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《南無妙法蓮華経》は真実の神ではないのか?
- 《南無妙法蓮華経》は真実の神ではないかという疑問があります。特に創価学会の見解を知りたいです。
- 日蓮の著作から、《南無妙法蓮華経》に関する二つの主題(αとβ)を取り上げます。
- 南無妙法蓮華経を信じる者と念仏を唱える者の違いについて考えます。念仏者は仏性の発現を妨げているのか、それでも南無妙法蓮華経は真実の神であり、仏性の発現を抑えることはないのかという疑問があります。
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(1) まづ(α)から順に説き進むその内容は ○ 一切衆生 悉有仏性 ということだと理解します。《ひとは誰にあってもブッダター(仏性)がやどる》と。 ■その通り。 (2) ところが その《任意の或る人》が ここではふたつの種類に分かれます。 (ε) 法華経に同共して信ずる者 (η) 不同共の念仏者等 すなわち 前者は《仏性を宿すひと》であるが 後者は ◆ (η) 既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり と言います。この一文の意味を問います。 ■後者は、法華誹謗の者。 前者、後者共に、仏性を有する。⇒《仏性を宿すひと》 (3) 《妙経の体に非ず》というのは (3-a) 《仏性を宿すひと》一般であり続けているが 《その仏性の発現が妨げられているだけ》というのか? それとも (3-b) 人と生まれて宿していた仏性が真実のブッダ(ないしダルマ)に背くがゆえに 《腐った種や煎られた種のように》 もはや芽を出し得ないというのか? ■法華誹謗の者。⇒地獄の業因を積む、ということ。 (4) もし後者=(3-b)だとした場合 それでも 法華経・如来寿量品第十六の《文底における独一なる本門》としての南無妙法蓮華経なるチカラは 真実の神――(μ) 《自在神力》――であって 普遍であり遍在であり 一方で依怙贔屓をすることはあっても 他方で基本的に言って 人にやどった仏性の発現をわざわざ抑えることはしない。のではないだろうか? ■真実の神――(μ) 《自在神力》との、解釈が違います。 神力と神を一緒に考えることはない。これは、質問者様の既成概念から出てくる言葉かもしれない。 (5) この疑問は (κ)の文章につながります。 ◆(κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人 ■????? ※質問内容と番号の振り方に疑問を感じます。この質問は、、、、?? (6) ひとつに確かにここで《正直に方便を捨て》とあります。つまり 先ほどの念仏者等は《方便のオシエを捨てていない》。 けれどもそれにもかかわらず 当人は《真実の神》だと信じている。 《方便を捨てていない》のではなく 《方便をとおして――そのオシエは〔特に親鸞にあっては〕どうでもよいとして捨てており――真実の神に就いている》。のだとしたら その真実の神である南無妙法蓮華経なるチカラは 念仏者等の仏性の発現を押さえて いぢわるをするといった気遣いはない。のではないであろうか? ■浄土真宗は、何を本尊とするのか?? 親鸞が、法然を師として浄土真宗を展開するならば、先ずは、浄土宗をもって正邪を判ずるべき。 それとも、親鸞は法然に背く弟子なのか。伝教に背いた慈覚のように。恐らく親鸞は、宗祖の器を持ちえない、いい加減な人間なのだと思う。個人的見解ですが。 (7) ◆(κ) 但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる ☆ とは どういうことか? (7‐a) 《法華経を信じ》というのは そのオシエを信じることは出来ない(オシエなる教理は 考えるものである)。ならば 南無妙法蓮華経なる神――(μ) 《自在神力》――を信じるということにほかならない。 ■南無妙法蓮華経は、神ではない。⇒(4)回答参照。 (7‐b) ならば 念仏者等が――名はアミターバやマハーワイロ―チャナなどなどとして違っていても―― 真実の神〔(μ) 《自在神力》〕を心にいだくのであるゆえ 《妙経の体》と同じであり 仏性の発現も何ら妨げられることはない。 ■論法がメチャクチャである。 名はアミターバやマハーワイロ―チャナなどなどとして違っていても⇒この時点で、法華誹謗になります。 (7‐c) 《南無妙法蓮華経を唱える》こととは どういうことか? 次項につぎます。 ■御本尊を信じ、御本尊に対して(御本尊に向かい合って)、『南無妙法蓮華経』と題目を唱える事。 ※次項につぎます。⇒これは、いらないと思います。番号も振り方に疑問が生じる。 (8) ◆(κ) 南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩・業・苦の三道〔=三障 が〕 法身・般若・解脱の三徳と転じて・・・ ☆ つまりこのように 《題目を唱える》ゆえに 《妙法の当体》となる。のであろうか? ほんとうにそうであろうか? つまり――唱題が 称名念仏と同じように わるいと言おうとするのではなく―― 仏性の発現は 人間の努力によって 実現するのものなのか? という問い。 親鸞の言うには 念仏は 《非行非善》であるらしく これだと 念仏をおこなったから浄土に往生するとはさらさら言っていない。 ■親鸞と日蓮の教義は違います。違う教義を話し合っても、時間の無駄。結論は出ない。 ■人間の努力だけでは、実現はしない。⇒前回の質問。『われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか』参照。 (9) すなわち ◆ ~~~~ (γ‐a) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして 清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」 ~~~~~ ☆ この仏性ないし《自性清浄心》なるわれわれの身と心とは 自然本性として生まれたときからそなわった仏性の発現を――わづかに《信じる》ことをとおして・という意味は 人間の能力も及ばざるがごとく一切の努力を超越して――自然史過程として・自然史過程において(具体的にはヒラメキなどをとおして) ありがたいことに 見ることになる。のではないであろうか? ■それが、御本尊がもたらす縁である。 (10) 《南無妙法蓮華経》なる場ないしチカラは 真実の神ではないのか? ■神ではない。仏である。 【御義口伝 下 P.752】 『第一南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事』 「無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」 無作の三身とは、久遠元初自受用身の“仏”を指す。
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こんばんは 人の命救うのは医者ってわかってたのですね? 信じる者は救われる、って、ようなこと言ってたのは誰でしたっけ? 神を崇めている人達だった様な気がするんだけど まあそんな事はいいや 回答の一部分抜き出されても・・・ 十分の一も思いが伝わって無い事が残念です 共感して欲しいわけじゃ無いし、 宗教も自由だし それだけ自分の考え持っていて 何で?ここにいるのですか?自分の知識 イヤ、やめよう。思いは自由ですから。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ここは 南無妙法蓮華経の問題にかぎっていますから ほかの【Q:・・・神とは何か】や【Q:信じる・・・】のほうに投稿されたら さらにやり取りが伸びるかも知れません。 今回あらたに二件を書き込みされたご文章にかぎれば 前回のお応えになると思います。 南無妙法蓮華経は 真実の神か? という問いですから。拡散しすぎだと見られます。
こんにちは 旧、大日本帝国は天皇を神、北○○は最高指導者が神、イラ○、○ラク、は?が神、 中○、アメリカ、も神がいる。 (神)信仰心が強いとこほど人の命、自然の命大事にしてない。 ここ、で問、答、者も勉強熱心で感心してますが、なにか理由つけて 考え押し付けた様な回答。 坊さん、神父、まさか評論家?等にでもなりたいの? 一歩違えば、オ○○の再来。 この地球で(人)が頂点気取って、他の生命の命も科学、医療で救えるって? 核兵器もって地球の神になった気でいる。 大昔の偉人さん達、今の地球見て同じ教えなんて説く事、云うことできるか? 当時、交通、通信今と比べたら皆無に等しい、それこそ、井の中の蛙。の教え。 人。どれだけの生き物絶滅させてる?地球を汚染させてる? 俺の子達に地球に住める環境のこせるのか? もし真実の神がいたら、・・・・・地球を元の姿に戻す為には、絶滅すべきは・・・・。 って言うだろうね。人類が居なくなれば簡単に戻るんだよ? 神が存在していたら真っ先に人類が滅ぼされるヨ。 ああ、そっか、人間の命、考えが神なら滅んで当然かあ。 人の勉強とやかく言える資格も何もないけど 評論、哲学、ナンマイダーやアーメンで地球どころか人独りの命救うことなんてできまいヨ。 君達の若い、その素晴らしい能力もっとましな事につかえないかなあ? こんなとこで御託並べてないで なんとか真理教ってならないように願ってるよ。
お礼
らいむぐりんさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 評論、哲学、ナンマイダーやアーメンで地球どころか人独りの命救うことなんてできまいヨ。 ☆ ここが 意見として違うと思いました。 そのどこが? ★ 人・・・の命救うこと ☆ ここです。人が人の命を救うのは 医者ですよね。 あるいは その人が世界とそしておのれと和解出来るか という意味で救われるということでしょうか? これも ほんとうは自分の自然本性としてのチカラによって自然の和解としての治癒が成るかも分かりませんが 他人が誰かを救うとか救うことができるとか言うのは あまりいただけません。 その見方を持っているかぎり オ○○のような行き方が出て来るのでしょう。 と思いますよ。 ということで ひととおりお応えできたかと思います。
- ks5518
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No.5です。 >(2)■ 先ず一つに、西欧や未開の地域においては、法華誹謗云々というよりも、衆生の機根により“正法が存在しない地域に生まれる”、“正法に縁のできないところに生まれる”ということがあるでしょう。 ☆ これは 仕方がないというところですね。 ■仕方ないというか・・・これは、結構重要で、“正法に縁のできないところに生まれる”という命を持って生まれてくるわけで、実は重要な問題なのです。併せて、正法誹謗の者というのも、根底には正法に背く命があるのです。正にここは、仏法で言うところの因果であり、依正不二なのです。(あまり深くは触りませんが、、、) >ひとつに 日蓮みづから《神》という言葉を用いています。 ◆ (μ) 是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり 《自在神力》は 《法華の当体》とほとんど同じ意味で用いられているぢゃないですか。 ■《自在神力》は《法華の当体》である仏、如来の有する特別な力です。しかし、それは、【神】の有する力ではなくて、あくまでも、仏、如来の有するものです。これは、日蓮自らというよりも、法華経にて釈尊が既に述べられている事です。 ※※※《以下、妙法蓮華経》※※※ 従地涌出品第十五 以仏神力故 諸仏自在神通之力 如来寿量品第十六 以諸神通力 神通力如是 如来神力品第二十一 現大神力 諸仏神力如是 如来一切自在神力 等等 ※※※※※※※※※※※※※※※ >☆ おそらく けいえすさんにしても マチガイをおかしておられましょう。なぜなら 《法身》のブッダは 明らかに《真理》のことであり その意味で《神》のことです。 しかも ブラフマニズムにおける アートマンもしくはブラフマン これらも神のことです。 どうでしょう? ■先ず、一つに釈尊の説いた仏教、なかんずく『妙法蓮華経』は衆生救済の為、成仏の“法”の存在を説いたものです。諸仏でさえその実践によって仏となっている事を示しています。そして、今回の質問のメインタイトルにもあるように『《南無妙法蓮華経》は 真実の神ではないのか?』ということであれば、この法華経より末法に至り出現するところの“法”である《南無妙法蓮華経》は⇒神ではない。という事になります。仏は神によって作られた、あるいは仏に成ったものではないからです。言い換えれば、“法”即《南無妙法蓮華経》という事になります。神ではなくて“法”であると言えるでしょう。 >○ 仏とは何か? これを定義しないと 哲学にはなりません。信仰であるからよいと言われても それは 普遍性にとぼしい内容のものだと見なされましょう。 《仏の定義》 【仏教哲学大辞典】 ■三世に通達し、智慧と慈悲とを持って、衆生を化導する“人”の事。仏法では、釈尊、多宝、三世十宝の諸仏であり、末法には日蓮大聖人の事。 (9)☆ この仏性ないし《自性清浄心》なるわれわれの身と心とは 自然本性として生まれたときからそなわった仏性の発現を――わづかに《信じる》ことをとおして・という意味は 人間の能力も及ばざるがごとく一切の努力を超越して――自然史過程として・自然史過程において(具体的にはヒラメキなどをとおして) ありがたいことに 見ることになる。のではないであろうか? ■ それが、御本尊がもたらす縁である。 _____________ ☆ 一致しましたね。 ■ 御本尊がもたらす縁⇒御本尊を拝する。題目を唱えるということです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 極端な言い方をすれば ○ 《ご本尊を拝して 題目を唱えるという勤行》と――言葉による表現 だけで見るとすれば――同じ内容の効果がある。 そういう信仰のかたちがありうる。 ■現在では、“法体”として御本尊が存在しています。そうであれば、御本尊を拝せずして、題目を唱えずして仏性は現われません。御本尊を拝し(法身)、題目を上げ(応身)、弘教に歩く(報身)ことで、初めて仏性が開いてくるのです。 例えば、『私の生命には仏性がある』と分かっていても、その仏性が顕された御本尊に縁し、御安置をして題目を上げなければ、仏性は現われません。もちろん、先の質問にもありましたが、仏界(仏性)は内在されているのです。相手にも仏性がある事を理解していますので、御本尊を御安置しない、創価学会に入会しないといっても、それでその方を見下す事もありません。 >つまりは このことが 《真実の神ではないのか》という問いかけになっています。 言いかえると 《真実の神》であるなら その名がちがっていても それへの信心をとおして 宇宙のパワーが得られる。そういう同じ表現で説明される事態が起きている。――ここまでのことは言えると思います。 なにしろ《真実の神》であるのですから 誰が心にいだいても そのホンモノサには変わりないでしょう。 ■誰が心にいだいても・・・心にいだくのではなくて、御本尊の前に端座して、題目を上げるのです。 これが、末法の仏道修行の根幹です。
お礼
けいえす5518さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ■ ~~~~ 仕方ないというか・・・これは、結構重要で、“正法に縁のできないところに生まれる”という命を持って生まれてくるわけで、実は重要な問題なのです。併せて、正法誹謗の者というのも、根底には正法に背く命があるのです。正にここは、仏法で言うところの因果であり、依正不二なのです。(あまり深くは触りませんが、、、) ~~~~~ ☆ なるほど。ただし《重要な問題》であることに納得は行っても その取り扱いには 違和感があります。 というのも けっきょく――その後勉強した成果としてですが―― 日蓮は《直達正覚》ということを説いているからです。これは 即身成仏もしくは即得往生のことです。 つまりは 初心者としての状態〔である理即ないし名字即〕からただちに妙法のチカラが得られる〔つまり究竟即にいたる〕というのが この直達正覚だと受け取るからです。 どれだけ謗法の状態がひどかったとしても 妙法のチカラの及ばないことはない。――どうして こう けいえすさんもおっしゃらないのでしょう? いつもマイナスの一面のみに触れておられるように感じます。(感じとして言うのみですが)。 ■ ~~~~~ 《自在神力》は《法華の当体》である仏、如来の有する特別な力です。しかし、それは、【神】の有する力ではなくて、あくまでも、仏、如来の有するものです。これは、日蓮自らというよりも、法華経にて釈尊が既に述べられている事です。 ~~~~~~~ ☆ だから どうだとなりますか? そのあとが問題です。 (あ) ブッダ(ないしブッダター)と神とは 同じか? 違うなら どう違うか? これを明らかにしなければ 変な言いぐさですが 田舎の宗教です。(わたしは 田舎は好きですが 井の中の蛙といった意味です)。 (い) ■ 《自在神力》は《法華の当体》である仏、如来の有する特別な力です。――☆ ならば まさしく《ブッダ》なる神のチカラではないですか? ■ ・・・、“法”即《南無妙法蓮華経》という事になります。神ではなくて“法”であると言えるでしょう。 ☆ そのように他の何ものにも依存せず みづから存在する場ないしチカラ これを神と言います。 ダルマを《法》というときには――強いて神との違いを見ようとおもえば―― 原理とか摂理とかといった規範や法則に近い概念的な意味を込めようとしている。ということではないでしょうか? 神についてもむろんそのような属性の規定はできるわけです。なんら違いはありません。 ■ ~~~~~ 《仏の定義》 【仏教哲学大辞典】 ■ 三世に通達し、智慧と慈悲とを持って、衆生を化導する“人”の事。仏法では、釈尊、多宝、三世十宝の諸仏であり、末法には日蓮大聖人の事。 ~~~~~~~~ ☆ これは 妙法の当体 つまり人間としてのブッダ のことでしょう。それだけに限られますか? 違うはずです。 けっきょく いま上に見たように《神》と同じ内容において定義されるはずです。どうですか? ■ 現在では、“法体”として御本尊が存在しています。そうであれば、御本尊を拝せずして、題目を唱えずして仏性は現われません。御本尊を拝し(法身)、題目を上げ(応身)、弘教に歩く(報身)ことで、初めて仏性が開いてくるのです。 ☆ 《法体》とは 何ですか? 公式サイトの検索では 出て来ません。 それに もし仮りの形を持った本尊が その法体でありいわゆる《境》だとすれば それは すでにやり取りしたところでは けっきょく《仮りのものとしての役目を果たせば もうそれでよい》となるのであって 特別にその重要性を見る必要はない。となったのではないですか? それというのも 昔と今とでは その境なる法体が 違うのですから どうしようもありません。 つまりは 真実の境は 神なのです。目には見えません。南無妙法蓮華経なる真実の神との境智冥合になるはずです。つまりそこで触れておられる題目の唱えとしてはです。折伏なる実践は そのような唱題をつうじて得られる福運なるチカラの発現ということになるのではありませんか。 すなわち ■ 例えば、『私の生命には仏性がある』と分かっていても、その仏性が顕された御本尊に縁し、御安置をして題目を上げなければ、仏性は現われません。 ☆ このことが現証になるという仮説の根拠は きわめてとぼしいものになっています。境なる法体が 昔と今とでは 異なっているからです。違った境に接しても同じ仏性が発現するというのは 仮りのかたちある本尊ゆえだとは どう転んでも言えません。それは 借り物の法体にしか過ぎません。 ゆえに 真実の神は 目に見えない南無妙法蓮華経なのであって この妙法は ほかにもいくつかの名で世界にあっては伝えられている。そのときの 境智冥合は 梵我一如とも仏仏一如ともあるいは霊霊一如ともいうかたちで 類型としては同じ信心のあり方であり そのチカラなのだ。こう帰結せざるを得ないでしょう。 真実の神が その名は違っていても その本体が異なるわけがないぢゃないですか。 ■ 相手にも仏性がある事を理解していますので、御本尊を御安置しない、創価学会に入会しないといっても、それでその方を見下す事もありません。 ☆ というだけではなく それだけではなく ほかの信仰にあっても 同じ妙法のチカラが得られる。仏性の発現が もたらされる。こう帰結されなくてはなりません。さもなければ 本尊をつうじて接する妙法は 真実の神ではないと言うようなものです。自分たちの妙法と ほかの真実の神とは 異なるのだという見方が どうして出て来るのでしょう? ■ 誰が心にいだいても・・・心にいだくのではなくて、御本尊の前に端座して、題目を上げるのです。 これが、末法の仏道修行の根幹です。 ☆ かたちある本尊とそれに向き合う端坐は あくまで仮りのものであり仮りのことです。 末法のすくいは 直達正覚なのです。いちいちかたちある勤行と折伏とを どうしてもせねばならないとは限りません。目に見えない妙法なる真実の神を どうして受け留めないのでしょう? そのときすでに即身成仏なのです。 そのあと お好みに応じて 勤行をしたりさらには 折伏をも やりたければ おこなえばよいのです。 直達正覚は 即身成仏もしくは即得往生のことです。真実の神のもとでは 言葉が違っていても 中身は同じです。 どうして あなたがたの妙法だけは 違うのだというふうに自分たちのことを狭くかまえるのでしょう? ほかの神のもたらす正覚をむしろ あなたがたの妙法のうちに どうして摂取するかたちで おおきくかまえないのでしょう? 真実の神であることにうたがいを持つからですか? 日蓮の説くブッダは 毛色が違っていて どうも普遍妥当性がないのではないかとおそれているからですか? そうでなければ 普遍宗教として どうして広く大きくすべてを包み込む妙法だと言わないのでしょう?
- ks5518
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No.1です。 補足欄に対する回答 >☆ それにしても なんで日本語で表わさないのでしょう? そしてこの質問ではすでに《南無妙法蓮華経》を 法身のブッダとして 《真理にひとしい・真実の神》と名づけています。 そのダルマの場ないしチカラを言うときに 神と呼んで捉えたほうが うんと早いし 分かりやすいと考えられます。 >おそらく かんたんに済まそうとするなら ブッダと神とは違うと言えばよいかに見えるのですが。 だったら けっきょく《ブッダ》とは何か? の問いに哲学として答えなければならないでしょうね。 人間のことか? なら 法身のブッダには人間はなれない。 人間のことではないか? なら それが法身として真理でもあると定義して使ってもよいはず。だけれども 人間である日蓮が この法身であり真理であり神であるブッダであるというのは くるしい。でしょうね。 ■ 無作の三身とは、久遠元初自受用身の“仏”を指す。 ☆ とおっしゃっていますが。 ずばり >○ 日蓮は 法身のブッダであり 神ですか? ■日蓮大聖人は、末法の御本仏であり、久遠元初自受用報身如来です。 >すなわち 法身の――また本地無作の法報応の三身としての――ブッダであるとすれば ○ 理即や名字即から究竟即までの段階など関係なく――あるいはまた 無明と明知との区分などはいっさい関係なく―― 初めから 神としてのブッダである。 となります。それでよろしいですか? ■神ではありません。
お礼
けいえす5518さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。世界宗教とか普遍宗教という概念があると思いますが 今回のご回答によるなら 日蓮のオシエないしそれを承け継ぐ創価学会のオシエは 世界にひろまった宗教であるかも分かりませんが 普遍宗教ではないとなると思います。 一般に経験合理性で互いに共通に理解しうる説明は すでに放棄なさった。こう受け取らざるを得ないようですから。 ■ 日蓮大聖人は、末法の御本仏であり、久遠元初自受用報身如来です。 ☆ これは 昔から分かっています。その中身を 哲学としても普遍性のある内容として説明されたい。こういう問いになっています。 ■ 神ではありません。 ☆ これでは 小学生の答案になります。小学生でもいまでは 何かきちんとした理由を添えようとするのではないかと思います。だとすれば 幼稚園児の受け答えになります。 つまり 言わばタコツボ宗教であると ご自身が宣言なさった。こう理解したいと思います。 ありがとうございました。 ほかの会員の方もおられましょうから まだ開いています。
- NemurinekoNya
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空海は、自身の著『吽(hum・うん)字義』でこういうことを言っておるらしいです。 真言宗の密教フォーラム21さんのホームページから引用します。 www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-writing/post-235.html ───────── まず字相を説く段では、吽字は賀(カ・ha)・阿(ア・a)、汗(ウー・uu)、麼(マ・ma)の四字の合成であり、この四字のそれぞれの字相を言えば、訶(賀)は因(サンスクリットのhetva(hetu、因)の最初のh)、阿は不生(aadi(本初)のa)、汗は損滅(uuna(損滅)のu)、麼は増益(mama(吾我)のm、一切諸法に我(アートマン)を見る我見我執をここでは増益と言っている)の意味をもつ。 ───────── サンスクリット文字の吽という文字は、カ、ア、ウ、マという文字に分解できるそうです。 で、その意味を説明しています。 ───────── ●この一字───吽というサンスクリットの文字───をもって、通じて諸経論等に明かすところの理を摂することを明かさば、しばらく『大日経』および『金剛頂経』に明かすところ、みなこの菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟となすの三句に過ぎず。もし広を摂して略につき、末を摂して本に帰すれば、すなわち一切の教義この三句に過ぎず。この三句を束ねてもって一の吽となす。広すれども乱れず、略すれども漏れず。これすなわち如来不思議の力、法然加持のなすところなり。千経万論といえどもまたこの三句一字を出ず。 ───────── 注目は、 《法然加持》ってことばの《法然》。 国語辞典によりますと、《法然》は、《自然》、《法爾》と同義語だそうです。 であるとすると、どうなんでしょう。 如来不思議の力を、阿弥陀さんの本願力という意味にとらえることも可能なのかと。 とすると、空海は、すでに親鸞の自然法爾の思想を。。。??? 真言には、覚鑁みたいのもいますしね~。 覚鑁の《密厳院発露懺悔文》には、罪の意識があらわれていますよね~。 それはそれとして、 空海の「hum」とチベットの「om mani padme hum」を融合させると、結構、おもしろい話ができるのではないでしょうか。 般若波羅蜜のハタラキは、如来の不思議な力で、自然法爾のあらわれであるとか(わらい)。 そこには、 もはや、難行門・易行門、自力・他力の区別、二項対立の構図は存在しないとか。。。 それが《中》を行くということとか。。。
お礼
そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。 いちばん――わたしの見るところから行って――分かりやすいのは: ○ 他力とは 有神論〔なる信仰〕であり 自力とは 無神論〔なる信仰〕である。 という説明ではないでしょうか? すなわちこの二項目は 非思考のことがらであるので《対立》からは自由です。むしろ 互いに対等であり同等であると捉えられます。 ○ 加持 というのも 加が 神〔のチカラないしそのハタラキ〕であり 持はこの神のハタラキを――霊我≒非思考の庭を介して――ワタシが受け容れることだと考えられます。つまりは ブラフマンとアートマンとであり 梵我一如なる類型です。 ただし 加持祈祷という場合には 祈祷等においては 人間の側の自力の行為が伴なわれている。こういうことではないかと見ます。 それと同じように 日蓮にしても 類型として 境智冥合=梵我一如=仏仏一如なる信仰形態のもとに 直達正観=即身成仏=即得往生なのだと聞けば まづそこだけをとれば 絶対他力であり 有神論です。 ただし 創価学会の場合には 勤行や折伏という自力の行為も伴なわれている。というかたちです。 親鸞が 他力と言い 自然法爾と言うときには それこそ無分別の状態を言います。つまり義無き状態であり 義つまり言ってみればオシエとその実践といった善行にかんしては一切無頓着なわけです。 日蓮とも空海ともそしておそらくほかの誰とも違っていると思われます。 言いかえると 親鸞にとっては アミターバすら どうでもよいと――本心では――思っていたでしょう。ただその――アミターバという――名が持たれているというだけなのですから。真実の神なら それでよいというわけです。 念仏は 師の法然に義理立てして ほんとうは要らないのだけれど 要らないとはよう言わなかったのでしょう。
補足
おぎないます。 区別・・・・|| 易行門 | 聖道門 | ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 非思考の庭 || 絶対他力 | (立てない) | ______________________ 思考・行為 || 相対他力および相対自力 | * (立てない):これは 無記と言ったほうがよいでしょうか。 あるいは 《無い神》でしょうか。
- NemurinekoNya
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こはまた驚いた発言を。。。 でも、ロジックとしては、そう考えるしかないのでしょう。 日蓮が法身かどうかは別にして、少なくとも、歴史上実在した色身(rupa-kaya)仏であるゴータマ・ブッダと同等でなければ。。 遅れましたが、 こんばんはです。 ☆☆☆☆☆☆ 《南無妙法蓮華経》のお題目に出てくる《蓮》のオマジナイで有名なモノといえば、 om mani padme hum (チベットでは、おむ・まに・ぺめ・ふむ) があります。 日本語サイトには、これといったものがなかったので、英語版wikipediaから、関係箇所を、引用。 http://en.wikipedia.org/wiki/Om_mani_padme_hum ───────── The first known description of the mantra appears in the Karandavyuha Sutra (Chinese: 佛說大乘莊嚴寶王經 (Taisho Tripitaka 1050);[3] English: Buddha speaks Mahayana Sublime Treasure King Sutra), which is part of certain Mahayana canons such as the Tibetan. In this sutra, Shakyamuni Buddha states, "This is the most beneficial mantra. Even I made this aspiration to all the million Buddhas and subsequently received this teaching from Buddha Amitabha. ───────── 「釈迦世尊は、言った。『これはもっとも功徳のあるオマジナイ・マントラである。私でさえ───”made”から”and”までを訳すのはちょっと怖い───チョメチョメし、その結果として、阿弥陀仏からこの教えを受けたのである。』」 ───made this aspiration to all the million Buddhasは、 「この気息音(マントラ・真言)を無量の仏すべてになし」(マントラを唱えたの意?) とか訳すんだろうか。aspirationをernest desireやlongingの意にとると、”this”の意味がとれない。thisはmantra'sの意味なのだろう─── 要するに、阿弥陀さんから何かを教えてもらった。 少なくとも、この教えを受けた時点では、釈迦牟尼は阿弥陀さんの悟りの域には達していない。。。 この阿弥陀さんは、報身の他受用身と考えられます。悟りの浅い段階の釈迦牟尼世尊では、阿弥陀仏の自受用身はまったく感得できないはずですから。。。 ───────── The middle part of the mantra, maṇipadme, is often interpreted as "jewel in the lotus," Sanskrit maṇí "jewel, gem, cintamani" and the locative of padma "lotus", but according to Donald Lopez it is much more likely that maṇipadme is in fact a vocative, not a locative, addressing a bodhisattva called maṇipadma, "Jewel-Lotus"- an alternate epithet of the bodhisattva Avalokitesvara. It is preceded by the oṃ syllable and followed by the hūṃ syllable, both interjections without linguistic meaning. ───────── 「mani-padme」は、「蓮の中にある宝石」、あるいは、「bodhisattva Avalokitesvara・観音さん」の意味。 こんなことを書いてあります。 Avalokitesvara───ダライ・ラマは、観音の化身・アヴァター(ラ)とされている───が出てくきます。 で・も、 この説は、どちらもまちがっている。。。 om mani-padme hum は、じ・つ・は、 (子)猫のオマジナイで~す。 英語に訳すと、そうなるんだ。仕方あんめ~(笑い)。 ダライ・ラマはこう言っているらしいです。 ───────── "It is very good to recite the mantra Om mani padme hum, but while you are doing it, you should be thinking on its meaning, for the meaning of the six syllables is great and vast... The first, Om [...] symbolizes the practitioner's impure body, speech, and mind; it also symbolizes the pure exalted body, speech, and mind of a Buddha[...]" "The path is indicated by the next four syllables. Mani, meaning jewel, symbolizes the factors of method: (the) altruistic intention to become enlightened, compassion, and love.[...]" "The two syllables, padme, meaning lotus, symbolize wisdom[...]" "Purity must be achieved by an indivisible unity of method and wisdom, symbolized by the final syllable hum, which indicates indivisibility[...]" "Thus the six syllables, om mani padme hum, mean that in dependence on the practice of a path which is an indivisible union of method and wisdom, you can transform your impure body, speech, and mind into the pure exalted body, speech, and mind of a Buddha[...]" ───────── 「《「おん」・「ま」「に」・「ぱどぅ」「め」、「ふーむ」》の六つの音節は、方便と般若の不可分な結合である道の実践によって、清浄でない身(業)、語(業)、意(業)を、清浄で高められた、ブッダのそれらのハタラキに転換することを意味しているのである」 みたいなことを言っています。 Om:generosity(もの惜しみしない→布施) Ma:Ethics(倫理→持戒) Ni:Patience(辛抱→忍辱・にんにく) Pad;Diligence(勤勉→精進) Me:Renunciation(諦観→禅定) Hum:Wisdom(知恵→般若) と対応しているらしいので、 方便と般若の不可分な結合である道の実践とは、《六波羅蜜多(行)》のことを言っているようです。 そして、 結局、「六波羅蜜、般若波羅蜜多の道以外に、悟りに至る道はない」と言いたいようですね。 《常不軽菩薩》の活動は、般若波羅蜜多に基づく忍辱波羅蜜行の実践と考えられます。なので、 ダライラマとおなじく、私も 《般若波羅蜜》以外に、Mahayana-Buddhistの依るべき処はない、 と思うんですがね~。 同じ《蓮》が出てくるオマジナイでも、 日蓮による《南無妙法蓮華経》の語義解釈とは、 どえりゃ~違い。 月とスッポン!! どっちらが月でスッポンかは言いません。 月とスッポンは、人間にとって、どちらがありがたいのか、有用なのか、 わたしには分からないので(わらい)。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。よく説明しているんでしょうね。ダライ・ラマ。 次のゴータマの発言は 確かに分かりにくいようですね。 ▼ ( Wikip: Om mani padme hum ) ~~~~ This is the most beneficial mantra. Even I made this aspiration to all the million Buddhas and subsequently received this teaching from Buddha Amitabha. ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ゴータマの時代にすでに アミターバは出て来るんですかぁ。 つまり aspiration は はっきりしませんね。あらゆるブッダにこのオマジナイを唱えて願をかけたくらいなんでしょうか。その中でアミターバ・ブッダへの願掛けで この Karandavyuha Sutra に説いたオシエを得た。のでしょうか。 ふたたび ダライ・ラマの話ですが けっきょく ★ 結局、「六波羅蜜、般若波羅蜜多の道以外に、悟りに至る道はない」と言いたいようですね。 ☆ と結論づけるのは 聖道門つまり自力としてなのでしょうね。 わたしは 言わずと知れた易行門ですから 残念ながら 筏で川を渡るということ自体が 関心の中に入っていません。 日蓮の場合 自力か他力かという問いを発してよいかどうかさえ 分かりません。そういう発想で問うてよいかどうかが分かりません。 そして 分かりにくいことに 日蓮の場合 自力も他力も 両方があるようにも見られます。いえ 分かりませんが。 ただし次の場合なら けっきょくのところ 絶対他力だと思います。 (この――信仰についての――他力思想は 思考や感性の経験領域では 努力をすることは 言うまでもありません)。 ☆☆(No.17お礼欄)~~~~ 1. 直達正観=即身成仏=即得往生 2. そのためのチカラは 法と人とに分けた場合 妙法と妙法の当体とである。 3. すなわち 類型として 梵我一如=境智冥合=仏仏一如=・・・。 4.(省略) ~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 《常不軽菩薩》の活動は、般若波羅蜜多に基づく忍辱波羅蜜行の実践と考えられます。 ☆ この場合は 微妙であるとも思われます。 つまり 《〈常不軽菩薩〉の活動は》というところです。信仰による即身成仏とは別に 実践があると見るのなら 自力か他力かの区分は 話が別であるかも分かりません。 もっとも絶対他力の立ち場とすれば そのような経験思考や行為としての実践の中身も 信仰の関数であるとは 思っていますが。自力でふつうに努力をおこなうその行為としての中身がです。 違和感がありますか?
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こんにちはです。 kazamidoriさんは、イランを越しちゃいましたか。 イランの女神・アナーヒータにその源流があるのではなかろうか。。。 などと言われております。 アナーヒータは、サラスヴァティーともともと同じ女神だったらしい。 紹介したWikipediaにそんな話がのっていたとおもうけれど。 いやいや、さらに遡れて、バビロニアのイナンナ・イシュタルだ、 なんていうヒトもいます。 「イシュタルだとすると、観音様の名前にIsvaraがついているのが、すこし説明がつくかも。 イシュタルは、地上の王(Isvara)になる赤ちゃんにオッパイをあげて育てるとされているので。IsvaraやRajaと関係が深い。。。」 ───「」の部分は、ぼくの思いつきです─── イシスはイシュタルでしょ。そして、さらに西に進み、ギリシアでは、アフロディーテやアルテミスになった。そして、キリスト教のマリア信仰は、イシュタル信仰の変形。カトリック教会は、異教色の強いマリア信仰───っていうか、キリスト教の教義とは相容れない!!───を根絶しようと、何度も禁教令をだし、時に暴力をもって弾圧したのだけれど、結局、残ってしまった。 お母さんは強い!!地上の父権権力であるローマ教会に勝ってしまった。 で、日本では、江戸時代にキリシタン信仰が禁止され、キリスト教は地下に潜った。そして、赤ちゃんと観音さまという表現形式で、イエスとマリアを表現した。それが日本の仏教に取り入れられ、《悲母観音》になる、従来とはまったく異なる新しい観音の姿が誕生した。。。 http://db.am.geidai.ac.jp/object.cgi?id=1368 この絵とよく似た構図のイエスとマリアの絵があるらしい。 って、全然、本質問に関係しないことを長々と書いてしまったよ~。 ☆☆☆☆☆☆ これは、昨夜、寝る前にわたしの頭にふと浮かんだ疑問なのですけれど、 法華経には陀羅尼(ダラニ)、つまり、オマジナイの言葉がいくつか書かれているじゃないですか。 なのに、なぜ、この陀羅尼ではなく、日蓮発案の《南無妙法蓮華経》なんでしょう? 釈迦本懐の教えである法華経のコトバと日蓮のことば。 どっちが重いんでしょう。 普賢菩薩よりも、日蓮はエラいのだろうか? 薬王菩薩と日蓮の上下関係はいかに。。。 原典主義的立場をとるならば、『南無妙法蓮華経』ではなく、 法華経にある陀羅尼をこそ唱えるべきなのではなかろうか。 「アニエ マニエ マネ~ 。。。」 とか。 その方が理にかなっているのではなかろうか。。。
お礼
何だか・どうやら 日蓮は 無始無終の法身仏であるらしいですよ。つまり 神であると。 こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ◆(百六箇抄) http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=863&k=%E6%96%87%E5%BA%95&o=a&c=10&p=1 ◇ (日蓮:百六箇抄)~~~~~~ http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1712345.html 下種の法華経教主の本迹 自受用身は本・ 上行日蓮は迹なり、 我等が内証の寿量品とは脱益 寿量の文底の本因妙の事なり、其の教主は某なり。 ◆ (池田大作:講義) ~~~~~~~ 表題に記された「下種の法華経」とは下種仏教の法華経であり、 脱益寿量品の文底に秘沈された本因妙の南無妙法蓮華経のことを意味しております。 この一法は、一切衆生を成仏せしめる根源の種子である故に、下種益の法華経となるのであります。 それに対して文上の法華経二十八品は、本果妙の教主である釈迦の脱益の法華経であり、 また像法出現の天台の説いた摩訶止観の熟益の法華経であることはすでに述べた通りであります。 さて、南無妙法蓮華経は、久遠元初の自受用報身如来の大生命に脈動する一法であり、同時に、末法御出現の本因妙の教主であるに火(ママ)蓮大聖人が所持され、弘通された根源の法であります。 故に「下種の法華経の教主」とは、久遠元初自受用報身如来、即末法の御本仏・日蓮大聖人のことを意味するのであります。 今、下種の法華経を弘通される教主、つまり日蓮大聖人の大生命について、本と迹とで論じていくのが、表題の主旨であります。 ~~~~~~~~~~ あるいは: ◇ (日蓮:百六箇抄) ~~~~~~ 不渡余行法華経の本迹 義理 上に同じ 直達の法華は本門 唱うる釈迦は迹なり、 今 日蓮が修行は 久遠名字の振舞に芥爾計も違わざるなり。 ◆ (池田氏:講義) ~~~~~~~ まず表題の「不渡余行法華経」について考えてみたい。 ここでいう法華経とは、もはや文上脱益の法華経ではない。 寿量文底下種の南無妙法蓮華経のことであります。 前回にも述べたように、同じく法華経といっても、広・略・要の三種があります。 広説の法華経が一部八巻二十八品であり、 略説の法華経が方便・寿量品であるのに対し、 要説の法華経とは五字七字の南無妙法蓮華経のことをいいます。 そのうち広説・略説の法華経が文上、要説の法華経が文底となります。 表題の「法華経」とは、要説の法華経 南無妙法蓮華経 を意味しております。 しかも、この法華経は「不渡余行」なのであります。 「不渡余行」とは「余行に渡さず」と読む。 「余行」とは、具体的には本果妙の仏、つまりインドの釈尊が説き示した四教八教の修行をいいます。 すでに述べたように、本果の仏は、妙法を直ちに説くことができず、これを間接的に示すために、四教八教、迹本二門として説かざるをえなかった。 これは余行の法門は、本因下種の法体たる妙法の部分部分を取り出して説いた教えにすぎないため、衆生成仏の本源の種子とはなりえないのであります。 ~~~~~~~~~~~~~~ □ (創価教学研究室(赤鬼のブログ):上掲講義の解説) ~~~ § 妙法は諸仏が直達した究極の法 次に「直達の法華は本門唱うる釈迦は迹なり」とある。 「直達の法華」とは直達正観の文底の法華経・南無妙法蓮華経のことであります。 「本因妙抄」に 「文の底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず 直達の正観・ 事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり」(0877-04) とお示しの通りであります。 「直達正観」とは直ちに正観に達することであり、速疾頓成・即身成仏」と同じ意味であります。 その直達の妙法が「本門」であるとの仰せなのです。 それに対して、妙法を唱うる釈迦は「迹」となる。ここで「釈迦」といわれているのは文底の釈尊、すなわち久遠元初の自受用報身如来のことであります。 久遠元初の修行における人と法とを本迹に立て分けて論じられているが故に「釈迦」と表現されているのであります。 そのことは「総勘文抄」の 「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時 我が身は 地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」(0568-13) との表現や、同じ「百六箇抄」の 「久遠名字の正法は本種子なり、名字童形の位、釈迦は迹なり」 の表現など、これまで学んできた文に照らして明らかでありましょう。 さて、この場合の本迹の立て分けが、久遠元初自受用報身如来の生命にはらまれた内証と外用の立て分けであることは、もはや論ずるまでもありません。 妙法を唱うる釈迦、とはまさに久遠元初自受用報身如来即日蓮大聖人の《外用》の姿でり、振る舞いであります。それ故に「迹」となる。 だがその《内証》には、直達の法華すなわち宇宙と生命の究極、南無妙法蓮華経の一法が脈打っているのであり「本門」となるのであります。 では、何故に南無妙法蓮華経を「直達の法華」といわれたのでありましょうか。 それは妙法が、三世諸仏が直立したこころの究極の法体であるからであり、同時に一切衆生が直達したこころの究極の法体であるからであり、同時に一切衆生に直達の正観を得させる力を内包されているからであります。 「当体義抄」に 「至理は名無し 聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の 一法之れ有り 之を名けて妙法蓮華と為す 此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し 之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり」(0513-04) とあります。 すなわち、妙法は因果倶時・不思議の一法であるとの仰せである。それ故、この妙法を行ずるとき、仏因・仏果同時に得ることができるのであります。 久遠元初における日蓮大聖人は、名字凡夫の姿のまま妙法を唱えられると同時に、直ちに正観に達せられたのであります。まさに「直達の法華」とは、妙法にはらまれた、仏因と仏果とを因果倶時ならしめる妙なる力を指しているのであります。それはまた、久遠元初の自受用報身如来即日蓮大聖人の生命に脈打つ一法でもある。 ~~~~~~~~~~~~~~ あらまし: 1. 直達正観=即身成仏=即得往生 2. そのためのチカラは 法と人とに分けた場合 妙法と妙法の当体とである。 3. すなわち 類型として 梵我一如=境智冥合=仏仏一如=・・・。 4. 日蓮は 妙法の当体であり妙法そのものである。と。
補足
お礼欄で □ (創価教学研究室(赤鬼のブログ):上掲講義の解説) としたところは これもぜんぶ池田大作氏の講義であるかも知れません。(よく分かりませんでした)。
仏教とエジプト美術 http://www.aichi-kyosai.or.jp/service/culture/internet/art/antique/antique_4/post_710.html エジプトの蓮は香りも良く、精神の昂ぶりを抑える効果も大きいとされています。 また日本では泥のような汚いところから伸びて来て、水面で極楽のような美しい花を咲かせることから大切にされています。 また蓮は朝に美しく花開き、夕方には花を閉じる習性があり、それがあたかも人間の生と死、すなはち一生をシンボライズしているとも捉えられているようです。 そうした蓮の不思議が仏教にも取り込まれてきたと考えてもいいように思えます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そういえば、蓮とエジプトになにか関係があったような気がすると 検索してみたら、こんなサイトも。仏教とエジプトは関係あるんだろうか。 エジプトの女神というと有名なのはイシスだろうけど蓮はどうなんだろう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 蓮の原産地はどこ? http://www.lotusjp.com/A.html 蓮の原産地については、エジプト説、インド説、中国説などあります。ただ、それを特定できる遺物が発見されておらず、まだ未定の状態です。 エジプト原産地説は、西洋人が睡蓮と蓮を混同したのが、そもそも間違いの元でした。古代エジプトの遺跡に描かれているのは睡蓮であって、蓮の花ではありません。エジプト学でいうロータス(lotus) は、睡蓮のことです。エジプトに蓮の花が持ちこまれたのは、末期王朝時代の紀元前700~300年頃とされています。 インド原産地説は、インドで生まれた仏教が、蓮の花と深くかかわっているからと思われます。紀元前3000年前のインダス文明の遺跡から発見された地母神像の髪が、蓮の花で飾られています。このことからも、インドでも古くから蓮が生育していたことが分かります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
お礼
ご回答をありがとうございます。 padma と pundarika どっちが 一般的か。種類が違っていて どちらも主流か。
中村: そうですね。マホメットがメディナに移って、ここでイスラム教が起こったわけでありますが、ちょうど接しているわけですね。さらにまた西の方へ目を向けますと、いろいろな諸国で諸王朝の争いがあったわけですが、殊に西ローマ帝国は既に滅びておりました。その後、東ローマを中心として、いろいろ侵略とか戦闘もありましたし、それからフランク王国の建国というのが四八六年になされておりますが、その後いろいろ曲折はございました。諸国いろいろでございますが、しかしそこに通ずるものがあった。殊に、私、一番不思議だと思いますのは、七世紀頃になりますと、インドは分かれておりましたけど、文化的にはやっぱり他の国々と通ずるものがあった。それを象徴的に示すものは、アジャンターの石窟の壁画ですね。殊に第一窟というのが一番後で出来まして立派なものが完成しました。そこに描かれている菩薩の姿ですね、蓮華手菩薩と申しますが、蓮華を手にしている。元の言葉で「パドマパーニ」と申します。その姿が法隆寺の金堂の観音様の姿と実によく似ているんですね。インドのものを見てきた人が日本にそのまま伝えたというわけでもないんでしょうけど、やはり似たものが聖徳太子の頃に現れたということは、何か国々は別でも、そこに精神的に通ずるものがあって、我が国にさえも感化を及ぼしたと言えるんじゃないかと思います。 世界史の中の聖徳太子 http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-329.htm ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ パドマパーニで検索したら、上のサイトがありました。
お礼
あばうと過ぎなければよいのですが。
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kazamidoriさん、こんばんは、眠り猫です。 そして、 bragelonneさん、こんばんは。 ☆☆☆☆☆☆ padmaは、「蓮」ですね。。。 ヴィシュヌの神話が関係しているのかな。 ヴィシュヌの神話に、 ヴィシュヌがお昼寝をしているとき、おヘソから蓮がにょろにょろと伸びて、蓮の華を咲かす。で、梵天・ブラフマーが世界を創造したみたいな話がある。 これが関係しているのだろうか。。。 あるいは、法華経の25章に観音さんの話が出ているでしょう。あそこで、観音さんは、いろいろなヒトにアヴァターラ・化身する。これが関係しているのかどうか。 いやさぁ~、僕も不思議に思っているのだけれど、 なぜか、観音さまって、水と蓮に縁があるんだよね~。 なので、水に関係する神様が仏教に取り入れられて、観音様になったのであろうという説がある。 では、その神様、女神は何かというと、、、、 ひ・み・つ!! ヴィシュヌの奥さんは、ラクシュミ。これは乳海撹拌の時に、生まれた女神。 シヴァは、パールヴァティ。山の女神。 ブラフマーは、サラスヴァティ。サラスヴァティーは弁天さまで、、、、、。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC でも、違うんだな~。もっと西の女神様で~す。
お礼
★ 三位一体 ☆ は 三神一体――トリムールティと言うそうですね――のことでしたか。
お礼
けいえす5518さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 順に応答してまいります。 ★ ~~~~ ☆(2) (ε) 法華経に同共して信ずる者 (η) 不同共の念仏者等 ■ 後者は、法華誹謗の者。 前者、後者共に、仏性を有する。⇒《仏性を宿すひと》 ~~~~~~ ☆ ありがとうございます。そしてさらに細かくうかがいます。 《(η) 不同共の念仏者等》は《既に仏性法身如来に背くが故に》とありますが これは 法華経や法華経の行者〔の説くオシエ〕を知らない段階においても 《法華誹謗》になりますか? つまり各宗派の指導者ではなく 一般民衆の場合には 単に知らないという場合があると思いますが そういう場合でも法華誹謗になりますか? つまり――くどいですが―― 法華経を知らないだけであって 《仏性法身如来に背く》ことについては 善意である。つまり 知らないでいる。つまり 浄土教ならそれとしての《仏性法身如来》に従おうとしているという場合です。そういう場合はあると思われます。 * ★ ~~~~~~~~ (3) 《妙経の体に非ず》というのは ■ 法華誹謗の者。⇒地獄の業因を積む、ということ。 ~~~~~~~~~~ ☆ ということは 前項でも確認していただきましたが 《仏性(仏界)》がダメになったり消えてしまったりしたわけではない。のですね。《地獄界の状態になる傾向を強くして行っている》ということですね。 つまり それは すぐただちにでも 妙法のチカラにつつまれるなら すくわれる。こうですね。 * ★ ~~~~~ (4) ■ 真実の神――(μ) 《自在神力》との、解釈が違います。 神力と神を一緒に考えることはない。これは、質問者様の既成概念から出てくる言葉かもしれない。 ~~~~~~~ ☆ そうなんですか。これは あとにも出て来ますが 《神》の定義を次のようにしてみます。 ○ 神とは 《真理――すなわち変わらざる真実――がすべてにおいてすべてである》その場ないしチカラである。《ひとり満ち足りている存在》である。 これは《南無妙法蓮華経》なる場ないしチカラと ちがっていますか? むろん《神力》と言えば その《神》の属性としてのチカラ(そのハタラキ)を言う場合も出て来ます。つまり《本体》とは別の性質を言う場合もあり得ますが 本体なる神を言う場合もあり得ます。 * ★ ~~~~~~ (5) この疑問は (κ)の文章につながります。 ◆(κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人 ■ ※質問内容と番号の振り方に疑問を感じます。この質問は、、、、?? ~~~~~~~~ ☆ 説明します。《(η) 不同共の念仏者等は 既に仏性法身如来に背く》が もし《方便の爾前経に執着し これを捨てない》と読めましょうから 《つながります》と見ました。 * ★(6) ~~~~ ■ 浄土真宗は、何を本尊とするのか?? 親鸞が、法然を師として浄土真宗を展開するならば、先ずは、浄土宗をもって正邪を判ずるべき。 それとも、親鸞は法然に背く弟子なのか。伝教に背いた慈覚のように。恐らく親鸞は、宗祖の器を持ちえない、いい加減な人間なのだと思う。個人的見解ですが。 ~~~~~~~ ☆ 親鸞の神であるアミターバは ここで言う真実の神です。たとえば 《義無きを義とす》というごとく その神については 人間の知性や感性が及ぶものではないと捉えます。 また 念仏が 親鸞にあっては 法然らとはまるきり違うことについても触れました。《非行非善》だという点です。 * ★(7) ■ 南無妙法蓮華経は、神ではない。 ☆ 定義を明らかにしましたので 検証してみてください。 ★ ~~~~~ (7-b) ■ 論法がメチャクチャである。 名はアミターバやマハーワイロ―チャナなどなどとして違っていても⇒この時点で、法華誹謗になります。 ~~~~~~~ ☆ では何故《南無(インド語)妙法蓮華経(漢語)》なのでしょうか? そういう意味では《名が違っている》のではありませんか? 日本人にとっては。しかも《真実の神》はこれを信じているのです。 ★ ~~~~~ (7‐c) 《南無妙法蓮華経を唱える》こととは どういうことか? ■ 御本尊を信じ、御本尊に対して(御本尊に向かい合って)、『南無妙法蓮華経』と題目を唱える事。 ~~~~~~~ ☆ 《信じ》というからには その《御本尊》は 真実の神ではないのですか? * ★ ~~~~~~ (9) すなわち ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~ (γ‐a) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして 清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この仏性ないし《自性清浄心》なるわれわれの身と心とは 自然本性として生まれたときからそなわった仏性の発現を――わづかに《信じる》ことをとおして・という意味は 人間の能力も及ばざるがごとく一切の努力を超越して――自然史過程として・自然史過程において(具体的にはヒラメキなどをとおして) ありがたいことに 見ることになる。のではないであろうか? ■ それが、御本尊がもたらす縁である。 ~~~~~~~~~~ ☆ 一致しましたね。 * ★ ~~~~ (10) 《南無妙法蓮華経》なる場ないしチカラは 真実の神ではないのか? ■ 神ではない。仏である。 ~~~~~~ ☆ 神の定義はあきらかにしています。また日蓮氏も《自在神力》という言葉を用いている。これは 概念としては主宰神ブラフマンのことであるはずです。すなわち霊我と呼ばれるアートマンと同じです。すなわち 普通名詞としては 仏性・自性清浄心・如来蔵と同じだと見られます。 すなわち類型としては 境智冥合は 梵我一如と同じだと見られます。それゆえに チカラが得られるというかたちを同じくしており 真実の神の問題においてあつかうことが出来ます。 ★ ~~~~~~ 【御義口伝 下 P.752】 『第一南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事』 「無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」 無作の三身とは、久遠元初自受用身の“仏”を指す。 ~~~~~~~~~ ☆ 《法身》が 《真理》のことであり 真実の神のことだと見られます。 くわしくは 補足欄にて考えます。
補足
◆ (御義口伝巻下) ~~~~~~ http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=752&gn=%E5%BE%A1%E7%BE%A9%E5%8F%A3%E4%BC%9D%E5%B7%BB%E4%B8%8B&a1=34&a2=61&re=&pl=&c=10&p=1 日蓮所立自寿量品至開結二経 寿量品廿七箇の大事 第一 南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事 文句の九に云く 如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり 別しては本地三仏の別号なり、 寿量とは詮量なり、 十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量す 故に寿量品と云うと。 御義口伝に云く 此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり 神力品の付属是なり、 如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり 別しては本地無作の三身なり、 今日蓮等の類いの意は 惣じては如来とは一切衆生なり 別しては日蓮の弟子檀那なり、 されば無作の三身とは 末法の法華経の行者なり 無作の三身の宝号を 南無妙法蓮華経と云うなり、 寿量品の事の三大事とは是なり、 六即の配立の時は 此の品の如来は 理即の凡夫なり 頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時 名字即なり、 其の故は 始めて聞く所の題目なるが故なり 聞き奉りて修行するは 観行即なり 此の観行即とは 事の一念三千の本尊を観ずるなり、 さて惑障を伏するを 相似即と云うなり 化他に出づるを 分真即と云うなり 無作の三身の仏なりと究竟したるを 究竟即の仏とは云うなり、 惣じて伏惑を以て 寿量品の極とせず 唯凡夫の当体本有の儘を 此の品の極理と心得可きなり、 無作の三身の所作は何物ぞと云う時 南無妙法蓮華経なり云云。 第二如来秘密神通之力の事 御義口伝に云く 無作三身の依文なり、 此の文に於て重重の相伝之有り、 神通之力とは 我等衆生の作作発発と振舞う・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまりは 本地無作(もしくは本有無作)の法報応の三身なる存在がいると言う。 ◆ ~~~~~ 無作の三身とは 末法の法華経の行者なり 無作の三身の宝号を 南無妙法蓮華経と云うなり、 ~~~~~~~ ☆ それにしても なんで日本語で表わさないのでしょう? そしてこの質問ではすでに《南無妙法蓮華経》を 法身のブッダとして 《真理にひとしい・真実の神》と名づけています。 そのダルマの場ないしチカラを言うときに 神と呼んで捉えたほうが うんと早いし 分かりやすいと考えられます。 すなわち本地が無作――つまり 自然法爾(じねんほうに)――であるゆえに 朽ちることのない真理としての神であると。 そしてこれを《南無妙法蓮華経》とも ここでは 言いかえているのですが 問題は ◆ 無作の三身とは 末法の法華経の行者なり ☆ というふうに――確かに存在を身につくっているからには 応身のブッダだとも見られうるでしょうが それにしても問題は―― 日蓮(有名人は 呼び捨てがふつうです)というひとりの人間が この法身のブッダであり 真理であり神である。と言ったことになります。 ここでしょうね 問題は。 おそらく かんたんに済まそうとするなら ブッダと神とは違うと言えばよいかに見えるのですが。 だったら けっきょく《ブッダ》とは何か? の問いに哲学として答えなければならないでしょうね。 人間のことか? なら 法身のブッダには人間はなれない。 人間のことではないか? なら それが法身として真理でもあると定義して使ってもよいはず。だけれども 人間である日蓮が この法身であり真理であり神であるブッダであるというのは くるしい。でしょうね。 ■ 無作の三身とは、久遠元初自受用身の“仏”を指す。 ☆ とおっしゃっていますが。 ずばり ○ 日蓮は 法身のブッダであり 神ですか? すなわち 法身の――また本地無作の法報応の三身としての――ブッダであるとすれば ○ 理即や名字即から究竟即までの段階など関係なく――あるいはまた 無明と明知との区分などはいっさい関係なく―― 初めから 神としてのブッダである。 となります。それでよろしいですか? 神としてのブッダと人間とのあいだには もはやいかなる想定も妥当性のある存在としておこなうことは出来ないはずです。 人間が 有限の程度問題としての高い段階であるブッダに成ることは出来ると言えましょうが 神としての(法身としての)ブッダであることは かないません。 もし 人間であると同時に法身であり神としてのブッダでもあるとすれば そういう想定は 人間イエスが神なるキリストであるという場合です。 もしそういう想定に踏み込もうということでしたら それ相応の――物語としてながら――理論としての整理をしておかねばならないでしょう。