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 理解について

 自分は本当は何も言葉を理解していなくて、思考というものが成り立っていないということはありえるのでしょうか? この質問自体おかしい気がしますけど、それを否定する言葉も理解しているとは限らないという感じがするのです。

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  • tyr134
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回答No.3

言葉とは、道具です。 誰かの考えを誰かに伝えるための道具です。 それは、口から発せられようと、文字として何かに書かれていようと変りません。(古代の祈りの文字(ヒエログリフやルーン文字など)ですら、自分の考えを神に伝えるための道具です。) 理解とは、主観的なモノです。 他人から発せられた言葉は、自分の中に入った瞬間、主観で理解しなければならなくなります。 主観である以上、Aさんの「理解」と自分の「理解」が違うことがあって当然です。 これが現実で起こると「誤解」となります。 「思考というものが成り立っていない」状態とは、「誤解」すら出来ない状態でしょう。 つまり、相手の「言葉」の使用方法がおかしくて(または難しくて)、「理解」できない訳です。 「言葉」は道具である以上、客観的でなければなりません。 そして、客観的にするために「辞書」などに纏めて共通理解を図るわけです。 言葉はコミュニケーションの道具なので、それを理解していなくても「思考」する事は可能だと思います。 しかし、自分の考えを他人に伝えたり、他人の考えを理解するためには有力で必要な道具の一つでしょう。 そして、他人から発せられた言葉を理解できなくて、故に思考できない場合もあるでしょう。

spitzer3
質問者

お礼

>「思考というものが成り立っていない」状態とは、「誤解」すら出来ない状態でしょう。 おっしゃるとおりですね。思考が成り立っていないときは「誤解」すら出来ませんね。 なんかこの疑問もどうでもよくなってきました。ありがとうございます。

その他の回答 (6)

noname#50219
noname#50219
回答No.7

お気持ちは分かるような気がします。 この言葉は、本当はこういう意味だったのだ、というか。 有名なたとえ話で、ある人が月を指差して、見よ、と言った時に、その動作の意味を理解していない人は、月を見ないで指を見た、と言う話があります。指が言葉、月が意味にあたるとおもうのですが、 言葉に囚われずに、その意味を汲みとるというのは、つまりは、真っ直ぐ、言行一致ということなのかなと思います。

spitzer3
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

  • kigurumi
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回答No.6

No.1です。 >この脳の中で再現しているというのが私にはくせもんに思えるのです。 >脳の中で再現が行われているというのは、あくまで言葉を理解して >いることを前提にして分かることだと思うのです。 これらの話の元は「チンパンジーがチベタという顔をした」でしたよね。 チンパンジーがチベタとこちらがわかる言語で感情を伝えたわけじゃあない。 自分の経験・チンパンジーの経験が同一で、同じ反応をチンパンジーが同じ条件の時発動したことで、チンパンジーの脳の中で人がアイスを食べているのをみて「チベタ」というイメージが沸き、それが表情になって表れ、それを人間が読み取った。 それを見て、食べてもいないのに、何故食べたかのような表情をするのか?というところにすごく興味を沸かせた人が、5感以外の感覚を人間もチンパンジーも使っていると発見したわけです。 >しかし、その前提にしている言葉を理解していなけれが、 >こういうのがあるというのは成り立たないのではないのかと思うのです。 言葉以外でも人間は共感覚を使って他者とコミュニケーションをとっています。 言葉なくして人間はコミュニケーションは成り立たないとお考えなら、答えはノーです。 人間にとても近いボノボという動物がいます。 ボノボのカンジは人間に育てられ手話で人間と会話します。 http://www.amazon.co.jp/%E4%BA%BA%E3%81%A8%E8%A9%B1%E3%81%99%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%80%8C%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%80%8D-%E3%82%B9%E3%83%BC-%E3%82%B5%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%90%E3%82%A6/dp/4061542419 カンジの妹は普通に育てられたので手話を理解しません。 教授はその妹にも手話を教えようとしました。 「バナナを取ってちょうだい」と言葉でいいながら手話で伝えます。 妹は何を言われているのかわかりません。 カンジは手話がわかるので、教授が妹に何を要求しているのかわかり、「こうするのだよ」と妹にやってみせますが、妹はカンジが伝えていることが理解できず、教授にバナナを渡すという行動をしません。 何度も何度もそういう事をされた妹はついにイラだち教授に噛み付きました。 噛まれた教授はカッとなり妹を追っかけまわします。 すばしっこいのでなかなか捕まりません。 そして気付きました。 カンジが両足で立ち上がり両腕を上に上げ、教授と逃げ回る妹の間に何度も割って入っていることに。 教授はびっくりしました。 カンジがやっているその姿は「まあまあ 教授 妹を許してやってくださいよ」としか思えないからです。 しかも教授の視界に入りやすいようにわざわざ両足で立ち視界に入ろうとしている。 明らかにアピールです。  そう気づいた後も妹を追いかけると、またカンジが二人の間に入ってきて同じ行動をする。 カンジは妹も教授の心も理解し、この状況をどうしたらいいかと思考した結果、仲裁に入ったわけです。 人間だってやりますよね。 間に入って両手を挙げてなだめるという行動を。 言葉を使わなくても行動だけでもブレークと二人の間に入る行動をされただけで、仲裁者の存在を認識しますよね。 そしてそれを理解した上で「でもこいつが」と言葉で自分の攻撃の正当性を言ったりしますが「でもこいつが」と言われただけで「わかっているよ」といいますよね。 言葉によらなくてもどうして怒ったのか理解しますよね。 「脳の中のイメージは曲者だ」とおっしゃる理由はわかります。 前回 目の表情だけで怒りの種類を詳細に分別できる人もいれば、できない人もいると書くことで、必ずしも感覚は正確ではない と述べました。 中には障害により顔の表情がわからない人もいます。 また、発達障害で、顔の表情を読み取りにくいために、言語のみに頼った結果、その言語の奥に潜む感情を理解できず、言葉とおりに受け取ってしまい、相手を理解できず、「こんな事もわからないのか」としかられる人もいます。 例えば表情を読み取る能力が極端に低いという障害を持つ人に「牛乳をこぼしてくれてありがとう」と失意の表情で言うと、表情は読み取れず言葉のみで理解するので、もっと喜んでもらおうと牛乳をまたこぼしてしまう。 寛容な人は怒らないでしょうけど、本質を見抜けない。 まさか相手が人の表情を読み取る能力が極端に低いから、何度も牛乳をこぼしてみせているなど思いもよらないですよね。 「言語がどのようにできたか」について考えた人がいます。 前にもそういう質問がここであり、この事について関心を持つ人は多いとは思いますが、謎は解けていません。 が、 http://www.amazon.co.jp/%E8%84%B3%E3%81%AE%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%AE%E5%B9%BD%E9%9C%8A%E3%80%81%E3%81%B5%E3%81%9F%E3%81%9F%E3%81%B3-%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%81%A6%E3%81%8D%E3%81%9F%E5%BF%83%E3%81%AE%E3%81%97%E3%81%8F%E3%81%BF-V%E3%83%BBS%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3/dp/4047915017 に面白いことが書いてあります。 「大きい」「小さい」 これは日本語ですが、日本語を理解しない人に、どっちがbigでどっちがsmallか考えてもらったらどうなるでしょう。 「大きい」は口を大きく開けて大きな発声になりますよね。 「big」もそうですよね。 では形の場合は。 ☆と£ 「ブーバ」「キキ」。 どっちがどっちでしょう。意味を持たない擬音です。 言語に関わらず、90%の人がブーバ=£、キキ=☆と答えるようです。 脳の中のイメージがそうだから。 正確ではないですが、脳の中に起ったイメージは全く的外れでもなく、脳の受け取るイメージにより言語は発達していったことが窺えます。 しかも90%以上の人が同一の答えをしていることから、共感覚を利用していることが窺えます。 高度な あるいは詳細な理解を迫られることになると、言語を駆使することになります。 でも、言語でいくらやっても理解できない問題もあります。 成田紛争。流血事件にまで発展した問題です。 どうして住民がそんなにまでも怒って抵抗しているのかを理解できなかった。 話し合っても決裂して20年も紛争していた事件です。 ちゃんとした話し合いの席を設け、まず開口一番に国側は住民に対して 「今まで住民の気持ちを理解していなかったことをお詫びします」と頭を深く下げ謝罪しました。 途端にお互い歩み寄ることが可能になった。 「お金を十分与えてやるから出て行け それで他の地で裕福に暮らせ」では全然不十分だったのです。 国は頭でっかちで言葉や交渉で解決できると思っていて、住民の気持ちの真意を理解したつもりで全然理解していなかった。 やっとわかったものとは何か。 彼らは戦後大陸から引き上げてきて、荒野の木を切り倒し、株を取り除き、石を取り除き、汗と涙で開墾していった。 その人生がその土地にはあったんです。 金では買えないものなのですが、国はオリンピック開催のため急いでおり、土地に心がしみついていることに気づけず、札束で顔をひっぱたいて汗と苦労と涙の歴史を踏みにじってしまった。 これは言葉でどんなに説明しても表現できない部類です。 たとえその歴史を知ったとしても、心・共感覚がなければ理解などできない部類です。 全く正確なイメージは確かに持てません。 が、近いイメージを持ったとき、解決に至る道が出現する。 自分の感覚を過信するのは良くないです。 全く無視していることに気づけずわかった気持ちになって実は全然わかっていないと紛争が起る。 何が奥にあるのか 怒りの根源は何だろう? と興味を持ったとき、限界を突破できる。 時には脳の中で起ったイメージを変化させる必要もあります。 感覚を、入力した情報により別のものに変化させることが人間にはできる。 ロボットは人間に情報を入力されないとできませんが、人間は自ら情報を探しにいける。 自分の脳に情報として取り入れるか、退けるか選択できる。 脳のイメージを疑うというより、情報不足によりそういう感覚になっていると疑った方がいいときもあります。 成田紛争の理解。 意外とどうしてあそこまで紛争しているのか理解していない日本人は多いと思います。 今回新しい情報が入ったことで、成田紛争に対する理解も違ってきたと思います。 理解は変化できる。 理解を変化することを怖がってはダメだし、自分の感覚を疑いすぎるのも崩壊に繋がる場合もあります。 自分の理解がおかしいのかと疑うより、「欠損しているピースがあるんじゃないか」と思考する事にエネルギーを注ぐ方がいいと思うのです。 相手にいくら問い詰めても自分がほしい情報が出てこず、理解が変化せず、諍いが終らないのなら、どうしてお互い理解が歩み寄れないのか、とピースを探すしかない。 自分の理解と相手の理解の相違を見出したとき、「わかった」となる。 自分が間違えていたと思うことにとらわれるより、欠損していたピースを見つけたことを歓ぶ。 相手の脳のイメージがこちらにもわかった と歓んだほうが健康的だと思います。 相手が望むのは謝罪ではなく理解。 お互いにとって謝罪より良い結果が出る。 相手があるいは自分がイメージしていたものを、他の人がイメージできたとき、相手に間違いを指摘したり、自分の間違いを認めそれを相手に示すことが可能となり、お互いどこがズレていたのか理解でき、和解になると思うのです。 和解 面白い言葉ですね。 和解に向けての努力と相手を滅するための努力。 どっちが健全かというと当然前者ですよね。 和の心を持つ日本人。 「痛み分け」などの概念は、勝者か敗者かに拘るアメリカ人はこれを理解できない分野でしょう。 でも日本人なら理解できるし、多くの紛争もこれで解決している。 曖昧でわかりにくくはっきりしない民族と言われていますが、実は一番人間らしい民族かもしれません。

spitzer3
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

回答No.5

日本は理解していると思いますよ。 でも他の知らない言語は理解していないので思考は不可能だと思います。 もちろんその言語が使えるようになれば思考は可能になるでしょう。

spitzer3
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

  • htx2005
  • ベストアンサー率25% (22/87)
回答No.4

思考とは言葉を使います。 倫理的に言葉を構築させる作業です 言葉は思考のための道具であり、 またコミュニケーションの道具です さて、理解とは 言語を理解することとした場合、 言語の言語的な思考と通じた、倫理的な理解であるならば その思考に言葉がないと成立しません。 しかし、理解に言葉を必要としないものであるなら、 原初的な感情での理解は可能です。 あつい、さむい、うれしいなどの理解には 言葉は必要ありません。

spitzer3
質問者

補足

>あつい、さむい、うれしいなどの理解には 言葉は必要ありません。 確かに「あつい、さむい、うれしい」の理解は現実に感受しているもんですから言葉は要りませんね。

  • corpus
  • ベストアンサー率12% (25/200)
回答No.2

ありえるでしょう。 自分が言葉であったと思っていたものが言葉でなく、 自分が思考であったと思っていたものが思考でなく、 可能性としてはあります。 すべて悪魔がつくりあげた虚構の世界であるということはありえます。

spitzer3
質問者

補足

>自分が言葉であったと思っていたものが言葉でなく、 自分が思考であったと思っていたものが思考でなく、 可能性としてはあります。 すべて悪魔がつくりあげた虚構の世界であるということはありえます。 これはしょうがないんですかね。なんか自分が今まで作り上げてきた論理が破綻してしまうのではないのかと不安なんですよね。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.1

質問内容をイメージしてみて、自分の中に沸いたイメージから回答を試みてみます。 理解という問題ですが、自分自身でさえ理解できないのに、ましてや他人を理解することなど、かなり困難を極めると思います。 が、人びとは言葉を理解するというより、言葉の持つ何かをやりとりすることで、コミュニケーションが成り立っているように思います。 その何かとは何か。 例えば海というものを体験したことも見たことも無い人に「海のように」と言っても、イメージが沸きません。 が、海で育った人なら、どの海か理解して、脳の中でイメージでき、相手が言おうとしていることをさらに脳の中でリアリティーを持って再現できます。 すると「わかった」となりお互い笑顔になれます。 全く同一ではないが、近いのでお互い笑顔になるわけで、そのアバウトさでも十分ok。 別な例でいくと、、、例えば、アイスを食べたことがあるチンパンジーの目の前で、アイスを食べてみせると「チベタっ」って顔をします。 これは共感覚により、実際は食べていないのに、「チベタっ」と脳の中で再現しているからだと思います。 他は、、、例えば、人は目の表情だけで、いろいろな相手の感情を識別します。 言葉とは逆の本心が目の表情に出ると、相手の言葉以外のものを見抜くこともありますよね。 別にマインドリーダーという特殊能力が無くても、統計を取ったことはありませんが、少なくない人びとが、嘘をついている人の目だけを見て、言葉と裏腹のことを心の中に持っていると見抜けると思います。 目だけの写真を見て、何十種類もの感情のどれかを言い当てるテストがあります。 「楽しい」「悲しい」「怒り」は誰でもどれかを区別できますが、「この目は、怒り・嫉妬・ねたみ のどれか」となると、かなり高度な識別が要求されます。 次に、、、声でも相手の言葉以外の感情を識別して人間はコミュニケーションをやっています。 恐らくこの能力の臨界期も言語と同様に、12歳くらいが限界で、それ以降この能力を習得しようとしても、かなり難しいと思えます。 これらの能力を共感覚と呼ぶのではないかと思えます。 能力に差異があるので、お互いの共感覚はかならずしも一致するとは限りませんし、微妙な違いを識別できないために、誤解も生まれるわけです。 相手が嫉妬しているのに、怒っていると捉えてしまうと、正確な共感覚は発動せず、表面上の言葉で伝わってくるのは基本の怒りなので、相手がどうしてそんなに怒っているのか理解できず、問題を解決できないわけです。 また怒りの中に悲しみも混じっていることがあります。 諦めきれないから怒ることもある。 そういうとき、共感覚よりまず言葉によってその一連の感情を順序だって相手に見せると、相手は言葉により、相手の怒りの本質を理解することもある。 が、共感覚を使うにしろ、言葉を使うにしろ、両方同時に使うにしろ、どちらかがコミュニケーションを断絶したら、それで終わり。 謎は解明できないまま、怒りだけが残る。 理解には到達しない。  理解する気もないので、椅子を蹴って席を立ったわけで、コミュニケーションの断絶。つまり電話機を叩き切ったわけです。 怒りにより叩ききる場合もあれば、自己保身・逃避により叩ききる場合もある。 諦めやどうでもいいや・・・という無関心が芽生えたためにコミュニケーションが断絶する場合もある。 とだらだら書いていて、我々は理解とたといっているが、どの程度で理解したと思って「理解した」と言っているのか、、、と思いました。 相手が話すストーリーがわかったとき、英語で i see と言います。 それとは別に相手が言葉を失い泣き崩れているとき、 i know といいます。 見える と 知っている この違いはなにか。 前者が全体像を言葉からイメージし i can see になり、後者が相手の言葉以外で表現することと同じものを自分が内包しているので、i know になるのではないかと思います。 と つらつら書いてみましたが、、残念ながらこれらをクリアにまとめて回答することはできませんでした。 どちらかというと、私の書く内容は、i see ではなく i knowの類いになるのかもしれません。 この後者を使っている限り、私は哲学には不向きかも・・・(苦笑) と思ったのですが、I see ならロボットでも可能。 だが、ロボットは i knowが苦手。 人間はロボットではない。 従って人間の理解を理解するのは人間しかいない。 と思うんですね。 しかも両方の能力を使って理解を試みている。

spitzer3
質問者

補足

>これは共感覚により、実際は食べていないのに、「チベタっ」と脳の中で再現しているからだと思います。  この脳の中で再現しているというのが私にはくせもんに思えるのです。  脳の中で再現が行われているというのは、あくまで言葉を理解していることを前提にして分かることだと思うのです。  しかし、その前提にしている言葉を理解していなけれが、こういうのがあるというのは成り立たないのではないのかと思うのです。

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