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本当の目的

 「男は仕事第一だ」などと言われたりします.私も立派な社会人としての地位を確立したいと考えております.  しかし,ここが質問ですが,肩書きには,どこかはかない部分があるのです.成功するとかしないとかに固執して・・・大事なものを見失い・・・破局にいたる.小説などでよくある構図ですよね.  間違っても死ぬ前に「あなた○×大学卒ね」など,決して言ってほしくありません.人間だから,文字通り人の間が一番大事だと思います.しかし,地位,名声,金・・・こういった欲望こそ人間らしいところであることは決して否定できません.もちろん解釈により,すばらしいものでもあるはず.この2つの矛盾について,答えのあるものではありませんでしょうが,さまざまな角度から考えをお願いいたします.  今のところ自分としてはバランス感覚が大事と思いますがね・・・

質問者が選んだベストアンサー

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  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.12

「>バランス感覚が大事」というのはおっしゃるとおりだと思います。 「両者にどのようなバランス配分をするか」が難しいだけで・・・。 何にせよmonmon8000さんの意味する「見失いがちな大事なもの」とは、【>地位,名声,金・・・こういった欲望】とは対極にあるものなのでしょう。 しかし、この「大事なもの」自体が「地位・名声・金」といった「幻想」を生み出すように思われます。 正確に言えば「幻想」を纏うことを強いられる、ということになるかもしれません。 おっしゃるように「生まれるも裸。死ぬるも裸。」です。 この場合の「幻想」は、本来の自分が「社会的な人間」であるということで纏うことを余儀なくされる「ペルソナ(仮面)」とも言えるのではないでしょうか。 しかし、この「幻想」は本来「象徴」と呼ぶべきものであったはずです。 では、なぜこのような「象徴」が必要とされるのかといえば、【「大事なもの」は見えない】からでしょう。 では、「大事なもの」が見えないとなぜ「象徴」が必要になるのでしょう。 それは恐らく、人間が他者の「大事なもの」に気付く能力が未熟だから、ということではないでしょうか。 それで、「大事なもの」の象徴として「地位・名声・金」が求められるのでしょう。 決して「大事なもの」そのものではないが、明らかにその成果であり、それを連想させるに十分なもの。 この本来的な「象徴」の段階では両者のバランスを取る必要はありません(本質的意味が競合しないので)。 しかし、人間の愚かさがそれを「幻想」に変えてしまったというわけです。 「大事なもの」は目に見えず、時としてはかなく、移ろい易い不安定なものです。 【それが不安】なのではないでしょうか。 「他者の信頼や誠意、あるいは愛といったようなものを感得する能力が乏しい」という言い方も出来るでしょう。 その結果として、目に見える「象徴」を「本物」と【思い込まないと不安】になるのだと思います。 この段階で「象徴」は「幻想」にすり替わり、それと知らぬうちに一人歩きを始めます。 「象徴」は「大事なもの」から導き出されたものであったのに対し、「幻想(または錯覚)」は『象徴そのものが「大事なもの」なのだ』という「強制的な定義」をもたらします。 巷間を騒がす多様な事件の背景には多くの「幻想」が潜んでいるでしょう。 そして、非当事者のあいだにおいてさえも、【自らの内なる(これは有名なジャーナリストが昔使ったフレーズですが)幻想】に気付いていないところが、「幻想の幻想たる所以」ではあるでしょう。 「人間」ではなく「人」、を思惟することが「幻想の打破」にもつながるようにも感じます。 釈迦に説法でしょうが、「社会的」という場合の「社会」は決して善のみで成立しているわけではありません(あらゆる存在に対する善はありえないので、という意味ですが)。 「社会」の存立理由に思いを巡らせることもまた、「人」の本質を際立たせる効果があるような気もします。

monmon8000
質問者

お礼

 なるほど.これは奥が深いですね.そう,私たちは本当に大事なものを見失いがち,かつ気づきにくいのでしょう.それを何かで象徴することにより,自分を見出そうとするということになりますね.  気づきにくいその絶対的な真理でしょうか,それがあり,それの1つの象徴が現在の私の地位であるわけですか.まあ,おかしな考えにでものめりこまない限り,それらはまずまず関連しあうでしょう(そう思いたい).だから矛盾も少ないという意味でしょうね.大事なのは,人生を通してその真理を浮き彫りにするよう努めることでしょうか.よく偉人が「悟った」などといいます.それこそが本当の目的・・・  大変有難うございました.

その他の回答 (12)

  • Syo-ya
  • ベストアンサー率31% (558/1780)
回答No.13

もし、お暇でしたら、こちらの3と4 http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=1800783 こちらの4をご覧ください。 http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=1402277 学歴とか地位とか名誉・・は、自分以外の何かに頼って、精神を安定させようと人間のもつ脆弱性なんです。 もちろん、自律的に行った優れた仕事の結果として獲得したものであれば、何も問題はありませんが。 仏教でいは「小欲知足」といいます。 自律的に心が安定していれば、何もなくても十分、平和で居られるという意味です。 生きることが平気になる状態を言います。 ご参考までに。

monmon8000
質問者

お礼

有難うございました. リンク集も大体目を通させていただきました.他にも回答いただきましたが,本質的には,つまり相対から絶対というわけですね.そう,依存心こそ心の悪魔かもしれません.私もそれを駆逐するため今の今まで生きてきたといいたいところです.ただ,何に仕えることにより,本質をつかもうと努力してきたのかというと私の場合は,大学関係の研究という意味です.今のところまだまだ未熟ですが,それにより,さまざまな側面を見ること,考える事が,真理の獲得につながっていくと考えております.

回答No.11

#8です。お礼の投稿を拝見した上で追記させてください。 「自分を尊重する・自分の欲求や感情を大切にする」→「自分勝手・自己中心的」→「悪いこと」→ 「人が離れていく」という思考回路についても考えてみたことがあります。 実は「自分を尊重して大切にして満たされる」からこそ、同じように「自分を尊重して大切にして満た されたい他人」を尊重することができるのかもしれない、とか、自分を大切にするからこそ、自分がも ったいないようなことをしなくなるのかもしれない、とか、自分を大切にするからこそ、自分の行動を 的確に選ぶことができるのかもしれない、とか、自分が満たされるからこそ他人に感謝できるのでは ないか、とか、いろいろ思いました。 人間、他人の存在がないと生きていけないようになってると思います。自分の欲求をよく聞いてい れば、自分が生きやすくなるために、他人も大切にするのではないかと思います。 それから、私が一番欲して求めているものは、おそらく質問者さまと同様、他人との情緒交流・・っ ていうか他人の存在そのものです。でも、他人がどう思うかによって自分の行動が左右されてほしく ないと思います。生まれつき、自分も尊重される権利を当たり前に持ってると思います。 人は「親に産んでいただいた」のではなく「親の勝手で生まれ・・させられた」のだと思います。 親は「子どもを産んでやった」のではなく「子どもによって親にしていただいた」のだと思います。 人は初めは何の責任も持たないで生まれて来たのだと思います。 そんな子ども自身の中にこの世で生きるために必要な「自分の欲求を聞き取る」とか「それを実行し て責任を取る」という技術を発生させるとすると、やっぱり他の者(例えば親とか学校とか会社とか世 間とか)の価値観を捨てて行かなければならないのではないかと思います。 後天的に入ってきたものは捨てようと思えば捨てられます。再学習、再習得もできます。それはとて も恐ろしくてめんどくさいことで、放棄してるほうがラクだけど、放棄しないほうが面白いと思います。 ・・・自分が生きやすくなるための学習は、一生続けるのだと思います。

monmon8000
質問者

お礼

回答有難うございました. そうですね.自分の考えをしっかりと持つことは大変重要だと思います.価値観が千差万別ですから・・・ただ,他人とのトラブルに巻き込まれることの理由として,誤解,行き違いがあるでしょう.喧嘩をしている2人が,相手について全く食い違った解釈をしているのを見かけたりします.ということで,自分を持つことに加え,それを人に適切に伝えることが出来る力(コミュニケーション能力)が重要ということでしょうね.

  • baihu
  • ベストアンサー率31% (114/357)
回答No.10

私は、肩書きの範囲を、もう少し広く考えます。 ○○課の統括課長、○○ちゃんを産んだ母親、○○さんの配偶者、○○さんの債権者、○○高校出身者、○○氏を殺した犯人、○○国人、○○星人……。全部同じように肩書きであり、役割、属性です。時限性のものもあれば一生ものもあり、自分で選択したものもあればそうでないものもあります。誇らしい肩書きも忌まわしい肩書きも、欲しい役割も捨てたい役割も。 その肩書きについて、意味を共有している相手がいて、また無関係の相手がいることも重要です。見当違いの相手に対して肩書きを誇示しても、それは無意味です。 勤務先の役職なら、社外で取引先でもない人には効力がないと思っていいでしょうし、退職後はなくなる儚いものです。でも、機能している間はアイデンティティの一部になりますし、責任があるものです。 「“先輩として”アドバイスをください」「“私の親友として”愚痴を聞いてほしい」「“企業の代表として”コメントを求められます」「その言い方って“人間として”どうなのよ」……、全部、求められている肩書きであって、本当にその肩書きで対応する責任のあるものと、そうでないものがあります。 ちょっとご質問のニュアンスと異なる角度から切ってみました。

monmon8000
質問者

お礼

有難うございました. そうですね.専門知識とか言ったものは,仕事仲間で共有します.今までの回答にも多数寄せられている通り,人間関係があり,結果地位,名声に行き着けると理想ですね.本質はどうもその辺りにあるようですね.相互に関連しあっているというわけです.でも,第一には信頼できる人間関係でしょうね.

  • bunntann
  • ベストアンサー率77% (7/9)
回答No.9

『人は人を助ける為にある』 自分が得た知識・経験を駆使して 人を助けるから自分も人から助けられる (生かされている) 何をやっても・何を思っても良い 但し 人を助ける事で有れば! 結果の責任は自分で評価は他人が決めること (自分が満足できれば良い事:満足できない人は他人の評価が気になる)

monmon8000
質問者

補足

回答有難うございます. 「情けは人のためならず」でしたか,名言ですね.ただ,私は自然体でいようと考えております.「この人を助けたい」と心底思えたとき・・・懸命に努力する.このスタンスです.が,変に意識して,「助けたい」だと,助けた後の見返りを求めてしまうので話になりませんね.特に人生経験の浅いころなど・・・と思いませんか.まあ考えすぎず自然体で.

回答No.8

たしかに少し昔なら、男は「良い稼ぎ手」「一家の大黒柱」であることで、女性は「良妻賢 母」であることで自分の存在価値を簡単に手に入れることができたと思います。高度経済 成長期において、人の求めるものがだいたい一致していて、世間の価値観に依存して身を 任せていれば賞賛さえされたのでしょう。 経済成長もだいたい終わって、多くの人がだいたい一致して求めていたものを手に入れた 現在、「頑張る」とか「努力」とか「忍耐」を身にまとって、そして、自分の欲求や感情を 犠牲にして(そもそもそれがどんなものなのか分からなくなって見失って?)得られるも のに疑問を持ち始めるのは当然のことだと思います。むしろ疑問を持たない人のほうが鈍 感なんぢゃないかな~と思います。親の価値観をそのまま受け継いで、疑問も持たずにそ れを受け入れて、幸せの少ない人生を送る人が多い中、質問者様に心から「おめでとうご ざいます」と申し上げたいです。 で、大切なのは、自分が欲して、自分の幸せのために、楽しんでしていることの結果、つ いでに「名誉」とか「地位」とかそんなものを得たのか、それとも、知らず知らずのうち に、世間の価値観を押し付けられて、世間に求められた自分を作った結果、「名誉」とか「地 位」を得て、代わりに自分の欲求や感情を見失ってしまったか、だと思います。 自分の幸福に無頓着にならないで欲しいと思います。 NEETというコトバとかその扱われ方なんかについて考えてみたことがあります。 そもそも生き方に「良い」とか「悪い」とか「優等」とか「劣等」とかあるのでしょうか? 少なくとも他人に決め付けられるもんぢゃないと思います。 「良い」とか「悪い」とか「優等」とか「劣等」とかそういう他人の価値観に振り回され て「自分が幸福かどうか」に無頓着になるのは損だと思います。 食って寝てるだけだとしても、本人が満たされていてしあわせを感じていて、周りの人間 も迷惑していないなら何の問題もないと思います。 問題は「それではいけない」と言って「今の自分」に幸福を感じることを拒絶する悪癖を 捨てることができないってことかも。もちろん「頑張らなくては生きる価値なし」と刷り 込まれた人に責任はなかったんだと思うけど。 (もちろん自分の幸福のために向上心を持つことはそれはそれで素敵だと思います。)

monmon8000
質問者

お礼

回答有難うございました. 確かに時代が変わりつつあるみたいですね.私は世間体に従う気は,あまりありません.自分独自の価値観で自分の実現したいことを実現しようと考えております.つまり自分が,生きていて良かったと思えるものを築けたらと考えております.ただ,その基礎的な部分が(自分の場合は)人間関係で,かつ名声を得ることが出来たら,それ以上は無いのではと考えて,質問させていただきました.大事な人の恩恵を忘れたとき,恐ろしいのではと思ったわけです.質問というか確認かな?周りの人たちは,どう思われるかなと思いまして.

  • apple-man
  • ベストアンサー率31% (923/2913)
回答No.7

 何かを残したいという本能が基本にあるように 思います。  自分はやがて死んで、跡形も残らないと 思ったとき、自分以外の何か客観的な存在に 自分がここに生きた証を残したいと思うのが 自然のようです。  その何かを残したいという気持ちが、 地位だ、名誉だという方向に傾くのは やはり間違いです。  次世代を築く素晴らしい子供を 育てるというのが正解だと思います。  人間は自分の感情を別なものに 転化しようとする傾向があるようですから、 この悪影響として、自分の社会的立場の 固執に繋がるのだと思います。    

monmon8000
質問者

補足

有難うございました. 「何かを残したい」ですか・・・心の底からこみ上げるこの欲求の本質は本能にあると!それは,そうでしょうが,かえって気がつかないのかな? ただちょっと質問で誇張しすぎましたが,私の価値観は,まず人間関係で,その結果が地位名声です.恩を忘れたとき,大事なものを失うのではという意味での質問でした.

  • kobarero
  • ベストアンサー率29% (106/361)
回答No.6

最も重要なことは、実現したい「事」を具体的にはっきりと定めることだと思います。 学歴、地位、人間関係、名声、金を目的とするのではなく、「実現したい事」を目的にすべきだと思います。 何故なら、学歴、地位、人間関係、名声、金は最終目的ではあり得ず、むしろ、「実現したいこと」の手段だからです。何故なら、具体的に「○○を実現したい」から、どのような専門知識(学歴)が必要で、どういう役割(地位)を担う必要があり、また、「その事」を実現するために、どのような人の協力(人間関係)が必要で、どうやって人々を惹きつけ(名声)るか、そして、どの程度の規模の金が必要がかが決まってくるからです。手段と目的が逆になってしまうと、死ぬまで手段を追いかけるだけで、目的が達成されることはあり得ないわけです。 実現したい「事」は、できるだけ具体的であり、個別的であるほど、「目的」としての効力を発揮します。例えば、以下の例のように。 ◆「今まで誰も思いつかなかったような最高におもしろいネット・ゲームを開発する事」 ◆「中国でアジアの先端ファッションを立ち上げる事」 ◆「ビールでもないワインでもないが、それと同等に普及する新しい飲料を開発する事」 ◆「アジアからの移民を教育し、新しい労働者として日本に定着できる環境と制度を作る事」 ◆「携帯に翻訳機能を付けて、アフリカの人とチャットができるようにする事」 ◆「火星に低コスト・ロボットを送り込み、遠隔探検サービスを販売する事」 しかし、あまり、個別具体的に過ぎると、運よくチャンスに恵まれれば、非常に効果的ですが、必ずしもチャンスにめぐり合えない場合もあります。それを乗り越えるには、2つの考え方があります。 (1)個別具体的に追い求めた結果、チャンスに恵まれず行き詰る場合がありますが、その場合でも、個別具体的に求めた結果として、当初見えていなかった新し発見があったり、思いもよらない事態が発生することがあります。その結果、初期の目的とは具体的には異なりますが、新しい道を見出すことは、よくあることです。 (2)初めから、やや、幅を持った「実現目標」を立てます。その立て方は、個人の性格や能力の幅に依存すると思います。例えば、以下のような例です。 ◆「自分の好きな専門分野で、何か一つ、人には絶対真似のできない成果を挙げる事」 ◆「自分で独立して商売を始める事」 ◆「介護・看護の世界で人の役に立つ事」 ◆「外国語を覚えて外国人と仕事をする事」 ◆「子供達の心に夢を与えるような教育をする事」 ただし、「事」が、あまり抽象的、観念的、一般的であると、「目的」としての効力を失いますので、注意が必要です。例えば、以下の例です。もちろん、この例が悪いという意味ではありませんし、また、日頃の心構えとして悪いという意味でもありません。ただ、「目的」としての効力が弱まるという意味です。 ◆「一生懸命仕事する事」 ◆「幸福な人生を送る事」 ◆「自分らしく生きる事」 ◆「金や地位を求めず、誠実に生きる事」 以上、「目的」を3つくらいのレベルに分けてお話しましたが、その「目的」を達成しようとする背景には、「夢」を追う熱い心が不可欠であることは、言うまでもありません。

monmon8000
質問者

補足

有難うございました. 肩書きと,人は相互に関連しあうという部分が本質であると考えております.具体的な目的を決めると,必要なものがついてくるという意味ですね. つまり,「○○大学に合格したい」だったら,そのための本は勿論,協力していただける人たちがおり・・・という解釈でよろしいでしょうか?

noname#34252
noname#34252
回答No.5

私は以前は大学卒業後に東京で働いていたものの、実家の両親の面倒をみる必要ができ地方の田舎へ帰省して、仕事を探しました。 御時勢のためか結局派遣労働者として働く事を決めてから、世の中について色々面白い物を見てきたと思います。 >地位,名声,金・・・こういった欲望こそ >人間らしいところであることは こういうと失礼ですが、女性的・お家的な考えであると思います。 ”地位,名声,金”を利用して、わがままや動物的欲望を実現するために謀略をめぐらし、保身を図って悪事を働く連中を見てきました。 法家は彼らから金を得て働きます。 女性であれば大学出の秀才エリートであるほど”強い男性”を求める本能が働くせいか、彼らに魅力を感じるようです。  周囲の人達もコレを利用し、一方で彼は周囲の人達を口実にして利用していく。 世の中が功利主義社会になりすぎたせいか、”地位,名声,金・・・こういった欲望”を達成する者程に道徳的犯罪に踏み込んでいく。 一部の人達が多大が犠牲を払わされながらにして犯罪者に捏造されていく。 姉歯の様な「世に知られた例」などは余程ましな方なのです。 >バランス感覚が大事と思いますがね・ そのためには仕事をやり過ぎない事です。 御自身の時間の当て方を考えるべきですね。 サラリーマンとして金を得て対価労働を行う身分では、少なくとも”名声,金”への希望は相当程度あきらめなけらばなりませんし、中途採用や派遣が増大した社会では地位はありません。 この点については、質問をさせて頂いております。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1837838 「 一般の人は給料を得る代わりに、手段や道具とみなされてどんなに努力しても商品価格として低コストにて売り易く販売利用されるだけです。」 もはや「男は仕事第一だ」とは言えない世の中になってしまっていると思います。 男子というのは五体満足、精神達者であれば、周囲の女性にも歓心をもってもらえますし、子供の事など身近なところで関心をお持ちになられて、社会奉仕ができる生き方を考えるべきではないでしょうか。

参考URL:
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1837838
monmon8000
質問者

補足

他のお礼・補足でも書きましたとおり,人間関係あっての地位名声です.そこまで心配していただかなくてもと思いますが・・・そりゃ就職先の上司が悪徳業者で,悪に手を染めざるを得ず・・・とかいうと問題ですが,基本的に自分の目標を立て,その実現にいろいろと協力していただき・・・という意味ですよ.精神面が第一なのは言うまでもないですね.

  • patofu
  • ベストアンサー率23% (137/591)
回答No.4

人の間を取り持つのは、学歴や地位、名声であったり金であったりするものです。 学歴や地位は今まであなたがどんな人生を歩んだかを示し、名声は社会的な評価、そして金はそれらの結果です。 それらを、”人と人の間”と分けて考えることはできません。 この大学にいったからあの人と出会い、あの役職についているからこの人と親交がある。 名声があるからついてくる人もいるだろうし、金があるからこそ付き合える人もいる。 これらすべてを欲望という枠でくくってしまったら、あなたは血と地のつながりしか持たない哀れな人間になってしまいます。 はたして、あなたの人間的な魅力だけでどれだけの人と、付き合えるでしょう? 猿の群れであってもボスはいます。人が言葉を持たない時代から、人と人に間がある限り地位と名声は必ず付きまとっているのですよ。 地位・名声・金を俗っぽいものと決めて、それらを求めたがらないことを主張し、あたかも自らを俗人と一線を隔していると考えることこそが、 あなたをして名声を求める俗人と同列においているのです。 俗人という言葉のニュアンスが気に入らないでしょうが、変人・奇人との対照と考えてください。

monmon8000
質問者

補足

なるほど,地位と名声が,人間関係と相互に関連しあっていることは,勿論自覚しております. ただし,ちょっと待ってください.地位と名声を求めないことを主張しておりません.逆です.もしそれらのみを求めすぎるのであれば,どこかはかないと感じ始めたということです.今の私の肩書きもさまざまな人のご協力の元でいただいているのです.信頼できる恩師も数名おられます.彼らの協力なく今の私は存在しえません.少し疑問に思っただけです.

  • nabayosh
  • ベストアンサー率23% (256/1092)
回答No.3

>私も立派な社会人としての地位を確立したいと考えております. あなたはそう思うかもしれませんが、社会人でありたくないと思う人も想定できますね。 >しかし,地位,名声,金・・・こういった欲望こそ人間らしいところであることは決して否定できません. 社会人でありたくないと思う人は、こうした社会的欲求を持たないと思います。 つまりあなたは、「人間は社会的な動物である」という言論にとらわれているように、私には見えます。 矛盾というより、何か前提が違っているように思われます。 「バランス感覚」ということを言うなら、いつまでも《いつバランスが崩れるかわからないという不安》を抱えて生きていかなければなりません。 まずは存在、その後に名(肩書き)が来る、という見方が普通ではないでしょうか。 その存在というものは、本当に存在するかわからないのだけれども、でも、存在すると思わせる何かがあることは確か。 存在の質的側面を深く考究することで、この問題の解決が見えてくるはずです。

monmon8000
質問者

補足

回答有難いのですが,正直言って,正確に本質をつかむには抽象的過ぎてちょっと理解できません.私は哲学の専門家ではありません.もう少し身近な具体例がなければとても通じませんよ.  まず,社会的でない人を想定することの意義はなんですか?「社会的動物である」という言論にとらわれるとなぜ解決しないのですか?その考えにとらわれていると,「東大=偉い」と錯覚するなどといった意味ですか?しかし,おそらくのところ,そういう意味ではないように思いますが・・・  >いつまでも《いつバランスが崩れるかわからないという不安》を抱えて生きていかなければなりません  とあります.つまり相対から絶対という意味ですか?絶対が分かると安定しますね.それを求めるのが一生の課題といわれそうですが・・・  あと存在の定義ですが,目でものを見ているのではなく,脳でものを見ている私たちは何が本当の存在なのかを定義することができません.五感はすべて脳が作り出すのですから.  今の見解では,絶対の真理が分かれば,職業,人間関係ともそれを基盤に生じるものでしょうから本当の意味でバランスが崩れないといったようなことが,話の意図と解釈しております.  ただ,ここまでいうと対談にもなってしまいがちです.今後さらに回答していただけるなら有難いのですが,もう少し具体例をつけて,一般人にも通じるようにお願いしたします.

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