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死についての問答とその蓋然性について
- 死についての問答やその蓋然性について考えてみました。意識の死と生物的死の関係や、意識の中断としての死についても考察しました。
- 死についての問答とは、死についての疑問に対する回答や考察です。意識の死と生物的死の違いについても取り上げられています。
- 死とは何かについての問答として、意識の死と生物的死の関係を考えてみました。さらに、意識の中断による死の性質についても考察しました。
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死は体験できないと思いますよ。 だって死ぬ瞬間に意識を失うのですから…多分肉体的な死を迎える瞬間にはすでに自分と言う物は存在しないのだろうと思います。 臨死体験は出来るけど死は体験できないだろうと自分は思います。 意識と言う物を司るハードがすでに崩壊してるのですから…。 臨死体験はこのハードが終焉する過程で見せる幻影なのだと思います。 単純に考えれば自分が存在する前の状態「生まれる前」はどうだったかってのに近いと思いますよ。 あの状態を誰もが体験してるはずです。 もちろん記憶は無いですけどね。 あの状態に戻るだけだと思います。 あそこから来てあそこへ戻るのでしょうね。
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- tumaritou1
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自分の死も他人の死も同じです、違うとするなら、自分と他人は違う存在として生きている事になるからです。同じものをくって同じ土地で生きていて、同じものを見ています。自分だけが死なないとする事は在り得ない事だと考えられます。 ところで人生とは何ぞや?死とはは何ぞや?と考えても分り難いと思いますので、この動画を見てください。生命の神秘や、魂の不滅や人間の知性の限界が顕されています。 人間の意識では掴む事が出来ないものですが、見えている身体と感じている心だけで人間の全体像は示す事が出来ない事実を語っています。つまり『宗教体験』がこの動画で語られています。 自分が全てを諦めた瞬間に、自分の魂が救われる事実です。 禅では『父母未生以前本来の面目』と言う禅問答の答えです、生まれる前のお前の心持は如何だったのか?と言うほどの意味です。この心持が分る時『禅では生死の問題が解決した』と表現します。 人間の思考は次の動画の中で描かれています。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM もし出ないようでしたら、ジルボルト、テーラ脳卒中と検索して下さい。 右脳の中の人格は『命の働き』の機能をしています。釈迦が『仏性』と言った者です、或いはキリスト教では『神』と形容している者です。この出会いによって、命は永遠からやって来て、又永遠に帰ってゆくことを実感します。その安心感から『生にも死にも動じない人生観に変わります。』何者も恐れないと言う意味です。その代わり『移り変わるもの、お金の価値や、地位や名誉には頓着する事がなくなります。』永遠に変わらないものに興味が移ってしまいます。 自分のために生きる事の儚さに目覚める事によって、他人の幸福の方に重心が移ります。意識の革命が起こりますので、今まで考えていた事が逆になります。武士が死地に赴くとしても、何もためらう事がない事を示しています。その価値観は『無功徳』と言う人生の価値観に変化するからです。何も求めない事によって、『予期不安などで苦しむ事が無くなるからです。』絶対の安心感で包まれているからです。
お礼
回答ありがとうございます。人は考え方次第でいろいろな生き方ができるということかなと思いました。TEDの動画は大変興味深かったです。 私は、なかなか達観した考え方には到達できそうにないです。
- Mokuzo100nenn
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人は、死を恐れているように見えて、実際のところ別れを恐れているのですよ。 犬でも、猫でも、人間でも、別れはつらいものです。 もし、貴女が生きているうちに、何一つ別れを惜しむべき人、別れ惜しむべきモノ、別れを惜しむべき事象、忘却を惜しむべき記憶などを一掃整理してしまうと、死は恐れるに値しないものになります。 齢90を超えると、別れを惜しむ対象も少なるなるそうです。 だから齢90を過ぎた人にとって死はあまり苦痛ではないと言われます。 程度問題ですけどね。 齢90を迎えるまでもなく、この境地に達しようと求めるのが修行です。 涅槃の境地を求めるわけです。 最近の出家坊主は肉食妻帯の禁を破って妻を娶ったり、寺院を相続したり、など、世俗の事物を所有し、失うことを恐れるような人生を送っている者が多いので、死を恐れ続けていることでしょう。
お礼
なるほど、別れの問題は指摘されて気がつきました。 別れはつらいですね。 回答ありがとうございました。
先日NHK だったと思うのですが、眠るとはなにか?というような番組がありました。私はそれをほとんど見ていないのですが、ちらっと数分だけたまたま内容を見ていた部分があって、興味深かったので覚えているのですが、誰かが発言していたのは 「眠る というのは人間にかかわらず他の動物の”普通の状態”なので、人間のように起きて活動している時間が眠っている時間よりも極端に長いのは人間が特別な動物だからのだろう。」 ちょっと違っているかもしれませんが、おおむねこのような内容でした。 つまり 生物の眠りは生物本来の生きている姿なのだ、という主張ですね。たしかに飼っている猫など、ほとんど寝ているといっていい毎日です。 ですから、質問者様の「意識のない状態=眠っている状態」は正しいとしても、 「眠っている状態=死んでいる状態(に限りなく近い)」 は間違いかもしれないということにもなりますね。たとえば「眠っている状態=死とは本質的に異なった、生きていることにヒジョウに近い状態=わずかに意識の一部分が覚醒している(かも知れない)状態」? これは熟睡状態がどんな状態なのか?ということですが、もちろん現代科学では脳の働きはほとんど停止して見た目は死とあまり変わらないというのは間違いないのだろうと私も思います。でも、もし熟睡状態でもユメを見ていたなら死とは相当離れた状態だということになると思いますが。 意識というものはまだ完全には解明されていないようですが、たとえばそれが大型のスーパーコンピュータで再現されるかのうせいがあるとすれば、特定の人間が肉体の死を迎えても、意識一切をそのコンピュータに移し変えて意識(人格)の生きている状態を保つこともできるかもしれない、そのようにも思えます。となると死自体の定義も考え直さねばならないかもしれません。
お礼
うわあ、そうなんですか。知りませんでした。普通の動物では眠っている状態が普通とは・・・。最近はいろいろなことが明らかになっているのですね。意識というものも次第に科学で明らかにされていくのかもしれないですね。 ご回答ありがとうございました。
仏教か何かか忘れましたが、死で土に戻る。 つまり無になるわけです。現代医学ではいずれその時がきます。 豊臣秀吉のように 「露と落ち 露と消えにし 我身かな 浪速の ことも 夢のまた夢」 というのは本当なんだと思います。 いくら自己実現とか利益で例え成功して金持ちになろうと失敗しようと最後は無になるわけです。 結局これまでのことって夢だったんだんだろうか、あるいはその時から見て過去は夢と同等物なんだと思います。 最後まで自己とかいってたら、とても保存意欲が強すぎて、見苦しい姿しか待ってないということなんだと思います。 世の中は哲学では観念論と実在論があります。多分、医学生物学から見れば、その人は生物として機能など終わるわけです。でもその人の意識からすれば、今までのことをよい夢を見ながら終わりたいですね。
お礼
仰る通りと思います。今、私たちが生きているのは、ほんのひと時の夢みたいなものなのですね。よい人生であったと思いながら終わりたいものです。 ご回答ありがとうございました。
- urigadai2013
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私にとって私の死は意識の死、それに対して他人の死は生物としての死、しかし、その逆は言えません。 他人にとって私の死は生物としての死というのは、私と他人を平等に高いところから眺めることのできる神の視点に立って初めていえることです。 だけど、この世界を超えた神なんていないのだから、私にとっての私の死と、他人にとっての私の死とを比較することはできません。 そもそも「心」というのは私一人にしかなく、他人の「心」というのは私の「心」の「投影」にすぎないんだから、他人に意識があるかどうか、「心」があるかどうかなんて分かりません。 「死」というのは私一人にしかないんです。 人は死ぬとしたら、ただ一人でそれと向かい合わなければならないものです。 他人の死と比較することはできません。 他人が死ぬからといって、同じように私も死ぬかどうか、それも分かりません。 私は私が死んだのを見たり、体験できないんですから。 だから「各人に生物的死と意識の死とが存在する」というのは、間違いです。 間違いというのが言い過ぎならば、当事者の観点と第三者の観点を混同するものです。 死というものを過程と考えるか、瞬間と考えるか、それによって考え方も変わってきます。 死が瞬間としたなら、私はその瞬間を見たり体験できません。 私にとって、死という瞬間、あるいは生と死の境界線はありません。 もし、私にとって死後というものがあり、死後も意識が存続していれば、境界線があることを知ることができるでしょうが、意識というのはどこまで行っても意識で、意識に終わりというものはありません。 つまり、意識は意識の終わりを認識しえないということです。 たとえば、あなたが毎晩床に就いて眠るとして、何時何分に自分が眠ったか、それを知ることができるかやってみるといい。 そんなことはできず、意識は意識の終わりを知りえないのです。 だから私は私の死んだのを意識しえません。 意識しえなかったら、私にとって死はないと考えざるを得ません。 もし、死が死に至る過程としたら、私は生きている限りはまだ死んでいませんし、いくら苦しんだからといって、それはあくまでも生であって、死ではありません。 生だからこそ、苦しんだりするので、死んでしまったら苦しむこともありません。 人は死というと、その過程と瞬間とを混同します。 「死ぬのは怖い」というのはその過程のことで、苦しんだり、死を宣告されるのが怖いというもの。 「死」そのものは瞬間なんだから、怖いはずがありません。 それと自分がいなくなった世界を想像するとそれが理不尽に見えて、怒りを覚えるから、死が嫌だと思い恐れを抱くんです。 たしかに睡眠は意識のない状態ですから、死に似ています。 しかし、人間の脳は睡眠中でも活発に活動しています。 それに私たちは睡眠に入るときに、翌日何をしようとか考えて眠り、自分がそれっきり死ぬなんて思ってもいません。 もし、睡眠が死と似ていたとしたら、オチオチ眠れないでしょう。 睡眠が死ではないと知っているから、落ち着いて眠れるのです。
お礼
ご回答ありがとうございます。大変興味深く読ませていただきました。わたしの考えはわりあいよくある常識的なものだと思います。urigadai2013のお考えは哲学的な思考法によるものじゃないのかな、と思っています。
補足
さらにお尋ねしたいのですがよろしいでしょうか? 明快で論理的なご回答をいただいたと思うのですが、私の日常的な考えからするとひっかかる点があります。 それはおそらく哲学的な考え方に私が慣れていない、あるいはあるいは私が想定している世界観が、urigadai2013さんと違っていることによるのかもしれません。 「神の視点」といわれますが、これは何も特別なことではなく、客観的視点から考えてみるという人間だれしも持っている考え方です。 1)ご自身が人類という生物の1個体であるという点は自明ではないのでしょうか? もし、ご自身が人類の1個体なら、せいぜい100年程度しか生きられないことは自明だと思うのです。 2)ご自身の死亡後も世界は存続するという世界観でしょうか?それとも、ご自身が意識ある間だけ世界が存在するというお考えでしょうか?(つまり、ご自身が世界を観測できる間だけ、世界は存在するのでしょうか?) 1)、2)についておこたえいただければ幸いです。
- Tefu_Tefu
- ベストアンサー率27% (87/322)
こんにちは 人間の死を 生物的な死と意識(自分で現在認識している内容)の死として 同列だと考えること自体 疑問に思うね どちらも自分の見解ではあるけれど 生物的な死は遺伝による肉体の消失であり 意識の死は記憶の消失と考えます ☆人間の意識を考えると 貴方が 今 意識したことが このインターネットで世界中に拡がり それを 誰かが理解して それにより 誰かが似たような意識を持つのだと思います でも それを 発信した 貴方自身が 数十年先まで 同じように意識しているとは 私には とても 思えないね 貴方の意識は まるで 振動のように 発信した者と受信した者の繰り返しにより この世界を駆け巡ると思う 人間の意識の死とは 貴方の記憶から消えたことであり 貴方の意識は この世界で永遠に繰り返される振動ではないかな 何者かが何らかの変化を受け止めた時の閃きではどうかな? 要するに 貴方の意識が他人に受信されたら 他人は貴方の意識を共有したと思うね 人間の意識は振動として循環すると思うよ ☆人間の死は やはり 生物的な死だと思うよ 貴方は 人間の子供が生まれるのを観るし 人間の両親が死ぬのも観る だから 人間は遺伝子により生まれ死ぬので 生物的に人間の死を説明することはできると思うよ その時 死者の過去の意識が(あの人は生前はこういう人だったと)閃きとして多くの人達に受信され共有されるのは 興味深い現象だと思うよ 人間に生物的な死が訪れた時 多くの他の人々には死者の過去の意識が記憶の中から甦るのだね
お礼
ご回答ありがとうございました。何か他の人と意識のつながりがあるということなのでしょうか。
補足
ちょっと私には理解するのが難しいです。 例えば、「意識は振動として循環する」というのは具体的な意味がわかりませんでした。
- ukiyotonbo
- ベストアンサー率11% (91/788)
>いつか自分が体験するであろう死について あなたは、死を体験することはありません。 あなたからみたあなたという存在の特殊性は、単独で成り立たない点にあります。 そうすると死というのは、自分が生きている間にしか存在しない概念に過ぎないことが分かります。 自分の死は生きている間にしか存在しないという矛盾。つまり、あなたは、いつか自分の死を体験するのではなくて、今、まさに、自分の死(の概念を)を体験しているということです。 どういうことかというと、 他人の死は、観察することができますね。それは、その継続した時間と空間、物質の概念を自分が織り成しているから、その観察が成立しているわけで、自分の消失とともに、その観察も含めてすべてが無に帰します。死を体験し終えた自分というものはないのです。 実のところ、その外側から見れば、眠りと死と生にあまり違いはありません。一瞬一瞬、死しており、生きているという視点があります。それは無をすべての有に昇華させているのは、誰あろう自分自身であるという点とその自分が単独では成り立たないという不可思議がいわゆる存在であるということになるんです。 あなたは尋ねられるかもしれません。自分はいつか死ぬだろう。自分の死とともにすべては消失するのか・・・・ いいえ。あなたからみたあなたは、死ぬことはありません。これが真実なのです。
お礼
明快なご回答ありがとうございます。ズバッと快刀乱麻のごとしの感じがしました。「体験するであろう」というのは違っておりました。生きているからこそ体験できるのであって、死んだこととの間に矛盾が生じていますね。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
脳死や無意識が、死に等しいことならば、 環境を深く認識せず、他律的に流されて 生きているのは、半分死んだようなものだ。
お礼
積極的に生きようということですね。 大切なことだと思います。 ご回答ありがとうございます。
お礼
おお、なるほど。納得です。 「死ぬ体験」はできないですね。 「あそこから来てあそこへ戻るのでしょうね。」 このフレーズいいですね。印象的です。 ご回答ありがとうございました。