時の私には易やすと入れるやうに思へた」のだが丸善に入るとその「幸福な感情は 段々逃げて行つた」画本がつまらなく見える。 それで画本を積み重ねた上に檸檬を置く。「そして それは上出来だった」彼はそれをそのままにして丸善をあとにする。 これは「闇(不安)からのロマンティックな脱出で ある」と評している人もいますし私もそう思います。 梶井がボードレールやセザンヌに傾倒していたのは確かですが、(檸檬は非常に絵画的) 「西欧」の観点でこの作品を捉えた評論は読んだ記憶がありません。参考までに。
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