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水による洗礼とは何か?
- 水による洗礼はいつまで続くのか疑問に思いませんか?
- 洗礼の必要性は神の新しい契約によって変わったのかもしれません。
- 洗礼は聖霊によって行われることが本当に必要なのでしょうか?
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質問者が選んだベストアンサー
水のバプテスマは、イエスがなさったようにユダヤ人にとっては義に叶った事です。 しかし、バプテストのヨハネはイエスは火と聖霊でバプテスマを施す方と紹介していますから、キリスト者はイエスの施す火と聖霊のバプテスマを受けなければキリスト者ではないと思います。 また、旧約時代の山やエルサレムといった場所や神殿での礼拝方式は、霊と真理を持って神を礼拝する方式になったので、現在の教会建物に集まって礼拝する方式は本来キリストの教えではないと思います。
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キリスト教における洗礼については無知ですので、あくまでヒントとしての答えです。 私は何度か伊勢神宮に参拝していますが その都度、五十鈴川の手洗い場で清めてきました。 いつも思うことは、こんな素晴らしい清めの場所は他にはない、という感じです。 広い石畳の階段を下ってゆくと、きれいな川の水が迎えてくれます。 周りには林の木々が豊かに繁り、すべてがゆったりとした大らかな感じに見えます。 川の流れに沿って接するように作られた広い石畳には、万人を迎えるかのごとき感じさえあります。 自然の川の水で清めるという、考えようによっては大変贅沢なしつらえなのですが そこに行けば、贅沢という思いは湧いてきません。 (大らかな)安らぎ、静けさ、清らかさ、といった感覚です。 ここには、水のみにこだわった清らかさの演出といった作為的なものが感じられない いわば天然自然の本来のものに触れるという感じなのです。 さまざまな儀式において、水は清浄なもの、清めるものとして扱われてきたのでしょう。 私には密教系の修法の始めに必ず行う酒水というものが印象に残っています。 人と自然との関わり合いが、様々に形を変えて宗教に取り入れられてきたのだと思います。 そうしたものは宗教の本質には直接関係はない、と言ってしまえばそうかもしれません。 しかし、 五十鈴川の水に手をひたしてみれば感じるのです。 水は流れている、水は澄んでいる、水は冷たい・・・ということが誰でも、です。 それは神への入口のしるしであり、神からの迎えのようでもあります。 万人が水を通して自然に触れ、神にさえ触れるといったことができるのかもしれません。 五十鈴川の石畳の風景からですが、 インドのバラナシの川岸の風景を思い浮かべます。 こちらはヒンズー教の聖地ですが、いつも大変な賑わいで水もきれいなようには見えません。 でも、基本的には同じような感覚ではないのかと思います。 自然に触れるという体験が宗教に取り入れられていると思います。 自然そのものが一種の神であるという感覚は共通しているように思えます。 水は神の化身・・・ キリスト教ではどうなのでしょう? そこまではいっていないのでしょうか。 それでも清浄なものとして扱う感覚はあると思いますし 人の心を清めるに相応しいもの、 として洗礼に用いられているのは自然な感じがします。 宗教の違いを超えた自然を敬う気持ち・・・ どちらかというと、自然を敬う気持ちの方が宗教より先だったかもしれません。 人より先に自然があった・・・ということなのでしょうね。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。ひとことでお応えを表わせば こうなりましょう。 水ないし自然がひとにもたらす感覚 これとその感覚を組織宗教の儀式などに用いることとは やはり分けて捉えなくてはならないでしょう。 あるいは 山からの谷を流れるきよらかな水と それを住宅にせよ神域の一隅にせよ用いることとは 別のことです。 そうして 山や水や樹々の自然にひとりの人間として畏れや親しみをいだくことと 集団においてそのことをあじわうこととは また別のことです。 自然ゆえに・自然を摂り入れたゆえに 人びとの成すこと考えることが すべて無理なく受け容れられるとは限らない。 あるいはぎゃくに言えば そんなことを言うのならば 五十鈴川の水も家の水道の水も 同じくとうとくうやまうべきものであるとなります。 また事実 ひとりの人間としては そういった自然に対するうやまいを持つという場合もなきにしもあらずです。つまり そういうふうな個人にとっての何ものかに対するおそれ としての信仰を問題にすることと 集団としての宗教ないしその儀式とは やはり違うのです。 もっとも小さく批判したとしても 宗教は 人びとが群れるという限りで 個人にとっての信仰の二番煎じである。こうなりましょう。 そうして 水やら自然やらとのたとえば一体感が 一次的な信仰の内容を成すとすれば そのひとつの要素を 他者とも共有することによって 言わば見えざる教会をかたちづくって行くのであって すでに初めに組織や制度としての教会があって そこでおこなう儀式をとおして 自然に親しむというわけのものではない。こう言わざるを得ないでしょう。宗教がもたらすものは 二番煎じであり むしろ一番煎じの残り滓でしょう。もっとも大々的に飾っていますし 大げさな儀式にも作り直してもいますが。 すなわち ★ ~~~~ 宗教の違いを超えた自然を敬う気持ち・・・ どちらかというと、自然を敬う気持ちの方が宗教より先だったかもしれません。 人より先に自然があった・・・ということなのでしょうね。 ~~~~~~~ ☆ 宗教の中では 人はそしてその信仰は 死んでしまいます。体裁だけは うつくしくなるようです。 ということではないでしょうか。
お礼
ぱんとまなさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 率直に述べますが 《ならわし》にもとづいて 何かを判定するというのは あまり根拠とはならないと思うのです。賛同のお答えをいただいたのですが それらは 中立と言いますか たぶん付属物のようなものではないかと考えます。 ★ 水のバプテスマ ☆ でもこれは 洗礼者ヨハネが始めたのですよね。ヨルダン河でしたかに身をまるごと浸(つ)けるかたちで。 イエスは――きわめて世間的な話をしますが―― このヨハネに義理立てして 浸水としてのバプテスマを 自分も 受けたし またそれを踏襲するというようなことも言っていたかも知れません。ですが いくら《水と霊による》と言ったとしても 水のほうは付属物であるとわたしは考えます。それは聖書記者ヨハネの冒頭の記事――《人間の意志にもよらず 神によって生まれた》――にもとづきます。 ★ しかし、バプテストのヨハネはイエスは火と聖霊でバプテスマを施す方と紹介していますから、キリスト者はイエスの施す火と聖霊のバプテスマを受けなければキリスト者ではないと思います。 ☆ 《火》も たとえでしょうし おそらく付属物であろうと見ます。 《水と血と霊》という言い方も どこかにあったのではないでしょうか? 《血》が その色が赤いというつながりで 《火》とかかわっているかも知れません。血は 十字架上でその脇腹を槍で突かれて出たその血でしょうね。 あと 《火の中をくぐりぬけて来たようにすくわれる》という表現も パウロがしていましたか。 ★ また、旧約時代の山やエルサレムといった場所や神殿での礼拝方式は、霊と真理を持って神を礼拝する方式になったので、現在の教会建物に集まって礼拝する方式は本来キリストの教えではないと思います。 ☆ これについて 目に見えるものは みな付属物であるのではないかと見るそれらです。 でも アブラハムにほどこすよう言われた《割礼》も イエスのときに(そのあと 弟子たちの合議で) 要らないと決まりました。これも 大きくは《ならわし》としての付随物の問題だと考えます。つまり 《要らない》ということであり それと同じように《洗礼》も要らないとなると考えます。 仮りに建物としての教会があるとしても それは むしろすべての人に向けて自由に集まることのできる場として使えばよいのです。言いかえると 人はみなキリスト者であると捉えなければウソです。 だったら 目に見える教会は 《要らない》となります。組織もそしてその入信の儀式としての洗礼も みな《要らない》となりましょう。神は すべての人の神です。