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古典文法の表現法について
古典文法における、「疑い・問い」の表現について、何を根拠にしてその表現が「疑い」あるいは「問い」であると判断されるかを踏まえつつ、その違いについて教えてください。
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- gonta-11
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普段ここまで突っ込んで考えることがないので、この機会にと思いいろいろ考え、調べてみました。 学校文法的に言うと、これらは両方とも「疑問」と判断します。文脈理解のためにはそれで問題はないのですが、今ここに例示された「鮎か釣るらむ」「貝取りたるか」の違いを考えてみると次のようになります。 「鮎か釣るらむ」:「鮎を釣る」という動作主(Aさん)に対して、鮎を釣っているのかな?と想像している(Bさん)、さらに(Bさん)がその疑問を投げかけている(Cさん)と3人が登場する。つまり、この話主(Bさん)と聞き手(Cさん)との会話で「鮎を釣っている」(Aさん)は会話の部外者である、と言うことができます。 「貝取りたるか」:「貝を取る」という動作主(Aさん)に対して、貝を取っているのかな?と想像している(Bさん)の2人が登場する。この場合、話主(Bさん)の疑問に対する聞き手(Aさん)と動作主(Aさん)は同一人物となります。 「鮎」のような場合は動作をしている相手に直接質問していませんね。こういうのを、「自ら疑う」、「貝」のような、相手に直接疑問をぶつけるのを「人に問う」といういいかたをします。 根拠は何かと言うことについてですが、 1、「や」「か」自身の違いもあるようです。「か」は自ら疑う要素が強く、「や」は人に問う要素が強いと言う説もあります。しかし「や」と「か」の」違いは絶対的なものではありません。時代によっても違ってきます。疑問詞の有無も関係しますから何ともいえません。例文の「鮎か釣るらむ」は「鮎や釣るらむ」のほうが中古以降では一般的であろうと思いますし。 2、「自ら疑う」と「人に問う」のシチュエーションの違いを考えてみましょう。上にあげたように「自ら疑う」場合は直接相手に質問をぶつけているのではありません。ということは相手の状況を推量し、その推量した結果を聞き手に疑問の形で伝えることになります。それに対して「人に問う」場合は直接質問をぶつけるわけですから、推量の形で伝える必要はありません。「推量」とは、悪く言えば、確かめもせずに勝手に判断する(語弊がありますが)ことですから、直接質問することとは相容れないわけです。 つまり、「推量」の要素の有無によって決まってくる、と考えられます。「推量」の助動詞と組み合わせてあれば「疑い」、そうでなければ「問い」ということです。おわかりいただけましたでしょうか? 私自身勉強になりました。ありがとうございました。
前者は文末にある現在推量の助動詞「らむ」と呼応して「鮎でも釣っているのだろうか」という意味になり、後者は推量ではなくて完了の助動詞に「か」ときていますので、「(もう)取ったのか」という問いになる…ということなのではないでしょうか。 まだ不足かもしれませんね。また補足をお願いします。
ご質問の趣旨がよくわかりません。 係助詞「や」「か」などを用いた場合の「疑問」と「反語」の区別ということでしょうか?
補足
すいません。 係助詞「や」「か」を用いた場合、主に「か」の場合ですが、「疑い」の意味にとられる文(「川の瀬早くみくれなゐの裳の袖濡れて鮎か釣るらむ」等の「か」)と「問い」の意味にとられる文(「子安の貝とりたるか」等の「か」)がありますが、その判断は何を根拠としてそうされるのか、その違いはどういったものなのかということです。