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ソクラテスと千利休の死について
ソクラテスと千利休の死について、互いに自分の死で信条を守ったという観点から、それぞれの相違点と類似点を教えていただきたいです。
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- Nakay702
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回答No.1です。第2弾です。引用と要約で両者の活動と死をまとめました。 ソクラテスの活動と死 人類の教師とも称されるソクラテス、道行く人たちと熱く議論した。ある青年が「徳を教えられるのか?」というテーマでクラテスに議論を挑んだが、「全く知らない」、そもそも「徳」が何かさえも分らないとの返事。肩透かしをくらった青年「徳とは何か」を定義づけしようとするが、悉くソクラテスに反論される。「私はあなたに麻痺させられて、身動きがとれません」。それに対して彼は「痺れているのは自分も同じ」と返答。すなわち、自分もあなたと同じく「徳が何か」について無知だと表明し、「一緒に探求しよう」と呼びかける。このように、ソクラテスは「無知の知」、つまり「その物事について知らない、ということを知ろう」と促すスタイルで知識人たちを論破していく。そんな斬新なスタイルを若者たちから支持される。街頭や広場などで問答をふっかけるというスタイルで彼はその名を馳せる。市民や有識者に問答をふっかけて「無知の知」を説いた。 街頭の問答で多くの者が言い負かされる。その中の不心得者は逆恨みから彼を告訴する。告訴内容は不敬罪。彼は青年たちに新奇の神霊を祭らせ、若者たちを堕落させているという。嫌疑は他にもある。占領軍スパルタ士国と内通し、傭兵を斡旋した黒幕に仕立て上げられた。しかし、ソクラテスは、告訴されようが裁判にかけられようが、頑として罪を認めない。むしろ「私は社会貢献をしている」と言い張った上に、陪審員たちの前で「私は死刑になるどころか、迎賓館で歓待されるべきである」とも放言した。結果、ソクラテスに下された判決は死刑。陪審員たちを挑発したことで最悪の結果を招いてしまった。しかしこの時点ではまだ生きる道が残されていた。というのも、死刑執行まではまだ日にちがある上に、当局者はソクラテスの逃亡を黙認する姿勢さえ見せていた。頑固な態度に死刑判決を下したものの、ソクラテスが希望すれば国外追放でよしとする考えが、もともと陪審員たちにはあったのである。そのため、ソクラテスが幽閉されると、友人や支援者たちが彼を国外に脱出させるための計画が何度も立てられた。 ところが、ソクラテスはその申し出を拒絶。死刑執行の日までの約30日間を牢獄で過ごすことにした。逃げられるにもかかわらず、死刑を受け入れるという選択肢をとったのだ。紀元前399年晩春、ソクラテスは自ら進んで毒杯を仰いで死んだ。彼はなぜかくも簡単に死を選んだのだろうか。その答えとして、しばしば使われる言葉が「悪法もまた法なり」である。たとえ納得がいかない不十分な法律でも、法律は法律で守るべきである、と。ソクラテスはその葉とともに死を選んだと言われている。しかし彼の生き方を見ると、この言葉には違和感がある。彼はアテナイの国法に従って人生を送っていたが、法の欠点もきちんと指摘してきた。その彼が「悪法も法である」と言ったという逸話は、為政者の都合のよい論理として流布されたものと考えるのが自然であろう。 ソクラテスの最期の日、彼は自分を思ってくれる友人たちと楽しい一時を過ごした。議論をしながら談笑し、いつものように明るく振る舞うソクラテス。それを見ていた友人たちのほうが、涙に暮れていた。夕方になると、死刑に使われる毒ニンジンの汁を、お茶でも飲み干すかのようにぐいっと飲んだ。そしてしばらく歩き回り、体に毒が回るのを待った。それからベッドに横たわり、まるで眠るような自然体であの世へと旅立った。ソクラテスがよく口にした言葉に、次のようなものがある。「何よりも大切にすべきは、ただ生きることではなく、より良く生きることである」。彼は「悪法もまた法である」などと理不尽を受け入れたわけではなく、「より良く生きる」ために、じたばたせず悠然とした人生の最期を選んだのであろう。機会があっても敢えて逃亡せず、自分の死を弟子に対する最後の教授として、穏やかに死に向かった。 なお、ソクラテスの死の発端には諸子諸説がある。そのうちの一人ダヴィッドは、葬式の場面を描いているが、この作品で哲学者が死とどのように向き合うのか考察している。彼が冷静で穏やかなのは、「死とは存在が別の領域、これまでとは異なった状態に置かれることであって、存在が終わるわけではないと考えていた」ためであるとした。 千利休の活動と死 千利休は戦国時代に「侘び茶」を大成し、「天下一の茶人」茶聖と称された。哲学者でもあった利休は、一休・孔子・キリシタンなどから多大な影響を受け、現代日本の「もてなし」「平等の精神」の基礎を築いた。利休の美的感性は世界でも指折りだと断言する専門家もいる。彼が完成した「侘びの美」は今も日本の美的感性を根底から支えている。茶の湯の権威を欲した秀吉は「秘伝の作法」を作り、これを秀吉と利休だけが教える資格を持つとした。しかし、利休はこの秘伝の作法を弟子に教えた折、「実はこれよりもっと重要な一番の極意がある。自由と個性である」と言った。秀吉が秘伝とした「もったいぶった作法」は重要でないと否定している。 利休が作った国宝「侍庵」は極限まで無駄を削ぎ落した究極の茶室で、利休が考案した入口は間口が狭い上に低い位置にあり、いったん頭を下げて這うようにしないと中に入れない。天下人である秀吉も同じようにしないと入れないし、武士の魂である刀を外さねばくぐれないのだ。一度茶室に入れば人間の身分に上下の差はなく、茶室という中では「平等の存在」となる。茶の湯に関しては秀吉も利休には逆らえなかったが、そういう世界を利休は確立したのだ。 利休と秀吉の蜜月関係は、「北野大茶湯」を頂点として次第に悪化していく。秀吉は貿易の利益のために堺に重税をかけるなど様々な圧力をかけ、堺の自主独立の象徴であった壕を埋めてしまった。利休は堺の権益を守ろうとするが、秀吉は疎ましく感じるようになっていく。茶の湯に関しても、秀吉が愛したド派手な「黄金の茶室」は、利休が理想とする素朴なものとは正反対である。秀吉は自分なりに「茶」に関して一家言を持っていただけに、利休との対立が日を追って激しくなっていく。翌19年1月13日に行われた茶会において、利休は派手好きな秀吉が嫌う色「黒」を知りながら、「黒は古き心なり」と平然と黒楽茶碗に茶をたて、秀吉に出した。この席には他の家臣もおり、秀吉のメンツは丸つぶれになった。また、1月22日に秀吉の弟・豊臣秀長が病没する。彼は温厚・高潔な人物で、諸大名に対して「内々のことは利休に、公儀のことは秀長に」と公言するほど利休を重用していたため、利休は大きな後ろ盾を失くしてしまう。 それから1ヵ月後、利休は秀吉から「京都を出て堺にて謹慎せよ」と命じられた。実は、その2年前、利休が京都の大徳寺の山門を私費で修復をした。その際大徳寺の住職が、感謝のつもりで利休を模した雪駄履きの木像を、利休には知らせず山門に安置した。その後、秀吉が大徳寺を訪れて山門をくぐった時「上から見下ろすとは無礼千万、通るたびに足で踏みつけられているも同じだ」と激怒したという。そして利休に赦しを請いに来させて、上下関係をハッキリさせようとした。秀吉の意を汲んだ前田利家は利休に使者を送り、秀吉の正室・ねね、または秀吉の母・大政所を通じて詫びれば、この件は許されるであろうと助言した。しかし、利休はせっかくの助言に対し、信念に悖るとして謝罪を断った。 利休が謝罪に来ずに堺に行ってしまったので、秀吉の怒りが爆発した。2月25日、大徳寺の利休の木像は、山門から下ろされて京都一条戻橋の袂で磔にされた。2月26日、秀吉は利休を堺から京都に呼び戻した。27日、門弟たちが利休を救うために奔走するも効なく、翌日利休のもとを訪れた秀吉の使者が「切腹の命」と伝えた。利休は「茶室にて茶の支度が出来ております」と、使者に最後の茶をたてた後、一呼吸ついて切腹した。享年69歳。利休の首は一条戻橋の木像に踏みつけられるように晒された。 利休切腹の発端は、大徳寺の山門説が直接の原因とされているが、それ以外にも諸説がある。曰く、利休は名品となる茶道具の鑑定を行っていたが、安価な茶道具を高額で売り、私腹を肥やした疑いを持たれたという説。二条天皇陵の石を勝手に持ち出して手水鉢や庭石に使ったために秀吉の怒りを買ったという説。豊臣秀長の死後、豊臣家臣団の勢力の均衡が崩れ、石田三成にとって利休は眼の上のたんこぶのようになり、利休が側近としての価値が上がるのを恐れた三成が秀吉に「利休は危険人物であると告げ口をしたのではないか」という説。無類の女好きだった秀吉は、利休の弟子に嫁いでいた次女を側室とするようにと命じたが、利休が「娘のおかげで出世していると思われたくない」と拒否したために秀吉に恨まれたという説。朝鮮出兵を批判して秀吉の怒りを買ったという説。徳川家康と利休がつながり、秀吉の茶の中に毒を入れて秀吉を暗殺しようとしたという説など。 両者に共通する点 いかなる権力をカサに着た圧力にも屈せず、信義を貫いた。 片や聖哲、片や茶聖と称されるように、それぞれの分野の第1人者であった。 両者間で異なる点 片や世界の、片や日本の代表ではあるが、規模の違いがあることは否めない。
- 濡れ猫のミコ(@nurenekonomiko)
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a) 世界で、ソクラテスを知らない人はいないでしょうが、千利休はほとんど知られていないでしょう。つまり、人物としての大きさが違い過ぎます。 b) ソクラテスと、その業績を書き残した弟子のプラトンは、世界の哲学史の出発点であり、人類史の欠くことのできない思想です。キリスト教の母胎になったとも言えます。思想史上も、ソクラテスと利休では、比較にならないでしょう。
- Nakay702
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>両者とも「最後のぎりぎりまで追いつめられて自分の考えを死ぬことによって守った人」ですが、それぞれの相違点と類似点を教えていただきたいです。 ⇒興味あるご質問をありがとうございます。以下のとおりお答えします。 ソクラテスと千利休、確かにこの2人の偉人には大きな共通点がありますね。両者間の最大の共通点は、Barada0923さんご指摘のとおり、「いかなる権力・圧力にも屈しなかったこと、そういう、いわば邪悪な力に屈して信念を曲げるようなことを良しとしなかったこと、そして、命を賭して人間としての信義を貫いたこと」ですね。そのほか、類似点としては、周囲の者(共感者や追随者)が、形だけの謝罪や逃亡や死刑阻止を画策したにも関わらず、一切そういう姑息な策に応じず、「一筋に、不正への屈辱を排斥したこと」を指摘できるでしょう。 以上が、ソクラテスと千利休の大方の共通点と言えますが、両者間には小さな相違点もあると思います。理不尽な権限の行使や外圧に対し、「ソクラテスは自己主張の形で、千利休は形式的忍従と実質的な非受容という形で対抗」したことが挙げられます。その他、さらに小さいことですが、死刑宣告の主体がソクラテスに対しては裁判官(陪審員)であったが、千利休に対しては、ご存知の権力者(秀吉)であったことや、死刑の執行形式がソクラテスの毒杯、千利休の切腹という違いもありました。 まとめ:些細なことまで敷衍してしまいましたが、ソクラテスと千利休の偉大さを一言でまとめるなら、やはり「両者とも外部からの圧力をはねつけ、死をものともせずに、人間精神の尊厳を守ることに命を賭した人」ということになろうかと考えます。 なお、以上でお尋ねへの回答を終わりますが、今「ソクラテスと千利休との個人史」を見直していますので、もしかしたら、第2便をお送りします。
- kon555
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類似点としては貴方も書いてあるように『自分の死で信条を守った』『自らの生命より信念に殉じた』というところでしょう。 相違点としては、ソクラテスは公的な裁判の結果として死刑に処されました。このため死刑に至る経緯や罪状も明らかです。 一方で千利休は、秀吉という権力者の命令で切腹しています。このため彼が死に至った経緯は不明です。 ここは大きな相違点ですね。 さらに言うなら、武士ではない千利休が『切腹』というのは異例です。罪人として扱うなら『斬首』など、他の処刑方法があります。つまり純粋な罪人への死刑とはやや違うニュアンスがあるわけです。 このあたりの社会的な感覚差も、相違点と言えるでしょう。