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この世界はわれわれのものではないのか
- イエスの言葉によると、この世界はわれわれのものではないとされています。
- また、イエスに属する者はこの世に寄留して人生をおくり、それをまっとうすべきだと考えられています。
- 質問者は、寄留という思想は古いのではないかと疑問を呈しており、どうすればよいか知りたいとしています。
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質問者が選んだベストアンサー
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真面目に答える人がいるんかな?
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- mmky
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世界が2つもあると混乱しますか? でも普段に住まいは2箇所ありますね。例えば、自宅と旅先の宿の関係ですね。 旅先の宿も長く逗留すれば住まいですね。逗留を《寄留》と置き換えれば同じことですね。 あまり長く逗留して自宅がどこかわからなくなった旅人に自宅から送られた使者から、「自宅をお忘れですか」と言われるようなものですね。 旅先の旅館はあくまで旅のために創られたものということ、これは自宅のある世界と合目的に創られた旅館の世界の違いを意味していますね。まあ旅館の従業員は生活空間ですからそこが彼らの一次的な逗留場所でしかないとは考えもしないでしょうが旅人にとっては記憶に残るか残らないか程度の場所ですね。 人生、高々80年、イエスに人生は33年だったでしょうか。旅人はおろか旅館の従業員さえ人生はちょっと長い旅ぐらいの長さにしか設定されていないのですね。 旅人イエスは言います。「従業員達よ。宿泊者たちよ。ここはあなたの本来の自宅ではない。《寄留》場所でしかないのだと」旅人は更に続けて、「私が迎えに来たのだから我を信じて一緒に本当の自宅に戻りましょう。」と言います。 ここでの旅人はイエス、信じた者がフォロワー、そんな考えは馬鹿げていると彼らに石を投げたものがまあ他の従業員、宿泊者ですね。 さて、何を信じるかは自由ですが、イエスを信じるなら、この世は寄留地、旅の宿、さて寄留地、旅の宿であるならば、旅の目的があるはず。それを思い出さないのであれば不安になりますね。日もかげり薄暗きなった道で落し物の金貨を探すのは大変ですからね。カンテラを高くかざさないと見つけることは難しいですね。年老いて見つけられないということは迷いの人生であったということでしょう。イエスに笑われるだけですね。「今回もまただめでしたか!」とね。ただイエスはそのようなものにもメッセージ残していますね。旅の目的が判らなければ「愛の行為をしなさい。」、それを人生の糧とすればよいとね。 一方、イエスの言葉など信じない、この世が自宅でそれ以外ないと信じるのであれば何も恐れることはないでしょう。 でもね。両方が正しいということはないのですね。「常にイエスが正しいのですね。」これは真理を語るものという意味ですね。いかなる哲学者もイエス(や釈尊や孔子)に勝るものはいないからですね。 いつものように参考程度の回答です。
お礼
えむえむさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 質問者ではありますが 弁証法的な展開を期待しつつ 反論を述べます。 イエスの示した神から信仰を与えられたという者としても イエスの言った言葉にあらたな展開が起きるのではないか。こういう趣旨で問うています。 おっしゃっていることは おおむね同じ方向を向いていると考えます。 中にはたとえば ★ 〔* 旅の目的あるいはそもそもいまが旅の途上であるということの自覚が〕年老いて見つけられないということは迷いの人生であったということでしょう。イエスに笑われるだけですね。「今回もまただめでしたか!」とね。 ☆ 輪廻転生などはあり得ませんから とんちんかんな表現でのたとえだと考えます。 こういった・質問者からみればチョンボな発言が見受けられますが おおむね方向性は 同じくしますとお伝えします。 その上でです。 その上で ではたとえば次の文句は どう解釈されましょうか。 ▲ (イザヤ書65:17)~~~~ 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。 初めからのことを思い起こす者はない。 それはだれの心にも上ることはない。 ▲ (イザヤ書66:22) ~~~ わたしの造る新しい天と新しい地が わたしの前に永く続くように あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと 主は言われる。 ▼ (ペトロの第二の手紙3:13) ~~~~ しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、 神の約束に従って待ち望んでいるのです。 ▼ (コリントの信徒への第一の手紙15:51-55) ~~~ 51 わたしはあなたがたに神秘を告げます。 わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。 わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。 52 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。 ラッパが鳴ると、 死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。 53 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、 この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。 54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、 この死ぬべきものが死なないものを着るとき、 次のように書かれている言葉が実現するのです。 「死は勝利にのみ込まれた。 55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。 死よ、お前のとげはどこにあるのか。」 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ 質問者は次のように解釈しますが 果たしてどうであるかというのが 問いです。 1. 《新しい天》は まちがいなく《新しい地》に現われるあたらしいヒトのものでしょう。 2. その新しいヒトの住む新しい地は 果たしてやはりなお寄留の地であるのか? 3. このとき《新しい天と新しい地》がまだ現われていないとき どのようにわれわれは生きるか? こういう問いが起こるはずです。 4. けれども そのときにはすでにその新しい世界の出現についての予感を持って もしくは 予感を持った人びとのおそらく主導のもとに 生活しているはずです。 5. つまりこの《朽ちるべきものが朽ちないものを着る》新しい世界は すでにこのいま 始まっています。 6. ☆☆(趣旨説明欄):でしたら この世界は 《われわれのところ わたしたちの庭》ではないのか? ――との自覚あるいは問い求めや話し合いは おこなってもよいし おこなってしかるべきではないか? ☆ さらに私的な感想ですが: ○ 世界がふたつあるとは 思えません。天国などというのは ただのたとえであり方便で言っているのみです。自宅が二つあるわけではないはずです。 ○ つまりは これまでの解釈では いまここなる寄留地とそして自分たちの故郷の地と確かにふたつあるという見方も出されていますが これも 方便であって それらは 表現としてもひとつに――すでにいま――まとまるものと考えられます。
お礼
いなきゃいないと分かればいいよ。