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白村江後の遣唐使
663の白村江の戦いの敗戦後、僅か2年後の665に第5回遣唐使が派遣されていますが、大唐帝国としては生意気のも楯突いた小国の使節を、なぜ受け入れているのでしょう。唐を取り巻く諸々の対立関係等で説明されることがあるようですが、今ひとつ釈然としません。どなたかよろしくお願い致します。
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百済の滅亡により多くの百済人が日本にやってきて重職につきます。 彼らの目的は新羅を倒して朝鮮に帰国したいと言う希望があります。 それでは朝鮮半島の情勢はと言えば、668年高句麗が滅び新羅が半島を統一すると、共通の敵がいなくなった唐と新羅は別の目論見を持ちます。 新羅は中国の影響力を脱して完全に独立したいと思い、唐は新羅を完全に属国にしたいと考える。 こうした情勢を読んだ天智天皇と取り巻きの百済難民は唐と誼を通じて新羅に圧力をかけつずけ、あわよくば再度海を渡って新羅を滅ぼそうと考えます。 勿論唐も日本に対して新羅挟撃を提案します。 その為、今までの唐に対する対立外交を改めると共に対新羅の相談のため遣唐使を送りつづけます。 それでは天智天皇の思惑通り、北から唐の軍勢が南下し、海を渡った日本・百済連合軍が北上したらどうなるか?? 20世紀の朝鮮戦争を見るまでも無く、新羅が滅亡すれば中国と日本は直接対峙する事になり、当時の国力から考えれば唐の大群がそのまま南下して日本に押し寄せた可能性があります。 その為次代の天武天皇は外交方針を変え、新羅と仲良くすることで唐との緩衝帯を作ろうとして、遣唐使の派遣を中止します。
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- cse_ri2
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『遠交近攻』という言葉を聞いたことはありませんか? 遠くの国と同盟を結んでから、近隣の国を侵略するという 中国古来からの外交戦略を現した言葉です。 新羅は、もともと高句麗・百済と比べると、国力が劣った 国でした。 しかし、その劣勢を跳ね返すため、唐と同盟を結んで、 他の国を攻め滅ぼします。 やがて白村江の戦いで百済の残党が滅亡し、新羅の韓半島 支配はゆるぎないものとなりました。 ここで、韓半島に領土的未練を残す唐と新羅は、たもとを 分かつことになります。 さて『遠交近攻』戦略を着実に実行してきた唐は、ここで 海の向こう側の日本に目を向けました。 新羅を攻めようとしたら、日本と新羅を同盟させないこと が、何よりも肝要です。 そこで日本の使節を受け入れて、白村江の戦いのことは忘れて 日本と国交を結ぶ意思があることを示しました。
お礼
お礼が遅くなり失礼致しました。なるほど隋唐通じて高句麗攻略にも苦労しているのを思うと、納得がいきます。ご回答ありがとうございました。
お礼
お礼が遅くなって失礼致しました。詳細で整然としたご回答ありがとうございます。