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十字架に磔にされたキリストの言葉の正しさと奇蹟
- 十字架に磔にされたイエス・キリストの言葉の正しさと奇蹟について疑問があります。
- 七つの言葉が聖書に記述されていますが、その正当性に疑問を抱いています。
- また、なぜ「キリストの復活」という奇蹟が聖書に記録されているのか疑問です。
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Tefu_Tefuさん こんにちは 私はキリスト教の要諦は、キリストは、当事のユダヤ人が望んでいた、ダビデ王のような、強力な指導者として再来し、ローマの属国から解放して秩序ある社会をつくることではなく、神と人間の正しい関係を再構築して、秩序ある社会をつくるために存在したものと思います。 神と人間の正しい関係の中で最も重要なことは、 神はすべての人を憐れみ回心(心を神に回す)させようとして人間の罪を忍耐して見過ごしており、自分が創造したものすべてを愛する神であり、わたし(イエス・キリスト)があなたを愛したように、神とお互い(隣人)を愛しなさい。 ということをイエスは説いたものと思います。 罪を犯さない人間などいません。高慢も罪とされています。自分が罪を犯さない完璧な人間だと思う人がいるなら、高慢の最たるものではないでしょうか。 さらに、キリストの生きた時代に目を向けると、当事の、神と人間の関係を仕切っていた人は、律法学者達であり、律法の専門家が言うなら正しいというが社会の風潮で、律法学者達は自分たちが自分たちで出来うる律法を作り社会で評価されることを望んでいました。 そのような律法は、富裕層のみ守ることの出来るものであり、貧しい羊飼いは安息日にも羊に水を飲ませるため休むことはできず、律法を破った罪を購う(負債を払う)ための、神殿に牛や羊や鳩などのいけにえを捧げる、お金もありませんでした。 キリストはこのような社会的弱者のために、神と人間の本当の関係を述べ伝え、そして、全人類の罪を購うため動物ではなく人間という「いけにえ」として十字架に架かりました。Tefu_Tefuさんの質問の記述は、イエスが神でなく徹底的に人間として生きたことが表れていると思います。 イエスが息たえた後、神殿の天幕が真っふたつに裂けたという記述が、それまで、大祭司しか神と交流する至聖所の天幕に入れなかったが、ユダヤ人たけでなく異邦人と言われた、世界中の人間が神と直接関係が持てるようになったと解され、新約の時代に入ったことを象徴しているそうです。 しかし、これで、終わったら、人類に救いがありません。イエス・キリストが神の子であったなら、その父なる神は、怒りは頂点に達し、人類を滅ぼしたかもしれませんし、鶏が鳴くまで3度わたしのことを知らないというと言われ、そのとおりにイエスを見殺しにしたペトロなどの弟子たちの失意と自己嫌悪による罪の思いはいかばかるものだったでしょう。 しかし、イエスはキリストという神であるがゆえ、3日目に復活し、裏切った弟子を裁き滅ぼすためでなく、人間という弱さから、そのような罪を犯してしまった彼らと、慈愛に満ちた神はいつも共にいるという、冒頭に述べた神と人間の関係を示しました。これがキリスト教の要諦だと私は思ってます。 しかし、キリスト教は、ローマ帝国で国教となりましたから、キリスト教たる教えの存続や布教にプラスに働いた面もあると思いますが、結局、社会的弱者のためでなく、律法学者のような権力者の都合のいいように解釈された歴史のマイナス面は否めないと思います。 大体、私を含め、この哲学カテで質問や回答している人は、能書きを述べる律法学者のような者と思います。 連休を使って、鬼怒川の洪水の後片付けに行ったボランティアやソマリアでPKO活動する自衛隊の方に回答を聞いてみてください。 おそらく、「そんな理屈はどうでもいい。」と回答すると思ってます。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 ★ 5>「私は渇いている(ディフォー)」(ヨハネの福音書19章28節) ☆ 《ディプソー》ですので。 ★ 聖書の奇蹟は、強固な組織を作って、功利主義を導くために記述されたのですか? ☆ (あ) わたし自身は 宗教の組織に――つまり宗教じたいに・またその組織じたいに――反対です。 (い) 主観内面なる信仰から得られたヒラメキをさらに思考の次元に卸して いわゆる思想として表現した意味内容を 組織として集まった集団の守るべきオシへとして固く保持する――しかもこの《考える》べきオシへを何を思ったのか信じよというに到っては――ということに 反対します。 (う) オシへは 信仰という蝉の抜け殻です。 (え) ただし 奇蹟だけの問題ではなく イエスみづからが弟子のペテロ――つまりシモンという名であり 《岩》を意味するケファ⇒ペテロと渾名された――に向かって この岩の上にわたしのエクレシア(民会・教会)を建てる(マタイ福音16:18)とは言っています。 (お) エクレシアが 歴史的にはローマ教会となり 聖職者を中心とする信徒の組織的な集まりとなりました。ムラ(市町村)とその議会のことと捉えてもよいと考えます。 (か) いわゆる原始キリスト教徒たちは 初めから望まれざる信仰の徒と見なされ迫害に遭ったのですから 自分たちが集まって互いに力を出し合って助け合うということに 問題はなかったとも見ます。 (き) その後――つまり公認され国教にまで成ったあと―― 《功利主義》かどうかは知りませんが もしローマ法王が 神の地上における唯一の代理人であると自認したとすれば おおきなマチガイであったと考えます。支配欲に支配された人間の姿でしかないと見られます。 (く) 以上のように考え 宗教は そのオシへが 信仰という蝉の抜け殻であり 組織がオシへを信じよと言うならそれは精神錯乱であり 組織の保守に突き進むならただの権力者と変わらないと見るゆえ これを無条件に弾劾します。 あとは イエスが神の子キリストとして復活したという記述をめぐる問題ですね。 ★ 「キリストの復活」の記述は、キリストの言葉の正しさを台無しにしています。 ★ 何故、聖書には余計な「キリストの復活」という奇蹟が記述されたのですか? まづかんたんなところから: ★ イエス・キリストは、人が神の使途(使徒)であると信じることは、他人から批判されて、罪となると云う事を示しました。 ☆ ちょっと情報が錯綜しているようですが (け) イエスという人間が キリストと呼ばれる神の子でありみづからも神であるという想定は マチガイである。ということでしょうか? (こ) あるいは 神であり 父なる神の独り子であるキリストが神の子であるのとは違って 人間が人間として神のチカラ・神の霊を分有するという意味での《神の子》であると見なすのは マチガイではないか? でしょうか。 (さ) (こ)は あなたが言っているように: ★ 私は、十字架に磔にされ死を迎えるイエス・キリストに仏性が働いていたと思うのです。 ☆ という見方に通じるものと思います。 (し) そのことが (け)として 神のことにのみ当てはまるのではないか? と問うならば 神と人とは 絶対と相対 無限と有限 不可変性と可変性 不可死と可死などなどの区別があるということを言っています。相対・有限等にも 神の霊は――ブッダターやアートマンのごとく――はたらきます。 さて 《復活》の問題です。 (す) 生命体と言いますか 生物に限りしかもヒトに限りましょうか その存在は 自然本性としての身と心なるからだと そして霊のからだがあると言われます。霊の身体とは 神なる場ないしチカラのことです。 (せ) つまり 復活というのは 生まれつきの自然本性なる自然のからだが移ろいゆき朽ちたあと 霊の身体として生きることを言うようです。 (そ) この霊の身体が しかもこの地上に生きるというまぼろしの理論です。 (た) そのときには あたらしい天とあたらしい地に成っているとも言います。 (ち) イエスのキリストとしての復活は このような人間一般の復活のことをあらかじめ示したものと思われます。経験合理性にもとづく経験思考にとってはまったくのウソであり 総じて まぼろしです。 (つ) 世の中には ★ 余計なことや奇蹟 ☆ が まぼろしであるのに 大きなチカラを持つこともあるようです。よ。
お礼
こんばんは bragelonne さん ご回答ありがとうございます。 >★ イエス・キリストは、人が神の使途(使徒)であると信じることは、他人から批判されて、罪となると云う事を示しました。 これは、お金持ちが貧しい人から妬まれるように、神の使徒は他人から妬まれるという意味です。実利が優先しますので。 >さて 《復活》の問題です。 私は、子供の頃、十字架に磔刑にされたイエス・キリストのお話を観てとてつもない衝撃を受けました。 再び、読み返してみて、イエスの言葉は正しかったのです。 イエスは、神に見捨てられたとはっきり言っています。しかし、何時も、誰より隣人を愛します。 そして、最後に、誰もがイエスの愛を共有した事を悟り、イエスは神さえも赦します。イエスを再び人間として復活させる意味はないと思うのです。 >この霊の身体が しかもこの地上に生きるというまぼろしの理論です。 たぶん、イエスの磔刑を観た人々が、まぼろしを観たということはあると思います。 まぼろしを観たでいいのでは?
補足
こんばんは bragelonne さん 「霊の身体」を観たという人がいたら、人は、自分の生きる意味がそこにあると思うのでしょうね。 心地よい理想論に、人は憧れてしまう。 コツコツ生きるより、好きな事をしたいだけできたら、というのが人間の本音かもしれません。 因果応報や輪廻転生があると思った方が生きやすいのでしょう。 夢を観させてくれる人達は必要か。ですね。
- Oubli
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ナザレ人イエスは「キリスト教徒」ではありませんでした。生前に、自分は救世主として復活するなどといったことはなかったと思います。しかし、キリスト教信仰の根源はイエス・キリストの復活なのですね。あるユダヤ人と話した時、クリスマスはイエスという優秀なユダヤ青年の生誕を祝っているんだよ、といってました。また、イスラム教ではイエスはモーゼと同列の預言者とされていますが神の子とは認めていません、そのためイスラム教とキリスト教が妥協することはないのです。 お書きになった主旨はよく解るのですが、「キリスト」と書くとイエスが救世主であるというキリスト教的立場に受け取られます。キリスト教徒以外の方と話す時イエスと呼ぶのはかまわないのですが、キリスト(救世主)とは言わない方がいいと思います(あなたがキリスト教徒ではないと仮定しての話ですが)。
お礼
こんばんは Oubliさん ご回答ありがとうございます。 >ナザレのイエスはユダヤ教の信者だったそうです。 ユダヤ教では、ヤハウェ=神のことだそうです。選民思想やメシア(救世主)信仰などを特色とするユダヤ人の民族宗教とあります。 ユダヤ教は信仰、教義そのもの以上に、その前提としての行為・行動の実践と学究を重視するそうです。 ユダヤ人にとってキリスト教やイスラム教はどういう風に受け止められているのでしょうか?
お礼
こんばんは amenhotep2000さん >神と人間の正しい関係の中で最も重要なことは、 神はすべての人を憐れみ回心(心を神に回す)させようとして人間の罪を忍耐して見過ごしており、自分が創造したものすべてを愛する神であり、わたし(イエス・キリスト)があなたを愛したように、神とお互い(隣人)を愛しなさい。 >イエスはキリストという神であるがゆえ、3日目に復活し、裏切った弟子を裁き滅ぼすためでなく、人間という弱さから、そのような罪を犯してしまった彼らと、慈愛に満ちた神はいつも共にいるという、冒頭に述べた神と人間の関係を示しました。 >律法学者のような権力者の都合のいいように解釈された歴史のマイナス面は否めないと思います。 キリスト教からの観方ですね。 イエスは、神に見捨てられたとはっきり言っています。しかし、何時も、誰より隣人を愛します。 そして、最後に、誰もがイエスの愛を共有した事を悟り、イエスは神さえも赦します。イエスを再び人間として復活させる意味はないと思うのです。 >私を含め、この哲学カテで質問や回答している人は、能書きを述べる律法学者のような者と思います。 意外と、現実では、屁理屈より行動的な方が多いかもしれませんよ。気晴らしかもです。(笑) 詳しいご説明ありがとうございます。
補足
丁寧なご回答ありがとうございました。 最近、学ぶことの楽しさが分かったような気がします。(^-^)