こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。
★利休は50歳余りで、信長に取り立てられ「茶頭」(さどう)となりました。
★信長が本能寺の変で亡くなってから、天下は秀吉へと変わりましたが、秀吉もまた利休を取り込むことにより、茶道においても信長の後継者であることをもくろみました。
★利休は、唐物の「天目茶碗」こそが「わび」「さび」の真骨頂であると惚れ込み、この「天目茶碗」を積極的に使っての茶会を開き、また、弟子たちへと贈っていました。
★しかし、秀吉は「黄金の茶室」でも知られるように、「静」の中にも「派手さ」を好み、朝鮮半島南部で作られていた「井戸茶碗」を気に入り、茶会のたびに「井戸茶碗」を使ったため、「井戸茶碗」が一躍「王様格」となり珍重されるようになりました。
★茶頭でもあった利休も秀吉に従い、黄金の茶室造りにも協力し、北野大茶会を支えたのも利休でした。
★しかし、一方では、利休は茶の湯の魅力を自分の力で磨きあげ、高めてきたという自負心があり、自分が理想とする「わび」「さび」の「美」を多くの人に認めさせ、長くその価値観を残したい、という意識も強烈にありました。
★そう、それは、たとえ相手が秀吉であっても、決して自らの理想を譲ろうとしない頑固さでもありました。
★ある時、秀吉は「茶式」(ちゃしき=茶道の作法)を自らのものにしようと考え、自分の許しなしに伝授することを禁じました。
★それからしばらくしてから、秀吉は利休に「織田有楽(おだうらく)に茶式を伝授せよ」と命じました。
★利休は、秀吉の面前での直伝が終わった後、こっそりと有楽に耳打ちをしました。
「秀吉公のご面前だったため、伝授できなかった極意があります」
有楽が耳をそばだてると、利休は、
「茶の湯に大事なのは、教わることではありません。自分の作為機転(自分流にアレンジすること)こそが肝要であって、教えたり習ったりすることがないのが極意なのです」
★秀吉にしてみれば、厳格な茶式こそが茶の湯の全て、と考えていたものが、完全に否定されたのです。
★また、天正18年(1590)、博多の豪商神屋宗堪(かみや そうたん)を招いての茶会では、秀吉が最も嫌っていた「黒い茶碗」で茶を点て、終ってから、
「黒い茶碗を使うことは上様(秀吉)がお嫌いですから」
とつぶやき、秀吉が様子を見に訪れた時には、瀬戸茶碗を取り出して見せました。
しかし、その「からくり」を後から人伝に小耳にした秀吉は怒り心頭。
★農民の子として生まれ、天下人にまでなった秀吉にとっては、茶の湯の「文化」をも自分一人のものとすることこそが「教養ある人物」であり、「真の天下人」と考えていました。
★その後も、事あるごとに、利休は茶会で秀吉の嫌いな「黒茶碗」を隠れて使い続けましたが、やがては秀吉の耳にもそれが聞こえるようになりました。
★「茶頭」「宗匠」として名を馳せ、茶の湯を先導する者と慕われ、多くの弟子などをもつ利休。絶対権力に盾ついてまで「黒茶碗」に固執する利休。
★秀吉の耳に入る言葉は、「また、黒茶碗か」の一言。
★表面的には秀吉に従っているように見えても、心底では自分の「信念」を変えない利休。秀吉の求める茶道とは逆の方向を貫く利休。次第に秀吉にとっては「うとましい」存在となっていったのです。
★そして、決定的となったのは、利休が大徳寺三門の改修工事に際して、自身の雪駄履きの木像を楼門の二階に設置し、その下を秀吉に潜らせた。
★ついに「天下人」の秀吉も切れたのです。
まあ、秀吉でなくても「切れた」かも知れませんが・・・。
★秀吉は直ちに「切腹」の命を下し、天正19年(1591)2月28日、利休は69歳の幕を閉じたのです。
お礼
ご回答ありがとうございました。