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カノッサの屈辱
こんにちは。 教皇は、皇帝を破門出来る立場なのですか? 👀
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- Nakay702
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以下のとおりお答えします。 >教皇は、皇帝を破門出来る立場なのですか? 👀 ⇒はい、当時はそうでした。「当時」というわけは、教皇と皇帝の力関係が動いていった、ということです。中世初期に登場した教皇は次第に権力を強めていき、「カノッサの屈辱」(1077年)、つまり、11世紀後半から13世紀初頭までの頃が教皇権の絶頂期で、皇帝を破門する力量を持っていました。 ところが、その後十字軍や商業都市の発展、王制下の議会の出現と充実などにより王権が伸張するのに伴って教皇と皇帝の力関係は逆転していきました。そして、14世紀初頭の頃には教皇権は衰退し、皇帝を破門するどころか、逆に皇帝の差配を受けて教皇庁が移動させらるという出来事もありました。「教皇のバビロン捕囚」(1309年)がそれです。
- fujic-1990
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教皇は神様の代人ですから、神の教え(自分の考え)に従わない皇帝を破門できます。 俗世の最高権力者である皇帝も、他の有力な宗教人も破門できます。 1054年いわゆるローマカトリックとギリシア正教が分裂したのも、宗教観の異なる二人の有力者(司教)が「互いを破門しあった」結果だったと記憶しております。
お礼
こんにちは! 破門出来ちゃうのですね。 教皇の言葉は神の言葉、いうなれば皇帝は俗世のヒト。格が違います。 カトリックといえば、フランスのカトリックとプロテスタントのユグノー戦争を思い起こします。40年も。宗教と宗教、家と家の戦い…。ヒトとヒトなのに、分かり会えない。 現代も同じ事の繰り返しですね。 ご回答ありがとうございました!
- eroero4649
- ベストアンサー率32% (11074/34516)
西ローマ帝国が滅亡した後に、800年にカール大帝が戴冠したとき、その帝国は「(西)ローマ帝国が復活した」という体裁になりました。 じゃあ誰がその「ローマ帝国の復活」の観念的な後ろ盾になったのかというと、それがカトリック教皇だったのです。教皇が「ローマ帝国が復活したよ。その帝位をこの人に授けるよ」と宣言したことによって、後に神聖ローマ帝国と呼ばれる帝国が生まれたのです。 なので、神聖ローマ帝国の皇帝は教皇に受任されることで初めて皇帝として公的に認められることになるのです。これは今の日本国で閣僚が天皇から任命されて正式に内閣が発足するのと同じです。 今の日本では天皇が「アイツは気に食わないから任命しない」ということはできません。任命そのものを拒否することもできません。 神聖ローマ帝国も、教皇がただのお飾りだった時代もあれば、教皇がすごく権威を持っていた時代もありました。カノッサの屈辱のときはその教皇の権威が歴史的にも最高潮に近いあたりにあり、当時の教皇の権威を示す事件がカノッサの屈辱だったので、カノッサの屈辱は教科書に載る事件になったのです。 もちろん「お前、誰のおかげで教皇になれたと思ってるんだ?」というような教皇の権威が弱い時代だったらそんなことは口にできません。むしろ自分が排除されるほうを怖れなければなりませんでした。
お礼
テッドさん、こんにちは! ローマといえば、テルマエロマエくらいしか知らないわたしに、神聖ローマ帝国のご説明をありがとうございます。あ、ローマの休日も知ってました♪ 皇帝は、教皇に任命されるのですね。 現代は、軍が政治に影響力のある国もありますが、当時は宗教が権力が強かったのですか。 しかし、教皇が許してしまった為に、後に皇帝が教皇を包囲し腕を切り落とし、教皇の座を奪われ憤死するという…。情けは禁物ですね。ガクガク、ブルブル。 更に、その後には皇帝は新しい教皇とも対立…失意のズンドコで亡くなるという、誰も得しない結末が待っていたのですね。💨 ご回答をありがとうございました!
- kuzuhan
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教皇は「教会」の地位で、皇帝は「帝国」の地位です。 ざっくりとですが、教会側は信徒として、市民や聖職者、貴族や皇帝を教会に受け入れます。 そのうえで、導く立場として教皇や枢機卿、司祭などを置きます。 「破門」というのは、教皇などが信徒に対して申し伝えるもので、教会に所属することを許さない(例えば、カトリックから破門されると、カトリック信徒として認めないことになる)ものです。 当時、宗教と国政は密接で、宗教のつながりから国同士のつながりもあるほどです。 カノッサの屈辱は、ローマ帝国が北イタリア地方で影響力を強めようと、教会を通さないで独自の司祭を擁立したことで教皇と対立、ついには破門を言い渡されて、これの許し(破門の解除)を得るまでの事件を言います。 教皇(教会)は勝手に聖職者を任命しないでと伝えていたのに強行したから「こいつ、勝手に自分の解釈で宗教を広めようとしているからダメだな」ってことで信徒として認めないよってことで破門になったわけです。
お礼
こんにちは! 当時は、教会、宗教が絶大な影響力を持っていたのですね。 ローマ帝国の皇帝、ハインリヒ4世がアルプス山脈を越え、ローマ教皇グレゴリウス7世に会いに行き、破門の許しを乞う為に雪の中、3日3晩裸足で城門の前で涙ながらに土下座をしたのですね。なんという屈辱でしょう。よくぞ生きていたものです。 ご回答ありがとうございました!
お礼
こんにちは! 丁度、その頃が教皇の権力のピークだったのですね! カノッサの屈辱時は、教皇は特に皇帝を許すメリットはなかったといいます。 許さなくとも良かったのですよね。 (許さなかったらどうだったのだろ) 尾をひいて、その後に寝首をかかれるのですから…。 教訓としてはやれる時に徹底的に潰しておかないとやられる、て事かしら。 歴史は、教皇と皇帝の力関係は逆転するのですね。 カノッサの悲劇でしたね。 ご回答ありがとうございました!