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エホバの証人は神を信じているか?
- エホバの証人はイエスを信じていますか
- イエスは天から地上に来て、完全な人間としての命を贖いの犠牲として差し出してくださった、という信仰を抱いています。
- イエスの死と復活により、イエスに信仰を働かせる人は永遠の命を得られるようになりました。
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これはエホバの証人のみが抱える問題ではなく、 組織・教義宗教がひとしく抱える問題なのでしょうね。 たとえば、 信徒信条 ニエケ・コンスタンティノーブル信条 http://www.catholic-fushimi-kyoto.jp/oinori3.html この《オシエ》(信条)を信じる者がキリスト教徒。神を信じるのではなく、この《オシエ》を信じ、神の前でこのことを告白することによって、神の子となる。 そして、この構造は、キリスト教だけに限ったものではなく、イスラームでも同様で、 「アッラーフ(神)の他に神はなし。ムハンマドはアッラーフの使徒である。」 という《シャハーダ》をしなければならない。 シャハーダ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%80 ~~~~~~ ムスリムになるためには、証人となるムスリムの前で信仰告白の手続きを取ることが必要である。ムスリムは、神(アッラーフ)を常に身近に感じるように、五行を実践することが建前である。 父親がムスリムであるものは自動的にムスリムとなるとされている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%A0 ~~~~~~ 神を信じるというよりも、《オシエ》を信じているんですよね。 その《オシエ》を通じて、あるいは、《オシエ》で説かれる行為の実践を通じて、神に近づける、と考えている。 そして、《オシエ》は「絶対に捨てない」。《オシエ》を補助線や筏とは考えていない。 まぁ、聖書などの聖典に記されている言葉は、人間が発した言葉ではなく、神の言葉・真理である(と考えられている)から、《オシエ》は捨てることができないという事情があるのでしょうけれど。
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- 畑 茂夫(@Flareon)
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意見してやるよ。 > ☆ すなわち《信仰を働かせる》のは 《人の意志》です。聖書の言っていることと矛盾しています。 この矛盾点をもっと噛んで含める様な論理でブチかましてやりたまえ。 遠慮がちな問いかけではいかん。 そうすると、君達は信じているのではない、支配されてるのだ。 こう言ってやれ。 そして。 そうです。 私は神に支配されているのです。 そう言わせる誘導尋問をしたまえ。 キリスト教の隷属哲学にはこれがうってつけだ。 人間の自覚を哲学とする仏教はまた別のぶちかましだが、日本人の俺様には居心地がいいんでね、手加減してやったんだが。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですねぇ。ふふふ。と何故かたのしおもしろい感じですが。 たぶん わたしの流儀では それは言わない。そこまでは追わない。と思う。 もしそれをやろうとするときには 相手が居丈高な回答を寄越して来た場合にそれに応えて批判するかたちになるかと思う。 でももう手の内を見せちゃった。 そんな感じになりますね 今回は。
- NemurinekoNya
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カトリックやイスラームの入信の儀式について知りませんが、 キリスト教の場合は神父や牧師といった聖職者、 イスラームの場合はムスリム の立会い、証人がおそらく必要なんでしょう。 信仰論的に言えば、神を自身に受け入れた瞬間に(宗教的)信仰は成立するはずであり、この儀式そのものが不要。あっても構わないけれど、必要ではない。 人間は弱いから、その信仰を保ちつづけるためには他からの無形の強制力が必要なのだ、という考え方もできるのでしょうが、この儀式自体、信条告白することが秘蹟・サクラメントなんでしょう。 わたしなどは、神を受け入れた瞬間に信仰はなると考えるので、わざわざ神(?)と証人の前で信仰を告白する必要はない、と考えますが。 信仰は神と人との間で成り立つものでしょうから。 イスラームは、基本的に村的、部族的宗教のように感じられるので、キリスト教のカトリックのような巨大組織にはなり得ないのではないですかね。 ですが、時に「コーランか、剣(つまり死)か」とイスラームの信仰を他者に強制することもあるようで・・・。 実際は、コーラン、剣に続いて、《税》が付くらしく、イスラーム諸国の統治形態を述べたものらしいですが。 イスラームについては、イスラームについて解説した本などを読んだ程度の知識しかないので、よく分かりません(ポリポリ)。 ですが、歴史的には、イスラームもキリスト教と同様にかなり激しく異端排斥を行なったようですね。 であるから、異端かいなかの試金石、踏み絵的な要素もあるのかも知れないですね。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ◇ 信仰論的に言えば、神を自身に受け入れた瞬間に(宗教的)信仰は成立するはずであり、この儀式そのものが不要。あっても構わないけれど、必要ではない。 ☆ 近所に《キリストの家》というプロテスタントの教会があります。そこの牧師と話をしたりメールを交わしたりしたことがあります。 その牧師いわく:洗礼は 個人として信仰が始まったことの証しであり 社会の中における確認・承認である。のだとか。 一歩ゆづって理論づけていました。 ◇ 信条告白することが秘蹟・サクラメントなんでしょう。 ☆ このサクラメントは けっきょくペテロ以下の弟子たちにイエスから引き継がれたというその人をとおしての相承説のようです。つまりは 聖職者が立ち会うことになるようです。 自分ひとりだけでおのれの主観において このサクラメントを受けることが出来るとすると おもしろいかも知れません。 わたしの経験から行くと 始まったと思ってから 三年くらいは もうやめようかと思ったことが何度かありました。もうおさらばしようかと 思ったのでした。そういう意味では 主観の問題だとしても あんがい揺れ動く生きた遍歴のような歴史と実態があるのではないかとも思います。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~ イスラームは、基本的に村的、部族的宗教のように感じられるので、キリスト教のカトリックのような巨大組織にはなり得ないのではないですかね。 ですが、時に「コーランか、剣(つまり死)か」とイスラームの信仰を他者に強制することもあるようで・・・。 実際は、コーラン、剣に続いて、《税》が付くらしく、イスラーム諸国の統治形態を述べたものらしいですが。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ええ。ここらあたりですね。要するに 毎日の生活がそのまま信仰であるというかたちであって 聖職者ないし法学者がいるのでしょうけれど それにはあまり関係せずに近所の共同体での社会生活にも個人個人がやはりその信仰のまま入って行くというのだと思われます。 祈りが日に五回もあれば 信仰がほとんど家族や仕事やと一体であるようにも見られます。 ◇ イスラームの異端 ☆ これは 宗派の違いなのでしょうね。その違いによって まるで神が互いに異なるというかのような情況なのですから。 ひととおり勉強して あとは これはどうも手に負えないなと思って あまり深入りしていません。
- ROKABAURA
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エホバの証人は団体にすぎないし その目的はエホバ神の神の王国を作り 自分は神民として平安と誇りの中に暮らすことだ。 「王国」を強く印象付ける生命から聖別する選民思想であり 尖兵として働く交渉人要請団体だ。 だから彼らの教義が聖書と矛盾しているのはむしろ当然だと思う。 旧約も新約も人のために編集されたのであって国のためではないし。 「信じる」ってのは理論ではその違いを証明できない。 ただ目的のみがその矛盾を暴く。 と思う。
お礼
ご回答おありがとうございます。 ★ エホバの証人は団体にすぎないし ☆ 《証人》というので ちょうど個人のことを言うにもよいのです。 ★ その目的はエホバ神の神の王国を作り / 自分は神民として平安と誇りの中に暮らすことだ。 ☆ ほんとですか? つまり《神の王国をつくる》のは 人間がですか? 《神民》というのは初めて聞きましたが たぶんそのような暮らしを目的とはしていないでしょう。 信仰にあって神学としていえば パウロの言うように《この生身のままでの復活》にあるはずです。ヨハネ福音でも 引用したそのあとに《恵みの上に恵みをあたえられる》とあります。初めの恵みは 原罪から自由な自然本性なる《わたし》への立ち還りでしょうし 次の恵みは おそらく死後のではなくこの生身で現在の世界における復活であるはずです。 ★ 神民として平安と誇りの中に暮らすこと ☆ いかに神民としてとは言え これでは何のことかほとんど分からないでしょう。哲学一般として言うだけでも 《世界との和解 そしてわたし自身との和解》 このように心がやわらげられ やすらかに生きる動態が目指すところなのですから。 ★ 「信じる」ってのは理論ではその違いを証明できない。 ☆ いいえ。それは間違っています。 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~ (う) △ わたしたちは,現在イエスが天で神の王国の王として統治しておられ,まもなく地球全体に平和をもたらすことも信じています。(啓示 11:15) ☆ こんなことは 経験世界を超えたこととしては 想像であり 経験世界のこととしてなら思考の対象として考えるべきことです。《信じる》とは何の関係もありません。 想像や思考をほどこすということは 《人の意志 または 肉的な意志》であり 決して《神から生まれた》と言えるようなことではありません。聖書とは 矛盾します。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
お礼
ご回答をありがとうございます。 ◇ これはエホバの証人のみが抱える問題ではなく、 / 組織・教義宗教がひとしく抱える問題なのでしょうね。 ☆ えっとですね。もちろんそうなんですけれど わたしの《証人》らとの対話経験からすると このエホバの証人なるシュウキョウ組織にいちじるしく顕著であると言えるかと思います。 聖書に書かれているように 二人一組で戸口訪問して布教にやって来ます。延べにして五十回以上話し合いを持ちました。(そう言えば 最近数年は やって来ていません。《とき》が関係しているのかどうかよくは分かりません)。 かれらの言うには 《ただしい知識》がいちばん大事だということだそうです。ペーパーテストでも そのような教義についての知識の有無が問題とされて 組織じょうの地位に就くようなのです。 このヨハネ福音のくだりを出して尋ねると 《信じている》とは 聖句をしっかりとよく《知っている》ことだと言います。まさかですが そのように上からおしえられているようです。 このところ 《十四万四千人》のことが質問に挙げられていたりして 証人も約ひとりこのカテに参加しているようですから 取り上げました。 ◇ 信徒信条 / ニケア・コンスタンティノーブル信条 ☆ これらの信条も すでに名を受け容れて信仰が始まったあとに その信仰の中身はどういうものかと問われたときに その説明をおこなっているものであると捉えます。信条告白をしたから 信仰が始まったとはわたしは見ません。 (見る場合というのは 例のサクラメントとして・目に見えないかたちで神の聖霊がその人に――その告白のときや洗礼のときに――はたらいたと捉えることから来ているのだと思います)。 ◇ そして、《オシエ》は「絶対に捨てない」。《オシエ》を補助線や筏とは考えていない。 ☆ といった振る舞いや考え方は 組織を持つときには 切っても切れない道具になっているのでしょうか。 ◇ ムスリム ☆ の場合は どうなんでしょう。つまり 必ずしも組織の問題ではないと見える一面もあるように思われます。 ただし それゆえ余計に 互いのつながりは よきにつけ悪しきにつけ つよいのかも分かりません。説教や聖職者の権限関係の問題ではないかたちで ムスリム一般が生活するのと同じかたちでアッラーフの名を呼んでいる。持ち出している。あまりよくは分かりません。 要するに エホバの証人に対する批判は 《信じる》とは何のことか? と問い詰めるとよいと思われることを考えようとしました。