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千利休について
信長⇒秀吉と筆頭茶人のように仕えてきた千利休ですが、茶室で信長、秀吉のどちらでもいいですが2人きりで話すときどんな内容のことを話していたのでしょうか? 具体的に回答して頂ければありがたいです。 やはり封鎖された茶室での会話ゆえ誰も知りえないんでしょうか??
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基本的に、閉鎖空間ですので、会話は(参加者以外)誰にも知り得ません。 しかし、茶人や俳諧師、碁打ち・将棋指しなどなどは、あちこち(敵味方関係なし)に呼ばれて、いろいろな噂を聞き込んだり、城下町や城内を見たりしていたので、権力者から密偵の役割を負わされていたと本で読んだ記憶があります。 松尾芭蕉=伊賀者説は有名なところですよね。 ということで、一般的に、「○○殿のご病気は?」「○○は家老の××と近頃不仲だそうだが?」みたいな話をいていたものと思います。 信長に限って言えば、茶の湯を流行らせ、茶器を「名物」として家臣に与え、ステイタスをあげる代わりに領地をケチったそうですので、「利休、次に値をつり上げるのはどの茶器がよいか?」などと話していたかもしれません。 秀吉は、「うちうちのことは利休に」と言っていたらしいので、「上様、××殿より、奥方様に○○を献上したい旨言上がございましたが」「うむ。おねが良いというなら、良いではないか。もろうておけ」「しかしながら、近頃の××殿は」「ん?なんぞあったか?」などという、内々のことについての会話がなされていたものと思います。
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- eroero4649
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豊臣政権のナンバー2であった豊臣秀長が、「豊臣政権に頼みたいことがあって、公けのことならこの秀長に、内々のことは利休に相談するように」といったとあります。 ですから、豊臣政権における「水面下のパイプ役」であったということです。当然、例え小姓にでも聞かれたくないような秘密のお話しがされていたことでしょう。 それが後に利休が切腹を命じられた「真の理由」であったともいわれていますね。一介の商人に過ぎなかったわけですが、あまりに「知り過ぎた男」になってしまったと。
お礼
史実に最も近い回答内容で参考になりました。知りすぎた男・・・ 確かにそういった側面もあって最後には処罰の起因になったのかもしれません。 いずれせよ水面下のパイプ役、であったことは間違いと感じました。ありがとうございました!!
- あずき なな(@azuki-7)
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信長と利休に関しては完全に師匠と弟子の関係ですから 信長純粋に茶道の話をしながらも 堺の様子も探っていたかもしれません 秀吉と利休も確かに師匠と弟子なんですが 半分は家臣みたいなものでした 秀吉は「公議のことは秀長に 内々の事は利休に相談せよ」と諸大名に申していたので 利休は相談役みたいな役割もあったかもしれません で 秀吉は堺から九州へ貿易の拠点を移します そこで津田宗達や今井宗及など博多の商人を重要視します で堺の利休は用なしとなって切腹させられた と見る見方が強いようです
お礼
なるほど。師匠の関係にあった訳ですね。堺の様子を探り。徐々に九州に貿易の拠点を移していった・・・ 信長にしても秀吉にしても2人っきりでどんな会話がなされていたのか非常に気になります。 回答ありがとうございました!!
お礼
迅速な回答ありがとうございます。とても納得できましたし具体的な会話の様子が面白かったです♪ 本当にそういったような内容のお話ししてたのかもしれませんね。 他の回答者の方のも勉強になりましたが、今回こちらべすとあんさーにしたいと思います!