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水による洗礼は必要不可欠なことですか

特殊な議論になるかも知れませんが おしえてください。わたしは この水の洗礼を受けていない自称のキリスト者です。 ヨハネ福音は《血によらず 肉の意志によらず 人間の意志によらず 神によって生まれる》(1:13)と説きます。水の洗礼は 人間の意志によっているのではないでしょうか。(儀式としては 別の問題です。) むろん 同じヨハネにイエスの言葉として《水と霊とによらなければ》(3:5)という明らかな文句があり イエスも洗礼を受けたし パウロも受けました。旧約からの継続として そういうかたちを採ったと考えられませんか。割礼も 必要なくなったのだと思います。 解釈だけではいけないとすれば エレミヤ書31:31以下に 《そのとき 人びとは隣人どうし ・・・〈主を知れ〉と言って教えることはない》とあります。うんぬんですが。

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  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.29

誰々がこう言った. ではなくて 自分の言葉で言うことが大切なんだな.

noname#80116
質問者

お礼

agrippaさん この言葉には しびれました。また まだ さらに続いていて なお一層しびれさせるという魂胆ですね。

その他の回答 (45)

  • mr-birn
  • ベストアンサー率18% (15/80)
回答No.5

 ANo.2です。  アブラハムとキリストですが、アブラハムの時代には、キリストは実存していませんから、水でも聖霊でも洗礼を受けてないと言えます。当時は、キリスト教以前の時代です。神と人間、その間に祭司と呼ばれる特別な役割の人がいます。モーセなどもそうでしょう。  旧約は詳しくは無いのですが、基本的には、キリスト教と言う考えは含んでないと言えます。良く待望の書と言いますから、待っている時代といえます。イエス・キリストの教えにポイントがあります。ですから、新約聖書の教えが『新しい契約』と言えます。エレミヤ31:31以降で言ってることは、その新しい契約(新約聖書の内容)と言えます。  新約の時代には、イエスの誕生(処女降誕)、イエスの教えや奇跡、十字架の死と復活、聖霊降臨(弟子たちに現れるなど)一連の出来事を信じる事が、キリスト教的信仰の基礎と考えられます。水で洗礼を受ける事も、そうした一連の出来事と言えます。  参考までに、私は12月の初冬に河川で洗礼を受けました。なぜでしょう?屋内のプールのような条件で受ける方もいますが、特に気にした事はありませんでした。先日、ある牧師に滴礼という事で意見の違いを感じた事がありました。宗派による違いは有るでしょうが、聖霊(神様の見えざる導き、力の存在)を肯定する事は、キリスト者として大切な条件と思います。  アブラハムは、信仰の父として一般に理解されています。それは、イサクという息子を頂いた物語や、その子を神様に捧げる決心をして認められた出来事があるからです。ご存知かもしれませんが。その時代でも、天使がアブラハムに望んで語ります。天使を霊的な使いと理解する事もできます。私も、勉強中の身なので違っている事もあるかも知れません。日本的には、自称キリスト者は通じるかも知れませんが、本当の意味でのキリスト者は恐らく、もっと意味が深いと思います。神様に従うとは、信じて生きて行く事と言えます。そうした生き方を選んだ人をキリスト者と、私は理解しています。  奥が深いので、これを機会に皆さんの意見を聞いてみてください。在主。

noname#80116
質問者

お礼

箇条書きにします。 (1)《奥が深いので、これを機会に皆さんの意見を聞いてみてください。在主。》とおっしゃっていただき ありがとうございます。この感謝とともにながら 次のようにも さらにうかがいたく思います。 (2)《水で洗礼を受ける事も、そうした一連の(つまり イエスの生と死と高挙・復活そして聖霊降臨などの受け容れの)出来事と言えます》というとき その《水の洗礼が 信仰にとって どういう位置づけにあるのか》 これが 問題の焦点です。《一連の出来事にとって 絶対必要な入り口である》というのが 一般の常識であるようですから。 (3)《エレミヤ31:31以降で言ってることは、その新しい契約(新約聖書の内容)と言えます》とおっしゃるなら その内容として《〈主を知れ〉と言って教えることはない》ということは どういうことなのか 明らかにしていただけるとよいと思います。 (4)《〈アブラハムは神を信じた。それで かれは正しい人とみなされた〉(創世記15:6)とあります》(ローマ4:3)とパウロが述べています。つまり重ねて《しかし この〈かれ(アブラハム)が〔信仰によって〕正しい人とみなされた〉という言葉は アブラハムのためだけではなく わたしたちのためにも記されているのです》(同4:23)とのこと。 ――これでも キリスト信仰と関係ないのでしょうか。また 関係があっても かれは水の洗礼を受けていないので キリスト者ではなく 救われていないというべきなのでしょうか。 (5)《神様に従うとは、信じて生きて行く事と言えます。そうした生き方を選んだ人をキリスト者と、私は理解しています。》とわたくしも受け取って 自称しています。 *対立点を浮き上がらせましたが あしからずご了承ください。

  • 1katyan
  • ベストアンサー率18% (147/800)
回答No.4

必要かどうかはその人の信仰です。 自称というけどみんな同じでしょう ただあなたは本当に救われ新しくなりましたか? 地上にありながら罪ある肉から開放されるというのだ。これこそが洗礼の真髄である。 だから儀式的なものより本人が自覚しているのか?と言うこと 後少しだけぬれるのではなく体すべてが水(御言葉)に浸され救いを経験されたかがどうか重要だと思いますが 信じているのではなく神様から呼ばれたものなのか?どうかが問題でしょう。 要するに本当に信じているのか?これがクリスチャンにとって重要なことでしょう。絶えずいつも信じているか・・・ 書いている自分でも怖い事を書いていますね          祈り感謝して・・・・

noname#80116
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 《必要かどうかはその人の信仰です》にもとづけば 絶対必要な条件ではないという帰結になります。 《ただあなたは本当に救われ新しくなりましたか?》という別の条件がつくとすれば この条件は 不可欠のものなのか・そして また元に戻って それは 水の洗礼によってのみ満たされるということなのかというふうに 議論は回りめぐって尽きません。 《だから〔重要なのは〕儀式的なものより本人が自覚しているのか?と言うこと》というとき この《自覚》は やはり 水の洗礼によってこそ与えられるものなのかという問いに帰着します。  《体すべてが水(御言葉)に浸され救いを経験されたかがどうか》とおっしゃるのは つまり《水》について《(御言葉)》というふうに括弧書きされているのは こうおっしゃっているのでしょうか。すなわち 《水が 不可欠の条件ではなく やはり聖霊による洗礼がすべての始まりなり》と。それなら わたくしの現在思っていることと一致するのですが。 《信じているのではなく神様から呼ばれたものなのか?どうかが問題でしょう》。――そのとおりだと思います。厳密には 《神様から呼ばれた》から《信じている》ということなのだとは思いますが。つまり《呼ばれた》ということは――水の洗礼のときに その内実が伴なわれることもあるでしょうが 一般的に言えば――《霊による洗礼》のことだと受け取っています。 この質問をして回答を受け止めていくに従い 新しい知見を じつは 得ました。それは 《水による洗礼は キリストの権能によって しかるべき人がその手を用いて おこなわれるものだ》ということです。つまり 《キリストの権能によって》が そのとき同時に 核として 伴なわれているということは 取りも直さず 《霊による洗礼》のことなのであると。 ですから このあと問題は 《キリストの権能による=聖霊による洗礼》が 《人の手による水を用いての洗礼》と共にでなければ 与えられないのか こうなるというように考えました。いかがでしょうか。

  • michael-m
  • ベストアンサー率50% (2724/5433)
回答No.3

これは一カトリック教徒の解釈であり、カトリックの方針そのものではないという前提でお読み下さい。 貴方がキリスト教徒として生きるのであれば、洗礼は必要不可欠なものです。それは意志の表明だからです。 必要か必要でないかは私達が決める事ではありません。 自己解釈で勝手に解釈したら秩序は無用の長物となってしまいます。 解釈には合理性と客観性が無ければなりません。 ただし、最期の時の神の判断はこれとは異なります。 勿論、意思表明した者とそうでない者の差はあるでしょうが、 洗礼を受けた後、規律を破っていれば、教徒以外の者と同じか、それ以上の重い審判が下るでしょう。 逆に教徒でなくても教徒以上に神の意志に従って規律を護って生きていれば教徒と同じように救われるでしょう。 ただし、洗礼は神の庇護の下に入るだけでなく、原罪の罪の許しを乞うための儀式でもあります。 従って、洗礼を受けなければ、例え聖人的人生を送ったとしても、原罪に対しての赦しを得なければ門をくぐる事はできません。

noname#80116
質問者

お礼

回答をありがとうございます。前のお二人にも お礼を申し上げます。 《教徒でなくても教徒以上に神の意志に従って規律を護って生きていれば教徒と同じように救われるでしょう》とおっしゃるからには キリスト者であることの条件は 《水による洗礼》が絶対条件ではないと受け取れるのですが・・・? それでしたら アブラハムも まちがいなく水の洗礼にかんする留保条件なしに キリスト者として 生きたと捉えられます。 なお 《キリスト教徒》というのは 《キリスト教――つまり 教えとその文明化した社会慣習です――》のもとに組織的に生きる人を言うのだと思います。それは 聖霊による洗礼を受けてキリスト者となった者とは――重なる側面もあるでしょうが 基本的に言って――別のものだと考えるのですが いかがでしょう?。 論争を想定していなかったのですが――こちらの側で弁護すべき事柄だけは弁護しようと思っていましたが―― 次のことは 論点になるように考えます。 《洗礼は・・・原罪の罪の許しを乞うための儀式でもあります》とのこと。わたしの信仰の中では ちがっています。乞うか乞わないかを問わず イエスの出現それだけによって すべてはゆるされ 人類すべてにわたって和解が成立したのではないでしょうか。エレミヤ31:31以降は そのことを預言していたのでは? なお細かいことを言えば 《意志の表明》は なにも授洗によらなくても ひとこと公言すれば だれにでも どこででも出来るでしょう。いかがでしょうか? この際 よくわかっていただくために もっと述べます。《水の洗礼が絶対条件である》というのは これも そうではないというのと同じように ひとつの解釈にもとづいているように思いますが いかがでしょう?(アブラハムの事例にかんして いっさい解釈しないという一種の解釈にもとづいて 絶対条件であると主張しているのでは?) 《秩序》とおっしゃいますが ユダヤ教とそれにもとづくユダヤ社会のそれまでの《秩序》に対して はたしていったい どう考えどう行動したというべきでしょうか?(だれがの部分を抜きにして述べましたが)。 理屈っぽくなってまいりましたが この教えを乞う巡礼の行方に祝福のありますように。

  • mr-birn
  • ベストアンサー率18% (15/80)
回答No.2

 >特殊な議論になるかも知れませんが おしえてください。わたしは この水の洗礼を受けていない自称のキリスト者です。  自称である限り、キリスト者とは言えないと考えてください。洗礼を受けたイエスに、聖霊が鳩のように下ったと言う記述が有ります。神様の目に見えない力が望んだと解釈すべきでしょう。  ゆえに、>水による洗礼は必要不可欠なことですか ⇒ 貴方は、聖霊の働きをどの様に解釈しますか?  聖霊様の導きを伴なって、イエス・キリストを信じ、復活の希望に預かって、生まれ変わるとされています。信じる事と告白も必要とする場合は、どうしますか?  キリスト者と言ってるのは、行動も伴なう信仰を言ってると思います。キリスト者とは、生き方を伴なう行為なのです。人生を通して生涯を貫く選択を意味するとしたら、貴方のキリスト者とはどの様な意味をお持ちですか?  キリスト者は、結果として洗礼を伴なうものと思います。それは、悔い改めと、復活信仰を意味します。水だけが問題とは思われないのですが?

参考URL:
http://homepage2.nifty.com/allstchurch/senrei.htm
noname#80116
質問者

お礼

《口でイエスは主であると公に言い表わし 心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら あなたは救われるからです。実に 人は心で信じて義とされ 口で公に言い表わして救われるのです》(ローマ10:9-10) たとえばこのパウロの文章を参照して 自称しています。 聖霊を議論の中で扱うのは むつかしいものがあります。 《水だけが問題とは思われないのですが?》――ですから《聖霊による洗礼》にて《自称しています》と申し上げているのですが この質問はこうです。 《なぜ 〈水による洗礼によってのみ〉キリスト者となるというのでしょうか》 つまり 《〈水による洗礼によってキリスト者となったあと初めて〉 聖霊による恩恵を受けることができるというのは なぜか》です。 一つの話のきっかけとして たとえば こういう議論があります。 《アブラハムは 水による洗礼を受けていませんが かれは どうなるのでしょうか》 一般のみなさんから見れば 特殊な質問だと思いますが よろしくお願いいたします。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.1

背景を見ると、砂漠に潔癖主義のクムラン宗団がいたんですね。 彼らは清めを重要視しており、神の裁きが近いうちにやってくると信じていた。 彼らは独身主義者で、性欲を穢れとしていた。 えっちな事を考えただけでも、一定期間沐浴をして聖所に近づいてはならないという規定があったんですね。 ということで、水による浄化を促進していた集団。 考えてみれば身体を清潔にしていれば、病気にもなりにくいし、病原菌が身体についたとしても、水で洗い流せば、発病しない可能性が高くなり、現実として沐浴は浄化作用があった。 (クムラン集団は油を塗る行為をしなかった。何故なら油を体につけると、ばい菌が取れにくくなるので。従って誰かが自分達に油を塗る行為をすると、それは「なんてことを」ってことになるんですね。「そんなことしても清めにはならない。そんな無駄なことをどうせやるのなら、売ればいいのに」ってね。「まあまあ この人は私達の仕来たりは違う規定に沿って、私を清めようとしているのだから。 私は後に羊の捧げ者となるので、彼女はそのための準備をここの慣習に従ってやってくれているのだから。 とね。 ちなみに女神の花婿となる選ばれた王は生贄の儀式の時に油を塗られていたそうです。) と、話がそれてしまった。 で、クムランはエッセネ派の中の一集団という見方もあるんですね。 そしてイエスに洗礼を施したヨハネ。 彼もエッセネ派 もしくは クムラン宗団の幹部だったという見方もある。 砂漠のクムラン宗団にこもっていたヨハネが外に出て、人々に洗礼を施した としたら。 聖書の記述通りですよね。 彼は誰でも洗礼をしたのか。 イエスも洗礼を受けていますよね。 ということは、イエスは穢れていたからなのか。 どう思います? もし、ヨハネの洗礼が穢れを清めるのが目的ではなかったとしたら? 「私の心にかなう」と天から声がしたとあるので、イエスは穢れてなどいないし、穢れを清めるために行われたわけじゃあないわけですよね。 少なくとも著者は穢れを清めることを洗礼と考えていなかったので、イエスも洗礼を受けたと書いたわけです。 「私の心にかなう」 つまり「既に清いと自覚させるため」に洗礼を象徴としてやっていた可能性が高い。 聖書学者のジョン・ドミニク・クロッサンは「ヨハネの洗礼とは罪を取り除く儀式ではなく、外的・肉体的に清めることによって彼の信者たちが既に内的・肉体的・霊的に浄化されていることを象徴するためである」とヨセフスの観点から考えてこう結論づけたんですね。 ある歴史家は「人々がヨハネの弟子になったのは、内的にも外的にも浄化されるための良い方法を学ぶためであった。ヨハネの基準に従って自らの正しさに自信がもてるようになれば。彼らは浸礼にやってくる。全ての人々が彼の弟子になってから浸礼を受けたわけではない。だがひとたび浸礼を受けると、彼らはそれ以前から既にヨハネの教えを受け入れていたことになり、以前から彼の弟子であったことになるのだ」と言っているそうです。 ということでヨハネの洗礼の意味は清いことの象徴としてであって、罪を清めるためということじゃなかったようです。 それがどうして幼児洗礼などになっていったのか。 どうして人は原罪を持って生まれてくるから洗礼をほどこして清めなければならないとなったのか。 どうしてイエスが「原罪を消した 喜べ。良い知らせを世の隅々まで伝えよ」としているのに、実際はイエスは原罪など消していないとして洗礼をさせるのか。 福音など無いと否定しながら、福音を伝えよと矛盾したことを言うのか。 おっしゃるとおり、人間の手によってです。 トマスの福音書にも似たようなことがありますが、もともとはシンボル的なものだった。 ところが、後の神学者たちに歪められてしまった。 アウグスティヌスが原罪に対して固執しすぎましたよね。 ティトゥリアヌスは乳児は生まれたときは悪しき者であるという見解を示した。 キリスト教の世界では女性は悪魔ですから、その悪魔から生まれた乳児は悪魔の子なんですね。 それで清めない限り悪魔のままだとした。 西暦418年、キリスト教の宗教会議は、人間の子は悪魔に取り付かれているので、もし洗礼を受けなければ自動的に地獄意落ちるという決議をした。 というわけで、ここからが元のシンボルとは別の解釈として洗礼が使われるようになったわけです。 今の洗礼の解釈は人間が集まって会議をして決めたことなので、人の手によるものです。 人の手によるものなので、どのような効果が期待できるのでしょう。 というか、本来の意味を含んでいない。 洗礼者ヨハネも人間ですが、人を縛るため、罰するために洗礼を開発したのではなく、清いと自覚を促すための象徴として。 目的じゃなく結果としての象徴。 とまあ、私の得ている情報からすると、以上のような見解になります。 結局ですね、神より現実的な支配者を人は選ぶんですよ。 神より怖いのは・・・・・生きた人間ですよね。 普通の人は、生霊の方が怖いですから。 (実態を持っているので簡単に殺せますし鞭打ちとか脅迫とか現実として実際にやりますから。ペトロは全財産を寄付しなかった夫婦を殺しましたよね。神のせいにしたようですが、現代で考えると、この宗教団体が金目的に夫婦を殺して見せしめにしたと警察は考えこそすれ、この宗教団体の神が本当にいて、金を全額寄付しなったから殺人を行ったという判決にはなりませんよね?) ただですね。 古代の人たちは、この実態を持つ悪魔には屈したふりをしていましたが、表面上はキリスト教の改宗しても、内面までは塗り替えられない人もいたようです。 水、 ヘブライ語でメムだったと思います。 マリア、マーヤ、ミリアム、水の概念があります。 ヨナ物語。 3日間 大魚の中に入って復活したという物語です。 この大魚は子宮の比喩だと思うんですね。 tomb 墓で womb 子宮です。 羊水で育ちますよね。 水の洗礼は、生まれ変わるという意味もあることになる。 つまり reborn。 で、なんで3日なのか。 一応調べたんですね。 月でした。 女神の象徴が月。 生命を誕生させる地母神の象徴が月。 だから生まれる 復活する というときは3日3晩 って物語になるのだとか。 で、「ああ 私の心にかなう子」、 女性の声だったのでしょうか・・・・。 それとも女神の地上の体現者とされた女性神官の実際の儀式の時の言葉だったのでしょうか。 この部分の謎はまだ解明はできていません。

noname#80116
質問者

お礼

どちらとも分からないとおっしゃっているのでしょうか。 《はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ 神の国に入ることはできない》とイエスが言ったとヨハネは記しています。その他 同じような文句があります。 わたしは このうち水による洗礼は 必要ではないと受け取っています。でも そうではないということになっていると思われもします。そこで ほんとうにそうなのか もしそうなのなら なぜかを教えて欲しいという趣旨の質問です。 追伸:必要不可欠という説もあれば そうではないという説もあるというご趣旨でしょうか。

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