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朝鮮渡来人の日本への歴史への書かれ方の疑問
ネットの情報をみていると、弥生時代の渡来人は朝鮮半島から先端の技術をもってやってきた、地元の縄文文化をことごとく塗り替えたみたいに書いてあるものを、ときどきみかけます。 またむかし教科書で習った大まかなイメージも「縄文は原始、弥生は文化的で技術の時代」みたいなものがありました。 なにか一方的に朝鮮半島から日本への渡来があったように書かれているようにも読めます。 しかし昨今の書籍をあたると、たとえば90年代に発見された三内丸山の遺跡などから縄文時代といえども、高度な高倉の建築技術があったこと。 日本のジャポニカ米のルーツは、DNA的にも渡来の可能性からみても、朝鮮ではなく中国の長江の領域や上海近辺であったこと。 小麦は西南アジアで栽培が始まり、中国経由で日本に伝わり、また日本の小麦とウィグル地域(中国の西)に残る小麦も、DNA的に同じであることなどがわかっています。寿司のルーツである魚の発酵保存技術も、タイなど東南アジアを起源に広まり、中国と日本のマス寿司などは技術が同系だが、おなじものが朝鮮半島にはないことがわかっています(別の発酵技術)。 漢書だったとおもいますが鮮卑伝に倭人が来ていたこと、魚をとるのがうまいので倭人捕まえ移住させ、魚を取らせていたことなどがあったと思います。鮮卑は沿岸部のツングース系もいたとはおもいますが、概ね内陸部のモンゴル系・テュルクと考えると、意外と中国内部まで倭人はつれていかれていて、漁業は黄河でなければ渤海で魚をとっていたのではないでしょうか。 卑弥呼の時代にも渡来人はいたとおもいますが、逆に日本も中国に対して生口を何度も送っています。 また百済が敗れて日本に渡った人の数も、数千から1万程度というのでしたらわかりますが、中には10~100万人程度の朝鮮人がわたった、みたいにと書いているものもあります。 しかし、百済(と日本の協力兵)は唐・新羅に滅ぼされたので、日本人が戻る船があったとしても(逃げ道を残してあったとして)、百済の人間自身が何万も海を渡るには、どう船を建設し、調達したのだろうと思います。 仏教に関しても、最初の仏教関係品の伝来ばかり強調されていますが、実際には日本は京(みやこ)を作るにも中国の都城をモデルにしたり、後の遣隋使・遣唐使も直接中国に送っています。 どうも朝鮮半島からの渡来、文化の起源説などが強調されすぎているようにも見えますが、後の朝鮮半島全域に出没した倭寇も含めて考えると、朝鮮半島や中国の東海岸は、実際には日中朝の人間が混在の場所であり、また日本は文化に関しては(本物志向のせいか)中国に文化の起源を求めていた、と考えるのがよさそうにみえます。 実際はどうでしょうか。 ネット上の情報は、どうも弥生=朝鮮=文化伝播者、百済=日本への影響大、を強調しすぎているように見えます(これは英語サイトの韓国人の記述もそうのようです)。
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いろいろ言われていますが、朝鮮半島由来(発祥)の文化はごくわずかでしょう。 米などは言うまでもなく長江以南が原産であって、陸路で入って来るには朝鮮北部では米が育たないことからも、理屈に合いません。南方から、台湾・沖縄を経由して日本と朝鮮に同時期に入ってきたと見るのが普通でしょう。 また、儒教や仏教なども朝鮮半島由来ではなく朝鮮半島は単なる通り道でしかありません。仏教美術に関しては多少の違いがあるものの、基本的には中国のそれのバリエーションとして捉える方が良さそうです(ガンダーラ美術のような大きな発展はない)。 ある程度独自的な発展をしたのは陶磁器でしょうが、これは戦国時代末期の話なので随分後の話です(勿論この陶磁器の技術も中国にルーツがありますし、確かに見事なものはありますが技術的に大きな発展をしたわけでもありません)。 また、朝鮮半島からの技術流入は非常に早い時期に終わりを告げて、中国からのそれに代わります。例えば、600年頃には既に中国・六朝文化の影響が強い南北朝様式の建物が建てられています。 更に中国が内乱時代に入った後は文化流入そのものもほとんど行われなくなっていきました。具体的には、遣唐使が停止されたのが9世紀末、小規模な文化交流を除けば、この後15・16世紀に一時的に交流があるものの非常に限定的なものでした。 私見ですが、弥生時代の日本人は、朝鮮半島というよりはむしろ南方からの移民でしょう。 米を携えていたこともそうですが、例えば弓一つとっても和弓は大陸のそれとは違ます。和弓は上下の長さが違う(下が短い)のですが、これは南洋の海洋民族の弓に近いものです。 南方からの、というとかなり時代的に難しいように思われるかも知れませんが、台風の時期さえ避ければ、フィリピンからの海流を上手く捕まえれば日本に来ることは非常に容易ですし、季節風を利用すれば帰ることも難しくありません。
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記載しても、逆の意見を述べたり、話を摩り替えるだけではないですか。 申し訳ありませが、今日も遊んでいません。 ちゃんと研究していない方には回答は差し上げられません。
補足
#1では、三内丸山遺跡のオリジナルの話をあなたはされています。ですので、オリジナルの話は三内の話です。 そして#3では、いきなり >温帯ジャポニカ(6C7A) >がBC2000年であっても苦しい所です。 とだけ出しており、その苦しいの意味も、前後関係も説明していません。 私もちゃんと研究されていない方とは話すつもりはないので、けっこうです。 南大門燃えてすっきりしましたね。
>大陸からの伝播であったという考え方はどうなのでしょう。 温帯ジャポニカ(6C7A) がBC2000年であっても苦しい所です。
補足
意味不明です。 オリジナルの話は三内の話についてだされていたので、大陸からの伝播と書いたのは、稲のことではありません。三内の技術のことです。 また書いていただけるなら「苦しい」ではわからないので、稲の品種についても、具体的に何がどのように苦しいのかを書いてください。 私は日本人オリジナル(民族、文化)説をこの質問で問うているのではありません。弥生=朝鮮 という図式がネットでは誇張されすぎていて、逆に個別の書籍等ではもっと大陸と直接交流や移動があったと見られるものも多いため、実際の最近の歴史の見方や記述はどうなのか、という質問です。
- karashina1
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半島伝来説が世間で有力である背景は、民族優位性を主張する韓国人の声が大きいから、というのが一番だと思います。極端に言えば、不明瞭なので、一番うるさいのに従っておけば無難ということです。 学術的より社会的な意味が大きいのでしょう。 なお現在、中国と韓国で「高句麗論争」というのを派手にやっているので、興味があれば調べてみてください。 「こま」は「しらぎ」とは別の人種だったと考えるのが素直だと思うのですが、韓国人は納得してないようです。
お礼
なにか韓国人だけではなく、日本の日教組なんかも関係あるのでしょうか。私の子供のころの歴史は、半島からの一方通行的な描写ばかりあg印象にのこっています。 個別に書籍をあたると、もっと入り組んでいるのが東アジアにみえます。 アイヌの新羅と同じDNAだという人もいますね。 あと北海道は、本来朝鮮半島王朝の領土だった、なども。
質問は何ですか?
補足
>実際はどうでしょうか。 です。実際とは歴史の最近の記述のされ方です。
まあ、対馬の歴史を見ると、かなり難しいです。 http://kacchell-tsushima.net/history/chronicle/chronicle.htm 三内丸山遺跡もオリジナルとは到底断定出来ません。 日本が朝鮮を無視し始めたのは、朝鮮に領地があった時。 また、日本が中国に国王と認められた時。 属国とは格式的に対等な国家ではなくなったとは思います。 私的には朝鮮文化も 唐辛子(イスパニア文化)だと捉えていますが。(笑
お礼
そのリンクでも、弥生=朝鮮半島人にはみえません。縄文時代も文化があったことがわかります。 弥生時代にはいると、そこにも >中国製の青銅鏡が出土。国際色が豊かで、さかんに交易が行われていた様子がうかがわれる。 >魏志倭人伝(陳寿 233~297)に対馬国に関する記述が登場。 などがあります。 どうもネットの、弥生土器=朝鮮土器、弥生=朝鮮=文化伝播者、百済=日本への影響大、が偏った表現にみえます。
補足
オリジナルかどうかが質問ではありません。 大陸からの伝播であったという考え方はどうなのでしょう。 人のDNAも、半島だけではなく大陸や南方の島とかぶっていますので、ネットの記述は、かたよっている、あるいは昔ながらにみえますので、現在はどのように解釈されているのでしょうか。
お礼
巷の書籍をひろってみると、やはり中国との交流がけっこうあったことを述べている書籍は多いことに気がつきます。 なかなか、教科書のような全体像を簡単に描写した書籍はないのですが、この10年くらいでだいぶ見方もかわってきたのかもしれません。 朝鮮半島で大量にみつかるヒスイの勾玉も、ヒスイの産地が日本は糸魚川にあり、あと中国やもっと西であることも、日本からもけっこう朝鮮半島に渡ったりしていた可能性も考えられます。 私も弥生人はけっこう南方の人が入っていると考えています。 弥生時代の下駄と雲南省の水田の下駄がそっくりですし、雲南省には鳥居やこんにゃくがいまだにあるところは、驚きです。人のDNAも南方からの移動がさきにあったことを述べている研究者がけっこうあります。