• ベストアンサー

法華経-平等

方便品で万人が成仏できると説き、如来寿量品で始成正覚を否定しています。 ある法華経研究家が法華経の理念から平等の精神が導き出されると述べていました。 ここで言う平等とは、アメリカ式の機会の平等なのか、社会主義的な結果の平等なのか、もしくは別の平等なのか? このあたりご知見があったり、見解をお持ちの方おりませんか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • apple1963
  • ベストアンサー率41% (10/24)
回答No.1

>アメリカ式の機会の平等 >社会主義的な結果の平等 と言われますが、「平等」という言葉はもともと佛教の用語です。しかし上記二つは、現代的視点にたった「平等」ですね。佛教用語としての「平等」は、やはり佛教の中で考える必要があります。その上での敷衍されるのは構いませんが、佛教用語を直ちに現在に引き寄せて考えると、大きな誤解を生みます。 <ある法華経研究家>が言われたそうですが、言葉は文脈の中で考えるべきです。<ある法華経の研究家>がどういう意味で使われているのか、ですよね。 さて、確かに法華経は「平等大慧」の教えである事は間違いありません。何故かとなれば、法華経以外の大乗経典に嫌われた二乗(声聞乗・縁覚乗)や、悪人・畜生(人以外の生き物)も等しく佛となる。そう書かれているからです。つまり、全ての人が等しく佛となりうる事が説かれているのです。法華経では釈尊が娑婆世界に出現したのは、全ての人に「佛知見」を開き・示し・悟らせ・入らせる(開示悟入)為と書かれています。 日蓮聖人の作と伝えられる「当体義鈔」には、次のような先師の言葉を引用されています。 『南岳大師の云く「心体に染、浄の二法を具足して、而も異相なく一味平等なり」云云』 『天台大師云く「南無平等大慧一乗妙法蓮華経」』 日蓮聖人が顕された十界曼荼羅と言われる本尊には、題目の光明に照らされた地獄や佛の姿が描かれています。この光明は、全ての命あるものに、等しくに降り注がれています。そこには、自他彼此がなく平等だという事です。照らす光も平等であり、照らされる一切も平等だという事ですね。

noname#247876
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました

関連するQ&A