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詩の翻訳は、意味を訳すべきか、気分を訳すべきか?
岩波文庫の「詩人・菅原道真 うつしの美学」という本を読んでいましたら昔の人の和歌から漢詩への翻訳が載っていました。 秋風にほころびぬらし藤袴 つづりさせてふキリギリスなく *ほころびぬらし:ほころびてひらく 藤袴:藤袴の花と着物の袴をかけている つづりさせ:当時のきりぎりす(コオロギ)の鳴き声と、ほころびを繕えをかけている 上の和歌の菅原道真もしくは道真の学舎のだれかの漢詩訳 商颷(しょうひょう)飄々(ひょうひょう)として葉軽々 壁蛬(へききょう)の流音数処に鳴く 暁の露に鹿鳴いて花始めて発く(ひらく) 百般攀じ(ももたびよじ)折る一枝の情 *商颷(しょうひょう):秋の意味らしいです。 壁蛬:壁のコオロギ 鹿鳴いて:秋の交尾期の鹿が牡鹿が牝鹿を求めてなく様子 百般攀じ:何度も何度も手をのばして 折る一枝の情:一本の枝を思いを込めて折り取った よくある英語から日本語への翻訳では、例え詩作品でもこのような雰囲気をだすために「藤袴→花」にしたり、勝手に時刻を「暁」にしたり、「鹿」を登場させるようなものを私個人では見た事がありませんが、個人的にはこういう翻訳をしてくれる人が出てきてもいいのでは思いました。 本では「気分」もしくは「もののあわれ」を訳していると書かれていましたがいや~粋な翻訳だな~と思いました。 質問(1):このような感じで大胆に英詩を日本語に訳した方はいらっしゃいますか? 質問(2):このような大胆な翻訳についてどのように思われますか? 質問(3):これぞ名訳と思われる英詩の日本語訳がありましたら、ご紹介ください。(私個人としては、上田敏の「海潮音」が一番だと思っていますが、あんまり大胆な訳という印象はありません。) よろしくお願い致します。
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- Nakay702
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質問者からのお礼コメントをありがとうございます。 >私はナカイさんや、SPSさんのようなお訳の英詩の翻訳書がないかなと思っておりましたが「無理だろうな」と諦めておりましたが、蒲原有明の文体がナカイさんにそっくりで、コチラの願いは叶ったような気が致しました。(SPSさん風の翻訳をされる書籍も発見できるといいのですが、、、。) 実は情けない事に蒲原有明を全く知らなかったのですが、パラパラと覗いていてみまして、すっかり大好きになりました。 ⇒なるほど、言われてみれば私の訳語・訳風は蒲原有明の文体に似ているかも知れませんね。無意識でしたが、おそらく、象徴派の群像(上田敏、蒲原有明、三木露風、萩原朔太郎、薄田泣菫…)に憧れを抱いていたことと関連して、無意識裡に真似ていたのかも知れません。 ≫思ひなきこそ文目(あやめ)なき 死にはあるなれ、かくもあらば、 さらばわが身は 世にも幸あるさ蝿かな、 生くといひ、将(は)た死ぬといふ、 そのいずれともあらばあれ。 >例の難しい箇所をこうも見事に翻訳できるものなのだと思いました。この書き方でしたら、私も「分かったような、分からないような。」とはならなかったのですが、絶妙に分かりにくいブレイクの詩を、本当にこうも見事に訳すとは天才ですね! ⇒以前採り上げておられたブレイクのTHE SICK ROSEなども私にとっては興味深い詩でした。心なしか、これにも象徴派、耽美派、高踏派に近いような香りを感じました。 ≫21か国目の、夢の旅路出立したいと思います! >ですよね! 現代日本の正確さ偏重主義とはあまりにも違いすぎて、こんな素晴らしいものがあったのかと思いました。本当に誰かやってくれないかなと思います。 ≫上記の蒲原有明訳をご紹介(したことと)させていただきます。 >素晴らしい本をご紹介いただき、ありがとうございます。 ≫私的結論:詩の翻訳は、気分を訳したものが好きです。 >私もです。道真に教わる事ができるのなら教わりたいものです。 ⇒こういう方々の詩に引かれるのは、心理的には、ある意味「正確さ偏重」とは間逆の抒情性であり、ゆらぎであり、遊びであり、修辞法的には、例えば、擬人法などではないかと思います。 《汝が肢体に取りつきて 汝が赤き血潮を貪りぬ。》 《さらばわが身は 世にも幸あるさ蝿かな、 生くといひ、はた死ぬといふ、そのいずれともあらばあれ》 《東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ》 などは、そういった感興を醸してくれますね。余韻が心に残ります。
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
#5です。訂正やら言い訳やらです。 1。訂正 このコンピュータに誰かが「自動修正アプリ」みたいなものを入れたらしく僕が書き込んだ後からポロンポロンとものすごくおせっかいな「修正」をしてくれて、有がた迷惑もいいところです。 例えば菅原道真が「東風吹かば」と言ったのに「こちふかばく」などと余計な「く」を入れて口をパクパクさせています。 2。言い訳 客員は、ケンブリッジ大学から客員教授でお見えになった古英語の 先生のお名前は Garmonsway 「槍持部隊の入り口」という意味で「僕は髪は黒いし背も低いから先祖はローマ軍の槍部隊なんだ」とおっしゃいました。 で『ベオウルフ』のゼミは奥さんがお作りになるスイートが物凄く美味しく、沢山だったのを覚えています。誰かが「これハイティーっていうんですか」と聞くと「肉のあるなしで決まるので量は関係ない」ということでしたが完全に二日間は腹一杯でした。 かくして古英語は忘れましたが、あの「お茶」の味は未来永劫に忘れられません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >>このコンピュータに誰かが「自動修正アプリ」みたいなものを入れたらしく僕が書き込んだ後からポロンポロンとものすごくおせっかいな「修正」をしてくれて、有がた迷惑もいいところです。 あはは、分かります。 私も修正された自覚がなく、投稿後に「あれ!?」となる事が多いです。 >>客員は、ケンブリッジ大学から客員教授でお見えになった古英語の 先生のお名前は Garmonsway 「槍持部隊の入り口」という意味で「僕は髪は黒いし背も低いから先祖はローマ軍の槍部隊なんだ」とおっしゃいました。 あんまり詳しくはないのですが、英語圏の教授さん達って、ずいぶんと名家のかたが多いような印象を受けますよね。私の知り合いでも、実は「かの***と、わしは遠縁でな、うちの家系はだいだい学者なんじゃ。」とか言っていました。 >>で『ベオウルフ』のゼミは奥さんがお作りになるスイートが物凄く美味しく、沢山だったのを覚えています。 私の学生時代の先生にも、引退まじかの教授がいまして、それは生徒をかわいがっていて、スイートをゼミに持ってこられる方がいました。しかし、見た目が、おっかない教授でしただけに、スイートの美味しさが意外だったのを覚えています。 >>沢山だったのを覚えています。誰かが「これハイティーっていうんですか」と聞くと「肉のあるなしで決まるので量は関係ない」ということでしたが完全に二日間は腹一杯でした。 いかにもネイテブの教授が言いそうな冗談ですね。学生時代というのはお金がないものですから、そういう教授の差し入れが本当にうれしいですよね。私は、小中高とロクな先生に恵まれませんでしたが、大学だけはいい教授に恵まれて本当に良かったです。 SPSさんも、よい教授に恵まれたようで、お互いに良かったですね。 >>かくして古英語は忘れましたが、あの「お茶」の味は未来永劫に忘れられません。 あれ? でも、、以前何かの質問でSPSさんに古英語の話題を振られて、SPSさんが古英語でなにか私に教えてくれていましたよ。 (その時も、文系に行けばよかったと思ったりもしました。) 本当にいい先生というのは一生の思い出ですね。 今回もありがとうございました。 また、よろしくお願い致します。
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
#5です。寝言です。 >>なんで自信がなくなったのかサッパリ想像がつきません。 復員して農家の見習いをしていた時、占領軍の汚物処理の職があり父が「蓄膿をやって鼻ツンボだから僕が行く」と言うので「僕まだ若いから」と行ったら「お前英語ができるか」と海兵隊の大男に聞かれ「a little」と言ったら通訳をやらされました。 それで安い文系をバイトで出、公募に通ってUCLAに行きコックニーが母語の教授に英語史、客員に古英語、を習いました。 ヴェネッツィアのデンマーク人の経営している「Gardena」という民宿でベオウルフの初めの「Hwaet we Gar-Dena geardagum」を思い出し、洒落?と聞いたらぽかんとしてたので相手に通じる言葉にしました。 ただそれだけです。家紋は丸に梅鉢、主は「こち吹かばく」なんていうもんだから京都から飛んで来た、菅原さんの木と同じです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >>「お前英語ができるか」と海兵隊の大男に聞かれ「a little」と言ったら通訳をやらされました。 その海兵隊さんは、見る目がありますね~! 英語ができても見た目が変わるわけじゃないですし、「a little」なんて言われたら文字通り少ししかできないと解釈しそうなネイテブはよく目にしますが、能ある鷹は爪を隠すと見抜けるネイテブもいたんですね~! >>それで安い文系をバイトで出、公募に通ってUCLAに行きコックニーが母語の教授に英語史、客員に古英語、を習いました。 なるほど、、、現代英語でも「コックニーが母語」の方ですと私も英語に自信なくしそうです。(たぶん聞き取れなくて、、。)そしてやっぱり古英語も堪能なんですね。 私も文章力さえあれば文系に行きたかったな~。(その分このカテで遊んでいます。) >>ヴェネッツィアのデンマーク人の経営している「Gardena」という民宿でベオウルフの初めの「Hwaet we Gar-Dena geardagum」を思い出し、洒落?と聞いたらぽかんとしてたので相手に通じる言葉にしました。 SPSさんほど博識な方はそうそういませんので、、、。(私も古英語はチンプンカンプンです。)(古事記くらいの感覚で英語圏の人達なら誰でも知ってそうな気もしますがそうでもないですね。) >>ただそれだけです。 要するに、英語に自信が無くなったではなくて、言語と言うものの広さと深さを知ったという事ですね。私も自分の専門は得意ですが、結局全部を知っているわけではないと分かっているので、あんまり過大な期待をされた時に、、「そんなに期待されてもなんでもかんでも分かるわけじゃないんだよ。」と思います。 >>家紋は丸に梅鉢、 あんまり家紋に詳しくないのですが、きれいな家紋ですね。英語圏の人に「日本人の家庭には一つ一つ家紋があるんだぞ!」というとビックリされますよね。 今回もありがとうございました。 また、よろしくお願い致します。
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10004/12513)
奇しくも、lived_in_room13さんが私の投稿質問《英語の「多義文」(7)》に対する回答で、William Blakeの“THE FLY”を引用してくださったことがありましたね。 Little Fly, Thy summer's play My thoughtless hand Has brushed away. Am not I A fly like thee? Or art not thou A man like me? For I dance And drink, and sing, Till some blind hand Shall brush my wing. If thought is life And strength and breath And the want Of thought is death; Then am I A happy fly, If I live, Or if I die. 偶然、ごく最近「有明集」(明治41年刊)をパラパラ見ていましたら、ありました! つまり、かの蒲原有明は、こう訳していました。 「蝿」 さ蝿よ、あはれ、 わが心なき手もて、今、 汝(いまし)が夏の戯れを うるさきものに打払ふ。 あらぬか、われや 汝に似たるさ蝿の身、 あらぬか、汝、さらばまた われにも似たる人のさま、 われも舞ひ、飲み、 かつは歌へども、終(つひ)の日や、 差別(けじめ)をおかぬ闇の手の うち払ふらむ、わが翼。 思ひわかつぞ げに命なる、力なる、 思ひなきこそ文目(あやめ)なき 死にはあるなれ、かくもあらば、 さらばわが身は 世にも幸あるさ蝿かな、 生くといひ、将(は)た死ぬといふ、 そのいずれともあらばあれ。 ブレエク さて、お尋ねの件です。 >質問(1):このような感じで大胆に英詩を日本語に訳した方はいらっしゃいますか? ⇒憧れではありますが、私にはようできません。 >質問(2):このような大胆な翻訳についてどのように思われますか? ⇒素晴らしい、楽しい、と思います。もし、このようなこのような大胆な翻訳にめぐりあった場合(これまで私は、20か国ぐらい訪問したことがありますが)、21か国目の、夢の旅路出立したいと思います! >質問(3):これぞ名訳と思われる英詩の日本語訳がありましたら、ご紹介ください。 ⇒寡聞にして1つも存じませんので、必ずしも本件の趣旨に合わないかも知れませんが、上記の蒲原有明訳をご紹介(したことと)させていただきます。 私的結論:詩の翻訳は、気分を訳したものが好きです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >>偶然、ごく最近「有明集」(明治41年刊)をパラパラ見ていましたら、ありました! つまり、かの蒲原有明は、こう訳していました。 文体がナカイさんとそっくりですね。 実は、私はナカイさんや、SPSさんのようなお訳の英詩の翻訳書がないかなと思っておりましたが「無理だろうな」と諦めておりましたが、蒲原有明の文体がナカイさんにそっくりで、コチラの願いは叶ったような気が致しました。(SPSさん風の翻訳をされる書籍も発見できるといいのですが、、、。) 実は情けない事に蒲原有明を全く知らなかったのですが、パラパラと覗いていてみまして、すっかり大好きになりました。 特に、 >>思ひなきこそ文目(あやめ)なき 死にはあるなれ、かくもあらば、 さらばわが身は 世にも幸あるさ蝿かな、 生くといひ、将(は)た死ぬといふ、 そのいずれともあらばあれ。 例の難しい箇所をこうも見事に翻訳できるものなのだと思いました。この書き方でしたら、私も「分かったような、分からないような。」とはならなかったのですが、絶妙に分かりにくいブレイクの詩を、本当にこうも見事に訳すとは天才ですね! >>⇒素晴らしい、楽しい、と思います。もし、このようなこのような大胆な翻訳にめぐりあった場合(これまで私は、20か国ぐらい訪問したことがありますが)、21か国目の、夢の旅路出立したいと思います! ですよね! 現代日本の正確さ偏重主義とはあまりにも違いすぎて、こんな素晴らしいものがあったのかと思いました。 本当に誰かやってくれないかなと思います。(ところで20ヵ国も、訪問されたんですね!すごいですね。) >>上記の蒲原有明訳をご紹介(したことと)させていただきます。 素晴らしい本をご紹介いただき、ありがとうございます。 >>私的結論:詩の翻訳は、気分を訳したものが好きです。 私もです。 道真に教わる事ができるのなら教わりたいものです。 今回もありがとうございました。 また、よろしくお願い致します。
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
質問(1):このような感じで大胆に英詩を日本語に訳した方はいらっしゃいますか? 知りません。でも「ない」のではなく、僕が怠けてるだけでしょうけど。 質問(2):このような大胆な翻訳についてどのように思われますか? あっリャマあって、感じです。 質問(3):これぞ名訳と思われる英詩の日本語訳がありましたら、ご紹介ください。(私個人としては、上田敏の「海潮音」が一番だと思っていますが、あんまり大胆な訳という印象はありません。) まだその会長お腹、もとい、海潮音を読んでいない有り様で、申し訳ありません。いつも質問者さんの鋭いご難問には悩まされ泣いています。 またゆっくり懺悔話をして英文科でなのに自信がなくなったのかのご説明を致す所存なのですが、今はその余裕もない有り様です。すみません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >>知りません。でも「ない」のではなく、僕が怠けてるだけでしょうけど。 私もそうなんですが、やっぱり原書の方を読みがちですよね。 >>あっリャマあって、感じです。 ビックリしますよね。 日本では中学の頃から和訳は正確には気を付けてるように教えられていますしね。道真の訳は、まさに青天の霹靂でした。 しかし、以前に、干しパンを「干し飯」、ナスターシャムを「漬物」にたとえたお訳をいただいた時も、正確な訳よりも絶対にこっちの訳の方が心に響くし、情景がありありと思い浮かびますし、これこそ本当の翻訳じゃなかろうか!?とあの時も思っておりました。 今回、菅原道真の例を見まして「やっぱり、こっちの方が好きだな。」と再度思いました。 >>まだその会長お腹、もとい、海潮音を読んでいない有り様 SPSさんのセンスにはかないません。「会長お腹」は思い付きませんでした! >>またゆっくり懺悔話をして英文科でなのに自信がなくなったのかのご説明を致す所存なのですが、 SPSさんほど流暢なのに、なんで自信がなくなったのかサッパリ想像がつきません。 (でも個人的には、興味はあります。)(想像できるとしたら、なにやらとんでもなく難解な古英語の古文書に取り組んで、とっても解読に苦労したとかですかね~? そういうのでしたら、SPSさんでも苦労するかもですが、現代英語では、問題ないでしょうし。) また、お時間のある時にお付き合いくださいませ。 よろしくお願い致します。
- M_Sato
- ベストアンサー率54% (550/1003)
No.1です。 質問(3)について、書き洩らした詩がありました。 岩波文庫『立原道造・堀辰雄翻訳集―林檎みのる頃・窓―』には、昭和の詩人・立原道造の翻訳詩「愛する」(リルケ)や同じく昭和の小説家・堀辰雄の翻訳詩「窓」(リルケ)などが載っています。 美しい翻訳詩です。ご参考までに。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >>岩波文庫『立原道造・堀辰雄翻訳集―林檎みのる頃・窓―』 自分では、かなり多読をする方だと思っていましたし、かなり知っているつもりでしたが、ご紹介された本はすべて「こんな素晴らしい物を知らなかったとは!」と悔やまれる作品ばかりですが、本当に全くご紹介いただくまで知りませんでした。 本当にお詳しいですね! また、よろしくお願い致します。
- HAL2(@HALTWO)
- ベストアンサー率53% (2340/4388)
詩って『良い意味での』言葉遊びだと思っています。 『選ばれた、その言葉 (単語)』に感動するのですから……。 選ばれた単語から広がる世界観に共感するものなので、単語そのものが持つ世界観が異なる外国語や古語は直訳しても共感できるものではないでしょう。 日本の古典文学も既に単語の意味が現代語とは異なりますので大変ですよね。 昔の大学受験共通一次試験って国語は現代文と近代文、古文、漢文が等分に出題されていたことがあって、現代文は自信満々の満点でも近代文はちょっと苦労し (作者の意図よりも出題者の意図を読み取らないと点にならなかったりする(笑))、古文は半分越すのが精一杯、漢文は鉛筆転がした方が点数取れそうな宇宙人語でした(笑)。 その時代、その地域 (言語) で生きている人でなければ単語の意味を理解できず、意味が判ってもその世界観に共感できる人でなければ感動できるものではないのが『詩』でしょう。 御紹介の「綴りさせ」なんて正にその典型ですよね。 現代語では「リリリとかリンリン、鈴々」ですが、その音色を「綻びを繕う」に掛けて、そうした世界観を味わうなんて解説なしでは不可能です。 「綻び濡らし」を「華開く」に持って行く感覚もそういった感性を持っている人でなければ難しいでしょうね。 更に日本の詩は「5 7 5…7 7 音」という定型、漢詩は「4 4…4 4 字」、英詩は韻を踏む Couplet や Alliteration といった定型法があり、その美しさを読み取る感性も必要になります。 そうした定型の美しさや単語の背景に広がる世界観を理解できない限り、詩に感動するのは難しいのですから、理解できない単語の意味に捕らわれず、その世界観を他国の言語で紹介するのが他国の一般人に解り易い翻訳なんだろうなと思いますよ。 更には「詩」である事を鑑みて、その国の「詩の定型」に上手に当て嵌める事ができれば「粋な翻訳」になるでしょうね。 古い詩に限らず、現代、最新の流行歌 (Pops) でも単語の背景に広がる世界観の違い、語順や定型が生み出す感覚を汲み取るのは大変ですよね。 質問(2)にしか答えられませんが、私はそう思っています。 素敵な語学 Life を(^_^)/
お礼
ご回答ありがとうございます。 私も、昔はそのように思ってよく英語圏の文化を勉強したものだと思い出しました。 そこで、だから外国語は分からないではなくて、もうちょっと勉強したら英語も楽しくなりますよ。
詩のみならず、文学作品の翻訳を読んだり自ら翻訳することに喜びを見出せる人が羨ましいです。僕は、ついにそういうことには興味が湧きませんでした。子供の時から、翻訳されたものには違和感しか感じることがないので、どうしても読みたくてたまらない作品が外国語で書いてあったら、必死でその外国語を(そしてまずは英語を)勉強して、一刻も早くその原文で読もうとしました。英語以外の言語のものなら、ヨーロッパのものなら英訳で読もうとしました。 ヨーロッパの諸言語は英語にいくらか近いので、日本語で読むよりは英語で読んだ方が原文の味わいに近いものが得られるだろうと期待してきました。中国語・韓国語などのアジア諸言語で書いてあるものなら、日本語に訳されたものでも、西洋諸言語に訳されたものよりはまだ本物の味わいがあるかもしれないとも思いました。 たとえば Shakespeare の作品があまりに有名なので、よほど素晴らしいに違いないのでいつか読まねばならないといつも思っておりましたが、高校2年のときに Hamlet の日本語版を読みましたが、まったく面白く思いませんでした。あらすじさえ追い続けることができないくらいでした。他の作品も読もうとしましたが、Shakespeare のどの作品をかじっても、日本語版では何も僕は感じることができませんでした。西洋のいろんな詩も同様でした。日本語訳では何も感じられなかったのです。 英語が原文なら、いつかきっと英文で読んでやる、そう決心して、死に物狂いで勉強しました。しかしいくら勉強しても、そのレベルに達しません。56 歳くらいになってから、やっと僕は Shakespeare の戯曲や様々の詩人が英語で書いた詩を、よちよち歩きで読むようになりました。Shakespeare の戯曲は1本あたり原文ではほんの 100 ページほどですが、それを読むのには膨大な注釈を読まないとわからず、400年前の英文を読むためには現代の辞書では無理で、古い英語を網羅した特別な辞書を使い続けながら、1本の戯曲を何とか最後まで読み通すまで2か月もかかるという有様でした。 しかしそのように時間をかけて読んでいて、やっと僕は英文でなら Shakespeare の戯曲や様々の詩人による詩を曲がりなりにも楽しめるようになりました。 しかしいまだに、日本語訳を読んでも何も感じないし、読もうという気にもなれません。詩のみならず、それ以外のどんな文学作品であれ、それどころか歴史書や政治や経済関係などの文章であれ、僕は少なくとも西洋の諸言語で書かれたものを日本語に訳したものは、できる限り読まないようにしています。 しかし僕は、日本語を軽視しているわけでもないし、嫌いなわけでもありません。それどころか、少なくとも僕は30歳のころまでは明治から昭和の初期までの日本文学に沈潜していました。日本語の本来の美しさを愛すればこそ、僕は西洋文化に毒されて穢れたり歪曲してしまった現代日本語を忌み嫌うのです。だから西洋諸言語からの日本語訳を避けるのです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >>子供の時から、翻訳されたものには違和感しか感じることがないので、 私も、翻訳調の文章は好きになれずにいます。そこで、「翻訳調ではない、翻訳とはどんなものだろうか?」という事を考えるのが好きで、そのため翻訳文を考えるのも好きです。翻訳調ではない名訳の翻訳物を読むのも好きです。 >>ヨーロッパの諸言語は英語にいくらか近いので、日本語で読むよりは英語で読んだ方が原文の味わいに近いものが得られるだろうと期待してきました。 私もそれに近い気持ちですが、英訳者さん達が同じ書籍を訳したものの英訳版を複数見比べますと、同じ欧州語からの翻訳といっても「結構違うもんだな~!」とも思えますよね。 >>他の作品も読もうとしましたが、Shakespeare のどの作品をかじっても、日本語版では何も僕は感じることができませんでした。 私もシュークスピアは、原文を読む方が好きですが、場面場面では、名訳と思える箇所もありますよね? 「世の中の関節は外れてしまった。ああ、なんと呪われた因果か、それを直すために生れついたとは!」(岩波文庫、野島秀勝訳)(“The time is out of joint: O cursed spite That ever I was born to set it right”)の箇所に至っては、原文よりも翻訳された日本語のほうが好きだったりもします。 >>それを読むのには膨大な注釈を読まないとわからず、400年前の英文を読むためには現代の辞書では無理で、古い英語を網羅した特別な辞書を使い続けながら、1本の戯曲を何とか最後まで読み通すまで2か月もかかるという有様でした。 随分努力されたんですね。作品によっては、むずかしいのもありますね。もう必要なんでしょうけど、私はサムエル・ジャクソン博士のA grammar of the English Tongueという200年以上前に書かれた英文法書を読んでから、大分古典が読みやすくなりました。 >>詩のみならず、それ以外のどんな文学作品であれ、それどころか歴史書や政治や経済関係などの文章であれ、僕は少なくとも西洋の諸言語で書かれたものを日本語に訳したものは、できる限り読まないようにしています。 私も、どちらかというと英語で多読をする方です。 多読をされて発見した、なにか面白い話題がありましたらまた教えてください。 では、またよろしくお願い致します
- M_Sato
- ベストアンサー率54% (550/1003)
質問(1):このような感じで大胆に英詩を日本語に訳した方はいらっしゃいますか? あいにく、英詩と訳詩を比較したことがないのでわかりません。 ただし、漢詩を自由な発想ですばらしい和訳にしている例はあります。小津夜景さんの『漢詩の手帳 いつかたこぶねになる日』(素粒社)を読んでみてください。菅原道真の漢詩「重陽日府衙小飲」とその訳詩も載っています(pp.150-151)。 質問(2):このような大胆な翻訳についてどのように思われますか? 基本的には、原詩のイメージを尊重して、それを日本語に移す努力をすべきですが、正確な訳にしようとするあまり、詩としてぎこちない作品にしてしまうことは避けなければならないと思います。やはり作者が描こうとしていたイメージを尊重しつつ、日本語の詩としてのリズムを構築することが大切です。 特に欧米の詩は脚韻を重んじていますが、訳詩でなんとか脚韻を踏もうとして、詩として台無しにしてしまう例はよく見かけます。やはり欧米語と日本語の言語としての本質的な違いを認識した上で、訳詩をすべきでしょう。脚韻については大野晋『日本語の教室』(岩波新書)の「(質問7)日本語の詩に脚韻がないのは何故ですか」(pp.69-93)が参考になります。 質問(3):これぞ名訳と思われる英詩の日本語訳がありましたら、ご紹介ください。(私個人としては、上田敏の「海潮音」が一番だと思っていますが、あんまり大胆な訳という印象はありません。) 上田敏訳は『牧羊神』もいいですね。あと永井荷風訳『珊瑚集』や、堀口大學訳『月下の一群』もおさえておきたいです。『月下の一群』に収載の以下の作品はあまりにも有名です。 耳 ジャン・コクトー 私の耳は貝のから 海の響きをなつかしむ
お礼
ご回答ありがとうございます。 >>あいにく、英詩と訳詩を比較したことがないのでわかりません。 原語で読めてしまうと、私もそうなんですが、あまり翻訳版を読みませんよね。 >>ただし、漢詩を自由な発想ですばらしい和訳にしている例はあります。小津夜景さんの『漢詩の手帳 いつかたこぶねになる日』(素粒社)を読んでみてください。 これは、素晴らしい書籍のご紹介をありがとうございます。 >>菅原道真の漢詩「重陽日府衙小飲」とその訳詩も載っています(pp.150-151)。 道真の詩は大好きなので、楽しみです。 >>正確な訳にしようとするあまり、詩としてぎこちない作品にしてしまうことは避けなければならないと思います。 不思議と英語から日本語となると、漢詩とは違い「正確さ」を意識しすぎたものが多いですよね。 >>やはり作者が描こうとしていたイメージを尊重しつつ、日本語の詩としてのリズムを構築することが大切です。 難しいですね。 結局、日本語の詩としてのリズムとはどうあるべきなんでしょうね? >>特に欧米の詩は脚韻を重んじていますが、訳詩でなんとか脚韻を踏もうとして、詩として台無しにしてしまう例はよく見かけます。 そうでしたか、私なんぞは逆に日本語でも脚韻を入れて、その上で名文に訳してくれないかな~?と贅沢な願いを抱いています。 >>脚韻については大野晋『日本語の教室』(岩波新書)の「(質問7)日本語の詩に脚韻がないのは何故ですか」(pp.69-93)が参考になります。 これは、興味深い! 是非とも読んでみたいです。 >>上田敏訳は『牧羊神』もいいですね。あと永井荷風訳『珊瑚集』や、堀口大學訳『月下の一群』もおさえておきたいです。 上田敏は、もう読む前から名作だと想像できます。(本当に天才ですよね。)永井荷風訳『珊瑚集』もちらっとのぞきましたが、すごいですね~!堀口大學訳『月下の一群』は、ネット上で紹介されているものを読みましたが、あまりの名文にビックリしました。(こんな名文を今まで知らなかったことが情けない。) 本当に、素晴らしいものをいくつもご紹介いただきありがとうございます。 また、よろしくお願い致します。
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お礼
ご回答ありがとうございます。 >>⇒なるほど、言われてみれば私の訳語・訳風は蒲原有明の文体に似ているかも知れませんね。 私は、まだ文体を似せる事すらできないレベルですから、羨ましいです。 >>以前採り上げておられたブレイクのTHE SICK ROSEなども私にとっては興味深い詩でした。心なしか、これにも象徴派、耽美派、高踏派に近いような香りを感じました。 私の個人的な好みの問題かとも思うのですが、象徴派、耽美派、高踏派、実に最高ですね!特に、象徴を用いての表現は、何故か好きです。 >>⇒こういう方々の詩に引かれるのは、心理的には、ある意味「正確さ偏重」とは間逆の抒情性であり、ゆらぎであり、遊びであり、修辞法的には、例えば、擬人法などではないかと思います。 まさにそうですね!正確な意味も大事だとは思うのですが、「当時の人はきっとこんな感じで味わったのだろう。」と余韻が心に残る程の訳というのもあってもいいものですのにね。 3つの引用された箇所のまさに、名文の中の名文ですね。本当に余韻が心に残ります。 今回もありがとうございました。 また、よろしくお願い致します。