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戦と大陸の影響について

日本の戦はなぜ大陸からの影響を戦国時代までうけなかったのでしょうか?

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  • ewyr-05
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回答No.3

武田信玄得意の鶴翼の陣も、中国の兵法の中の物を自分で工夫して変えた物です。 古くは、紀元前にギリシア辺りで考えられた戦法です。 有名な、 武田信玄との戦いに敗れた徳川家康が城に逃げ帰り、タイマツをこうこうと点け、門を開けっぱなしに した策を「開城の策」と言います。 策士であればある程、中で何か策を仕掛けていると思い込むのです。 三国志の諸葛孔明が 見方の軍が壊滅的打撃を被り、城へ逃げ帰った時、孔明が優雅に琴を奏でる姿を見た敵の将が、 「負けた振りをしたのだろうがそうは行かない。 先の軍は別働隊だ。本隊は無傷で中にいる。」 こう言い放ち、引き返した策です。 元より、文字、学問、律令政治自体を学び、 政治の仕方、身分の決め方まで学びました。 儒学、陽明学、兵法に至るまで輸入によります。 特に儒学は武士道に合う為、盛んに教えられたそうです。 日本の鎧も、始皇帝の遺跡からすると、鉄板の接ぎ方は同じです。 違うように見えるのは、その上に布や装飾を施している為です。 太刀は中国と違いますが、 太刀と言われた時代の刀は長く、大きい物でした。 紐でぶら下げました。 直刀から日本人に合わせた反り、大きさになったのでしょう。 馬術の場合、モンゴルで「あぶみ」が発明されました。鞍、アブミにより、馬を容易に乗りこなす事が出きるようになりました。 >日本の戦はなぜ大陸からの影響を戦国時代までうけなかったのでしょうか? まともな戦は平将門の乱でしょうか? 平安後期ですね。 この頃までの戦らしい戦は、 蝦夷征伐事業だけになります。 砦を構築して土地を占領する戦闘ですから、 野戦とは違います。 こう言った事から、源平合戦頃までは戦らしい戦も少なかったようです。 そのため武将が名乗りを上げてから戦うような個人戦が主であったようです。 名乗りを上げずに集団で奇襲を仕掛ける 源義経を、汚い戦法で勝つ武将とののしる武将もいたようです。 旧日本海軍では、 戦艦(旗艦)が先頭に立ち、俺に続けと疾走します。 その後ろを重巡洋艦、その後ろを駆逐艦が続きます。 その為、ガダルカナル沖夜戦では、戦艦霧島は集中砲火を浴び、真っ先に沈んでしまいます。^○^ 一体何を学んだのでしょうか? 一騎打ちのつもりかえ?^_^; >日本の戦はなぜ大陸からの影響を戦国時代までうけなかったのでしょうか? 遣唐使を不要と判断し、朝鮮に出兵し、中国を占領できると考えた頃、良いものを輸入出来なくなったと考えます。^_^

gakuhi
質問者

お礼

お返事遅れてすいません。いろいろと詳しい説明をしてくださり有難う御座いました。

その他の回答 (3)

  • Pinhole-09
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回答No.4

戦法については、六韜三略(りくとうさんりゃく)などの中国の古代の兵法書が平安時代には日本に伝わり活用されています。  後三年の役のとき、義家が空飛ぶ雁の列がにわかに乱れるのを見て、その下の草原に伏兵ありと知ったのはその例です。  義経も鞍馬寺で兵法書を学んだそうです。  孫子の兵法書ものちに伝わったでしょう。 集団戦法などは兵数の違い、広い平原の中国と起伏の多い日本の地形の違い、人馬の体格の違いなどで活用できない所もありますが、参考にしたと思います。 武器も重い青竜刀などを除けば、同じようなものを使い、鉾も日本でも同じ頃まで使用されています。 元寇の石火矢やど弓は日本では発展しませんでしたが、すでに確立されていた武器で十分と考えたのでしょう。 要するに日本は大陸の情報を取り入れ、日本に合う形に変えて活用していました。

gakuhi
質問者

お礼

お返事遅れて申し訳御座いません。詳しい解説有難う御座いました

noname#24488
noname#24488
回答No.2

 ご質問が、「日本の武器が、種子島への鉄砲伝来まで、大きな変化がなかったのはなぜか?」というようにもとれますので、それに基づいて回答します。  NO.1さんのご回答は、その通りだと思います。青銅器時代の矛や剣、鉄器が入ってきてからの槍や刀は、みな大陸からの移入ですね。  ただ日本で独自に進化したものは、日本刀という鋭利な刀です。これは外国には見られません。日本の刀鍛冶の技術の優秀さを示すものです。  ただ、刀や槍は弓矢は年代によって進化しているもののわずかです。鉄砲が入ってきたときの大変化には及びもつきません。刀や槍や弓矢など人力で振り回したり飛ばしたりするものは、進歩があっても形が変わるだけでわずかなものです。  鉄砲が入ってきてからは戦争の仕方もうんと変わりました。遠くからタマを飛ばせて、敵を殺せますものね。どんな剣術使いでも、鉄砲で狙われたら勝てません。  NO.1さんのおっしゃるとおり、蒙古が攻め込んできたときは、日本の武士は散々な目に会いました。神風が二度吹いて蒙古(元)の船がひっくり返って日本は助かりましたけどね。このときは、やられて学びました。  その後、豊臣時代に日本が朝鮮半島へ攻め込んだときは、日本の鉄砲を初めとする武器は優秀で、明や朝鮮を圧倒したらしいです。  見当はずれの答えだったかな?

gakuhi
質問者

お礼

返答有難う御座いました

  • komes
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回答No.1

ご質問が漠然としていてお答えにならないかもしれません。 日本と大陸との間には、古代には朝鮮半島との間に当時としては大規模な戦争をしていました。 九州に防人を置いたのも国土防衛のためです。 また元寇では武器や戦法に影響を受け、それまでの個人戦から集団戦法へ変化しています。 鎧や馬具など影響がありました。

gakuhi
質問者

お礼

返答有難う御座いました。

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