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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:カノッサの屈辱?)

カノッサの屈辱?

このQ&Aのポイント
  • 「カノッサの屈辱?」- 人間の屈辱を考える
  • 「おのづからおそれ」とは、かつての聖なる甘え
  • カノッサの問題を文学と哲学で考える

質問者が選んだベストアンサー

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noname#211048
noname#211048
回答No.3

聖書の言葉でいうと 許し/赦し でしょうか。 Bragelonneさんこんにちは。

bragelonne
質問者

お礼

 すてぃ2580さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そこで膝まづいたきみを その手を取って起き上がらせるのは 神なのだそうです。  わたしたちに赦しを乞うようにさせた者のよわさを ゆるしてくれたまえと。

その他の回答 (5)

  • kurinal
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回答No.6

B大兄の、「思いっきり自由なご見解を」というフレーズに、萌えておりましたが、 >「要するに 《さとり》という言葉をいじくっているだけとわたしは見ていますという意味です。」 例えば、新聞を読んでいても、 >「首をうなだれ(冗語?)腰をかがめ膝を曲げてくづおれ」は、あると思いますし、 >「さとる(さとった)」も、あると思います。 ・・・してみると、「自由」とは「不自由」を前提にしています?

bragelonne
質問者

お礼

 《自由な見解を自由に述べる》と そのまま相手は 受け留めるだけではなく 賛同してくれると思っています?  相手も自由な意見を自由に述べます。  これが 自由です。  ご回答をありがとうございます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.5

>「もっと自由に。倫理規範によって・そのあたまの固さによって 自分を縛らず もっともっと自由に。もっともっともっと自由に。  さとりには クソくらえ! です。」 ・・・自由が「さとり」だった時には、可哀想に。 (ご愁傷様)

bragelonne
質問者

お礼

 さとり派にも その中身を説明する機会を持つという自由をあたえてやってください。  その説明を聞いてから 《カワイソウ》かどうかを考えても遅くはないでしょう。  要するに 《さとり》という言葉をいじくっているだけとわたしは見ていますという意味です。  ご回答をありがとうございます。

  • yuniko99
  • ベストアンサー率15% (31/204)
回答No.4

神を貶す言葉も、子を貶す言葉も許されるであろう しかし聖霊を汚す言葉は許されることがない。 恐るべきは人道を外れ 過ち 後悔する事である。 しかし我々は後になって後悔する。あの時あの言葉を言わなければ と たった一度の青春を悔いなき様にと言うけれど 春の嵐が過ぎたあと何もしなかったと嘆くより ああ 過ち 悔やむほうがいい♪ 恐れを知らぬ若者たちは 春の嵐の中で様々な青春を生き、多くの失敗をする それがカノッサの屈辱であっても やってみないと分からない 恐れを知らぬ若者と 恐れを知った大人達 それは何時の時代も繰り返す 私も夜の川に飛び込んだことがありましたが 翌日見たらそこは岩だらけ ひとつ間違ったら脳天が割れてたかもしれない 結局メガネを流されてしまった・・・ 行けるものよ行けるものよ 全く彼岸に行けるものよ 悟りよ幸あれ!

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ▲ (新約・ヘブライ人への手紙/ 08章 11-12節) ~~~~~~~~  11: [・・・ふるい契約があたらしい契約に取って代われるとき・・・]   人びとは 隣人どうし 兄弟どうし   「神を知れ」と言って教える必要はなくなる。   小さな者から大きな者に至るまで 彼らはすべて、わたしを知るようになり、  12: わたしは、彼らの不義を赦し、   もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。』   (旧約・エレミヤ書31:34)」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ もっと自由に。倫理規範によって・そのあたまの固さによって 自分を縛らず もっともっと自由に。もっともっともっと自由に。  さとりには クソくらえ! です。

  • kurinal
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回答No.2

B様、こんばんは。 そりゃ、あります。 いわゆる「運命」について、、、脚の短さとか、育ちの悪さとか、 「自分の意思とかでは、どうにもならなかったこと」について、くづおれます。 ただし、それは「誰かに対して」というものではなく、 「そういう事実があるならば・・・」という、「自由についての嘆き」です

bragelonne
質問者

お礼

 ぢゃあ 《屈辱》ではないわけですね。  ★ 「自由についての嘆き」です  ☆ ね。  ★ 育ちの悪さとか、「自分の意思とかでは、どうにもならなかったこと」  ☆ この場合も おさない頃やものごころが着いてからでも すでに付いていた習慣に苦しんだときのことだということですね。  よく分かりました。  ご回答をありがとうございます。

noname#217725
noname#217725
回答No.1

質問者さんは、見解を求めておられ、回答を求めておられるのではないとして。 見解を述べるには、主体となる筋が不明である。 「カノッサの屈辱」について、詳しいことが知りたいのか。 「カノッサの屈辱」についての感想を求めておられるのか。 「カノッサの屈辱」は、聖書には書かれていない。 「カノッサの屈辱」(カノッサはイタリアの城の名前)は、歴史書には書かれていても、 いわば「聖書外伝」というものである。 しいて云えば、「カノッサの屈辱」を本当に屈辱と思うか、どうか? というような、問いかけに思えるが…。 しかし、それには「カノッサの屈辱」の内容を詳しく知る必要がある。 一方的な解釈の宗教書ではなく、正しい歴史書を読む必要がある。 さらに、その上で、答えるものが宗教的な見解を持たないことを条件とする。 この問題には「カトリック」と「ドイツプロテスタント」の反目があり、 ヨーロッパでは現在でも「カノッサの屈辱」は「強制されて屈服、謝罪すること」の 慣用句として用いられている。 しかし、「カノッサの屈辱」で当時の皇帝は、教皇から破門と王位の剥奪を許された。 にも関わらず、後に皇帝は反旗を翻し、教皇を追い詰めて死に追いやり、 別の教皇を立てた。(いわば、権力の争いである) この事件のもともとは、当時の皇帝が、自分の権力拡大のために、自分にとって都合の良い大司教、司教を任命したことに端を発した。大司教、司教の任命権(叙任権)は、 教会に属するものという教皇と、互いの主張がの食い違って争いになった訳で、 「カノッサの屈辱」の時点で、教皇は皇帝をそこで殺すことができたはずだが、 それをしなかった、詰の甘さが後に教皇が皇帝に追われ死に至ることになってしまった。 そののち1122年「叙任権(司教の任命権)」が教皇にあることを定める条約ができた。 ここまでが、一応の「カノッサの屈辱」の出来事である。 最後に「カノッサの屈辱」に対して私自身の見解を述べるなら、 政治と宗教の分離がその時代になされていたなら、この争いは起きなかった。 以上ですが、参考になりましたでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。  そうですね。  文字通りのカノッサの屈辱を論じるところから 聖書論に入っていただきたかった。――これですかね ねらいは。  言いかえると 教皇のおこないにしてもけっきょく権力闘争である。その問題から 聖書は自由である。――といった点から入って欲しかった。といったところでしょうか。  趣旨説明も短く切り上げていますし 主題が聖書についてであるなら きわめて広い問いです。  したがって 回答はきわめて自由ではあります。    そうですね。ほんとを言うと カノッサの事件についてほとんど考えたことはなかったのです。そこから広げた場合の問題を扱いたい。というのが ホンネです。  屈辱を受けた皇帝は リベンジを果たしたのでしたよね。  それに イギリスの王は 自分でひとつの宗派をつくりましたね。ローマを見限って。  ですから この種の権力闘争には それほど深追いをすることもないと高をくくっていたのではあります。  ★ 政治と宗教の分離がその時代になされていたなら、この争いは起きなかった。  ☆ けっきょく その宗教の側の行動というのも 大いに《政治的なもの》だとは思うんですけれど どうなんでしょうね。  ありがとうございました。

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