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水による洗礼は要らないのではないか? ――サクラメントについて――
すでに一度わたしは 水による洗礼の必要か否かについて問うています。 【Q:水による洗礼は必要不可欠なことですか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3013375.html 今回は それ(水の洗礼)が秘蹟(サクラメント)であるから欠かすべからざるものだという場合のその根拠について問います。 秘蹟とは何か? ▲ (ヰキぺ:サクラメント) ~~~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88 サクラメント(英: sacrament、羅: sacramentum)は、キリスト教において神の見えない恩寵を具体的に見える形で表すことである。それはキリスト教における様々な儀式の形で表されている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり水による洗礼を受けるときに このサクラメント(秘蹟)が現われるという意味だと思います。これについて つぎのように問います。 【Q1】 洗礼などの儀式をいま離れて一般的に言って 《神の見えない恩寵が具体的に見える形に表わされた》とひとりの人がその内面において――信教・良心の自由において―― 捉えることは自由である。しかも このことは その内面を出るものではない。信教・良心の自由ゆえ。ではないだろうか? 【Q2】 その受け身の場合を超えて そもそも人間が《神の見えない恩寵を具体的に見える形で表わす》ことが出来るのか? したがって儀式などにおいて それとしての秘蹟が成り立つものなのか? 【Q3】 秘蹟は おそらく【Q1】に戻って ひとりの人間の内面においては成立すると言うひとがあれば 認めねばならないであろうけれど では 組織においてそのことが成立すると言えるか? * 組織とは 権限関係を規定して活動をおこなう集団とします。 【Q4】 一般に秘蹟は 組織において規定しても 個々の人間にとってその内面を外に出たところでは判断のつかないことであり 無効であるのではないか? 【Q5】 なぜならひとりの人にとって 《神の見えない恩寵が具体的に見える形で表わされた》と受けとめることは 自由であろうし そのことをほかの人に言葉で伝えてもまだよいであろうが その人間としての表現行為の有効性はそこまでであると考えなければならないのではないか? 【Q6】 五十歩ゆづって その秘蹟は 無効だと言えないとしても 有効だとも言い張ることは出来ない。こうではないか? けれども組織としては 有効だという前提に立つはずであるから やはりその前提が無効だと言わなければならないのではないか? ☆ 洗礼・秘蹟は 特殊な主題ですが 問題は 人間の自由について問うものであり 一般性があると考えます。
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こんばんは、失礼致します。Hidocchiです。 今回は、以前のご質問と重複するところもございましたので、簡潔に述べさせていただいております。 > 【Q1】 意見を等しく致します。 > 【Q2】 現実的には、成立不可能かと考えております。 > 【Q3】 組織においてそのことが成立すると言えるか? [定義] 組織(社会上のです):個人では成し遂げられない目標を達成するための、複数の人々による恊働・手段・システム(体系)。(Wikipedia 組織(社会科学)からです。) 元来、”組織”といった場合には、何らかの強い志等を持った目的があろうかと 考えられます。しかし、現時点では、宗教において、かような強い目的があるとは考えにくいと思われます。 仮に、目的が信者にとりまして、不確定なまま、儀式(システム体系)が一人歩きしますと、“組織”が生き残ることはあっても、むしろ、“わたくし”としての信仰は死んでいくものと解しております。 ですが、それ以外の場合、例えば”考古学的 or 神学研究”等におきましては、「学問の自由」も保障されていることから、許容されると解しております。 また、初期キリスト教のような状況下、つまり圧倒的に虐げられる側の立場(信教の自由が認められていない状況下です)では、その当時の信者たちには、”秘蹟”により、ある種の”救い”が得られた可能性はあろうかとも考えておりまし(教義自体の存亡すら関わっている状況ですから)、また強い”恊働”をもたらした結果、想像以上の”信仰心”もしくは”行動力の発揮”をもたらしか可能性もあろうかと思われます。ですが、「信教の自由」が与えられた今日では、形式のみの”秘蹟”は、かえって信仰心の”形骸化”をもたらす可能性が高いと考えております。信仰とは、そのひとの内面の問題だからでございます。しかも、その内面情報は容易に、他のひととは情報交換可能なものではないと考えられるからです(そのひと固有の体験、経験に基づくものだからでございます)。 > 【Q4】 上記理由により、現在では、意味をなさないと考えております。 > 【Q5】and【Q6】 表現行為の有効性は、通常、理性的認識が可能な範囲内に限られるかと思われます。 ご参考になるところがございましたら、幸いでございます。
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>あなたはわたしの信頼をそこねるほうへ・そこねるほうへと 話を持っていくのですね。 えっ?これは意外なモノ言いです。 どの点を、そうお受け取りになりましたか? >おおすじで同意しているが どこか何か隙間がないか そのほうばかりを追い求めています。けっきょくは 探し求めた論点も すべて屁理屈です。 屁理屈、というモノ言いは、飽くまで質問者さんにとっての、でしょう。 恐らく当方以外の人たちにも、質問者さん自身が、そうなのであると思われていることが多いかもしれないと思わせられましたが、それは、当方にとっても、そうですよ。 自分の、こうあるべきという理想の鋳型ばかりを頑強に主張していて、弱さも含めた現実の人間というものを頭から無視しているとみえるのです。 「おおすじで同意している」というのも、飽くまで質問者さんが、そう受け取られていただけで、当方は、すでに根本から立場が違うと思っております。 それが許せませんか? >家族と一般の組織と同じですか? とりわけ ひとが生きる上で最も基本的な信教・良心の自由にかかわる信仰をよりにもよって掟として群がる集団つまり宗教組織と同じだと言おうとしているのでしょうか? 家族と一般の組織とを全く同じと申した覚えはありませんが? では、お尋ね返しますが、質問者さんのいう「家族」とは、どのようなものですか? 但し、質問者さんの理想論ではなく、現実の、ですよ。 > ほかの論点も追って知るべしです。 あなたは ちょうどお望みどおりに わたしの信頼を失いました。 「お望みどおり」?これはまた、実に感情的なご発言で、当方にすれば心外の一言です。 どうやら質問者さんの「信頼」をではなく、ご機嫌の方を損ねたようです。 ですが、ここは、質問者の機嫌取りをする場所ではないのです。 こちらは、こちらなりの考えを、出来る限り真摯に述べてきたつもりです。それが許せないのでは、「井戸端会議」どころではないでしょう。単に、質問者さんの独裁的独壇場でしかありません。 回答者は、質問者さんに呑み込まれるために投稿しているのではありませんよ。 それと、以下は、特にきちんとしたご説明を求めますが、さっぱり、そのご真意が分かりませんので。 > 過去質問のことを出したとき あなたは ご自分のこころの中で 相手をないがしろにするという気持ちを持ち ええぃ あとは野となれ山となれ 相手は 何とか下手に出てくるだろうから 一ぺんは言い放ってやれというお気持ちに開かれてしまった。 当たっているかどうかにかかわらず そういう意志行為が現われたと捉えます。 何が「当たっている」ですって?「そういう意志行為」? 全く意味不明ですよ。これもきちんと説明していただきたい。 真摯に投稿してきたつもりが、ここへ至って脈絡もなく、いきなり怒鳴りつけられ、ケンカを売られたかのような戸惑いを感じております。どういう意味ですか? 質問者さんは、もしかしたら、これまでも、回答者に対して、このような独り善がりな対応をされてきたんですかね? 参考に貼った過去質問ですが、これは、実は上の方だけザッと読んでみただけで、質問者さんと同様の趣旨のご意見も上がっているようだと思ったものですから、決して、質問者さん一人、誰にも理解されない孤立的な考えを主張しているのではないようですよと、お知らせしてみただけのことですよ? この質問が過去に上がっていたこと自体、こちらは全く知らずにいたのです。 >つぎのお応えにて最終の判断をいたします。 当方も、そうすることに致します。 どうも、非常に無礼で自分中心な考え方の癖がおありのように感じられました。 貼りました過去質問、念のために、急いで始めの方から目を通してみますが、 こちらは申し上げたように、退会を急いでおりますので、その点、なるべくご配慮願います。
お礼
それでかまいません。
申し忘れました。 「神」の概念や神話というものは、どれも、どこかしら似たりよったりで世界中に掃いて捨てるほどあるようですが、「仏」また仏世界の概念を打ち出したのは、後にも先にも、釈尊ただ一人ではありませんでしたか? その点でも、まさに画期的な人物だったと思います。
おはようございます。 さっそく、とりかかります。 > 《神は愛なり》を なおわざわざ《おしえ》として説く者が出た。しかも 掟ないし規範とする。この規範をもとにして 組織を立ち上げる。そこでは 権限関係が決められる。 親子の関係でも、わが子でありながら、自然な愛情を感じられず、もっぱら親の務めという形式的義務感によって子に接するほかない、という親も子も双方からの悩みを、ときに聞くことがあります、親子というのも、いわば権限関係の基本みたようなところがありますね。 一対の夫婦でつくる家庭が、もう組織の始まりみたいなものですし。 > 《神は愛なり》は わたし個人の内面における非思考の領域である。自分で この表現を持っていてもいいが そして 一対一の対話をもとにして 相手にそれを話してもいいが 教義規範化および組織化されるなら 内面の非思考ではなく 外面の経験思考の問題に固定する。 その、おっしゃる「一対一の対話」から、もう「教義規範化および組織化」が始まりかねない側面はあると思いますがね。そのことを心配しなくてよい者ばかりではないという困った問題があるでしょう。 ま、よりによって「愛」なるものについて、大仰にも、つべこべと口に出していう者を、当方は信用しない傾向にあります。 これも、こちらは、よく存じないことなのですが、仏教の教え、その修行、「戒律」というものですか、やはり「無根拠」ではないのでしょうね。特に、身体を律していく方法についての教えなどは、とにかくやってみよ、そうすれば結果は出る、といった感じで、むしろ殆ど科学的な立脚点に乗っているように思われます。そこが、はたして、これは宗教なのか否か、といった疑問の湧くところでしょうか。宗教、とまで呼ぶには届かないもののようにも感じられます。 ですが、「念仏」というのは何なのだろうか?と、かねて思っておりました。その方面の人は、「お念仏申せよ」とかと、他人にも頻りに勧めるんですか? さて、それが一見、まさに骸のように見えるとしても、本来、「儀式」というものには、生存への切なる願いが込められていたはずだと思います。日常の単なる挨拶なども、そうでしょう。年賀状廃止という声もあるようですが、心がこもってないなら挨拶もよすがいい、とまでは聞かれないようです。 ともすれば「形骸」と呼ばれる、そうしたものの連綿と続いてきた上に、われわれの今日(きょう・こんにち)がある。ですから、無慈悲なまでの一刀両断に処するばかりでは通らないのも無理はないのではないでしょうか。 生存の願いには、底知れない不安がつきまといやすい。 身も蓋もないですが、何を信じないの、かにを信じるの、神がどうのこうの、何を言ったって、しょせんは人間が勝手に言い散らしているに過ぎません。 宗教的なるものとは、他者を巻き込み、それによって力を得ようとすることです。ですから、必然として数を頼みます。「仮の言葉」を現実のものにしていこうとします。そのために、他人を必要とします。これは「仮」である、などと敢えて言うはずがないのです。「暗黙の了解」を求めるのです。そこが見分けられるかどうか。宗教の「つけ込み」行為は、そこを狙います。本当に信じている対象のものは、「他人の裏づけ」です。ひとりで立っておれない。 > 《もし非思考の内面において 信仰が成っているならば きみたちは むさぼることもないであろう》 つまり、落ち着いておれるんですな。 宗教あるいは宗教的なものにのめり込むのは、ひとえに不安感の強さからでしょう。そこを、安んじさせてやらねばならない。しかし、これが難しい。 この一つ前の投稿で申し上げたように、本能的なものと密接に関わっているからです。 しかも、このへんのことは、周知のように、歴史を振り返っても容易に知れること、科学分野に代表される人類全体の発展ぶりの底に脈々と横たわっているものです。 ですから、ここを瓦解せよと言うにも等しいことで、困難というよりも、一般的に、ほぼ不可能というべきことでしょう。そこを無理押しに押すと、猛反発を食らいます。 根拠のある・なし、正しいのかどうかも分からない、そんなものを信じられるというのも、妙な話ですが、しかし、現に、われわれの日常を支えていることでもある。 不合理だからこそ、信ずることしか残されていない、というのでしょうか、そのくらいの強度の信を持てるくらいにならないと、不安に喘ぎ続ける心を鎮めることができない。 落ち着いて生き抜くためには、安心立命が求められるのだけれど。 考えてみれば、「組織」というものは、一個の生命体のようでもあります。壮んなる時もあり、やがての寿命もある。弱き個人個人が寄り集まって、組織を維持させようとする行為の底には、自分たちの、はかなき命を引き受けてもらえるかのような哀しき錯覚の願いもあるような。 人の間では、信じてもらいたくば、相手に信じよと要求するばかりでなく、信じさせてやることも必要です。そしてそれは一方的なものではなく相互のものである。それが「信」というものであろうと思います。 しかし、誰でしたかな、一人でみる夢はリアリティがないとか言ったのは。 当方としては、現実の生活の諸問題に、どう対処していくかの考察が第一の重大事だという立場をとります。哲学としての視点で見た場合でも、これに違背するものとは思いません。むしろ、哲学であるから、という理由で、肝心の現実の生活を脅かすようなことがあってはならない、それでは元も子もない、「哲学教」になってしまう、と考えております。この点で、宗教の持つ問題と、何ら変わりないものになってきてしまう危惧を思います。 > 現代では一般に民族という組織に縛られるという事態は 卒業しました 当方は、これに素直に頷けません。アフリカからアラブから、民族がどうのこうのという声の大きいのが、むしろ、逆戻りしているのではないかと思わせられるほど、記憶に生々しい。 現代の、たとえば日本において、「宗教組織」なる括りは、同じ日本人という一般に認められる通常感覚での括りのなかに、なお一種の「民族集団」を宣している体のようにも感じられます。 そうしてみると、こんにち「宗教組織」というものは、精神的な意味での「民族組織」を宣言しているようなものかと見えなくもない。傍から見ていても、妙な閉鎖感がただよっているようなのは、このあたりが原因ですかね。 > まったく自由な・外からも他人からもまったく自由な 内面における信仰という頼りがあります。 そうですか、、こちらとしては、「自由」とかは関係なく、むしろ「不自由」なものではなかろうか?というくらい、「信仰」というものは、「愛さずにいられない」などという歌の題名ではありませんが、「信じずにいられない」ものかな?と思ったりしております。 ところで、もう一つの方の御質問、「このカテゴリで人気のQ&A」トップに上がっているではないですか、あちらは完全に「乗っ取られた」としか言いようのない状態で、凄まじいまでのなだれ込みで、さすがの質問者さんの存在感もかすみがちと申しますか(苦笑)昔の一会員さんのHNまでを脈絡もなく唐突に出して見せるなどは、ここへ至って、該博な教養人と見えた投稿者を含めた各人の本質・品性が出たかのような有様、何が彼らをこうまでさせますかねえ。。 また、こういう連中を夥しく引き寄せてしまうという現象についても、いろいろと思うところはありますが、君子でもない当方は、さしあたり、危うきに近寄らずを決め込むことにして、おりを見て退散させていただこうと思います。 それはそうと、こういう過去質問もあったのですね。ご存じだったかもしれませんが。まだ受付中でしたよ。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4956139.html
お礼
Baldur09 さん あなたはわたしの信頼をそこねるほうへ・そこねるほうへと 話を持っていくのですね。 おおすじで同意しているが どこか何か隙間がないか そのほうばかりを追い求めています。けっきょくは 探し求めた論点も すべて屁理屈です。 ○ 家族と一般の組織と同じですか? とりわけ ひとが生きる上で最も基本的な信教・良心の自由にかかわる信仰をよりにもよって掟として群がる集団つまり宗教組織と同じだと言おうとしているのでしょうか? ☆ ほかの論点も追って知るべしです。 あなたは ちょうどお望みどおりに わたしの信頼を失いました。 過去質問のことを出したとき あなたは ご自分のこころの中で 相手をないがしろにするという気持ちを持ち ええぃ あとは野となれ山となれ 相手は 何とか下手に出てくるだろうから 一ぺんは言い放ってやれというお気持ちに開かれてしまった。 当たっているかどうかにかかわらず そういう意志行為が現われたと捉えます。 つぎのお応えにて最終の判断をいたします。
お察しのとおり、こちらは「アブラハムの信仰」というものを全く知りませんですが、つまり、ヨハネという人は、 > 昔のアブラハムやモーセからの信仰に戻るために ということは、それは、組織というものとは全く違うものなんですか? > イエスは このヨハネに敬意を表して かれによる水の洗礼を受けたという つまり、ヨハネは、アブラハムやモーセに敬意を、イエスは、そのヨハネに敬意を表した、というわけですか。 > もし《仮りの表現》ではないと〔教会が〕言い張ったなら その場合のほうが ★ 信仰の対象への冒涜 ☆ なのです。いくらていねいに高尚なと思えるような深遠な理論と呼びかけを言っても 固定してしまっているなら それは 《信仰》が死んでいます。その蝉の抜けがらとして宗教が威張っているだけになります。 > 教会の中という一般には知られていないところでであっても これの偶像崇拝儀式が行なわれているなら 哲学は放っておけないし おかないのです。必要なかぎり《仮りの表現》をついやすことでしょう。 ええ、そのあたりの御意見や御心情は、こちらにも容易に理解できるように思いますよ。 しかし、飽くまで、「もし」とか「なら」ということ前提で、おっしゃるのですね? > 個人と組織 この区別にもう少しこだわってください。 とのことですが、 「仮りの表現」を、どこまでも「仮の表現」として留めておけない。その「仮の表現」に力を持たせたい。 このような「宗教」「組織」の問題って、ヨハネとイエスのごとく、最低2人いれば、もう始まってきますよ。 そうなると、「個人」だから「仮の表現」だからも何も関係ないのです。 > この《聖霊(つまり なぞ・無根拠です)による洗礼》というのは パウロが広めようとした《その中身が何もない〈十字架の言葉〉》です。 えっなんですか? パウロって人は、言わば空荷というか、中身が入ってない箱を売りつけようとしたようなものなんですか? それはハッキリ言って詐欺でしょう。 まあ、その空の箱には、あなたの好きなものを入れてください、ってことですかね? だったら、その空き箱に、おっと、それは入れちゃあならぬ、これを入れなさい、なんて大きなお世話だし、最初の話が違うがな、ってとこですねえ。 御紹介の質疑応答は申し訳ないですが、時間の余裕がないために、きちんと目を通すことはできませんが、 > 《仏性》は 肝心要のブッダじしんは説いていないということです。 ということなら、それは些か驚きでした。だったら「仏性」なんて言葉、いったい誰から出たんですかね? 仏陀自身は説いてない。すると、ひょっとして、「仏性」なんて、あの仏陀のことだから、仏陀自身が、そんな改めて言うようなものあるかぁ、と思ってたりしてね。 あるいは、まあ、「わたしを見て、このように」ってことですかね。はたまた、いわく言い難いものだ、とか。 >《とっくに分かっている》ことを実現する ってことだったのでしょうかねえ。。 >人類の歴史上 この《とっくに分かっている》ことを言ったのは キリスト・イエスだということになります。その点で わづかながら特別なのです。 はあ、そうですか。。「わづかながら」とは、こういうところがクリスチャンらしからぬというのだ、と、他の信者の方々から反感を買いそうなのではありませんか?(笑) ま、人間個人を敬愛するのは良しとしても、崇拝は問題化するでしょうから、このくらいの冷静な捉え方でいいのかもしれませんね。 もちろん、おっしゃるように「人類の問題」なのだ、といえば、そうなんでしょうけど、あえて、そういう視点で捉えた提起であるということであれば、こりゃあ大変な手間になりますね。こういうQAサイトで、いつまでたっても収束しないのも当然です。 だって、宗教なるものは、ヒトの本能的なところから発しているものとガッチリ手を組んでいるようなものでしょうから。それだけに手強いものです。周知のとおり、人類の歴史にもガッチリと喰い込んでいる。 「神とは ひとり満ち足りている存在」ですか、それで言うなら、「宗教」に頼らずにいられない者は、まさに、到底「ひとり満ち足りて」おれない者でしょう。そういう者だからこそ、「宗教」に頼るのですから。 宗教なるもの、宗教というものは畢竟、数を頼んで成り立ってる世界なんで、これに真っ向立ち向かって、これを殲滅せんものとヤッキになれば、一転、自分自身も、「宗教」の様相を帯びて来ざるを得なくなる。その危うさがあることを指摘していたつもりです。ニーチェの言う、あれですか、「深淵を覗き込む者は」ですな。 暴力的革命にしたって、そういうことなんでしょう。 ですから、まあ、そちらの立場からは一見は消極的な姿に見えるかもしれませんけども、結局、頑として中に入らない、「外の者」としてある、これが、宗教なるものにとっては、それが成り立とうとしたとき一番歯が立たない相手でしょうよ。 皆がそのようにすれば、必然的に、宗教なるものは成り立ちようがないのです。 とことん喰い込もうとする者には徹底的にとり合わない!まあ要するに無視と呼ばれるような形ですけど、しかも、これで現実的に「共生」も成り立つという一石二鳥ですよ。 こちらとしては、自分以外の者のことで、本気に危惧して実際的な手を打っていく必要が、想像している以上に危急のことかもしれないと思うのは、幼い子どもに対する、養育者側の宗教から来る影響のことです。親が入信してるからって、自分で選択できない幼い者を入信させてしまえるとしたら、これはリッパに憲法にかかわる大問題だと思います。成人が自分で選択して入信するのとはワケが違う。 ところで、実は当方、とっくに退会しようと思いつつ、この質問のためだけに残っている状態です。あと1回くらいで、2回もあれば、なんとか?と思ってはおりますが。。 この質疑においても全体的に思いましたのは、 外から見ていたんじゃ分からない、さりとて、中に入る気のない者なら、もとより「組織」の者に耳を貸す気も眼中に入れてもないわけで、したがって、「宗教組織の硬直した屍と化した教義」なんぞに影響される筋合いも心配もなし。かつ、そもそも宗教的なるものの弊害を、自分から起こす気づかいも当然、薄い。 ということで、信者でない者は、「宗教組織」に対して真っ向から関わり、糾弾の声を挙げ続けるべき動機の強さがないわけです。 繰り返しになりますが、むしろ、こぞって完璧に無視し続けるほうが、「宗教組織」瓦解を早々に促す決定的な力になるはずです。 こちらの立場としては、まともに異議を申し立てるエネルギーを、ここぞ費やすとしたら、日常生活に影響を及ぼし、個の選択権を脅かす危惧が出てきた場合です。 このような点で、おっしゃるような「井戸端会議」であれ、同様の危うさは孕んでいる恐れありと考えているのです。 こちらとしては、上記のような場合には、断固、生活を死守します。 それ以外では、ふだんから決して、つけ入らせない!これに尽きます。 やはり、宗教教義の是非などのことについては、キリスト教ならクリスチャンという、「もし」とか「なら」ではなしに、すでに内部事情を分かっている当事者が、「宗教組織」に対して糺されていくことじゃないか、と思います。同じクリスチャンどうしで、団結して事に当たっていかれるべきかと。 しかし、どういうものか、ここには、なかなか、そういう方お見えにならないんですな? 「宗教」また「組織」なるものを成り立たせないための最有効手段というのは、こうしたサイトの質問に対しても共通なんですね。
補足
Baldur09 さん ご回答をありがとうございます。 退会されるとか。残念に思います。いま別のところでもうおひとりも そうおっしゃっていて 何だかものごとは重なるものですね。 ○ 《仏性をシャカムニは説いていない》ことについて。 ▲ (ヰキぺ:仏性) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%80%A7 〔釈迦の滅後 おおむね上座部仏教(南伝仏教)と大乗仏教(北伝仏教)に大きく二分類される〕。 上座部仏教では、この穢れた世界(娑婆世界、穢土)に生まれて苦しみを受けるのは煩悩によるものであると捉え、出家して厳しい戒律を保つことによって煩悩を断ち切り阿羅漢になることを目的とする。 これに対して、大衆部(のちの大乗仏教)では、阿羅漢を小乗とみなして、その上の尊格に仏を立てた。また大乗仏教の教理では、誰もが救われることを主眼に置き、出家はもちろん在家でも救われると考えられ、誰もが仏になれる可能性がある、つまり仏性があるという考えが生まれた。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ あとは 次の基本命題として捉えていただければ 問題は整理されると考えます。 1. 向こうからやってきた声を わたしは神として聞いた。これを受け容れた。非思考の信仰である。 2. この信仰を わざわざ人間の言葉にして表わした。神は愛であると。 3. 《神は愛なり》を なおわざわざ《おしえ》として説く者が出た。しかも 掟ないし規範とする。この規範をもとにして 組織を立ち上げる。そこでは 権限関係が決められる。 4. 《神は愛なり》は わたし個人の内面における非思考の領域である。自分で この表現を持っていてもいいが そして 一対一の対話をもとにして 相手にそれを話してもいいが 教義規範化および組織化されるなら 内面の非思考ではなく 外面の経験思考の問題に固定する。 5. わたしが信じるのは 非思考において なぞの・無根拠の神である。文字で書いた神ではなく それをたとえ愛と言いかえたとしても その規範化された内容でもない。それらは 《思考ないし想像》の問題である。ましてや 組織のもとに 権限や他人が言い渡す思考内容が 信じるべき神であるわけがない。 6. 教義化および組織化の時点で わたしの信仰は 死を迎える。そこに例外はない。 ですから 宗教組織の中で その運営や人間関係がうまく行っているかどうかの問題ではなく また 入信の勧誘が人間的・民主主義的におこなわれるかどうかの問題でもない。こういう問いです。 宗教団体は この世にあってはならないという哲学問題であり 人間の自由のそれです。 ★ パウロが広めようとした《その中身が何もない〈十字架の言葉〉》 ☆ この《空荷》は 経験思考やそれとしても経験行為は 中身として まったく何もないという意味です。もっとも 非思考の信仰が成ったわたしには 何がしかの変化がおとづれるというものでしょう。何がしかです。 アブラハムから始まったこの神の信仰は その当時 世界は 一般に部族ないし民族がひとまとまりの集団となって生活していました。独島は われらが民のいのちであると表現しうるほどに 民族が一体でした。モーセのときにそのようになりました。 この民族が 組織だとすれば そのまま宗教団体でした。イスラエルは おおむね 今もそのようですね。 また 《むさぼるなかれ》などなどの掟つまり教義化も モーセのときに出来ました。これは 基本的に 《もし非思考の内面において 信仰が成っているならば きみたちは むさぼることもないであろう》と言っています。そういう個人の信仰にとどまっているとも強弁できます。 現代では一般に民族という組織に縛られるという事態は 卒業しましたから 民族宗教という教義および組織の問題は 薄いと言っていいのではないでしょうか。宗教団体という現実を問題にしていてよいと思います。ただし現行憲法は これをゆるしています。 ★ 「神とは ひとり満ち足りている存在」ですか、それで言うなら、「宗教」に頼らずにいられない者は、まさに、到底「ひとり満ち足りて」おれない者でしょう。そういう者だからこそ、「宗教」に頼るのですから。 ☆ まったく自由な・外からも他人からもまったく自由な 内面における信仰という頼りがあります。 どうでしょう?
ある者を思う、掛け値なしのその気持ちが、何かの行動に伴って表された、その行動が、的の外れた思い込みとしか評されないような表しであったとして、どんな場合にも、それを責めることができるんだろうか。 しかし、また、キリストが自ら望んで磔刑にかかったのだ、という奇妙な出来事も、そのことを特別視、重大視する信者の思いも、クリスチャンでない者にとっては、単に「的の外れた思い込み」に過ぎないとバッサリ切り捨てることもできるだろう。 > 教会側が 水による洗礼は 秘蹟として正しいと決めているという事実が先にあるのですよ。 ところで、肝心のイエス自身は、秘蹟なる儀式を一切排斥すべきであるという考えだったのですか? > 洗礼はたしかにイエスも受けましたが それは この世界へのかれの現われを告げる洗礼者ヨハネに敬意を表してその儀式に従った。こういうことであるのではないですか? これは、あなた独自の解釈というわけでもないのですか? つまり、敢えて、人間のレベルに合わしてやったのだイエスは、ということでしょうか? ふぃと思い出したのですが、日本における神社参りでも、境内の清水で口や手を清めてから、というのが神に対する最低限の礼儀とされるし、神道系に限らないのでしょうが、宗教的な何らかの儀式で、身体を洗い清めてからとりかかる、というのは基本的な手続きになっているのを多く見かけます。 先の投稿でも一例として茶道のことを述べてみましたが、これらは、みな本当に単なる「形骸」でしかないのでしょうか? > そういうしるし自体を 人間が儀式において作りだすことは出来るのでしょうか? 水による洗礼をとおして 聖霊がくだることをどうして人間が演出することができるのでしょうか? 事実、作り出せないなら作り出せない。 事実、聖霊がくだることを人間が演出することができないなら、できない。 それだけです。 重ねて尋ねますが、組織に属する信者たちは、その点、だいじょうぶじゃない、のだということですか? > ★ 《とっくにわかってることにされる》――☆ のではなく そうではなく (1)で言うように 《なぞとして》分かっていることにするのです。《非思考》と言っています。神は無根拠だと言っています。 このように説明しておけば あとは キリストのキの字も出さなくてよいようになると思います。無神論者らもいくらかの派に分かれる有神論者たちも みな互いに対等で自由に 話し合いを持ってすすむことが出来るはずです。 何かね、、たとえば、自分が恋をした相手に、相手の方にしてみれば、これといって伝えた覚えなんか実際には何もないのに、自分は間違いなく確かに相手の方から何か伝えられたんだ、そのことに関しては二人だけの秘密で口外してはならないことだから自分の心の中だけで了解して、相手が何か伝えてきたということについては、だから黙っておくのだよ、みたいな、自己完結完全版、ってな感じなんですよ。自分から積極的に表現していくよりも。しかも、なお、それを皆で暗黙の了解、公然の秘密としたうえで、話をしていこうじゃないか、と呼びかけてる感じも受けるんです。 そこが、区別しまくってるじゃないか!と糾弾なさる対象の教会組織より以上に、むしろかえって押し付けがましくもあるとすら感じますよ。ということを言ってきてます。 > 落ち着くところは ひとつ。《自由》って言やぁ 自由だって決まってるぢゃないか。 そりゃあそうですよ。そうでしょう? > わづかに宗教組織は 日常生活において遠いところにあるから それほど自分の身にかかわることとしては考えていないだけさ。 いや、 区別するな、声を大に言うのは、実は、その区別を向けてくるものを到底無視できぬほどに、とらわれているからではないか? 実は、むしろ自分自身が、そこにおいて「区別」をしている側なのではないのか? > 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。 べつに「愚か」だとも思いませんよ、それこそ非思考で。 しかし、信者でないこちらにとっては、「救われる」わけでもなく、したがって、べつに「神の力」にもなりはしませんよ。 > 《十字架の言葉》ったって ほんとは 何もないんですから。非思考なんですから 決まった言葉はないのです。出す必要がないですし 出す言葉がないはずなんです。仮りの表現が横行しまくりましたね。 おっしゃるこの言葉じたい、「仮りの表現」でしょう。 > これに宗教団体にかんしては 例外規定をもうけるという話になるかも知れません。そのために 市民一般のあいだに共同主観を築くことは 必要であり生産的なのです。宗教団体の勧誘などに免疫が得られるとすれば 建設的だと思いますよ。 なんだか、質問者さんには、随分と切羽詰まった問題なんですね? まあクリスチャンだとおっしゃるんで、当然そのせいもありますかね。 宗教団体の勧誘など、そういうことへの「免疫」がないために、社会問題になってることも見かけますが、まあ、日本の社会では一般に、いわゆる「自己責任」の安易な一言で片づけられやすい事柄でもあるようですね。 > いま現在その組織においては まさにこの《強制》が 歴史的伝統だからといった理由で ゆるされています。哲学は 迂回生産なんですから そういう主題を取り上げて質問するのは ふつうのことだと思いますよ。 ですから、その《強制》が 歴史的伝統だからといった理由で ゆるされています、というのは、内部の者の問題です。属していない者には、ゆるすもなにもない。 属すかどうかが選択できないことになったら、こちらにとっても大問題になります。 > 宗教組織そのものを完全に瓦解、崩壊、解体させてしまえ > 自己解体〔をうながす〕。 「届かない」者には、そんな情熱ないっス。 解体せずに、そこにズッコ!と聳え立ったままでいたって、なかに入る気なんかサラサラないんですから。 もちろん、有無を言わさず無理やり連れ込もうとしたら犯罪行為でしょう。それが社会的に認められていなければ、連れ込もうとした側が、いずれは自分の首締めるだけですよ。それこそ憲法でしょ?
補足
Baldur09 さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ○ 個人と組織 ☆ この区別にもう少しこだわってください。引用も復唱も省きますが 個人の領域については 何ら咎めるようなことは言っていません。組織の問題です。あるいは組織にかかわるかたちの個人の問題です。あとは ○ 身近のところに問題はなくても じんるいの問題だとすれば 哲学はそれを取り上げる。 ☆ この姿勢をも省みてください。 この二つの見方を及ぼしてもらえれば おおよそ同じ着地点にたどりつくのではないでしょうか。と受け取りました。 次のところに注目して欲しかったと思います。まづ ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ > 《十字架の言葉》ったって ほんとは 何もないんですから。非思 考なんですから 決まった言葉はないのです。出す必要がないですし 出す言葉がないはずなんです。仮りの表現が横行しまくりましたね。 おっしゃるこの言葉じたい、「仮りの表現」でしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ を受けてですが 次です。 ☆☆ (No.23お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ もし《仮りの表現》ではないと〔教会が〕言い張ったなら その場合のほうが ★ 信仰の対象への冒涜 ☆ なのです。いくらていねいに高尚なと思えるような深遠な理論と呼びかけを言っても 固定してしまっているなら それは 《信仰》が死んでいます。その蝉の抜けがらとして宗教が威張っているだけになります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いまある《〈仮りの表現〉の偶像崇拝化》をそうだと指摘する《仮りの表現》は要り用です。 ★ ところで、肝心のイエス自身は、秘蹟なる儀式を一切排斥すべきであるという考えだったのですか? ☆ これは (1) イエスのときに 組織としての儀式はなく (2) おそらく〔と言うのも おかしなことだとおっしゃるでしょうが〕 昔のアブラハムやモーセからの信仰を継ぐという主題があり まづそこで 洗礼者ヨハネという人が出ました。悔い改めて元のアブラハムの信仰に戻るために からだを川で水に浸すという儀式を始めたわけです。しかも 変な言い方をすれば 自分はあとに来る神の子(イエス)のための露払いであると言ったわけです。 ▲ (〔聖書記者〕ヨハネによる福音1:32-35)~~~~~~~~~~ そして〔洗礼者〕ヨハネは証しした。 「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまる のを見た。 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわ たしをお遣わしになった方が、 『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊 によって洗礼を授ける人である』 とわたしに言われた。 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の 子であると証ししたのである。」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ イエスは このヨハネに敬意を表して かれによる水の洗礼を受けたという流れです。 そこで この《聖霊(つまり なぞ・無根拠です)による洗礼》というのは パウロが広めようとした《その中身が何もない〈十字架の言葉〉》です。これを《とっくに分かっている》ことにしようというのは たとえてみれば《ひとは誰にでも仏性が宿る》ということが《とっくに分かっている》と見なすことと同じです。 わづかに問題は 《仏性》は 肝心要のブッダじしんは説いていないということです。 【Q:ブッダはなぜ《仏性》を説かなかったのか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5224310.html となれば 人類の歴史上 この《とっくに分かっている》ことを言ったのは キリスト・イエスだということになります。その点で わづかながら特別なのです。でもいちど認識したあとは 出す必要はなくなるというものです。 この《とっくに分かっている》ことを実現するのは じんるいの悲願です。教会の中という一般には知られていないところでであっても これの偶像崇拝儀式が行なわれているなら 哲学は放っておけないし おかないのです。必要なかぎり《仮りの表現》をついやすことでしょう。 問いやご主張のひとつひとつをもはや取り上げ得ませんでしたが おおむね伝わると思っております。いかがでしょうか?
補足欄を拝見しました。 まず、重ねてお断りするのは、どのような宗教に入信している信者さんも、こちらにとっては、その内奥までは窺い知れぬこと、(もしかしたら、信者さん同士でもそうなんでしょう、だったら、それこそ「宗教組織」に属しているか否かは、究極で関係ないことになりませんか) それに比べれば、質問者さんの理念とか理想から言わんとなさることは、よく整理されていますし、たとえ大まかにであれ、こちらにも、まだ理解しやすいように思っていることは申し上げておきます。しかし、 > 仮りのもの=いわば代理表現であるとわきまえているなら だいじょうぶ 組織に属する信者たちは、その点、だいじょうぶじゃない、のだということですか? まさか、いくらなんでも、まるのまんま、、、ということではなかろうと思うんですがねえ?? もし、「だいじょうぶじゃない」というのが実態ならば、それ自体が、なるほど、信仰の対象への冒涜になるわけだろうとは思いますが。。かりにも信者、信仰者を自任する者がですか? キリスト教の象徴と言えば、十字架が有名ですが、十字架そのもの、つまり、木なり金属なりで拵えた十字型をしたもの、そのものを、有り難く信じてるっていうんですか~?まさかと思いますけどね。。。当方には、そのへんのところ、わかりません。 「水による洗礼」という象徴形式が何に置き換えられようと、一般に形式的行為、というものが、たとえば、(個人的には詳しくないですが)茶道における諸々の仕草などですと、はたして「形骸」、と呼ぶ方が相応しい形式に過ぎないばかりなのかというと、そうではなさそうですが。。 > ★ 信者さんらには、キリストの行為を自らも追体験したいというような切なる思いがあるのではないのですか? ☆ これはほとんど趣味の問題だと思います。 っということですと、それでは個人的な問題になるじゃないですか。 > ☆ ひとりの力よりも多くのことが出来る仕事もあるからです。弟子それぞれとイエスは一対一で交通(まじわり)を持ったということです。ただしキリストは 組織での活動がどうだこうだの問題を超えています。次元がちがうとも表現してみます。要するに 十字架上に去っていくことがそのつとめを表わすひとつの手段だったのですから。 超えています、と言われても、、、この箇所は、こちらが信者でないせいか、理解しにくいところですが、 「ひとりの力よりも多くのことが出来る仕事」というのは、「弟子それぞれとイエスは一対一で交通(まじわり)」を持つこと自体を指して言っておられますか?そうであるなら、それに限っては、一切の組織的形態をとる要が本当にあったのかな?と思います。 「ひとりの力よりも多くのことが出来る仕事」、イエスのそれについて、もっと具体的に述べていただけたらと思いました。 > パウロによれば 《宣教という愚かな手段》を自分は採ったと説明します。これは人間がそうしたのです。 パウロは言ったというんですね?「宣教は愚かな手段だ」と。そして、その愚かな手段は、人間だから採ったのだと。 > 《なぞがおとづれたとき 何のことだか分からないといけないので 念のため そういう宣伝もおこなわれた》のだと考えます。 しかし、どのようなものだかは、よく知りませんが、その「宣伝」したからといって、その「なぞ」なるものが何のことだか分かるものなんですかねえ。。?? > ですからその後の歴史にあっては 組織は 研究機関としてなら自由なのだと考えます。自給自足の修道院生活も自由でしょうね。 おっしゃる「自給自足の修道院生活」というのも、大なり小なり組織的形態のもとにある生活じゃないのですか? 個人的自由にもとづく「信仰」についての、あくまで研究機関としてなら、組織であっても自由と認められるというお考えですか?うーん。。。 宗教方面のことは、よく分からないもんで、自分にも少しは身近なことに例えさせてもらうと、ま、あれですか、小説読んで、あ~おもしろかったな!とリクツ抜きで感じるのと、学問としての文学ということでアレやコレや研究するのと、区別、ってことですか。 それで、組織形態をとってる宗教というものは、リクツ抜きで、あ~おもしろかった、という面に、いらぬ指図をしておるのが怪しからん、ということですかな? もっとも、研究者として携わってしまうと、今度は一読者としての純粋なよろこびがガタ減りするって聞きましたがね。。。 >★ 宗教組織を激しく批判する立場であるらしい質問者さんが、こうしたサイトで、多くの人に、ご自身の「かくあるべし」思想の賛同を呼び掛けておられるのは何故なんですか。 ☆ ということは わたしが 宗教組織をつくろうとしているということでしょうか? いや、そういう意味とは違いますよ、質問者さんが、何らかの組織をつくろうとしているのかどうかなんて、どうでもいいんです。そうじゃなくて、こうしたサイトで、 > 誰しも哲学にかかわる者なら 多少とも《自身の「かくあるべし」思想の賛同を呼び掛けておられる》のではないですか? とおっしゃること自体、サイトの基本的性質として、おっしゃるところの「迂回生産」なるものを目指しておられるにしても、どうなるものかな?と思うんです。 なぜなら、属していない者には届かないからです。 > キリストのキの字も出すことなく って、もとより、出すも出さないもない、キリスト教信者ではないですから。こっちはハナから出す気がないですよ。 「水の洗礼」を受けていないから、おまえは部外者、区別され、外の者とされたって、こっちは、それで、もともと結構なわけで、むしろ、「言わなくともいい、わかっているぞ」とて問答無用で、とっくにわかってることにされる方が、ある種の居心地の悪さ、窮屈さを感じるような。。。 > 自由に集まり自由に解散します。政治・文化等については 民主主義にのっとった組織です。 そうおっしゃいますが、そういうのと宗教組織の問題と並べて議論できますかねえー? 自由に集まり自由に解散、って、それを宗教組織にも要求するなら、もう根本的次元で宗教組織としての形態そのものが成り立たないのではありませんか? もう、どうしたって、宗教組織そのものを完全に瓦解、崩壊、解体させてしまえ、ということに尽きるじゃないですか。 そして、それを、信者でない者らに呼び掛けて、どう迂回「生産」に結びつくのかな?というのが、正直言って、よくわかんないっス。 だって、たとえば「水の洗礼」を受けてないからどうだこうだ言われたって、こっちはそれがどうした、としか思いませんし。もちろん、「水の洗礼」を強制されるようなことがあったら、「なんだよ!?」と反発感じるだろうし、抵抗もするかもしれない、しないかもしれない。 じゃあといって、受けていようがいまいが、おまえも等しく、キリストの、、と言われたって、「勝手に言っとるなあ~」ですよ。これが現実。その現実の生活に、宗教組織が牛耳ってくるようなことがあればともかく、その内部に所属していない者には届かないんです。「ゆっとれ。」なんです。 だからじゃないですか、宗教組織というものが、どうしてもヒエラルキー構造で、飽くなき支配力を求めてやまない本質性なのは。 つまり、「届かなくてはならない」んでしょうね。
お礼
☆ これはですね。《出す必要がない》ことを言っています。経験思想と科学そしてもろもろの井戸端会議でじゅうぶんだという時代が来るという意味です。 《十字架の言葉》ったって ほんとは 何もないんですから。非思考なんですから 決まった言葉はないのです。出す必要がないですし 出す言葉がないはずなんです。仮りの表現が横行しまくりましたね。 もし仮りの表現ではないと言い張ったなら その場合のほうが ★ 信仰の対象への冒涜 ☆ なのです。いくらていねいに高尚なと思えるような深遠な理論と呼びかけを言っても 固定してしまっているなら それは 《信仰》が死んでいます。その蝉の抜けがらとして宗教が威張っているだけになります。 ☆★ 「自給自足の修道院生活」 ☆ 順番が前後していますが これは 共同生活だとすれば それとしての自給自足を成り立たせるための組織〔のみ〕だと考えます。信仰がかかわるのは間接的にだと思います。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「水の洗礼」を受けていないから、おまえは部外者、区別され、外の者とされたって、こっちは、それで、もともと結構なわけで、むしろ、「言わなくともいい、わかっているぞ」とて問答無用で、とっくにわかってることにされる方が、ある種の居心地の悪さ、窮屈さを感じるような。。。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですから しかしながら (1) 誰もが《聖霊(つまり なぞ)による洗礼》は受けていると考えるわけです。 (2) ★ 《とっくにわかってることにされる》――☆ のではなく そうではなく (1)で言うように 《なぞとして》分かっていることにするのです。《非思考》と言っています。神は無根拠だと言っています。 このように説明しておけば あとは キリストのキの字も出さなくてよいようになると思います。無神論者らもいくらかの派に分かれる有神論者たちも みな互いに対等で自由に 話し合いを持ってすすむことが出来るはずです。 神にとっては 千年が一日だと――いまわざと おどけてみますと――言いますから ちょうど二日が経って真夜中が過ぎたころです。あたらしい世の中がやってくると思います。
補足
Baldur09 さん ご回答をありがとうございます。 どうも思うのですが Baldur09 さんは ご投稿の初めから 結論は出しておられた。のではないか? 落ち着くところは ひとつ。《自由》って言やぁ 自由だって決まってるぢゃないか。わづかに宗教組織は 日常生活において遠いところにあるから それほど自分の身にかかわることとしては考えていないだけさ。うんぬん。うんぬん。っちゃうかなぁ? ★ もう、どうしたって、宗教組織そのものを完全に瓦解、崩壊、解体させてしまえ、ということに尽きるじゃないですか。 ☆ ずばり 目指すは このひとつのことのみ。ですよ。むろん決まっています。強いて言い方を変えるなら ○ 自己解体〔をうながす〕。 ☆ というところでしょうか。税金と同じで 自己申告制にしたがうほうが 自由でよろしい。と思いますよ。 いくつか細かいところで おぎないます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ サイトの基本的性質として、おっしゃるところの「迂回生産」なるものを目指しておられるにしても、どうなるものかな?と思うんです。 なぜなら、属していない者には届かないからです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たとえば結社の自由が憲法にうたわれています。これに宗教団体にかんしては 例外規定をもうけるという話になるかも知れません。そのために 市民一般のあいだに共同主観を築くことは 必要であり生産的なのです。宗教団体の勧誘などに免疫が得られるとすれば 建設的だと思いますよ。 ★ もちろん、「水の洗礼」を強制されるようなことがあったら、「なんだよ!?」と反発感じるだろうし、抵抗もするかもしれない、しないかもしれない。 ☆ いま現在その組織においては まさにこの《強制》が 歴史的伝統だからといった理由で ゆるされています。哲学は 迂回生産なんですから そういう主題を取り上げて質問するのは ふつうのことだと思いますよ。 ▲ (パウロ:コリント前書1:17-21) ~~~~~~~~~~~ なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。 それは、こう書いてあるからです。 「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、 賢い者の賢さを意味のないものにする。」(イザヤ書29:14) 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、≫宣教という愚かな手段≪ によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ もう今では 地球上の誰もが 《キリスト・イエス》というひとの名前を知っています。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >キリストのキの字も出すことなく って、もとより、出すも出さないもない、・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
No.8・14ですけど。 そもそも、宗教の性質というものが、一人ひとりが自分の内部で勝手に納得して黙っているのでは成り立たないものなのではないですか。どうしたってヒエラルキーの世界でしょう? > 宗教組織とは 《個人の非思考という内面にかかわる(=霊的自由にかかわる)信仰内容を言葉にしたものを わざわざ教義としこれを基にして組織をつくり 信仰を興すことを活動の内容とする集団》です。 「ふつうの団体」の組織的な活動も、宗教的なそれも、結局得ようとしてるところのものは同様なものじゃないですか。 宗教組織を激しく批判する立場であるらしい質問者さんが、こうしたサイトで、多くの人に、ご自身の「かくあるべし」思想の賛同を呼び掛けておられるのは何故なんですか。 まず、ご自身が批判してやまないらしい対象の宗教組織に対して、現実的に、どういう働きかけをしてこられたわけですか? もしや、ここで質問する、というのが、その活動ですか? こちらはキリスト教に関して知らない者なので、お聞きしますが、あくまで一人ひとりの内部的なものとして、ソッとしておけばよいことなら、キリスト自身が弟子を集めたというのは、何のためだったんですか?単に時代背景だけの理由ですか? どう言えば分かるかな…と思いましたが、こちらの言ってることが微妙な次元に過ぎるのかな…しょうがない、一応、確認してみますが 質問者さんは、「非思考」ということを非常に重んじておられるらしいですが、では、キリスト教ならキリスト教の宗教組織と、その教義に、幼い頃から空気のように馴染んでいて、そんなものだと思って、教えられ言い聞かされてきたことに関して何もゴチャゴチャ考えず、自然な気持ちで儀式のことなどにも従ってきた人のことは、どう批判されますか。 こちらはキリスト教に直接の関係がないので、信者の心情もよくは分かりませんが、信者さんらには、キリストの行為を自らも追体験したいというような切なる思いがあるのではないのですか? 個人的に信仰心を掻きたてられる、目には見えない「何か」が自分だけに訪れたとして、それだからといって、何も表にあらわしてはいけない、何もするんじゃない、というのが質問者さんの言いたいことですか? 何かが訪れた、自分がそのことをしかと受け取りたいという積極的な気持ちであれば、確かに受け取りましたよ、という表現をしたくなるのが人情じゃないですか? > 非思考・非経験の信仰が 思考としての教義や経験行為としての組織活動に翻訳されるなら その翻訳 儀式っていうのは、あくまで個人レベルのものであれ、たとえ組織的な規模であれ結局、いわゆる偶像崇拝と同じことになるんでしょう。 「思考不可能」なことを敢えて言語表現してみせることだって、同じことじゃないですか。 最後に、ここ、強調しておきたいんだけど 当方のように、何の宗教組織に属していないし、はなから属す気もない者は、 「信仰の自由を侵される」も何もない! んですよ、そんなもん。 あなたも属していないんでしょ?
お礼
★ 「ふつうの団体」の組織的な活動も、宗教的なそれも、結局得ようとしてるところのものは同様なものじゃないですか。 ☆ 人間にとって非思考のなぞをめぐる信仰が 生きる上で基礎であるなら すべての社会活動も 《得ようとしてるところのものは同様なもの》であるでしょうね。 と同時に 《研究団体》とそして《教義とした上でのその信仰のもとに活動する組織》とは まったく目的と性格が違います。人と人とのあいだで 信仰を絆とするのが間接的か直接かで違います。自由に対する保守とその冒涜とです。 ★ 宗教組織を激しく批判する立場であるらしい質問者さんが、こうしたサイトで、多くの人に、ご自身の「かくあるべし」思想の賛同を呼び掛けておられるのは何故なんですか。 ☆ ということは わたしが 宗教組織をつくろうとしているということでしょうか? 誰しも哲学にかかわる者なら 多少とも《自身の「かくあるべし」思想の賛同を呼び掛けておられる》のではないですか? (*2) ★ 宗教組織に対して、現実的に、どういう働きかけをしてこられたわけですか? もしや、ここで質問する、というのが、その活動ですか? ☆ そうですよ。迂回生産ということです。 (*2) それでは 組織活動をまったくしないのか? という問いでしょうか? (1) 宗教はいっさいありません。 ☆☆ (No.9お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ○ しかも生活日常では――それを井戸端会議とも言ったりしますが―― 信仰は一般に背景へしりぞく。たとえばキリストのキの字も出すことなく 対話や議論をおこなっていく。(専門的な研究などでは別)。 ○ 信仰(つまり 回心)のあとの実践は 一般に哲学思想でありもろもろの経験科学である。というよりも 現実の生活であり 共生である。 ○ (そこに倫理規範を敷いて道徳が大事だと称し ごっついビルディングを建てたりアスファルトを敷いたり何ごとをも四角四面の窓で区切ってやっとそこからのみ眺めることが出来たりするその意味での宗教は 要らない。百害あって一利無し)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (2) 一般の人びとに向かっては自由な連帯という方式です。自由に集まり自由に解散します。政治・文化等については 民主主義にのっとった組織です。
補足
Baldur09 さん ご回答をありがとうございます。 字数制約によって ご回答内容を復唱する場が限られます。まづ基本的に次のわたしの文章が 川底を流れていると思いますので掲げます。 ☆☆ (No.8補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 信仰によって得られる境地をもっと自由に開いて――という意味は 水による洗礼にこだわらずにということですが そのように開いて―― 自由を拡げてください。と言っているのですが。それが 大きなお世話である・・・のかも知れないですね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここから次のように前もって見ておくことができます。 (1) 宗教組織に属しているか否かは いまこの質問を起こすことと関係しません。社会における共生の問題であるゆえ。 (2) また同じくその理由として 哲学の問題であるからと言えます。信仰の自由は 人間の自由の問題です。部外者であるものはいません。 いまひとつすでに述べたものを掲げます。ご批判に答え得ていると思います。 ☆☆ (No.9お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ○ 個人の信仰と集団の宗教とをきびしく分けるべし。 ○ 宗教は要らない。それは 《こころの明けないし伸び》という非思考なる信仰の内容を仮りに言葉にして表わすまではよいが その文章内容を教義とすること および その教義にもとづいて組織を組むこと これとしての宗教は 信仰の自殺行為である。 ○ 非思考・非経験の信仰内容が 思考としての教義や経験行為としての組織活動に 道をゆづってしまうその瞬間に 自死となる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ さて 次のご主張は わたしと同じ趣旨のように見受けられます。 ★(例1)そもそも、宗教の性質というものが、一人ひとりが自分の内部で勝手に納得して黙っているのでは成り立たないものなのではないですか。どうしたってヒエラルキーの世界でしょう? ☆ つまりは 個人どうしの対話と組織活動との二段階があると捉え 後者について批判をしているという点においてです。次は おおむね同じ趣旨でしょう。 ★(例2) 儀式っていうのは、あくまで個人レベルのものであれ、たとえ組織的な規模であれ結局、いわゆる偶像崇拝と同じことになるんでしょう。(※) 個別のご批判にお答えします。 ★ (※)「思考不可能」なことを敢えて言語表現してみせることだって、同じことじゃないですか。 ☆ 非思考のなぞをたとえば人間の言葉で《かみ》と表わすことは 仮りの表現です。つまり《仮りの》というところが 《〔観念の〕偶像》になります。この《かみ》の一言から始まってきわめて多くの言葉をついやして表現して来ているようですが その観想としての神秘思想や神学も 仮りのもの=いわば代理表現であるとわきまえているなら だいじょうぶです。 言いかえると その信仰内容の偶有的な表現を 教義化する反人間的な行為の以前にも そのまま《かみ》そのものとしてあおぐ《偶像崇拝》という反自由の行為があります。 ▲ (パウロ) 文字はころし 霊(* なぞ)は生かす。 ☆ と言われている問題です。この偶像崇拝は だいたいのところ 教義化・規範化と同じでしょうね。 ★ 信者さんらには、キリストの行為を自らも追体験したいというような切なる思いがあるのではないのですか? ☆ これはほとんど趣味の問題だと思います。 ★ ・・・幼い頃から空気のように馴染んでいて・・・自然な気持ちで儀式のことなどにも従ってきた人のことは、どう批判されますか。 ☆ いまこの質問の趣旨を伝えます。 ★ キリスト自身が弟子を集めたというのは、何のためだったんですか? ☆ ひとりの力よりも多くのことが出来る仕事もあるからです。弟子それぞれとイエスは一対一で交通(まじわり)を持ったということです。ただしキリストは 組織での活動がどうだこうだの問題を超えています。次元がちがうとも表現してみます。要するに 十字架上に去っていくことがそのつとめを表わすひとつの手段だったのですから。 つまり《非思考のなぞ》が或る日或るときあなたにおとづれるということを・それのみを 伝えようとしたし 伝えきったということではないでしょうか。 ちなみに パウロによれば 《宣教という愚かな手段》を自分は採ったと説明します。これは人間がそうしたのです。《なぞがおとづれたとき 何のことだか分からないといけないので 念のため そういう宣伝もおこなわれた》のだと考えます。ですからその後の歴史にあっては 組織は 研究機関としてなら自由なのだと考えます。自給自足の修道院生活も自由でしょうね。
- katyan1234
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洗礼 秘蹟の前に信仰とはなにか?ここが一番大切なことですね。 この信仰とは何か ある人たちは教会につながることが正しいといい、ある人たちは洗礼という、またある人たちは行う事が大切だと言う。 しかしそれぞれが主に結びついてるならどうでもいいことだと思うよ。
補足
ご投稿をありがとうございます。 ★ しかしそれぞれが主に結びついてるならどうでもいいことだと思うよ。 ☆ これは信教・良心の自由という大前提のことです。主観内面のもんだいです。問うていません。問えません。 ★ この信仰とは何か ある人たちは教会につながることが正しいといい、ある人たちは洗礼という、またある人たちは行う事が大切だと言う。 ☆ 《水による洗礼》という《秘蹟》 つまりこれは《行事》であり《儀式》ですが これらをとおして《教会につながること》が 《信仰》の始まりであると主張する考え方について 問いを提出しています。 ☆☆ (No.17お礼欄)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ どっちが正しいと決めたとたん裁く状態はよくないから ☆ 教会側が 水による洗礼は 秘蹟として正しいと決めているという事実が先にあるのですよ。そこから出発してください。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆☆ (No.7補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 【Q2】 ・・・そもそも人間が《神の見えない恩寵を具体的に見える形で表わす》ことが出来るのか? ☆ たぶん――考えるのですが―― 教会側はこう答えると思います。 ○ (教会側の答え・1) むろんそれは《秘蹟》というからには――《水に浸ける》のは人間がおこなうのですが―― 《そのとき神の聖霊がくだるようにさせる》のは 神の側である。サクラメントは ギリシャ語原語でミステリというゆえんである。 ☆ と。つまりむろん《個人の霊的自由》は あくまで《なぞ》であり《非思考》です。あとは おそらく次のような答えになるかと推し測ります。 ○ (教会側の答え・2) イエスも洗礼者ヨハネから洗礼を受けたし パウロも受けた。みなイエスの指示に従うペテロら弟子たちの直伝でほどこされた洗礼が継承されている。ここにミステリつまり秘蹟の秘蹟たるゆえんがある。 ☆ と。これに対しては でも問題は 聖霊のくだること つまり聖霊による洗礼が いちばんであることでしょう?という問い返しを持ちます。 ところで プロテスタンティズムでは この系譜の洗礼を直接に受け継いでいるのでしょうか? 断絶ができているのでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆☆ (No.2お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ あらためて趣旨説明します。クリスチアニスムの内容に入り込んでの説明です。 1. そもそもキリスト者であることに なぜ水による洗礼が欠かせないのか? 2. つまり神の子となったことについて――と言っても 神の子であり神であるキリスト・イエスのことではなく その名をこころに受け容れて かつては闇の世界にさまよっていたのを光に照らされ光の子らになるという意味で神の子となったことについて―― まだそうでない人びととの区別をするかたちで どうして 水の洗礼を受けなければならないのか? 3. アブラハムは 水による洗礼を受けていません。信仰のしるしは 割礼でした。これも要らなくなりました。 4. 洗礼はたしかにイエスも受けましたが それは この世界へのかれの現われを告げる洗礼者ヨハネに敬意を表してその儀式に従った。こういうことであるのではないですか? 5. 信仰はむろんキリスト・イエスが十字架に去って行ったあとみづからが送ると言ったところの聖霊を受けて 始まります。(つまり 経験的な思考にとっては 無根拠です)。それで光の子であるキリスト者の誕生です。なぜ水による洗礼というしるしが必要なのでしょうか? まだ光の子らになっていない人びとと なぜそのしるしによって区別する必要があるのでしょうか? 6. そうして【Q2】です。そういうしるし自体を 人間が儀式において作りだすことは出来るのでしょうか? 水による洗礼をとおして 聖霊がくだることをどうして人間が演出することができるのでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ どうでしょう?
こんにちは、Hidocchiです。ご返答に対するをお礼を遅れてしまい、申し訳ございませんでした。 こちらこそ、意見にお礼を頂戴しまして、光栄に存じます。 ルター(ルーテル)派の件でございますが、元来、ルター自身も”秘蹟”を重要視していたようでございます。ただ、その布教活動にあたり、彼の意向がそうさせたのか、もしくは周りの協力者が望んだにかはわかりませんでした。 > 儀式や秘蹟をとおさない――そして身分関係をうんぬんしない また 相手の信仰の形態をふつうに超えたところの――はだかの存在どうしの自由な関係もしくは絆も いいものでしょうね。 確かに仰る通りかと存じます。身分、地位といったものに縛られず、お互いの信仰心を(自由に)認め合った上での関係・絆といったものも経験したいと願っております。 末尾ながら、深くお礼申し上げます。
補足
Hidocchi さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ほかに時間をおいて投稿される方があったものですから もう結論は出たと思うのですが しばらく待つと言おうとしましたし 申したのでした。もう締めればよかったかなと思っております。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ルター(ルーテル)派の件でございますが、元来、ルター自身も”秘蹟”を重要視していたようでございます。ただ、その布教活動にあたり、彼の意向がそうさせたのか、もしくは周りの協力者が望んだにかはわかりませんでした。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いわゆるキリスト教史については それほど知る必要を感じなかったというのが 横着者のわたしの正直な現状です。 同じく正直に言って 『キリスト者の自由』には アウグスティヌスの恩恵論を超えるものは見いだせなかったのです。カルワ゛ンの著書は 抄訳でしたか けっこう読んどかなくちゃという思い入れをもって読んだのですが――その題名ももう忘れるくらいです―― なんでこんな教説が注目されたのかと思ったような記憶があります。トマスアキナスにしても とにもかくにも細かく議論しているとは思いましたが アウグスティヌスを超える新説が出てくるとは思えませんでした。 ルネサンスでは どうも魔術系統の知識が流行しこれを取り入れるかのような議論がなされたようですね。先日のK.バルトにしましても いまひとつあざやかな文章であるとも思えないところが残るようです。 アウグスティヌスは さすが古代人ですから 科学知識についてその未発展段階のことはともかく その扱いにおいてもやや護教論にかたむくところがあるのですが それを除けば 観想の成果はいまでも一流のものがあると思っております。 ルーテルは要するに 一般にプロテスタントの教会でも洗礼をほどこすようですから おっしゃるように秘蹟論を継承したのでしょうね。 一人ひとりが牧師であるという考え方は いいですね。親鸞は弟子を一人も持たずそうろうでしたか 互いに《同朋》だと言いました。 《見えざる教会》という考え方を小耳にはさんでいますが まだ調べておりません。(いちど調べて 簡単には参考サイトや資料など見つからなかったのでした)。 世の中は――と言っても この哲学カテゴリのことですが―― 風雲急を告げて来ているようないないような・・・に感じています。
あなたの間違いは、貴方だけにわかります。 ざんげとはそういうことです。 負けを認めることが、秘蹟です。 泡を吹いているだけでは足りませんよ。 水の洗礼も受けてないのだから、あやまるぐらいはしなさい。 今すぐにとはいいません。自分の至らなさ をみとめなさい。
お礼
《猛進》は今に始まったことではない。 あわれむにも値いしなくなっている。 いつくしもうにも塀を閉ざしている。 これまでどれだけのそしりを行なってきたか。あんたが訊いてやるとよいであろう。 それにしても 邪魔だ。
補足
このわれにして言うのを忘れていた。 これまでに何十回と言ってきたからだと思うが 誹謗中傷は今後いっさいやめなさい。
補足
Hidocchi さん すごい。すごいです。われながら読んでいて こんなにも同感していただけるとはとの思いです。 共同主観ということばがありますが この主観の共同性は 成り立つものなんですね。このことばは わたしとしては コモンセンスの訳語として使っていますから 常識のことなんですけれど この常識は特に日本では一般に 共通の知識として捉えられているきらいがあります。判断もしくは判断力のことを言わずしては その《主観》であるとかその《共同性》であるとかの意味が あまり用を成さないと考えられます。 ここでも ――象徴的に言うのですが――免罪符を売ったから宗教組織はいけないですとか あるいは 組織と一口に言っても 中にはまともな人たちがまともに運営していている場合もあるから 一概に断定するのはいけないですとか そういう知識項目にもとづいて 判断をみちびく場合があります。これはこれも世間の知恵なのかも知れませんが やはり自由論あるいは民主主義論などなどとして みなさんも大いに考えを進めて行って欲しいところですよね。 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。わたしの勇み足は どうしても必然的に人びとが力を出し合って助けあわずにはいられないときのことを忘れてはいませんかとなりましょうか。 社会的に弱い立ち場の人びとが迫害を受けたりして苦しめられるなら 協力する道がありこれを閉ざす謂われはないと。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 初期キリスト教のような状況下、つまり圧倒的に虐げられる側の立場(信教の自由が認められていない状況下です)では、その当時の信者たちには、”秘蹟”により、ある種の”救い”が得られた可能性はあろうかとも考えておりまして(教義自体の存亡すら関わっている状況ですから)、また強い”恊働”をもたらした結果、想像以上の”信仰心”もしくは”行動力の発揮”をもたらしか可能性もあろうかと思われます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 存亡の危機においては 《個人の霊的自由》を集団によっても守る。 ★ ですが、「信教の自由」が与えられた今日では、形式のみの”秘蹟”は、かえって信仰心の”形骸化”をもたらす可能性が高いと考えております。 ★ 信仰とは、そのひとの内面の問題だからでございます。しかも、その内面情報は容易に、他のひととは情報交換可能なものではないと考えられるからです(そのひと固有の体験、経験に基づくものだからでございます)。 ★ ですが、それ以外の場合、例えば”考古学的 or 神学研究”等におきましては、「学問の自由」も保障されていることから、許容されると解しております。 ☆ ありがとうございます。わたくしもこのように考えます。 考えてみますと たとえばルーテルが《聖書のみ》あるいは《信仰のみ》と言ったときすでに《組織とそこにおける秘蹟ないし儀式》は必要ないと言ったも同然だったでしょうか。でも洗礼は残されたようです。絆が深まるくらいに思っているのでしょうか? でもたぶん 儀式や秘蹟をとおさない――そして身分関係をうんぬんしない また 相手の信仰の形態をふつうに超えたところの――はだかの存在どうしの自由な関係もしくは絆も いいものでしょうね。 いましばらくほかの投稿をも待つことにします。