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千利休の答えは?
裏千家のお茶を習い始めています。 動機は、いつか自然体でお茶を楽しめるようになれたらいいな・・との憧れからです(まぁ、無理なんでしょうけどね)。 しかし稽古を受け作法を知っていくなかで、いくつかの疑問が湧いてきましたので、お聞きします。 1.男性の場合、スーツの靴下は白と決められているようですが、それは間違いではないかと、ずっと疑念が残ったままです。 思うに、そう決められた理由は足袋は白だから靴下も白だからでしょうね。 でもそれは明治か大正か、いつの事か知りませんが、日本の服装の過渡期に深く考えられないまま、白だから白と単純かつ無難にまた一時凌ぎ的に決められた事が何時の間にか正式な約束事なってしまったと思っています。 しかし千利休が今に生きていて、外国(洋服)の正装(スーツの意味)は如何なるものかを理解しても、茶席ではやはり靴下は白でなければ非礼だと考えるのでしょうか? 「つべこべ言わず、まず茶道の研鑚に励む事が、今は第一だ」なんて言わず、お暇があればご意見を聞かせて下さい。 PS: 長くなりましたので、もう一点の疑問が省略します。
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表千家で何となく40年ほどやっていますが・・・・ 初耳で、知識の浅さにはたと、 本当にそう仰られたのでしょうか? お献茶の添え釜のお席で、スーツに着替えられたお家元は、白いソックスではなかったようですが・・・、 お道具は大切なものが多いので、傷つける恐れのある指輪など貴金属類は、身に着けないのは作法とは思いますが。 「学生さんには、制服に白いソックスをお薦めする場合があります。」 その場合以外には・・・・・。 私の周りの先生方には、おられませんでした。 聞き流しておいたほうがよろしいかと。
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- cha-chako
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お返事をどうすればよいものやら、 私のお茶は、お気楽茶道と自称しておりますので・・・ ただ、言えることは、 お茶のお席とは、ご亭主がお客様のために心を込めて準備された場ですので、 お呼ばれする側にも、それなりの心遣いが必要かとは思います。 お道具の設(しつら)えにも心配りなされているご様子を考えれば、 玄関の花一輪でも、お聞きしたくなると思います。 これは日常生活でも同じではないでしょうか。 友人を自宅にお招きするとして、 「今日の紅茶はハーブティーでお洒落に・・・・」と思った貴方に、 相手が何も気付かずにいたら、どうしましょう。 それが茶道では「お茶銘は?」「お詰(製造元)は?」「大変結構な・・・」 といった決まり言葉になっていますが、拝見に出されたお道具に在ってもしかり。 これらは、心遣いに対する、気持ちの持ちようを示すものと思います。 駄文でお返事になっていますものやら?
お礼
何度も教えて頂きお礼申し上げます。有り難うございました。 「亭主は心を込めて・・」恥ずかしくも、どうやらこの認識を欠落させていたかもしれません。 振り返れば私も人を招くと、相手を考えながら料理をし花を活けています。その時の自分の心想いを浮かばれば、わかっていいはずかもしれません。 どうも謙虚さにかけているのを露呈するばかりの質問だったようです。 しかしながら、ずっと引きずっていたもやもやも霧散しました。感謝です。
- ikeda55a
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表千家のお稽古を少ししています。 わたしの理解を書きこみます。 私は「靴下の白」は「決められている」というような、レベルで理解していません。 「望ましい」レベル、で理解しています。おそらく裏千家もそんなお考えではないでしょうか? お茶を「自然体で楽しむ」ためには、かたぐるしい余計な決まりは無い方がいいですね。白は一種の清潔感を表現はするでしょうが・・・。 むしろ、お席でそれまで履いてきた、靴下を履きかえることとか、できれば和服が望ましいなどの方が重視されるべき事かと考えます。 「つべこべ」言いながら、お茶をなさるのも一つの行き方かと存じます。
お礼
背筋真っ直ぐの方から、諭されているような気分で、ご意見拝聴しました。「和服が望ましい」とのお考え、TVで初釜の光景を初心者の私が見ても、洋服はマッチしてないなと感じます。和服も練習中です。酷暑が通り過ぎたら、和服で外にでてみようと思っています。 ありがとうございます。
補足
背筋真っ直ぐの方から、諭されているような気分で、ご意見拝聴しました。「和服が望ましい」とのお考え、TVで初釜の光景を初心者の私が見ても、洋服はマッチしてないなと感じます。和服も練習中です。酷暑が通り過ぎたら、和服で外にでてみようと思っています。 ありがとうございます。 ps:「お礼」の欄に書いて何度投稿してもエラーになってしまうで、こちらに書かせて頂きました。
- chonpe
- ベストアンサー率15% (7/44)
私はお茶についてよくは知りませんが…。 そもそも千利休は、戦国時代に殺伐とした武将たちが、 作法を通して、心の平安を身につけるために広めたと聞きました。 つまり、作法そのものよりも、それを通して 得るべきものを大切に考えたのではないでしょうか? だとすると、靴下が白いか黒いかなどということには、 文句を言ったりはしないんじゃないですかね。 たとえ靴下に穴があいていても、 心穏やかにお茶を立てることができれば、 それが本来の姿なのかな?と思います。 大方の道において、作法や服装など末節にこだわるのは、創始の心の解らぬ後生かと…。
お礼
そのように思いたい気持ちは確かにあります。 でもたまに「くだらない」とみえるものにも、実は意味がちゃんとあったりする事もあるので、気弱な私には言い切れません(汗)。しかしながら、なんとかく溜飲のさがる思い(笑)もあります。ありがとうございました。
お礼
回答ありがとうございます。 「熟達の士(表現の適切さについてはご容赦)」からの具体例を伴ったアドバイス、読んでいるうちにひとりでに納得していきました。 超初心者の私が言うのは口はばったくなりますが、40年の歳月の中で得られたcha-chako氏の茶の姿こそ、漠然と私がイメージしているものかもしれないと、ひとりごつしています。
補足
もう一つの疑問もお尋ねします。教え頂ければ幸いです。 掛け軸や道具の拝見の仕方も、稽古のたびに教えられています。 その作法(?)の中でのやりとり、つまり道具を拝見して「ご名は?」などの尋ね方などに、いつも違和感をかんじてしまいます。 多分私に茶を教えてくれている方は、基本的一般的な流れの中で、実際の席ではこのように行われている事を知ったほうがいいとの考えだとは思っているのですが。。。 茶碗を拝見する場合は、肘を突いて等、訳を理解するとこれらは素直に納得できます。 また所作の決り事を、頭から否定する気もありません。 様式の持つ合理性や完結した美があるのは、茶以外でも知る事が出来るからです。 しかし一連の稽古の中で、例えば茶杓を手に取り「ご名は?」と訊ねる時、どうにも気恥ずかしくて困ってしまいます。 普段でも書や絵画、焼き物などは、興味があります。きっとひとりでに訊ねたくなって発する言葉を、形式の中で決められる事に納得していないからなのでしょうが。 多分私が今感じている違和感も、稽古を積む中で、素直な自分の問い掛けとなるものなのでしょうね。 どうもこれは質問になっていないようです。 お読みになって、ご感想を伺えればあり難いです。