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水による洗礼は必要不可欠なことですか

特殊な議論になるかも知れませんが おしえてください。わたしは この水の洗礼を受けていない自称のキリスト者です。 ヨハネ福音は《血によらず 肉の意志によらず 人間の意志によらず 神によって生まれる》(1:13)と説きます。水の洗礼は 人間の意志によっているのではないでしょうか。(儀式としては 別の問題です。) むろん 同じヨハネにイエスの言葉として《水と霊とによらなければ》(3:5)という明らかな文句があり イエスも洗礼を受けたし パウロも受けました。旧約からの継続として そういうかたちを採ったと考えられませんか。割礼も 必要なくなったのだと思います。 解釈だけではいけないとすれば エレミヤ書31:31以下に 《そのとき 人びとは隣人どうし ・・・〈主を知れ〉と言って教えることはない》とあります。うんぬんですが。

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  • agrippa
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回答No.29

誰々がこう言った. ではなくて 自分の言葉で言うことが大切なんだな.

noname#80116
質問者

お礼

agrippaさん この言葉には しびれました。また まだ さらに続いていて なお一層しびれさせるという魂胆ですね。

その他の回答 (45)

  • agrippa
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回答No.36

デカルトが好んだ ユークリッド幾何の始まりです. 点とは部分を持たない.... 数学も宗教っぽいな. 点の瞑想...........

noname#80116
質問者

お礼

宗教の批判はすでに終えられていると言ったのは だれでしたっけ。いつのことでしたっけ。

  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.35

. 天は欲しいですか? 哲学の分野においては 他人とは言わずに 他者と言う言葉を使います. 素人さんはこれだから. とさ.

noname#80116
質問者

お礼

求婚の申し出に対する明確な答えが欲しいです。 《いいえ》でしたが 両親が付け加えて言うには 《いつでも自由に遊びに来てください。構いませんから》とのこと。 ん十年 軽く 靄のごとく たなびいていました。 昨年 どういうぐあいにか 断ち切れました。 そのひとは 修道院に入っています。

回答No.34

>むしろあたかも神と格闘して何かを決めるかのような営みだとさえ思います。 言葉を選んだつもりだったのですが、逆に私の使った「対峙」と言う言葉が避けたつもりの「格闘」になってしまったようで申し訳ありません。神、仏、超越者、絶対者と言われる存在と戦って勝つ見込みは無いでしょう。むしろ「向き合う」と言った方が良かったかもしれません。これだけ聖書の言葉を引用されて議論されるのは、相当勉強され、深く理解されているのであって、ご自分のものとされているのだなと思います。 その上で、ヨブやアブラハムを持ち出されたのでしょう。彼らが“義”とされたのは、私の乏しい知識では、彼らの信仰ゆえであったと思います。ですから隠れキリシタンも“義”とせられてキリスト者の中にいると信じていますし、隠れ日蓮宗徒も同じだと思います。これはキリスト教のコミュニティーの問題なのでしょうか?個人と神との関係においての問題と思います。 神との対話と言うとグノーシス的になると言われそうですが、私はグノーシスについてはあまりよく知りません。でも貴方がデミウルゴスを信じておられるとは考えられませんが・・・私は一応科学者の端くれに位置しているものですが、論理的に考えても、考えても説明の出来ないものがこの世に如何に多いかと実感させられております。(だからと言ってスピリチュアリズムや心霊現象に走る事もありません。)洗礼がキリスト教の三秘蹟の一つと言う事は存じております。しかし、これが絶対的に正しいと言う確信は持てません。神と対話の中で貴方が“啓示”を受けられるかもしれないし、“導き”と思われる事が起こるかもしれません。或いは最後になって初めて神の判断で間違いを指摘されてしまうかもしれません。“光”を見られたからと言ってそれがグノーシスの証になるとも考えませんが如何でしょうか? 信仰とは基本的に個人的なものと思っておりました。bragelone様がコミュニティに拘られるのは何故なのでしょう?それだけ強い信仰をお持ちになっていらっしゃるのに・・・ 門外漢が勝手な事を申し上げて申し訳ありません。

noname#80116
質問者

補足

科学者とはそういうものだと思っていました。おっしゃるとおりに 開けというのでしょうか あるいは 要するに なぞ が残ると思っていました。 ふつうの意味で みちびきはありましたが 啓示はありません。光を見たという表現も いまだ持ちえていません。 さて 振っていただいたので 決め台詞にまいりたいと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ わたし自身 兄弟たち つまり血縁じょうの同胞のためならば キリストから離され 神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。・・・ (パウロ:ローマの人びとへの手紙 9:3) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ でも 《神のくには 言葉ではなく 力にあ》(コリント前書4:20)りますので また 1000827313さんに正当にも触れていただいたように・ただし《最後になって初めて》ではなく やがてそのうち 《神の判断で間違いを指摘されてしまうかもしれません》ので 大いに自由に・まちがっても構わないわけですから まちがいを指摘いただけるなら さいわいです。 グノーシスにかんしては トマスの福音書を読んだとき出てきた記憶が そして 大昔 ヘッセだったかの小説に出てきた記憶が ありますが よくわかりません。(必要ならば 導かれると思っています)。 パウロのローマ書の文句を出すのは 神がかりがかっていますでしょうか? *ANo.11でのお応えで 《復活については〈真理が すべてにおいて真理である〉ことを念頭においている》と口走っていますが 正確にはこうでした。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  神がすべてにおいて すべてとなられる・・・。 (コリント前書15:28) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

noname#96295
noname#96295
回答No.33

あはは。お腹を抱えて笑いました。agrippaさんにはとんだ災難だ。消されるのには慣れていらっしゃるはずですが、他人の胸中を真顔で尋ねられたことはないでしょうからね。これは削除されるかな。。。 コミュニティについては、少しばかり理解の違いがあるように思われます。 けっして町内会や婦人会やPTAのような「あの」空気をさして言ったわけではありません。 古い神様たちと、民のことを考えたことはありますでしょうか。 古代メソポタミアの神々、バビロニアの神々は。 たいへん面白いものです。 知的エリートたちが、唯一神の信仰を邪悪と判断した理由は何でしょうか。 古い神様たちに数千年間従ってきた人間の王国にとって、唯一神の信仰とは、どんな脅威だったのでしょうか。 ご存知のように、神殿を壊し、神官を捕らえ、半世紀ものあいだ形を奪ったら、ところがどっこい、神殿も神官もいらない透明なコミュニティが出来上がりましたね。 それでもまだ排他的とまではいかない段階でしたが、 透明なコミュニティは、形がないぶん、細心の注意を払って守られねばなりません。対外的に閉鎖的になります。 まず異教にたいして、です。そしてつぎに、ユダヤ教に対して、です。そしてさらに、キリスト教異端に対して、です。つねに区別、区別、区別ですね。 そのあとどうなったかは関心がありません。東京都新宿牛込教会が、東京都新宿柏木教会に対して、というようなことがあるのかないのか、たぶんないと思っていますが、私は存じません。 だから少なくとも教会レベルの話ではないのですが、 区別の外にはじかれてしまったら、コミュニティには入れない。これは、とうに決まっていたこと、最初も最初の一番大事な関門ではないかと申しあげたわけです。都市バビロンの市民になるか、透明な神の国の子になるか、 ほかに何か選択肢があるでしょうか。都市バビロンの神は、都市の神で軍神で全能、あらゆる整合論理の神です。 しかし、私のような部外者にとって、古代の神々たちは、唯一の神の遍在するお姿、と考えてみてもちっともかまわないので、しちめんどくさい区別ほど煩わしいものはないのですが、 ところがどっこい、信仰の具体的行動というものこそ、どれほど大事なものか。そこに宗教の差があるともいえるわけです。ユダヤ教とキリスト教は。信仰の行動は、歴然と違いますから。。。 するとやはり、コミュニティには、それにふさわしい行動がともなう、としか言いようがないでしょう。それがアイデンティティというものでしょう。キリスト教のアイデンティティというものを考えねば、そして認められなければ、キリスト教を選び、信仰する者としてなにか欠けていることになるでしょう。 ただし真理には、アイデンティティというものはいらない。真理はおのれを峻別する必要はないですね。 もう私もこれでひきあげましょう。

noname#80116
質問者

お礼

真理はきみたちを自由にすると明確に言っているというのにですかねぇ。 一般の日本人は 対外的には別でしょうけれど 国内では 総じて アイデンティティから自由のようですね。持っていないというよりは 一向にかまわないようだと思います。 その中で クリスチャンは 妙なアイデンティティを持つことになったということでしょうか。 ただ 日本人の問題ではない。日本人の問題は むしろ別問題であるかも知れない!? ・・・・・・・ こういう問題に帰着するでしょうか。 つまり イエスは 人類史において 何であるのか。 唯一神信徒たちのコミュニティを 一層強固なコミュニティにしたのか。それとも その枷を取っ払ったのか。 ・・・・・・・ コミュニティ+アイデンティティとくれば イスラームを思い浮かべます。クリスチア二スムにかんして 残念ながら 実感が湧かないみたいです。 潮時でしょうかねぇ。 

  • agrippa
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回答No.32

あなたの言葉も

noname#80116
質問者

お礼

あなたの回答の一つ( ANo.23)が事務局のほうにより削除されましたが 妥当だったかも知れません。わたしの応答も そのANo.23のではなく 最初のANo.21に対するものが 適宜性を欠いているかも知れません。 わたしの書く文には 読点( 、 )がありませんが 句点( 。 )は打ちます。まるは打ったほうが よいとおもうのですが・・・。

  • agrippa
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回答No.31

しゃべればしゃべるほど. それがキリスト教の本質かもしれない. キリストの ではなくて. ね

noname#80116
質問者

お礼

ところで――と もはや 馴れ馴れしく話しますが―― amaguappaさんとは この教えて!gooで 対話なさっていますよね。そのamaguappaさんのおっしゃっているところが わたくしは まだ飲み込めていない始末なのですが そこのところ 何とかなりませんでしょうか。もし 規則に違反しないのであれば さらに回答欄にヒントでも書きこんでいただくと さいわいなのでございますが。 

  • agrippa
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回答No.30

さらに言うなら テキストを踏まえたうえで と付け加えて 自らの骨肉となっていない引用文を持ち出されたって 白々しさが伝わるんだよ.

noname#80116
質問者

お礼

まことに おっしゃるとおり!!!!!だと思います。

回答No.28

 No12・17です。  洗礼の問題はやはり突き詰めていくと教会の問題(共同体、コミュニティの問題)に行き着くようです。amaguappa様の書かれた文章は、なるほどこういう捉え方があるのかととても興味深く読ませて頂きました。指摘されている通り、キリスト教の信仰は個人のものというよりも共同体の信仰ですね。誤解を恐れずに言えば、個人の思いは思想であってキリスト教信仰ではありません。質問者様もアウグスティヌスはもとより教義学やキリスト教史などを研究して、さらに研鑽を深めてください。  ご質問くださったヨブの件ですが、ヨブ記は物語なのでおそらくヨブは実在しない人物です。しかしヨブが割礼を受けていなかったと考えるのはかなり筋違いです。 『無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた』(1:1) とユダヤ教文学で書かれているのですから、当然律法を遵守していたと想定されています。ですから割礼は当然受けていたものと前提されます。まずはテキストに忠実に。 『わたしは知っている  わたしを贖う方は生きておられ  ついには塵の上に立たれるであろう』(19:25)  メサイアでも歌われる有名な箇所ですが、第二イザヤなどと同様にユダヤ教の中でも強くキリスト教を暗示する内容です。「見えない教会」を救いと読み替えるならば、ヨブは最初から「見えない教会」の中に置かれていたと考えていいかと思います。  質問者様がヨブを題材に取り上げられた背景には、信仰を実存主義的な理解において考えている面があるのではないかと思います。もちろん実存主義的な信仰理解が間違いというわけではありませんが、それだけで信仰全てを言い尽くす事が出来ないということですね。  この質問を通して、わたし自信が教会論の本を何冊か再度読み直すこととなり、改めて理解を深めさせて頂きました。感謝をもって(おそらく)最後のコメントとさせて頂きます。

noname#80116
質問者

お礼

投げやりではありません。でも たとえば 《そうすると 教会コミュニティの会員一人ひとりに好かれるようになりなさい》 こういった回答ということなのでしょうか。 と尋ねたくなります。 ヨブの事例は 割礼という点にも触れましたが そもそもアブラハムと同じく 洗礼が問題なんですが・・・。これも 思想なのだから 重要なのは 教会員とどれだけお友だちになれるかだということになるでしょうか。 ちょっと茶化しました。 《 On est un christ. (一人ひとりが キリスト( a christ )である)》と思っていますので Aleph_Tamaさんのコミュニティには遠すぎますが 《要は 教会員何人とお友だちになれるかですよ》ではなく 必ずしもそうではなく 《じゃあ しょうがない。うちの教会に来なさい。いつでもいいよ》 こういったお答えを期待するところもあるわけなんですが。 《研鑽を積まなければだめだよ》とおっしゃっているのかも知れませんが。・・・あっ また 茶化しましたね。 これは 最後のとおっしゃっているので 引き止め工作なのでしょうか。自分でも わけがわからなくなってきました。半分だけですけれど。 でも この質問を出して まだ一週間ですものね。気長に行きたいとも思います。 これだけ みなさんが 資料にあたって確認・検討の作業までしてくださって 答えてもらっていますので その点では 祝福が与えられたかなと みなさんと一緒に 喜びたいと思うのですが いかがでしょうか。

回答No.27

bragelone様 今頃になって何か言うのは気が引けますが、年をとると何でも遅くなってしまって申し訳ありません。まだ閉じていらっしゃらないようなので一言言わせて頂きます。 基本的にbragelone様の水による洗礼は不要とのお考えに賛同します。 もし洗礼が無ければキリスト者ではないとすると、隠れキリシタンは全員がキリスト者とは認められなくなります。また、隠れ日蓮宗徒も認められなくなります。 これらに方々は「殉教の道」を選ばずに、後の世に伝えるために「生の道」を選ばれたのかなと思います。これを自分の自由意志で選択したのか、“神の計らい”、“仏の導き”と採るかは判りかねます。 全くの個人的意見ですが、彼らは立派なキリスト者であり、日蓮宗徒の方々と信じています。そこには深い悲しみや絶望が有ったに違いありませんが、それでも信仰を捨てる事が無かったと言うのは尊敬に値すると思います。 声高に神の名を呼んだり、仏の慈悲を仰いだりする現代の風潮よりも、ずっと深いものを覚えます。bragelone様が信じている神と対峙して選ばれたと言うか、導かれたというか、その結論に口を挟むことには躊躇いを感じます。これはbragelone様と神との関係において決められることであり、世俗のしがらみに惑わされる事は無いと思います。 心の中の深いところでの共感を覚えましたので一言申し上げさせていただきました。

noname#80116
質問者

補足

暖かいことばをかけていただき 光栄に思うとともに 感謝を申し上げます。まことにありがたい限りに存じます。 ふつうの見方として 生活信条として言っても 庶民の力強く生きる姿のことが 思い浮かんだりもしました。 きまじめな口調がつづきますが 今夜 一つ前( ANo.28)のamaguappaさんの文章とともに この1000827313さんのアドバイスをいただき 読むと それまでの時と違って なかなか複雑な心境になりました。 というのも わたしは 信仰の特殊な話であると初めに断わっておいたというので あとは 自分の信条かつ心情をもろに出して 述べていたんだと知りました。 また 世間の通常の付き合い方において 答弁をしていくのが常識なのだといったことです。 どうしたものかと思案しますが かと言って 世間とのつきあいも――考えてみれば―― このようにおこなっていますので 自己流にまいることにしてみます。その過程で軌道修正も考えることにします。 そうしますと いただいたアドバイスの中で 一つの点にかかわって かなり重要な方針が やはり 自分の中には根付くようにして はたらいていると知ります。 直球になりますが たとえば パウロは 《わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。》(1コリント 9:19 )と言います。じつは このような生き方は わたくしの生来のものだとさえ思っています。 どういうことかと言いますと 《神との関係において決めること》が そのまま《世俗のしがらみに惑わされさえしつつ 世俗とまじわる事》に直結しているのです。amaguappaさんの表現では 《人と意見をすりあわせる》ことになります。ナロードニキではありませんが。 おそらくそれは むしろあたかも神と格闘して何かを決めるかのような営みだとさえ思います。 おそらくこの生き方で わたくしは凝り固まっているようです。1000827313さんに失礼な言い方になるかも分かりませんが この今の事柄を amaguappaさんへの応えを考えあぐねながら 思いとして得ています。変な言い方をすれば 1000827313さんに amaguappaさんへのお応えを用意していただきたいとさえ思うほどです。おかしいですよね。 ですが この思案は じっくりと煮つめていきたいと考えます。 ますます変なお礼のことばになってしまいましたが 偽らぬ心境です。不一にて。 PS お互い 筆の力に 少しでも張りが出るといいですね。

noname#96295
noname#96295
回答No.26

9,15です。丁寧なお返事をいただき恐縮に存じます。 3度書き込むことになろうとは思いませんでした。何かのご縁ということでしょう。 まず誰も傷つけないことが第一であるべきなのですが、宗教というのは傷つく人をかならず生む。このことで、私はこういう質問を避けたいわけでしたが、ちょっと関わった以上、しかたがありません。 アウグスティヌスは間違いなく偉大な思想家で、アウグスティヌスを知るがゆえに教会を追い返されたり、白眼視されたりするあなたの境遇は、残念というか、無念のほかありません。きっとあなたはグノーシスに通じるところがおありなのでしょう。 キリスト教のコミュニティをたいせつに、と申しあげたのは、おわかりのとおりです。コミュニティがキリスト教の本質であるからです。 ほかのキリスト教徒が見ているこの場所で言っても少しも楽しくないことを言いますので、できれば避けたいくらいですが、 一神教は紀元前3000年紀に東方からエジプトへ伝わり、多神教によってまつりごとが行われている社会の陰で、一神教の研究=神学がはじまりました。 一神教が邪悪な物とみなされた時代は長いですが、とほうもなく偉大な思想の宗教であることは確かです。 ご承知のとおり、モーセが紀元前14世紀ごろ、あとキリスト生誕(紀元前4世紀くらい)まで同じくらいの年月がかかります。 もともとの多神教、それから古代エジプトから古代ギリシャまで政治の舞台から逃れて隠隠とつながる神学、そして旧約の世界が、新約の世紀に同時に雪崩れ込みますから、イスラムやスラヴから入ってくるものの大きさはキリスト教からみれば脅威です。神学は、キリスト教の研究を兼ねることでなかばそれを隠れ蓑に、なかばそれを本業として、続くことになります。唯一神の解釈の問題ですから、秘教を吸収したことは、キリスト教の財産となります。 古代の宗教は、多産であることをよろこびとする自然の摂理にかなったものが多いのですが、多産性のもつセックスの神聖さは、キリスト教からは慎重にとりのぞかれました。月の女神も、豚やウサギも、悪魔のそばに追いやられることになります。割礼も、子供がたくさん作れる性器を礼賛するものでしたが、キリスト教にとっては意味がありません。 言語の境界地域は、異端審問が多く開かれます。この地域で翻訳が行われるために、書物からはほんとうに削ぎ落とされていくものが多いのです。 旧約を継いでいながら、旧約のもっていた自然と人間の交わりののびのびした深さもまた、大きく削がれていきます。 キリスト教は、はじめからコミュニティです。みずから異教と厳しく区別し、神々と王が親戚づきあいでもしていたかのようなまつりごとを、コミュニティであることによって変換させた宗教です。 多産崇拝や自然の畏怖を排したことは、特異性をめだたせる目印となっています。ほかにそのような宗教は皆無なのです。 コミュニティであることは、国家の政治に利用できるということにもなりました。 これを腐敗と感じるかどうか、私にはなんとも言えません。 苦しんでおられるとおり、コミュニティに、入るか、入らぬか、である以上、それはどういう意味なのか、何の契約をもって入ったことになるのか、というのは肝心なところと思います。 コミュニティの、他者とのすりあわせの部分を、ふたたび、神と自我の対峙に読み直したものが、キリスト教の中に宗派を生んでいると思います。 最初に述べたキリスト者共同体もそうでしょう。 グノーシスの集会が日本にあるかどうか存じませんが、神と自我の対峙を見つめるだけならば、グノーシスの思想はお心にかなうところがあるのではありませんか。すすめるわけではありませんが。 ただ、どこでもコミュニティであることにかわりはない。師を持ち、仲間があるということの幸福は、地上の幸福にすぎません。 お気落としのなきよう。。。

noname#80116
質問者

お礼

ただいま 拝読しました。(夕食・散歩・テレビでした)。 ただちにお応えできそうにないので ひとこと 感謝とともにご挨拶をし あとは時間をいただいて 考えてまいりたいと思います。 《お気落としのなきよう》とおっしゃった意味がよくわからないありさまなのです。・・・

noname#80116
質問者

補足

《コミュニティがキリスト教の本質である。》《どこでもコミュニティであることにかわりはない。》 この一つの事項をめぐって 思うところを述べて お礼に代えさせていただきます。 (1)信徒の共同体ないし宗教組織と そして信仰とは 直接には関係がないと思われます。 (2)もし教義あるいは組織上のつながりのほかに 地縁や血縁もそのコミュニティの絆を深くしているとするならば むしろこの要素に関しては 自然のつながり・自然的な要素を残しているとも考えられます。いいか良くないかは にわかには判定しかねますが。 (3)もし利害関係によらずに紐帯(旧いことばですね)を強くしているということであるならば それが 何によって成り立っているかで 判定が決まります。建て前を別として もし信仰が  二の次ということになっているとすれば・・・。 (4)仮りにの話としては キリスト教コミュニティは 《聖書ないしキリスト・イエス》との関わりにおいては 基本的に言って 意味がないという可能性もあることになります。 (5)このコミュニティが 政治にかかわる あるいは 利用されるという〔隠れた?〕実態があるということでしょうか。 (6)わたしなら 《コミュニティの、他者とのすりあわせの部分を、ふたたび、神と自我の対峙に読み直》すことはしないと思います。そうではなくて ローマ教会を初めとして このコミュニティは すべからく ご破産でねがいましてはで新しい出発を模索していかなければいけないと言い続けると思います。 このコミュニティにかんして 実感はありません。また おっしゃっていることを曲げて解釈しているかも分かりません。 ありがとうございました。 なお ボールがみなさんの側に行っているかとも思いますので もう少し時間をおいてこの質問は締めることにします。 前もって みなさん ありがとうございました。 ANo.24への補足欄で エルサレムの厩というのは ベツレヘムのでした。

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