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遣唐使船について
遣唐使船で中国に渡った慈覚大師、円仁の本を読んでいると、張 宝高という朝鮮人の名前が出てきます。当時、日本と中国を往来する船は遣唐使船しか無かったと思い込んでいましたが、この張 宝高の勢力が日本と中国を往来していたような記述があります。おまけに、日本に数年住んでいたという朝鮮人に円仁が中国で出会ったという記述にも驚きました。当時の中国と日本の往来は、そんなにあったのでしょうか?
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>張 宝高という朝鮮人の名前が出てきます。 当時も、既に多くの朝鮮出身の渡来人が多く住んでいましたからね。 有名な朝鮮(百済)人では、中臣鎌足。 神社の基礎を築いた、加茂一族(下鴨神社・上賀茂神社神官)。 ※「鴨が葱を背負って」という言葉がありますよね。古くは、「加茂一族の元に禰宜が集まる」の意味です。 ※天皇家は、明治維新までは下鴨神社・上賀茂神社神官に参拝していました。 ※明治までは、天皇は一度も伊勢神宮を参拝した事はありません。 秦一族(京都太秦近辺を本拠にした)も、渡来人として有名ですね。 >当時の中国と日本の往来は、そんなにあったのでしょうか? 案外、交流があったのです。 海路は危険なので、歴代中国の支配下にあった朝鮮を経由する陸路利用も多かったのです。 ※この陸路経由を理由として、韓国では「日本文化は、すべて韓国が起源」と教育しています。(爆笑1) ※稲作・印刷・火薬・羅針盤。最近では、漢字も韓国起源説を唱えていますよ。(爆笑2) 余談ですが・・・。 中国大陸を経由して、海路で山陰にたどり着いたのがスサノウを王とする出雲一族です。 スサノウ一族からは、物部一族が誕生しています。 以上、文科省非公認の逸話でした。^^;
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- SPS700
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当時の中国と日本の往来は、そんなにあったのでしょうか? はい。3世紀に陳寿が書いたとされる『魏志東夷伝』には、今の朝鮮北方にあった・帯方郡からの行程を「従郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓国 七千餘里」とあって、朝鮮半島の西海岸沿いに水路をあるいは南にあるいは東に進むと倭に着く、とあります。 また同じ記録の中に倭の王に与えたと書いてある金印が、博多沖の志賀島から発見されています。これは、倭が貢物を持って行った返礼ですから、それまでに朝鮮経由の往来は結構あったようです。 遣唐使のルートは三つあって、 630年に始まってから約40年間は京都を出、大阪から瀬戸内海を博多まで行き、壱岐、対馬、あとは朝鮮半島の西海岸を北上し、黄海を渡って、山東半島、あと陸路で洛陽を経て長安という「北路」 これが663年に白村江(今の錦江)で話運が負け、それ以来、北はやばい、と南島路になります。平戸、九州南端、種子島、屋久島、奄美島、それから杭州沿岸という吹きそうね時代があります。 そして、8世紀の後半、から、遣唐使が終わる890年代まで、博多、五島、あとは長江河口付近まで運を天に任せる「南路」になります。 http://kousin242.sakura.ne.jp/wordpress018/?page_id=2976 ですから日本と中国の往来は少なくとも3世紀以来あったと思われます。
日中間の航海自体は古代からありました。 https://www.jsanet.or.jp/data/items/r_01.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF 「私貿易は許可が必要で市場出入りも制限されていた」と書いてあるので許可された私貿易も密貿易もあったと思いますよ。 https://yukos.securesite.jp/dazaifu/d07boeki.htm 「894年菅公の建議で遣唐使は廃止されたが、その理由は唐商人が博多にぞくぞくと渡来するので、莫大な経費をかけ、多くの犠牲を払って派遣しなくても貿易ができるようになったからである。」 博多に住んでハーフの子供を残し帰国した中国人商人もあると書いてあります。
お礼
894年に、もう、そのような状態だったんですか。意外と、盛んだったんですね。なるほど。大変、参考になりました。ありがとうございました。
お礼
いやはや、意外な歴史に少々驚きました(鴨が…も(笑))。ありがとうございました。大変、参考になりました。