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室町時代に戦以外で殺された農民や町人等の処理方法

室町時代、戦国時代に戦以外、都や村等で農民や町人等が殺された場合って誰がどのような手順で処理したのでしょうか? 調べると、戦等では坊さんや処理等を専門とした人達がいたみたいなのですが、戦ではない言うなれば、殺人事件のように殺された人達はどう処理されたのでしょうか? また、そういった事を管轄する機関はあったのでしょうか? 創作活動中でして、上記の様な描写をしたく質問させて頂きました。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • fumkum
  • ベストアンサー率66% (504/763)
回答No.2

こんにちは 室町時代には、農村には惣(村または郷村など)、都市には町(ちょう)が発達します。これらの惣村・町はいろいろな機能・権限を取得していき、自治を拡大しますが、その中で重要なものの一つに、「自検断(権-じけんだん・けん)」というものがあります。これは、惣村・町の内部の統治権・裁判権・警察権・軍事権(以上をまとめて検断権ともいいます)を惣村民・町民自身が行使することです。そのために、守護使、領主使の干渉を拒否するもので、地下検断(じげけんだん)とも言われます。この自検断には殺人・強盗・傷害事件などに対する捜査・裁判権も含まれます。ただし、日本全国一律に惣村・町が発達したわけでも、惣村・町全てが検断権を持ったわけではありません。地域によっては、国人・守護・幕府が検断権を行使する地域もあります。さらに、戦国大名が登場すると、検断権は戦国大名に帰属するようになり、大名側も、分国法などを制定し、刑罰に対する規定を盛り込むなどの動きが見られます。 ところで、村八分という言葉があります。これも惣村の検断の処罰の一つですが、火事と葬式には適応されません。火事は延焼により、死体はにおいと伝染病の怖れにより村八分から除かれます。ですから、死体についても惣村や町が処理したものだと思います。ただ、特に都市部についてですが、伝染病の蔓延や、大規模な騒乱・戦争によって、大量の死体が発生した場合、地域の処理能力を超えるまたは、伝染病への感染や戦闘に巻き込まれることを怖れて処理が進まないことがあります。このような時に、時宗の僧侶などが、死体の処理に当たることがあります。 戦場に関しては、陣場奉行等を設置している大名もおり、陣場奉行などが死体の処理を含めて、戦場の後片付けをすることもあります。当然、勝った方の陣場奉行などですが。 ところで、青田刈りなどの傷の記録についてですが、これは、戦功を査定するための資料として作成され、鎌倉時代から存在するものです。時代・家中にもよりますが、詳細なものは、刀傷などの傷の原因、長さ、深さなど詳細に記述されたものもあります。青田刈りも戦争行為なので、それにより相手方の反撃等で負傷・死亡したなどは戦功として認められる事柄です。 *戦国大名が登場すると、検断権は戦国大名に帰属するようになり=全ての自治・検断権が奪われるのではなく、軽微な犯罪に対する検断権などや、自治の一部は残り、近世にも引き継がれます。逆に地下請などのように領主にとって都合のよい面は利用されます。 以上、概略ですが参考まで。

takasi7312000
質問者

お礼

どちらの方も大変助かったのですが、自検断が創作で仕える単語として良かったので、こちらの方をベストアンサーとさせていただきました。 有り難うございます。

その他の回答 (1)

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11082/34532)
回答No.1

庶民に関する細々とした記録が残るようになったのは、近代以降の話です。日本人は異常に筆まめなので、江戸時代あたりまではどこかでいちいち日記なんかを残していたりするんですけどね。私の回答のお約束で話が横道にそれますが、北海道の昭和新山ができたとき、その詳細な記録を残したのは地元の郵便局長さんだったそうです。その人は市井の人に過ぎませんでしたが、非常にまめで真面目な方で、そのおかげで昭和新山の形成の詳細が分かったんだそうです。専門家でもない関係ない人が日記のような記録を残すなんて、西洋でもなかなかないことなんですよ。 さて、戦国時代は400年も昔のことでございまして、その間に戦災という日本中が焼き尽くされたことなんかもございまして、多くの古い記録が失われてしまいました。つまり、そんなもんは分からんということですな。 なにしろ当時は大名の子供でさえ、女だと家系図にはただ「女」としか記録されないような時代でございます。名も残らぬ農民町人のことなんて、だーれも記録になんか残さないのですよ。ただですね、やっぱり日本人は筆まめでございますね、「雑兵物語」という足軽マニュアル本が残っておりまして、これが当時の足軽たちの実態を今に伝えています。 んで、ここからは私の見解になります。研究者による公式見解とは違いますので、そのつもりでお読みください。 よくドラマや映画では合戦が終わると死屍累々、という場面がありますが、私は実際の合戦ではあんなことはなかったと思います。兵士の死傷に関する記録というのも世界的にだいたい日本の明治時代以降になってから残されるようになったのですが、概ね戦争による将兵の死者の3倍くらいの負傷者が出るんですね。イラク戦争のような大きな戦いがない戦争ならもっと比率は負傷者が多くなります。もし実際の合戦でいちいちあんなに沢山の死者が出ていたら、冗談抜きで人口が枯渇してしまうと思います。当時は毎日のようにどこかで戦いがあったわけですからね。 で、当時の手紙(報告書)なんかを見るとですね、「○○に出陣して青田刈りをしたら相手も軍勢を出してきて小競り合いになり、負傷者が出た」なんて書いてあるんですね。ケガ人が出たことが報告されているのです。つまり、小競り合いでケガ人が出ることは報告すべき事柄だったということなんですね。 そう考えると、現代の我々が想像するより、武士にしろ農民にしろ死者はあまり出なかったのではないかと思います。 秀吉の小田原攻めのとき、小田原の北条家は決戦を意識して「根こそぎ動員」をするんですね。その命令書の中に「人数合わせのために60過ぎの年寄りを連れてこないように」なんて書いてあるのです。わざわざ書いたということは、そうでもしておかないとジイサンがやってきちゃうということですし、そこそこに足軽の中にそういうジイサンが混ざっていたことが想像できるわけです。 それに当時は農民でさえ小刀(小振りの日本刀)程度はみんな腰に手挟んでいた時代です。「殺されたくないなら、腰の刀を抜け」って時代でもあったと思いますよ。警察もありゃしないんだし。 読者の人たちも知識があるわけではないので、まあ想像力を働かせて自由に書けばいいのではないでしょうか。どうしてもちゃんと知りたいならいくつか書籍は紹介できますが、戦国時代の基礎知識がないと書いてある内容を理解するのもチト大変かなと思います。

takasi7312000
質問者

お礼

確かに、仰る通り読者もわからないかもしれません。 ですが、迫れる所は迫りたいといった思いがありまして…もし良ければその書籍をご紹介して頂けませんでしょうか?

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