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遣唐使の答礼使
遣唐使の本を読んでいると、第1回の遣唐使の返礼で唐から高表仁が渡来してきた、とあります。そして、上田正昭氏曰く、日本側が冊封の要求を断ったため、唐の命令を伝えずに帰国したそうですが、そもそも、日本側が命懸けで船で渡っているのに、高表仁達はどのようにして日本に渡来したと考えられるでしょうか? それと、ケンカ別れしているのに、何故、第2回の遣唐使を派遣し、また、唐はそれを受け入れたのでしょうか?
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可能性としては遣唐使と同じ船でのルート もしくは朝鮮半島からのルートのどちらかでしょう。 朝鮮半島からのルートの場合は船で直で行くより安全ですが時間がかかるという所がありました。。 第2回の遣唐使を派遣し、また、唐はそれを受け入れたのでしょうか? と言うのは根本的に高表仁と言う人は前の隋からの人でしたので仕事など出来て高い要職を貰っていたみたいですがあまり煬帝からあまり期待はされていなかったみたいです。 煬帝としては高句麗、要は朝鮮半島事情があったので日本が高句麗につかずに唐に付いたらよかったのではと思います。
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- jkpawapuro
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回答No.2
多分日本ほど命がけではありません。 遣唐使が命がけだった理由、季節が最悪なのです。 遣唐使は正月の朝賀に列席するため夏に出港します。 これがたびたび台風に襲われます。 一方唐の出す返礼は朝賀が終わってからなので一月か二月でしょう。天気も良いし風も良いです。 ・・・でもいつ帰るんだろ?
質問者
お礼
なるほど。季節が関係してましたか。確かにそうでしょうね。ありがとうございました。参考になりました。
お礼
なるほど。そういう事情があったんですね。それと、中国に居る朝鮮人が、その頃、ずいぶん活躍していたみたいなので、その助けもあったかもしれませんね。ありがとうございました。参考になりました。