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法華経の良医の譬えについてのおかしな点
- 法華経の良医の譬えにはいくつかのおかしな点があります。
- 子供たちは薬の効能を理解していながらも、薬を飲むことを拒んでいました。
- また、救いの思想について明確な説明がなされず、父である良医が亡くなった後は救いがないと語られています。
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>☆ と言うのなら その《覚醒》ですでに《毒気から癒された》のではないか? 薬を飲む必要はもはやないではないか? ・こ-3の段階では、本心を取り戻したが、薬の服用はまだしておらず、こ-4に至って薬の服用により治癒したのではないでしょうか。 >(そ) あるいは(か)がおかしい。《本心を失った子どもら》は 《癒す薬が欲しい》と言っている。ならば 本心をかすかにでも保っている。 (そ-1) それでも 薬を欲しがったという事実だけを受け留めて話をたどるなら そこでそれでも良医たる父の処方した薬を飲まなかったと言う。 ▲ (か) ・・・なぜかと言えば、毒気が深く入り込み、本心を失ってしまっていたので、この色も香りも好ましい薬を、『美しくない』としか言いようがなかったのです。 ☆ ぢゃあ 父に向かって《つくってくれた薬は うつくしくありません》ときちんと言えばいいぢゃないか? ・そのばで言えばね。 (そ-2) それを ▲ (き) 父は 《この子は、なんてかわいそうなのだろう。・・・》と思った ☆ と言う。(お)で《本心を失っていない子ら》は 飲んで毒気から癒えたというのに。おかしかないだろうか? ・たとえ他の子供が服用し治癒したとしても、それすらまともに開けとめられないほど病んでいたのではないでしょうか。 (そ-3) もし本心をわづかにでも保っていたとしてもなお毒気(これは 実際には思想ないし他のシュウキョウのことらしい)に当たって《心が転倒している》という事情があると見るとすれば どうなるか? ・・・・ >(た) だとしたら 薬を飲んで癒えた子どもらと一緒に良医たる父は その薬――じっさいには救いの思想のこと――の成分や効能をしらべて科学的に説明すればよいし 思想やオシへであるならそれらについて そのマチガイを指摘し批判をすればよい。 ・その話が聞けるようであれば良いが、それすらも聞けないほど毒におかされているのではないですか。 >(ち) (こ-3)で父が亡くなった今となっては救いがないとさとったと言う。その悲観ゆえに 《覚醒》したというのであれば そのことは 父である良医がいるときには それに甘えて頼り切っていたのだと見られる。だとすれば 父のくれた薬を 少々《うつくしくない》と見えたとしても やっぱり飲んでみるのが ふつうである。飲んだ子どもらもいるのだから。 ――つまり 話が矛盾している。話の中身の設定がまづいのであろうと考えざるを得ない。のでは? ・でも、最終的には服用し治癒するのだから、父の目的は達成されたのでしょう。 >(つ) ホワイト・ライについては質問者からは問いませんが 問題は どうも《薬がどんな薬か ないし その医者が名医であるかどうかの中身》に行き着くのではないか? つまり ゴータマは その――つまりは《さとり》の――中身については何も語らず明らかにしないし せずじまいであったということ。ここに一切の問題があるのでは? ・そうです。その通りです。ハッキリと『私は〇〇して仏になった。仏に成りたければ君らも実践せよ。』と言ってくれていたら良かったのかもしれません。 しかし、言っていない(法華経には書かれてはいません)。 もし、書かれていたら、像法・末法に生き抜く我々衆生はこうも苦労してはいなかったと思います。 ただし、法華経の中にはその仏になる『法』の存在と、釈尊成道の原因になった『修行』と、釈尊在世の正法ではなく末法万年に向けた布教を『地涌の菩薩』に託したことが書いてあります。その後、インド・中国・日本に渡り、様々な形で研究されています。
お礼
ご回答をありがとうございます。 (て) ★ ・こ-3の段階では、本心を取り戻したが、薬の服用はまだしておらず、こ-4に至って薬の服用により治癒したのではないでしょうか。 ☆ たしかに 本心を失っていない子どもらは すすんで薬を飲みました。 (お) その子供たちの内、まだ本心を失っていない者たちは、この良薬は色も香りも好ましいと見えたので、すぐに服用して、病をことごとく除き癒されたのです。 ところが かれらはすでに自分たちが《毒薬を飲んだ》ということを知っていたのです。 (う) 我らは愚かで何も知らず、間違えて毒薬を飲んでしまったのです。 つまり 自分自身の自覚として言っています。 (て-1) つまり 問題は 薬とか毒薬とかいうとき それがふつうの薬を言っているのか それとも思想や宗教のことを譬えとして言っているのかです。 (て-2) たしかに薬そのもののことであれば 《本心を保っていて なお解毒剤としての薬を飲む》必要があります。けれども 思想・宗教のオシへの場合なら どうでしょう? (て-3) もはや解毒剤の問題ではないはずです。なぜなら 本心を保っているのだし あとで出て来るように《覚醒》もしているのだからです。 (て-4) ですから ★ こ-4に至って薬の服用により治癒したのではないでしょうか。 ☆ というのは 解毒剤の問題のばあいに限ってのことでしょう。言いかえると ブッダが 歴史をつうじてそれぞれの時代に応じて現われるといった思想・宗教の問題としてならば この《良医》は要らないわけです。 (て-5) 本心を失っていないなら だいじょうぶですし かなり失っていたとしても《悲観》の感覚を得てこれをとおして やはり本心を回復し覚醒をもする。と言っていれば 何の問題もないことになります。 (と) ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >(た) だとしたら 薬を飲んで癒えた子どもらと一緒に良医たる父は その薬――じっさいには救いの思想のこと――の成分や効能をしらべて科学的に説明すればよいし 思想やオシへであるならそれらについて そのマチガイを指摘し批判をすればよい。 ・その話が聞けるようであれば良いが、それすらも聞けないほど毒におかされているのではないですか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 問題が違うと考えます。 (と-1) なぜなら 薬(薬草など)についてなら 人びとは 試行錯誤をとおしてでもその効き目や毒性を学習していくはずです。そのことに何ら触れていないのは おかしい。 (と-2) 思想・宗教としての薬の問題だとすれば とうぜん人はその理論的な中身を吟味し検証するものです。その作業をやった形跡は いっさいない。おれ(良医=父)の処方なのだから 良薬であるに決まっている 飲めと言っているも同然です。自分がいなくなった状態に子どもらを置いて そのような《良医・良薬の決定説》を飲ませようとしているに過ぎません。 (と-3) もういちど言えば 思想やオシへの内容をきちんと把握しこれを――毒ならば――批判するという手続きを取る必要があるのに それをする気配がありません。たかが譬えの問題ではないかと言ったとしても おかしい。 (な) すなわち・つまり ★ (ち): ・でも、最終的には服用し治癒するのだから、父の目的は達成されたのでしょう。 ☆ と弁解したとしても その《目的の達成》のさせ方が おかしい。となります。なぜ自分(=父)の薬は 毒ではなく効き目がよいものだということは いっさい説明していないからです。 (な-1) 信頼関係に頼っていると言えば 聞こえはいいですが 哲学から見れば ただの盲目的追随をうながす非科学的な指導でしかありません。 (な-2) つまり 思想やオシへとしての薬の問題だとすれば どこまでも理論と実践が肝心のことがらです。それについての話は いっさいありません。おかしい。 (に) ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・そうです。その通りです。ハッキリと『私は〇〇して仏になった。仏に成りたければ君らも実践せよ。』と言ってくれていたら良かったのかもしれません。 しかし、言っていない(法華経には書かれてはいません)。 もし、書かれていたら、像法・末法に生き抜く我々衆生はこうも苦労してはいなかったと思います。 ただし、法華経の中にはその仏になる『法』の存在と、釈尊成道の原因になった『修行』と、釈尊在世の正法ではなく末法万年に向けた布教を『地涌の菩薩』に託したことが書いてあります。その後、インド・中国・日本に渡り、様々な形で研究されています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ちょっと待ってください。 (に-1) 《法と修行と 末法の主役としての菩薩のこと》が書かれているのですか? (に-2) 《地涌の菩薩》のことは書いてあります。《法・ダルマ》は そのようなダルマがあるといったことには触れています。真理だとかそういった概念としても触れています。ですが 実際にどう人間が体得したかは書いてありますか? (に-3) つまり どう《修行》すればよいかが書いてありますか? 書いてあることを実践することによってダルマを体得したというさとりに到ったと書いてありますか? つまり 保証抜きの・予告編のごとき説明としての書き込みだけではありませんか? ゴータマは さとりという建築のための足場を築いただけではないのですか? (に-4) ★ その後、インド・中国・日本に渡り、様々な形で研究されています。 ☆ 研究は自由ですが・また大いにやって欲しいところですが 問題は すべて言っていること・書いてあることが 大化城であるに過ぎないということです。すべては まぼろしです。 (ぬ) 二千数百年にわたって 人びとをペテンにかけている。だけではないのですか?