• 締切済み

なからざるべからず~その2~

まだ閉め切ってなくて寝かしておいた質問の件で新たな側面から疑問が湧いてきました。 その元の質問は下記のものです。 http://okwave.jp/qa/q8757695.html 教えて!gooは古い質問をそのまま再開してもそのカテゴリーで活動している多くの人の目には留まらないシステムだったと思います。←間違っていたらその旨即座に指摘して下さい。間に合うようならこの質問を削除し、元の質問ページで続きを進めたいので。 ですので、新たに質問を立てるという形にしました。 まずこの質問を始めるに先立ち、元の質問ページはまだ解決していない、ということをここで明言しておきます。元のページを解決済みにしなかったのは、いろいろと事情があったからなのですが、6件くらい回答がついた時点で複雑さが増し、私の脳が拒否反応を起こしたほどなのですが、やがて理解が進み、7割方納得しました。その後もありがたいことに追加説明の回答や他の方の便乗質問で深みを増して頂いていましたが、私としては6件くらい回答を頂いた時点で一旦満足したものの、解決したわけではありませんでした。寝かしておいたと書きましたが、無理に解決済みにする必要もなかろうと放っておいたという方が正しいのかもしれません。 さて本題ですが、前ページの続きとなる新たな質問は、 「~なからざるべからず」は、ある点において「ぞっとしない」と類似の構造をとっているのではないでしょうか、ということです。 ここで、「ぞっとしない」について軽く説明書きしておきます。 この表現は、「ぞっとする」の否定表現です。「ぞっとする」には、恐怖で体が震える感じがしたり寒気を感じたりすること、美しいものに出会って身体を駆け抜けるような感動を覚えること、または文字通り寒気で体が震えること、といった意味があります。その否定表現である「ぞっとしない」の昔からの意味は、驚きがない、面白くない、あまり感心しない、いい気持ちがしない、となります。 一方、現代ではその本来の意味ではない意味、つまり「恐ろしくない」という意味で使う、または解釈する人がいるという国語問題があるとのことです。 ここでのポイントは、本来の用法は、「恐ろしい」といった意味の否定だから「恐ろしくない=平気だ」という恐ろしさの対極の意味になるのではなく、「恐ろしくない=恐ろしさはない=とりたてて何もない」というニュートラルの意味になっているという点です。 閑話休題、「~なからざるべからず」について考えてみます。 永井荷風 一夕を例に取ると、「およそ小説と称するものその高尚難解なると通俗平易なるとの別なく共に世態人情の観察細微を極むるものなからざるべからず。」は、世態人情の観察は細微を極むるものであってしかるべきだ、という意味です。 これを「観察細微を極むるもの」+「なからざる」+「べからず」と分解しますと、問題の 「なからざる」+「べからず」の部分は、「でないことはない」+「なんて曖昧なことではいけない」という感じの解釈が浮き上がってくるわけです。 この解釈はまだあくまで可能性であり、ですから質問を続けている次第だということに注意して下さい。 この解釈は、文脈上の実際の意味も矛盾無く説明できていますし、前ページ(qa/8757695)でkine-oreさんから提示していただいている肯定の強意表現という役割とも大枠で矛盾せずに沿っていますし、前ページのNo7-8で物議を醸している「ぞ+あり」から来た「ざり」という説の信憑性に関してもクリアされます。 再度この解釈を説明します。 「なからざる」を「でないことはない」の二重否定の意味で使うことで部分肯定とでもいいましょうか、つまり完全に肯定せずに可能性を込めたあいまいな表現にします。 そして、「べからず」でそれを否定することで、しかもベシを使った否定をすることで、部分肯定であることを否定して完全肯定へ持ち上げて強意にしている、というのが新たに出てきた解釈の仕方であり、これは私個人が仮定しているだけであり、その是非をここで問わせていただく次第であります。 よろしくお願いします。

みんなの回答

  • hakobulu
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回答No.19

#18です。 1. >以下のように修正します。 >私の(とりあえずの)解釈は、「ざる」が「なから」に係っているように、「べからず」がその前の部分である「~なからざる」のうち、「”~”も含めた”~なから”」という発言、に係っているということです。 : a.『「ざる」が「なから」に係っているように』⇒「なからざる」。 b.『「べからず」がその前の部分である「~なからざる」のうち、「”~”も含めた”~なから”」という発言、に係っている』⇒「~なから(なかる)べからず」。 という意味ですよね? であるとすれば、#12で述べた 【b.tklreldmgadfgasさんの改訂解釈。 ⇒「なから」は、「ざる」と「べからず」の双方に繰り返し(重複して)係っている。】 という内容と、どこが違うのか理解に苦しみます。 2. >「およそ小説と称するもの」すべてが「極限まで注意深く観察するという行為の成果物」とは思えない 「すべてが」という表現が気になったのですが、私は「大体」と訳しており「すべて」とは訳していないということを確認(明記)させておいてください : 了解しました。 わたしの場合、「およそ=そもそも=総じて」という意味に解釈したため行き違いが生じたのでしょう。 つまり、「すべて小説と称するものである以上、極限まで注意深く観察するという行為の成果物であるべきだ」と荷風先生は言っているように思ったわけです。 「既刊の著作の大体を考慮する限り」というtklreldmgadfgasさんの解釈とは必然的に異ならざるを得ませんね。 それを否定するだけの論拠を持たない非専門家にとっては、見解の相違、ということで一通りの決着が着いたと判断する以上のことはできないようです。 しかし、丁寧にその論拠をお示しいただきましたので、御説に筋の通っていることが良くわかり、非常にすっきりした気分にさせていただきました。 ありがとうございます。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.18

#13です。 1. >私の(とりあえずの)解釈は、「ざる」が「なから」に係っているように、「べからず」がその前の部分、つまり、~なからざるの「~」も含めた発言、に係っているということです。 : 違っていたらご指摘いただきたいのですが、これは、「極むるものなからざる」が「べからず」に係っている、ということですよね。 しかし、一方では、 >ですので「べからず」が「ざる」の前の「なから」にかかっている、と言われる方がまだ私の解釈に近いですよ。 : ともおっしゃる。 こちらは、「極むるものなから(なかる)」が「べからず」に係っていることになります。 「さる」を含むか否かは大きな違いなので、どちらがご自身のお考えなのか、もういちど確認させていただけませんか。 2. 再度、その段全体を青空文庫で読んでみましたが、 「およそ小説と称するものその高尚難解なると通俗平易なるとの別なく共に世態人情の観察細微を極むるものなからざるべからず。」 を 「大体小説と名のつくものは難解なもの通俗的なもの問わず、世間のありさまや人情事を極限まで注意深く観察するという行為の成果物である」 のように解釈することはできませんでした。 なぜかと申しますと、「およそ小説と称するもの」すべてが「極限まで注意深く観察するという行為の成果物」とは思えないわけで、つまり、荷風としては、それを嘆いて、そうであってはいけない、と言っているように解釈するほうが自然だと感じるからです。 tklreldmgadfgasさんのように、「既刊の著作の大体を考慮する限りそういうことが言える。」という前提に基づいた荷風の発言であると判断すれば、たしかに、「 (5)〔当然・義務・予定〕」という解釈にはなりませんね。 そこまで根拠を明確にお示しいただければ、専門家でもないわたしが、いや、そうではない、とこれ以上反論することはできないと思います。 繰り返しになりますが、「既刊の著作の大体を考慮する限りそういうことが言える」と荷風が考えていた、とtklreldmgadfgasさんがお考えになっていることがわかったので、おっしゃっている論理の筋道が明らかになり、すべて腑に落ちました。 それ以上は、もう見解の相違ということで致し方ないことですね。 3. 「黄梅~」についても原文を拝見しました。 虫干ししながら趙甌北の漢詩をめくって見ているうちに、こんな絶句を見つけた、というシチュエーションなのですね。 押入れを整理しているうちに、つい昔の新聞記事に見入ってしまうようなことなのだと思います。 作者をなかなか身近に感じさせる光景です。

tklreldmgadfgas
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 1.これはまずいかな?と投稿後に思っていたところです。 以下のように修正します。 >私の(とりあえずの)解釈は、「ざる」が「なから」に係っているように、「べからず」がその前の部分である「~なからざる」のうち、「”~”も含めた”~なから”」という発言、に係っているということです。 >ですので「べからず」が「ざる」の前の「なから」にかかっている、と言われる方がまだ私の解釈に近いですよ。 はそのままです。 2は1点だけ指摘させてください。 >「およそ小説と称するもの」すべてが「極限まで注意深く観察するという行為の成果物」とは思えない 「すべてが」という表現が気になったのですが、私は「大体」と訳しており「すべて」とは訳していないということを確認(明記)させておいてください。もちろんそこはこの回答の問題ではなく、hakobuluさんの回答には必要な言い回しだということは承知しています。ただ気になっただけです。 私もべしの話をこれ以上するのは気がのらないという点は同感です。分類しなくても要点は既に押さえられているはずですから。 3.意識の流れはユリシーズが有名ですが、私の本の知識は豊富ではないので、日本の作品でこの技法が使われているものとしては現代のものしかしりません。現代では普通ですが、近代の日本の作品でこの技法が使われている例は知らなかったので驚いたわけです。あまりにフランクな技法なので近代作品とはイメージが合わないですし。近代で最初に導入(または独自に発明)したのはどなたなのでしょうね?

  • OKAT
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回答No.17

No.16の方に教えてもらって検索しました。   「あらざるべからず」・「あらざるべからざる」を正統派として6例ありました。 「文學に於ける虚構」 折口信夫 「将来の日本 」    徳富蘇峰 (3カ所) 「誰が罪」    清水紫琴 「従軍紀事」   正岡子規 「思想の聖殿」  北村透谷 「外科室」    泉鏡花  一方の「なからざるべからず」・「なからざるべからざる」を変則派として8件ありました。(さらに増えました。) 「文明教育論」  福沢諭吉 「愛と婚姻」   泉鏡花 「妖怪玄談」    井上円了 「一夕」 永井荷風 「矢立のちび筆」 永井荷風 顕治をその二階借りする部屋に訪れ、女を口説くにはフットボールの心がけ<なからざるべからず>。タックルせざるべからずなど例の高声にひとりうち語る。  「獄中への手紙 一九四〇年」 宮本百合子   自然律によって、一切の生は終り<なからざるべからず>ですからね。   「かもめ」 アントン・チェーホフ 神西清訳 (口語体) 沙翁劇を看んとせば英文学の予備知識<なからざるべからず>。    「江戸芸術論」  永井荷風  注 口語体と書いたのは、全文は口語体で書かれているなかで、慣用句のように使ったものです。  さて、この両派に属している「泉鏡花」の例外はあるのですが、ほとんどはどちらかに決めているようです。「あらざるべからず」に決めた人は正統派と言いましたように、「あり」の二重否定は「あり」の強調と考えて当然のことです。それに対して変則派の人は「あらざるべからず」では、みずからの意図は現せていないと感じたのでしょう。これが感覚的な問題であることは、皆さんご同意くださるものと思います。  「あらざるべからず」のどこに意図する所とズレを感じたのか。わたしは、それは「あらざる」にあると思います。みずからは「あり」を強調するつもりなのに「あらざる」と言い出すのは抵抗があり、その気持ちが「なからざる」に変えさせたと考えます。それは否定の否定というような理論上の意識ではなく、頭の中の記憶にある「なからざる」への気持ちの動き、または聞いたことがある「なからざるべからず」が先に立ってしまったのかも知れません。要するに、否定の否定というようにいちいち確認しながら書いたものでなく、それでよかろうと考えて書いたものに違いありません。  現代のように、文法に気を付ける人も少なく、発表されたものを批判する人も少なかったから、見逃されてきた語法でしょう。

tklreldmgadfgas
質問者

お礼

回答と更なる調査ありがとうございます。 否定呼応の問題は重要かどうか分からないですがまったく手をつけていません。 この「あらざるべからず」と「なからざるべからず」比較の問題も手をつけるのが遅れて返答が送れるかもしれませんのでご了承ください。

  • hakobulu
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回答No.16

#13ですが、#14さんのコメントに関連して。 「あらざるべからざる」という表現も若干あるようです。(釈迦に説法かもしれませんが、"あらざるべからざる"とダブルクオーテーションで囲って検索した結果です) 「https://www.google.co.jp/search?q=%22%E3%81%82%E3%82%89%E3%81%96%E3%82%8B%E3%81%B9%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%96%E3%82%8B%22&rlz=1C1RNOG_enJP586JP586&oq=%22%E3%81%82%E3%82%89%E3%81%96%E3%82%8B%E3%81%B9%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%96%E3%82%8B%22&aqs=chrome..69i57.12539j0j4&sourceid=chrome&es_sm=93&ie=UTF-8」 お示しいただいた、 >4.暁明駿馬に鞭打つて山野を跋渉するの意気なくんばあらずと思ひ、続いて厩に駿馬を養ふ資力と、走るべき広漠たる平野<なからざるべからざる>事に心付きたり。 : を見て、ますます四重否定の構図ではないか、と意を強くしているところです。 作者の意図として、「続いて厩に駿馬を養ふ資力と、走るべき広漠たる平野なからざる・・・(ことなかる)べからざる事に心付きたり」という息遣いが聞こえて来るのですがねえ。 独断と偏見と言われてしまえば反論の根拠も持たない一素人ではあるのですが・・・。   

  • OKAT
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回答No.15

>頭が痛くなりそうな情報なので頂いた内容を検討するのは後日にして、まずはさらっと返答しておきます。  「否定呼応」のことなら、現代日本語にはほとんど関係ないから、無視していただいて結構かと思います。 >まず、漢文を念頭に3重以上に否定を連結するというのは、まずは具体的にそういう漢文が存在したかどうかによると思います。  漢文には三重否定のようなものは存在しません。もしあったら、「これは漢文訓読の形をまねたものです」で決着したはずです。ただ、言いたかったのは「漢文訓読体」が当時の文体として一つの地位を占めていたことです。私たちが見てきた多くの文の文体がそうでした。わたしが「なかるべし」など検索して、それにヒットしたものはほぼこれに属します。 前回あげた例 ~せざるにあらず・ ~なきに(しも)あらず・ ~せざる(は)なし・ ~にあらざるなし・ ~せざるべからず・ ~せずとなさず・ ~せざるをえず  などが多く現れることから考えても「漢文訓読体」といってよいものです。 その一方で平安期の古文をほぼそのまま真似たような「擬古文」とよばれるものがあり、それはたとえば江戸前期の上田秋成によって「雨月物語」などに結晶化された後も、一部の文人や国学者に引き継がれ明治まで残存しました。  この二つの文体を使い分けた人もいます。例えば森鴎外、「柵草紙の山房論文」と「舞姫」また泉鏡花「愛と婚姻」と「外科室」、同一人の作品ですから、がらりと異なるわけではありませんが、用語等にかなりの差が見られます。  ただ、漢文訓読体といっても、いつもこちらの都合のいいように、材料を提供してくれるわけではありません。前回調子に乗って書いた「不レ可レ不レ無」などという漢文はあり得ません。「不可能」のように「能べから(可)ず(不)」はあり得ても、「不」も「無」も返読文字で返って読むため二つ続くことはありませんでした。  また、別の視点ですが、「あり」と「なし」とを比較検索したらつぎのようなことが分かりました。 「あるべし」○ 「なかるべし」○ 「あるべからず」○例1. 「なかるべからず」○例2. 「あらざるべし」○例3. 「なからざるべし」× 「あらざるべからず」× 「なからざるべからず」○例4.(「なからざるべからざる」) 「正しからざるべからず」(参考例5.)  1.よくその身分を顧み、わが身分を重きものと思い、卑劣の所行<あるべからず>。        「学問のすすめ」  福沢諭吉 2.およそ人たる者はそれぞれの身分あれば、またその身分に従い相応の才徳<なかるべからず>。        「学問のすすめ」  福沢諭吉 3.逍遙子とても、固有、折衷、人間の三目を立てゝ流派とせしは、あながち尊卑を其間に置かざりしには<あらざるべし>。        「柵草紙の山房論文」 森鴎外 4.暁明駿馬に鞭打つて山野を跋渉するの意気なくんばあらずと思ひ、続いて厩に駿馬を養ふ資力と、走るべき広漠たる平野<なからざるべからざる>事に心付きたり。        「矢立のちび筆」  永井荷風 5.さてまた、子を教うるの道は、学問手習はもちろんなれども、習うより慣るるの教、大なるものなれば、父母の行状<正しからざるべからず>。 「中津留別の書」 福沢諭吉 ○上記のことから、何がいえるのか。「あり」と「なし」の差は、動詞と形容詞の差なのか。 ○4.の例で「なからざるべからず」例がもう一つ増えました。 ○他の動詞の多くに「ざるべからず」がつくのに、どうして「あり」は付かないのか。(検索が足りないのか?)  疑問ばかりのコメントで済みません。

tklreldmgadfgas
質問者

お礼

4番目の例などを見てしまうと、前回スレから漢文訓読で強意のざるが持ち上げられた気持ちが分かるような気がします。 なくんばあらずの後のなからざるべからざる。

  • OKAT
  • ベストアンサー率38% (247/639)
回答No.14

他の方の回答への「お礼」へ割り込みます。 >あとは、実際に私が注目した「べし」の例を挙げておきます。 福沢諭吉 ※ほとんど意味のなさそうな「べし」や推量の「べし」が大量に使われている作品を見て、それが諭吉のものだと思っていたのですが、再度探しても見つからなかったので代わりに文明教育論から例示しておきます。 ・今日の文明は智恵の文明にして、智恵あらざれば何事もなすべからず、智恵あれば何事をもなす(1)べし。 ・面壁九年能く道徳の蘊奥を究む(2)べしといえども、たとえ面壁九万年に及ぶも蒸気の発明はとても期す(3)べからざるなり。 永井荷風 一夕 ・年老いて筆力つかるれば看るものかへつて俗を脱したりとなし声価いよいよ昂あがる(4)べし。 ・およそ小説と称するものその高尚難解なると通俗平易なるとの別なく共に世態人情の観察細微を極むるものなからざる(5)べからず。 ・されば作者老いて世事に倦うみただ青山白雲を友としたきやうの考かんがえ起り来きたれば文才の有無にかかはらず、小説の述作は自おのずから絶ゆ(6)べし。 ちなみに ・黄梅こうばいの時節漸く過ぐ、正に曝書す(7)べし。偶たまたま趙甌北の詩集を繙ひもとくに左の如き絶句あるを見たり。(永井荷風 一夕) のべしは〔適当〕でしょうか?もし〔意志〕だとすると興味深いです。意識の流れを通常描写の合間に挟むという手法をここで取り入れていることになるので。 (1)は可能。~することができる (2)も同様。(3)は打消があるので「期待することはできない」可能の否定。 (4)は~だろう 推量。(5)は、結論的には「あるべきだ」(「あるべきだ」という訳がぴったりなら)当然。 (6)は~だろう 推量。(7)は、「正に」という副詞が付いていますが、漢文訓読上「当に」と同様なので「当に~べし」で「当然~するべきである」当然 となるが、ふつうなら「宜しく~べし」(~するのがよい)適当 となりやすいのだけれど、趙甌北の詩集を見つけたことから、「当然」の語法を使ったのだろうか。

tklreldmgadfgas
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 (1)今日の文明は智恵の文明であって、智恵がなければ何事もなさず、智恵があれば何事をもなす、というものだろう。 ちなみに文脈上、「何事をもなすことができるだろう」とも解釈できる。 しかし、推量も強ければ「できるだろう」となり、分類する際は〔推量〕から〔可能〕にすることも可能。 学研全訳古語辞典に従うなら、もしこの意味にとれば(3)〔可能〕…できる。…できそうだ。…できるはずだ、となる。 注目すべきは(3)〔可能〕の例文に採用されている大鏡『肝試し』の訳が、「できない」ではなく「できそうにない」となっていることです。ここから、この(3)〔可能〕は〔推量〕(▽確信をもって推量する意)の延長だと考えられます。 この『肝試し』の当該箇所は実際、文脈上、「できない」とも「できそうにない」とも訳すことはできそうです。実際できないものなら、この先もできそうにないということになるので訳す可能性が2通りできてしまうのは仕方ありません。この作品、ネットでも2通りに訳されているものの、「できそうにない」と訳している方の方が多いです。当時の著者の意図はどちらだったのでしょうか。 (2)(3)道徳の道は日々それに邁進していけば極めるに至るだろうが、たとえそれ以上に励んでも蒸気の発明はとても期待できないだろう。 私の解釈では、(2)も上記(1)の場合と同じ説明です。 追記するなら、(2)の場合、「能く」の係りと訳が少し問題かとも思います。極めるというのに十分という意味でさらに修飾しているのかどうか、「ともすれば」、「よくぞ」という系統の意味で訳すなら、「できる(断定)」よりも「だろう、できるだろう」の意味がさらに濃厚になります。そうでない場合は(1)の解釈に従います。 (3)は意味はおそらく「期待出来ない」または「期待出来ないだろう」でしょう。ここまでは問題ないでしょう。 これは学研全訳古語辞典の分類という話なら、(3)〔可能〕…できる。…できそうだ。…できるはずだ、となります。 しかし、「期待できない」はその語の意味の本質において〔推量〕(▽確信をもって推量する意)です。(No12のお礼欄にも書いたように私が念頭においているのは特に「普通そういうものだ」「当然そういうことになるだろう」「当然そういうことがいえるだろう」という推量的意味合いです。) この点に注目し、私は(3)の部分も例に含めました。 「べし」は意味的イメージとして ▽確信をもって推量する意を表す。が基本としてあり、〔命令〕の意味等は例外的に意味がかけ離れたものだと捉えています。〔意志〕などは〔推量〕を延長して応用していけば〔意志〕の意味にたどりつきます。英語のwillが連想されます。 まあ、こういう分類ははっきりいってどうでもいいのではないでしょうか?ク活用型助動詞「べし」の辞書に載っているどれかの意味で説明できるのならあとは瑣末な問題でしょう。 国語の問題でこの「べし」は次のうちどの意味が最も適当か?1.推量 2.義務、…なんて問題を作ることを考えている業者や学校関係者なら死活問題でしょうが、私たちがこの手のことを問題にする必然性はないかと思います。

tklreldmgadfgas
質問者

補足

訂正、追記 >ちなみに文脈上、「何事をもなすことができるだろう」とも解釈できる。 >しかし、推量も強ければ「できるだろう」となり、分類する際は〔推量〕から〔可能〕にすることも可能。 は >意味分類としては〔推量〕。 >ちなみに文脈上、「何事をもなすことができるだろう」とも解釈できる。 >つまり、推量も強ければ「できるだろう」となり、分類する際は〔推量〕から〔可能〕にすることも可能だと思われる。 に訂正 追加 (5)への私の訳と見解はNo13のお礼欄に書いてあります。 蛇足 >国語の問題でこの「べし」は次のうちどの意味が最も適当か?1.推量 2.義務、…なんて問題を作る のは軽率だと思います。

  • hakobulu
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回答No.13

#12です。 1. >私が意図していたのは、「なから」は「ざる」にのみ係っており、「べからず」は「ざる」をくりかえすことによる最後の否定部分の強調だということです。こう書いた方がわかりやすいかもしれません→「ないことはない、ないんだ」。最後の否定を続けて繰り返すので、「ないことはない、ないんだ」の「ないんだ」が何がないのかというのは意味的に明白でしょう。 : まさにおっしゃるとおりなんですが、「ないんだ=ないことはないんだ」の省略です。 つまり、「ないことはない、ないことはないんだ」と言っていることになりますから、わたしの解釈で合っているように思うのですが・・・。 「ないんだ=そうじゃないんだ」と言い換えた場合でも、「そう=ないこと」でしょう。 2. >これも私の意見を詳しく書かなかったのが誤解を招いているようです。 >私が念頭においているのは「普通そういうものだ」「当然そういうことになるだろう」「当然そういうことがいえるだろう」という推量的意味合いです。 : はい、そういう意味で捉えました。誤解はしていません。 >学研全訳古語辞典では(5)〔当然・義務・予定〕は▽必然的にそうでなければならないという意を表す。とありますので、この(5)は確信をもっての推量や主張とは違います。 : とおっしゃっていただきましたが、「べからず」という禁止形を念頭に置いていましたので、むしろ、この(5)の解釈になる場合が多いのではないか、というのが前回の主張内容です。 少なくとも、永井荷風 一夕に関しては(5)の解釈が妥当と思います。 3. >黄梅こうばいの時節漸く過ぐ、正に曝書ばくしょすべし。偶たまたま趙甌北ちょうおうほくの詩集を繙ひもとくに左の如き絶句あるを見たり。(永井荷風 一夕) のべしは〔適当〕でしょうか?もし〔意志〕だとすると興味深いです。意識の流れを通常描写の合間に挟むという手法をここで取り入れていることになるので。 : どちらにも取れそうですね。 「梅雨もやっと終わったか。書物もさぞ湿気ていることだろうから、虫干しをしたほうが良さそうだ」のように[適当]と解釈しても良いでしょうが、例年の行事にもなっていたであろうことから考えると、個人的には、 「梅雨もやっと終わったか。書物もさぞ湿気ていることだろうから、(早速)虫干しでもしようか」といった[意志]と解釈したいところです。古典の素養は全く持ち合わせていませんので確信はありません。   

tklreldmgadfgas
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 1についてですが No12-2-bで >「なから」は、「ざる」と「べからず」の双方に繰り返し(重複して)係っている。 と書かれている部分は私の解釈ではありません。 私の(とりあえずの)解釈は、「ざる」が「なから」に係っているように、「べからず」がその前の部分、つまり、~なからざるの「~」も含めた発言、に係っているということです。ですので「べからず」が「ざる」の前の「なから」にかかっている、と言われる方がまだ私の解釈に近いですよ。 これは意味上の解釈なので、後々私が文法まで詰めて考えることになった場合にhakobuluさんが12-2-bやcでおっしゃっているような方向に変化する可能性はあるかもしれませんが。 つぎに、2に関して私の考えを書きます。 「およそ小説と称するものその高尚難解なると通俗平易なるとの別なく共に世態人情の観察細微を極むるものなからざるべからず。」 これは世間の人から、先生、まだ小説を書き続けているんですか、よく書き続けられますね、ネタが切れないものですかね?と尋ねられることがあり、そういう風に小説家が見られてる事に対する反論を述べている部分の一部です。 実際にその続く部分を訳しますと、 「大体小説と名のつくものは難解なもの通俗的なもの問わず、世間のありさまや人情事を極限まで注意深く観察するという行為の成果物である。高遠な理想を意図的に記している著作には時として全く架空の事件を綴っているものがあるように思えるものがあるとはいえ、そういうものであろうとなかろうと著作物の1行1行には作者の人間世間に対する観察模様が自ずからはっきりと垣間みれるものがある。そうであるから、もし作者が毛俗世間を離れ自然を友にするような心境の変化が起こることがあれば、文才の有無に関係なく、自然と小説が書けなくなるだろう。小説の命は俗なるところにある。人間に接するところにある。」 当該部分の「べし」のニュアンスを解析すると、 「大体小説と名のつくものは難解なもの通俗的なもの問わず、世間のありさまや人情事を極限まで注意深く観察するという行為の成果物である。既刊の著作の大体を考慮する限りそういうことが言える。」 となると私は解釈しています。 これを少し文法を意識して表現しなおせば、「~(当然)でないということがいえる。」という感じになるでしょうか。 hakobuluさんの解釈では学研全訳古語辞典を手にとるなら、  (5)〔当然・義務・予定〕は▽必然的にそうでなければならないという意を表す。 が妥当だということだということですね。 私の解釈ではその(5)は必然であるとあるので違います。学研全訳古語辞典(5)の竹取物語の例文のように、決まっていること、運命、(決定している)予定、というようなケースにその分類が適用されるはずです。(1)が発言者当人の意見、主張であるのに対し、(5)は誰か力のある何かから規定されている、もしくは運命のようなもので決定されている、という風に個人の主観が一切排除された〔当然・義務・予定〕のケースでしょう。 既に前に書きましたが、これは辞書にもよりましょうし、理解の仕方にもよって分類は変わるかと思います。 別の辞書の例文で個人の主張的意味、つまりいわゆる現代人がよくつかう「~べきだ」での〔当然・義務〕の分類例が存在しているのなら、その辞書的にはそれが妥当してくることになりましょう。その場合は賛成です。そういう辞書上の例文を知っていたら参考としてぜひ教えて欲しいです。 3について 私も個人的には〔意志〕のような気がしています。前後の節/文の接続の仕方が〔適当〕を表現しようとする書き方の流れとは違うような気がしますので。

  • hakobulu
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回答No.12

#9ですが、感想などをまじえて若干、補足させていただきます。 1. >私(の質問文)への反論ではなくwind-sky-windさんへの反論ですね。 : tklreldmgadfgasさんの当初の解釈(=質問文の説明)「だいたいそうだろうなんて曖昧なことでは駄目で、小説とはそうであるべきなのだ」は、#8さんおっしゃるところの「なくはないではだめで、あるべきだ」と同義でしょう。 つまり、#8さんは(意識的にか結果的にかはわかりませんが)tklreldmgadfgasさんの当初の解釈(=質問文の説明)に賛同していると考えて差し支えないと思います。 #7で回答する時点で、わたしは、No5のお礼欄を拝見していたので、tklreldmgadfgasさんが自説を修正されたことを知っており、そのため、当初の解釈に異議はありましたが、あえて反論はしませんでした。 しかし、#8でtklreldmgadfgasさんの当初の解釈(=質問文の説明)に同意する見解が表明されましたので、反論した次第です。 2. さて、このスレでの≪なからざるべからず≫解釈は、今のところ、次の3つに分類できると思います。 a.tklreldmgadfgasさんの当初の解釈(=質問文の説明)並びに#8さんの解釈。 ⇒「なからざる」という曖昧な肯定では「べからず=だめ」。「あるべきだ」と明確に肯定すべき、という意図。 b.tklreldmgadfgasさんの改訂解釈。 ⇒「なから」は、「ざる」と「べからず」の双方に繰り返し(重複して)係っている。「ない」の否定が繰り返される(重複する)ことにより「ある旨」が強調されている。 c.わたしの解釈。 ⇒「なからざる(ことなかる)べからず」の省略形。「無い」という語は「ある」の否定の意味を持つので、意味的には四重否定。しかし、「無い」という語自体は、文中の何物も否定しているわけではないので形的には二重否定。 tklreldmgadfgasさんの b の解釈は「重複否定」と呼びたいところで、わたしの「形式的二重否定」もこれと似ていると考え、そう述べたわけですが、考え方の経緯は違うようです。 3. >ですが、それよりも重要なのは、否定にもいろいろ方向があるということです。これが質問文の一番のポイントです。 : おっしゃるとおりですね。 考える良いきっかけとなったと思います。 決して「駄文」ではないでしょう。 4. 因みに「べし」の用法についてですが、少なくとも永井荷風 一夕の場合、「推量」ではないでしょう。 この例も含め、ほとんどは、下記辞書の、【(一)(2)(「べきだ」「べきである」「べからざる」などの形で)義務づける意味を表す。 「この際,あまり無責任な批判はなすべきではない」 「人権はおかすべからざるものだ」】 http://www.excite.co.jp/dictionary/japanese/?search=%E3%81%B9%E3%81%97&match=exact&itemid=DJR_besi_-010 または、下記辞書の【2 適当・妥当の意を表す。…するのが適当だ。…するのがよい。「無責任な放言はすべきではない」「あひ見ずは悲しきこともなからまし音にぞ人を聞くべかりける」〈古今・恋四〉】 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/198918/m1u/%E3%81%B9%E3%81%97/ という用法に該当するように思います。 「強調」の意図を持たせて不自然ではない用法であり、#8さんのお礼欄で述べられている表現を拝借すれば、「義務や強い主張の意味」で捉えることは十分可能だと思います。 また、文意としても、そのように解釈するほうが適切な場合がほとんどでしょう。(すべてとは申しませんが)   

tklreldmgadfgas
質問者

お礼

有り難うございます。 誤解があるようですので私の意見に関係ある部分を訂正させてください。 >b.tklreldmgadfgasさんの改訂解釈。 >⇒「なから」は、「ざる」と「べからず」の双方に繰り返し(重複して)係っている。 書き方が誤解を招いたことは承知していますが、私が意図していたのは、「なから」は「ざる」にのみ係っており、「べからず」は「ざる」をくりかえすことによる最後の否定部分の強調だということです。こう書いた方がわかりやすいかもしれません→「ないことはない、ないんだ」。最後の否定を続けて繰り返すので、「ないことはない、ないんだ」の「ないんだ」が何がないのかというのは意味的に明白でしょう。 >「べし」の用法についてですが これも私の意見を詳しく書かなかったのが誤解を招いているようです。 私が学研全訳古語辞典のべし(1)〔推量〕…にちがいない。きっと…だろう。(当然)…しそうだ。▽確信をもって推量する意を表す。を挙げたのは、「確信をもって推量」という部分に共感したからです。推量としての単なる「…だろう」に共感したからではありません。 「確信をもって推量」という言い方でもまだ私が考えている意味を表現するには説明不足で誤解を生むかもしれません。私が念頭においているのは「普通そういうものだ」「当然そういうことになるだろう」「当然そういうことがいえるだろう」という推量的意味合いです。 この捉え方に一番近いのは「確信をもって推量」または単に〔推量〕というカテゴリーだったというだけです。 学研全訳古語辞典では(5)〔当然・義務・予定〕は▽必然的にそうでなければならないという意を表す。とありますので、この(5)は確信をもっての推量や主張とは違います。 ですので、分類の仕方によっては、つまり辞書や分類の仕方によっては表現の仕方が違うというのは起こりうることです。 あとは、実際に私が注目した「べし」の例を挙げておきます。 福沢諭吉 ※ほとんど意味のなさそうな「べし」や推量の「べし」が大量に使われている作品を見て、それが諭吉のものだと思っていたのですが、再度探しても見つからなかったので代わりに文明教育論から例示しておきます。 ・今日の文明は智恵の文明にして、智恵あらざれば何事もなすべからず、智恵あれば何事をもなすべし。 ・面壁九年能く道徳の蘊奥を究むべしといえども、たとえ面壁九万年に及ぶも蒸気の発明はとても期すべからざるなり。 永井荷風 一夕 ・年老いて筆力つかるれば看るものかへつて俗を脱したりとなし声価いよいよ昂あがるべし。 ・およそ小説と称するものその高尚難解なると通俗平易なるとの別なく共に世態人情の観察細微を極むるものなからざるべからず。 ・されば作者老いて世事に倦うみただ青山白雲を友としたきやうの考かんがえ起り来きたれば文才の有無にかかはらず、小説の述作は自おのずから絶ゆべし。 ちなみに ・黄梅こうばいの時節漸く過ぐ、正に曝書ばくしょすべし。偶たまたま趙甌北ちょうおうほくの詩集を繙ひもとくに左の如き絶句あるを見たり。(永井荷風 一夕) のべしは〔適当〕でしょうか?もし〔意志〕だとすると興味深いです。意識の流れを通常描写の合間に挟むという手法をここで取り入れていることになるので。

  • OKAT
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回答No.11

 【共通理解事項としたいこと】  なから(形容詞「なし」の未然形)+ざる(打消の助動詞「ず」の連体形)+べから(推量の助動詞「べし」の未然形) +ず(打消の助動詞「ず」の終止形)  注1. 「べし」は一般的には「推量」であるが、実際にはこの場合、「~にちがいない」(推量)・「…するはずだ」(当然)・「…しなければならない」(義務または命令)などの意味と思われます。  注2. 「べし」の接続は本来「終止形」(「すべし」のように)接続ですが、ラ変型活用には連体形接続です。(ざるべし)  【なから / ざる / べからず の三つの内、何が注目点なのか】    わたしが「ざるべからず」で検索したから言うわけではありませんが、「ざる」と「べからず」の緊密度はかなり高いように思います。「べからず」だけで検索してみました。  結果は、これも動詞の後に付く場合が多く、「言うべからず」「すべからず」「思うべからず」とかなり多いのですが、この場合の意味は「~してはいけない」であり、命令の打消、いや打消の命令となります。  故に子を教うるがためには労を<憚(はばか)るべからず>、財を<(いとし)むべからず>。よくその子の性質を察して、これを教えこれを導き、人力の及ぶ所だけは心身の発生を助けて、その天稟(てんぴん)に備えたる働きの頂上に<達せしめざるべからず>。 「教育の事」 福沢諭吉  上記の<憚(はばか)るべからず>がそうですが、対して<達せしめざるべからず>の方は明らかに二重否定になっています。ただし、「べからず」がつくもので、例外があります。ここでも「なし」が絡んできます。次の例です。   一人の教育と一国の教育とは自(おのずか)ら区別<なかる/べからず> 「教育の事」 福沢諭吉  「なくてはならない」(の二重否定)=「あるべきだ」(当然)となります。  前に発言したことに係わるので、具合悪いのですがやはり「二重否定」と認めざるを得ません。   その他の二重否定はあるか、と考えていると 「悪天候が続けば登頂は断念せ<ざる>を得<ず>」を思い付きました。そして「これは漢文の訓読ではないのかと気づき、探してみました。 漢文訓読の二重否定の例 ~せざるにあらず(~しないのではない) ~なきに(しも)あらず(~がないのではない) ~せざる(は)なし(~しないものはない) ~にあらざるなし(~でないものはない) ~せざるべからず(~しなければならない。~しないことがあってはならない。) ~せずとなさず(~しないとはいえない) ~せざるをえず(~せずにはいられない)  そうすれば「なからざるべからず」も漢文にすれば、「不レ可レ不レ無」ではないのか。当時の文人は漢文訓読など日常茶飯事だったのだから、このような言い回しにほとんど抵抗感がなかったのではないでしょうか。  【二重否定と否定呼応】 「二重否定」であれこれ探している内、「否定呼応」に行き当たりました。そのなかに「強い肯定」「緩い肯定」ということばが出てきました。読んだ文章の一部を引用します。 ○現代の標準日本語では上述した「全く」「ほとんど」「絶対」などは文末の否定語との対応関係を失い、肯定文でも用いられるようになっており、否定呼応は更に廃れていく傾向にある。 そのため現代標準日本語では、二重否定は単純に否定の否定(-×-は+)として見られている。「~しないわけにはいかない」「それを悲しまないものはなかった」のように、肯定を強調する二重否定(緩叙法)は盛んに用いられており、否定呼応をみとめる言語と好対照を成している。 ○肯定の意味で二重否定を用いる修辞技法は緩叙法と呼ばれる。本項では主に、単純否定を意味するのに二重否定を用いる用法、すなわち二つの否定語が対応してひとつの否定表現を作る否定呼応を中心に述べる。  一般に否定呼応を用いる言語で、緩叙法は用いられないか、あっても用例は少ない。逆に緩叙法を用いる言語では否定呼応は用いられないか、非文法的とされる。これは緩叙法を用いる言語はひとつの否定表現をひとつの否定語と対応させるため、否定語を重ねることは否定を否定(-×-は+という論理)して肯定を意味することになるためであり、逆に否定呼応を用いる言語では、否定語を複数用いることは否定の否定(-×-)ではなく、否定の強調または否定の成立条件(-+-)であるとされるからである。両者をひとつの言語の中で認めると、論理的な混乱を招くことになる。 ○特に英語で問題になる。たとえば、Nobody don't like me. (誰も僕を好いてくれない)や I don't know nothing. (僕は何も知らない) などがこれにあたる。 ○現代標準日本語では一部の表現に否定呼応、もしくはそう捉えられることのあるものが見られる。例として「何も」「あまり」「全く」「ほとんど」「絶対」などが文末の否定語と呼応して用いられる表現があげられる。しかし単独で否定を意味する単語はごく少なく(助動詞「ない」「まい」、形容詞「ない」、補助動詞「かねる」)、名詞を否定する表現(「ない袖は振れぬ」など)も滅多に用いられない。そのため上掲のように異なる否定語が組となってひとつの否定表現を形作る、否定呼応は極めて少ない。  また、現代の標準日本語では上述した「全く」「ほとんど」「絶対」などは文末の否定語との対応関係を失い、肯定文でも用いられるようになっており、否定呼応は更に廃れていく傾向にある。  そのため現代標準日本語では、二重否定は単純に否定の否定(-×-は+)として見られている。「~しないわけにはいかない」「それを悲しまないものはなかった」のように、肯定を強調する二重否定(緩叙法)は盛んに用いられており、否定呼応をみとめる言語と好対照を成している。  また、「満更でもない(全く嫌というわけではない)」のように、慣用句として扱われる表現もある。この場合は肯定を強調しているのではなく、否定の緩和、つまり部分的な肯定を表すが、厳密には緩叙法に含めないこともある。  詳しくは「否定呼応」で検索してください。

tklreldmgadfgas
質問者

お礼

回答有り難うございます。 頭が痛くなりそうな情報なので頂いた内容を検討するのは後日にして、まずはさらっと返答しておきます。 まず、漢文を念頭に3重以上に否定を連結するというのは、まずは具体的にそういう漢文が存在したかどうかによると思います。漢文訓読の話はそれを例示してから先にすすむと思います。というか、私は漢文がわかりませんのでただ聞くだけになるでしょうが、実例が1つも無いのならいつまでたっても納得はできないような気がします。 それと、これはこの回答とは関係ないのですが、 わたしは前のスレの時からずっと「なからざるべからず」を短歌の枕詞のように定型句として使っていたとは思えずにいました。まず、庶民が使う事はほとんどなかったのではないかと思います。現在の社会を考えても、なくはない、までは使う事があるとしても、なくはないとはいいきれない、などという言い方は庶民的表現ではありません。むしろそれは言葉に気を使う職業や立場の人達が必要にせまられたときに使う言葉使いだと思います。ということは、普通の肯定や単純否定とは違い、相当なニュアンスがそこには含まれて使われていたというのが自然なのではないでしょうか。意味もなく否定を何重にも重ねた言い回しを特別な意味を念頭におかずに使いこなすというのは想像しにくいです。否定1つや肯定1つの意味が3重否定的な言い回しと同義だとはおもえません。語呂がいいですし、かしこまった言い方という役割はあったにせよ、特別なニュアンスがなかったとは思えません。人はむずかしくややこしい表現を口にするときはその意味の連なりを意識しながら口にするものではないでしょうか。 そういうことを念頭にこの問題を考えています。

  • hakobulu
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回答No.10

#9ですがタイプミスがありましたので訂正いたします。 × 「なからずべからず=なくはないではだめ」というのは、「なくはない」という「消極的肯定」の否定を意味している、 ○ 「なからざるべからず=なくはないではだめ」というのは、「なくはない」という「消極的肯定」の否定を意味している、

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