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カノッサの屈辱
西ヨーロッパ世界の形成される過程の中で 1077年におこった「カノッサの屈辱」は世界史上 どのような影響を及ぼしたか。 次の語群をふまえて答えてください。 来週の月曜日までに答えてくれると助かります。 教会 叙任 教皇権 月 封建制
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>1077年におこった「カノッサの屈辱」は世界史上 >どのような影響を及ぼしたか。 カノッサの屈辱が象徴する、教皇権と皇帝権の争いとその帰着が、後の西欧の社会的経済的基盤の基礎を構成したのです。それにより西欧は近代社会を構築し、やがて、世界へと技術経済的に進出して行く結果となるのです。 「封建制度」 西ローマ帝国が滅びた後、西欧は混乱した状態に置かれた。しかし、そのなかから、弱い者が強い者に庇護を求め、強い者は弱い者の支援で自己の勢力を維持するという形の勢力の秩序化が進んで行く。イスラム侵略を阻止したカロリング・フランク王国を教皇はローマ帝国と認めたが、まもなく不安定なフランク王国は分裂し、やがて、ドイツに基盤を置く、オットーが、広汎な領域に支配権を確立し、教皇はこれを、神聖ローマ帝国と認めた。 西欧の封建制度は、支配者の争奪のなかで、徐々に秩序構成され、大領主が中領主と相互的契約を結び、主従関係となり、中領主が小領主と同じ契約を結ぶという形で、主従関係の契約のネットワークができました。領主には、農民が領民として従ったが、彼らは、このようなシステムが構成されて行く過程で、「領地」に束縛された農民として、土地とセットになって考えられ、「土地+農民」のセットが、荘園あるいは「封土」という形で、領主から領主に継承され、また大領主から臣従領主に契約で与えられた。このような場合の農民は「農奴」となり、「封土」を基礎に置く社会であったので、これを封建制社会と呼んだのです。 ドイツの皇帝の権力は、このような封建制を基礎に置いたもので、それは、軍隊を持たず、臣従する家臣を持たず、領土も持たない教皇庁と較べ、大きな権力を持ち勢力を持つものであったが、神聖ローマ帝国皇帝の権力は危ういバランスの上にあった。それは、ドイツがまさに封建制帝国であって、大領主が、皇帝と契約を結んで臣従していたので、皇帝自身も、大領主=諸侯の一人に過ぎず、皇帝座をめぐって、多数の大諸侯が争い合っていたという現実でした。 皇帝は、皇帝権力の維持のため、当時、王権がその任命権を持っていた、領土内の「司教叙任権限」を利用して、諸侯とは独立した、皇帝に直属する司教領主の勢力を大きくし、諸侯の勢力と、これでバランスを取ろうとした。ドイツ王=神聖ローマ帝国皇帝にとって、自領地内の聖職者叙任権限、とりわけ司教叙任権限は、死活問題でもあった。 「教会」 他方、ローマ教会は、封建制の確立と共に、高級聖職者、司祭、司教などが、封建大小領主のような立場に立って、世俗化することに懸念を抱いていた。ドイツにおける皇帝直属の司教領主団のようなものが存在しては、ローマ教会の使命は果たせず、また、聖職者の世俗化も、教会の危機であると見做していました。 ローマ教会は、「教皇庁-司教-司祭-助祭-一般信徒」に続く垂直統制構造を持っていたが、司教・司祭段階で世俗化が進み、各地の司教は、聖職者領主に変わり、教皇庁の命令ではなく、契約主君の命令に従うというような事態に、教会の危機を感じたのです。教会は、この垂直制度の他に、教皇直属の「修道会」を持っており、修道会は優秀な人材の宝庫として、教皇庁内でも重要な意味を持っており、更に、教皇直属であるので、封建領主からは独立していたことも重要であった。古くからは、ベネディクトゥス会があり、その分派として、クリュニー派が起こり、更にシトー派が修道会として盛んになって行きました。 教会の制度改革を唱えたのは、修道会の修道士たちで、なかでもクリュニー修道院は改革派の牙城で、聖職者の世俗化・堕落(例えば、妻帯とか、教区の世襲など、封建領主としてはごく当然な行為)を弾劾し、教会が世俗権力に操られることを否定しました。クリュニー会出身のヒルデブランドゥスは遂に教皇となり、聖グレゴリウス七世となった。 「叙任権」 グレゴリウスは、教会改革を積極的に推進し、聖職者の世俗化などを改革して行ったが、ここに、神聖ローマ帝国皇帝が叙任権限を持つ、帝国領土内の領主司教等の聖職者叙任権限は、皇帝にではなく、実は教皇にあると主張し、皇帝ハインリッヒ四世と争いました。しかし、ハインリッヒにとって、直属司教の叙任権限を教皇に奪われることは、皇帝権力の維持が不能になることを意味し、このような要求は飲めないと当然回答した。ヒルデブランドゥスはこれに対し、ハインリッヒの教会よりの破門及び、キリスト教徒のハインリッヒへの臣従義務の解除を宣言した。ハインリッヒを打倒しようとしていたドイツ諸侯は、この機にハインリッヒの退位を求め、また期限を切って、臣従契約を事実上解除すると通告した。 驚いたハインリッヒは、グレゴリウスに、破門の解除と、臣従義務復活の宣言を願い出たが、グレゴリウスはこれに応じず、ハインリッヒは、大軍を率いて冬のアルプスを越え、戦いに備えてカノッサ城に身を守った教皇に拝謁を申し出るが拒絶され、トゥスカーナ女伯マティルダなどの取りなしで、城内に入れてもらえたが、三日間雪の降る中庭に待たされて、三日目、教皇側の要求をすべてのむことで、教皇に赦しを得た。これが、「カノッサと屈辱」として有名な象徴的事件なのです。 「教皇権・太陽と月」 ハインリッヒ四世は、グレゴリウス七世に圧倒的に敗北したようにも見えますが、これは「象徴的事件」で、国内が安定するや、ハインリッヒはグレゴリウスとの約束を反故にし、教皇は皇帝を再度破門し、ハインリッヒはローマに侵攻して、征服し、皇帝の臣下であるドイツ司教団は、グレゴリウスの廃位を決め、対立教皇クレメンス三世を選出します。クレメンスは、グレゴリウスが奪った帝国帝冠をハインリッヒに再度授け、破門を解きます。グレゴリウスは辛うじてローマを脱出し、避難の地で世を去ります。ハインリッヒの後ろ盾によりクレメンスは教皇として権威をふるいますが、グレゴリウスの二代目後継者のウルバヌス二世は、第一回十字軍を提唱し、これは大成功します。 ハインリッヒ四世は没し、後継者が後を継ぎますが、皇帝権と教皇権の争いはなお続き、ドイツ以外の西欧の諸侯に呼びかけ、十字軍を招集できた教皇ウルバヌス二世の威勢は強くなり、ドイツ皇帝権は徐々に教皇権の前に屈して行きます。「聖職者叙任権闘争」は、1122年「ヴォルムスの協約」で、一応、決着し、わずかに教皇側に有利な結果となります。 ドイツ皇帝だけではなく、西欧の王権、諸侯を糾合した十字軍運動の成功は、教皇権の拡大を保証し、1198年に教皇座についたイノケンティウス三世で絶頂を迎えます。カノッサの屈辱から130年後です。イノケンティウスは、教皇至上権を唱え、「ラテラノ公会議(1215)」において、「教皇は太陽、皇帝は月である。月が太陽に従うように、皇帝が教皇に従うのは当然である」と述べました。 イノケンテイウスの功績は、従来、ベネディクトゥス会とその分派、そして戦闘的修道会テンプル騎士団などであった修道会に、「托鉢修道会」という新しい形の修道会を加えたことです。それはドミニコ会を追認し、新たに画期的な聖フランチェスコの請願に応じ、フランシスコ会を認めたことです。イノケンティウスはしかし、アルヴィジョワ十字軍を組織し、イスラム教徒・ユダヤ教徒を迫害し、ドミニコ会の異端審問を認める方向に進んだことでも知られているのです。 「封建制度」 カノッサの屈辱に象徴的に開始が示される、皇帝権に対する教皇権の優位性は、やがてイノケンティウスにおいて実現されますが、そこには、十字軍運動を通じての、西欧の一体的自覚化と、同時に、王権国家の確立があるということになります。封建制度は、その頂点に、イギリス王、フランス王、ドイツ王などを置き、国家単位の制度へと変化して行くのです。また、「異端」の明らかな弾圧の意図は、教皇庁への反逆者の存在を明らかにしていたのであり、教皇権の没落を予兆していたのです。 王権や諸侯の権限の下、中世自治都市が繁栄し始め、パリは学問の都として花開き、各地で大学が開かれ、商人の活躍が活発になり、スコラ哲学が興隆し、封建制の近代化、そして宗教改革の成功、ルネッサンス、近代国家や近代経済の展開、封建制の崩壊へと、かくて進んで行くのです。
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- blackleon
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これらの言葉で検索してみたら、下のページが見つかりました。 これを読むと書けるかも。
お礼
どうも有り難う御座いました。 まとめるのは大変かもしれませんが とても参考になりました。有り難う御座いました。
お礼
回答有り難う御座いました。 こんなに詳しく書いてもらって、 とても助かりました。おかげでレポート提出も 楽にすみそうです。 本当に有り難う御座いました!!