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今山の戦い
何故、大友宗麟はたった3000人の兵士で5000人の龍造寺を攻めたのですか? 普通に考えたら2万人ぐらい率いて一気に畳み掛ければ龍造寺は滅んだでしょう? 大友宗麟、頭が悪いのですか? Wikipediaしか読んでないのでただただ大友宗麟の頭が悪いだけとしか思えないです。 戦の初心者でもやらない様な設定で戦うのヤバいわとか思えないです。
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- shibucin
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今山の戦いは、1578年に大友軍と龍造寺軍の間で行われた戦いです。大友宗麟がたった3000人の兵士で5000人の龍造寺軍を攻撃した理由は、諸説あります。 一説によれば、大友宗麟が有利な条件で戦いを仕掛けたためです。当時、龍造寺隆信は肥前国(現在の佐賀県)での戦いで疲弊していたため、戦力が不足していました。また、今山の戦いの前に大友宗麟は、龍造寺隆信と同盟を結んでいたため、大友宗麟は龍造寺軍が自分に攻撃を仕掛けるとは思っていなかったとも言われています。 しかしながら、もう一つの説によれば、大友宗麟が敵の勢力を甘く見たためです。当時、大友宗麟は肥前、筑後、豊後などの諸国を支配していたため、龍造寺軍が自分に攻撃を仕掛けるとは思わなかったということが考えられます。また、当時の戦争では、大軍を率いて攻め込むという戦略は一般的ではなかったため、大友宗麟が3000人の兵士で攻撃を仕掛けたのは、当時の戦争の常識からすれば異常なことではありませんでした。 いずれにせよ、今山の戦いは大友軍の勝利に終わり、龍造寺軍は敗北しました。大友宗麟がどのような戦略を立てたのかは、詳しい史料が残されていないため、今となっては詳しいことは分かっていません。ただし、大友宗麟が頭が悪いわけではなく、当時の戦争の常識からすれば、彼の戦略は決して異常なものではなかったと言えます。
- pfarm
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今山の戦いは、戦国時代に肥前国で起こった合戦の一つで、大友宗麟率いる大友軍と、龍造寺隆信率いる龍造寺軍との間で行われました。 大友宗麟は、戦前の交渉で龍造寺隆信に対して和議を求めたものの、龍造寺隆信がこれを拒否したため、戦いを決意しました。ただし、大友宗麟が率いる兵力が3000人だったかどうかは定かではありません。 戦争においては兵力だけが勝敗を決めるわけではありません。大友宗麟は、自軍が数的に劣勢であることを承知の上で、地形を活かした戦術や奇策を駆使して龍造寺軍を破りました。戦後、大友宗麟は今山の戦いでの勝利を「一騎当千」と称しました。 大友宗麟が頭が悪いという評価は、適切ではありません。実際に、大友宗麟は豊臣秀吉との抗戦を続けるなど、戦略的な判断力に優れた武将であったとされています。
- jkpawapuro
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記録に無いので推測しかできないです。 攻城十倍則、攻撃三倍則と言われるので、一気に畳みかけようとしたら5万欲しいですね。相手の方が戦意が高いこともありますし。 状況は食糧も窮乏するころでしょうし、兵が収穫に帰りたくて浮足立つ時期、強襲する最後の時期にも思えます。 展開した兵力が3万とも6万とも言われ実際の兵力よく読めないですが、セオリーでどう考えても強襲する時期なのにしていなかったとすると、兵力が実際には6万もなく一押しで押せるだけの戦力が無かった、あるいは食糧不足で現実的な戦闘力が低下していたとみるべきでしょう。
- makaay10
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大友を手引きして城内にいれる謀反人や他ルートからの侵攻を考えると城に2千は残しておかないと危険。仮に龍造寺が大友の先陣を迎撃するにしても3千程度しか動かせませんから大友の先陣が3千でも十分。総兵力3千で龍造寺を攻めたのではなく先陣として国内に入った大友勢が3千ってだけ。続々と到着します 仮に龍造寺が出陣してたら大友の先陣3千と戦闘中に次から次へと来る大友の援軍とかち合う可能性がめちゃくちゃ高いし、あまりにも敵が大軍ですから龍造寺の兵士が逃亡して離散する可能性もあった。龍造寺はそのリスクから籠城を選択してますね。逃げ場がなければ兵士には戦う選択肢しかなくなりますから。 大友は龍造寺支配下の村を押さえつつ城を八方から囲んだのは良かったのですが3月から始めた戦が8月になっても終わる気配がない。後方に陣取った大友宗麟は「莫大な被害がでるけど力攻めで総攻撃して落とすしかないか・・」と考えて大友近貞3千を最前線に援軍として送り、総攻撃を行う前線の大将として布陣させます。総兵力は6万ですね。 結果的には「この大軍相手に出て来ないだろ」と油断して酔っ払った大友近貞の部隊が龍造寺の奇襲攻撃で壊滅した事で大友軍の士気はあがらなくなり、龍造寺側の和睦の要請を受けて撤退してます。大友近貞勢だけが大打撃を受けていて他の大友勢の動きが曖昧なんで諸説がささやかれてはいますけど大友の実質的な敗北なのは間違いなさそうに感じます
- eroero4649
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 Wikipediaを見ると本文には「3000」とありますが、右側のカラムには大友軍の戦力を「6万から8万」と書いています。 他の資料を見ると3万というものもあるらしいので、本当の実数は分かりません。だいたいこういうものは大げさに書くのがお約束です。「数万と号したが、実際の武装した将兵は3000名」というのは十分リアリティがある数字だと思います。Wikipediaには大友軍の様子が「尺寸の地も残さず大幕を打つつけ家々の旗を立並べ……たき続けたるかがり火は沢辺の蛍よりもしげく、朝餉夕餉の煙立て月も光を失なえる」とあったということですから、かがり火が満開の蛍のようで炊事の煙で月が隠れるくらいの大軍勢だったということでしょう。 そして竜造寺軍の奇襲部隊が、Wikipediaによると「500」と書かれています。ということは、一方の竜造寺軍も5000もいなかったと考えるのが自然です。乾坤一擲の奇襲攻撃に、戦力の1/10しか投じないのは不自然でしょう。 1000か1500程度の総兵力なら、500という数字は自然です。 1500と3000なら、二倍の兵力。そこに3000の援軍となれば、1500対6000になりますから、そりゃ大友軍としては勝ったも同然の宴をひらく士気の緩みにも繋がるのも不思議はないかなと思います。もし竜造寺軍の兵力が1000程度なら、6倍の大軍となりますものね。 また大友宗麟本人は戦場に行っていません。戦場の指揮官は弟の大友親貞です。そして親貞は宴を開催して敗北の原因を作り、戦場で討ち取られました。 アホといえばアホですが、戦国時代が下剋上の世の中とはいえ、九州のような地方では「家の格式」というのがまだ非常に影響力がありました。例えば薩摩の島津家は、鎌倉時代から守護を続ける非常に格式ある家です。薩摩では守護代やその家臣が成り上がるような下剋上は起きていません。大友氏も鎌倉時代から続く守護大名です。 この今山の合戦で名を上げて後に竜造寺家にとって代わる鍋島直茂も、竜造寺隆信が亡き後も竜造寺家や他の家臣に対して「私は竜造寺の家臣であり、決してとって代わろうなどと思っていません」といって回っていたりして、非常に気を使っているんですね。 つまり、九州では「家の格式」というのが非常に重視されていたわけです。優秀な人がリーダーをやるのではなく、家の格式が高い人がリーダーになるべきだと考えていたのです。今でいうなら「社長になるなら東大出身じゃないとダメ」みたいなもんですかね。 だから、大友家の偉い人が大将なのです。そして優秀な人ではなかったってことだったのだと思います。Wikipediaにも今山の合戦以外の記述がほとんどありませんからね。「高貴な身分の、酒好きの無能なおじさん」だったのでしょう。ま、そういうおじさんはどこの大企業の管理職にもいると思います。