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末法思想の根拠・起源は?
無宗教ですが、仏教を勉強中のものです。 末法思想が浄土信仰(のちの浄土宗・浄土真宗)や日蓮宗の成立に大きくかかわっていますが、末法思想の根拠・起源は何ですか? 日本だけのものですか?外来のものですか? 布教のテクニックとして、末法とか世紀末とかの終末論で大衆の危機感を煽るのはわかるのですが、そういう意味ではなくて、どの経のどの記述が末法思想の根拠となっているということを知りたいです。 ある書籍では、正法=紀元前949年~、像法=52年~、末法=1052年~、と読んだのですが、こういった時期の根拠は何ですか? 法華経で示された釈迦の永遠性と、末法思想とは矛盾しているように思えるのですが、これはどう解釈したら良いのでしょうか? 「法華経入門」(菅野博史著)から該当箇所(P.70)を引用します。 『如来寿量品第十六では、弥勒菩薩の地涌の菩薩に関する質問を受けて、釈尊は自身が成仏したのは今世ではなく、五百塵点劫というはるか遠い過去においてであることを明かし、あわせて未来も不滅であるととく。つまり、「法華経」の中心思想の一つである「永遠の生命をもつ釈尊」の像が明らかにされる。』 お答えの際は、差し支えない範囲で、ご自身の宗教・宗派を書いていただけると助かります。
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不謹慎とまでは言いませんが、問題が見えないので質問者から一応書いていただ方がありがたいですね。回答者が混乱します^^。すでにしているような・・。 >日蓮についてはわかりました。法華経を読んでいるはずの道元が末法思想を認めなかった理由がまだわかっていません。 これを新しい課題とするということで良いのですね。 補足要求した手前簡単に。 自宗のこともろくに知らない最近の僧侶ならいざ知らず、歴史に名前が残っている人で、法華経をちゃんと読んでいない人を探す方が大変でしょうね。宗旨はありますが、各人レベルでも取捨選択が行われていたのでしょうね。 禅僧で末法思想の信者がどれだけいるかということは、一考したらいいと思いますね。道元の特殊性か禅というものの一般性から導かれるものか、ということです。 >華経で示された釈迦の永遠性と、末法思想とは矛盾しているように この問題については、末法思想を受け入れない道元にとっては、明確にクリアーされていますね。 道元の人間観について『正法眼蔵随聞記』等に見えます。末法思想を言い訳に、修行しないことを批判していますね。釈尊在世当時でも、愚鈍な人はいたなどとも書いています。 道元は悟りと修行を分けていません。悟りと修行は同一のものとして見ます。坐禅すること自体が仏の相を表すというのは道元の思想として紹介されますが、悟りと修行を分けないという考え方は禅者に広く認められると思います。 坐禅することがそのまま悟りであるという立場からは、末法などというものは方便として理解されるのはよくわかるところです。 でも、何故そういう立場に立ったのかという点が知りたいのでしたら、道元の思想的遍歴についても触れなくてはいけません。しかし、それは私の手に余るかもしれませんので、もし他の人から回答が欲しいのでしたら、道元についてどの程度の知識があるのか書いてくださった方がいいかもしれませんね。
たびたびですみません。 >法華経と末法思想の矛盾性の提起 という点については、一通りの答えはしたつもりですし、もしまだ開かれているのでしたら、問題を整理して、さらになにが聞きたいのかを書いていただけないでしょうか? 宗論の様相を呈してきたとのご指摘がありましたが、私は宗門の人とやりあうほど宗学には詳しくはありませんし、かなりうんざりもしております・・。 上座部系の方と大乗密教とは、まだ無理解もあると思っています。私自身は両方の話を聞いていますし、 かといってどちらつかずを決め込むという意図はありませんが、誤解もかなりあるということは傾向として言えます。 たとえば原始仏教では、一切神秘思想がないということに関しては、そういうわけではありませんし、読んでみれば分かります。それを真言の人は言っているのでしょうし、原始経典と呼ばれる経典には末法思想はありませんが正像の二つはあります。前にも書きましたように、像法は「偽物の仏教」という意味ですからここでは時間的に衆生の機根が落ちてくるという意味はあまりありませんし、まして五濁の世になるというような下降史観ともあまり関わりはありません。文脈で意味が異なります。しかし、原始仏教にはそうした教えが混乱していくことについて危機意識がまったくない、と言い切ってしまうとそれは違います。これを末法思想の一面と見るなら、もととなる発想がないとまでは言えないと思います。 しかし、そうしたことについては、批判をする人ほど知りませんし、定式化された批判をされています。これは、原始仏教というものを理解する際に、歴史的に後から出来た大乗仏教や密教の要素を意図的に排除した結果でもあります。大乗や密教の方の一部にも、大乗非仏説というのが前世紀に流行ったものですから、そのことを言われるとすぐにそれは乗り越えたという返事をする人も多いのですが(ここで回答されている真言宗の方のことではないです)、この問題は布教をして信徒さんと関わる人間にとっては、他者の批判は的外れでも、自覚的問題としてはそう簡単な問題ではないはずですし、すべての批判が前世紀どまりでもなく、また単なる批判とも違うものもあるのですが、そのことには目を向けない人もおられます。 でも、そうした誤解のある一面で、最近はまた別の方向でも原始仏教(厳密には違いますが、ここでは上座部と考えてもいいでしょう)が注目されてもいます。宗教の説く内容は、宗派などでそう簡単に割り切れない面もある一方、大乗仏教や密教がともすれば等閑視しがちであった倫理性に注目するとか、これは戒の問題と関わると思います。社会の問題やゆきづまり、精神的な問題などに対して、今一度原始仏典や南方仏教の思想・実践に注目しようというものです。この立場は優劣を出すことを目的とはしていませんし、また必ずしもアカデミズムのとりすました態度でもありません。
お礼
> 一通りの答えはしたつもりですし、もしまだ開かれているのでしたら、問題を整理して、さらになにが聞きたいのかを書いていただけないでしょうか? 興味深い意見が聞けるのでまだ開いてます、といったら不謹慎ですかね。 日蓮についてはわかりました。法華経を読んでいるはずの道元が末法思想を認めなかった理由がまだわかっていません。
- yuhkoh
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>>今のところ入信するつもりはありません。知識を学ぶだけでも、全く学ばないよりは"まし"として、暖かく見ていただけないでしょうか。 「終わりとします」といいながら、また書くのですから、不妄語戒を破ったことになりますが、さて、前述の一文は「学究豊か」にして「その学徳の誉れ高い」最澄に対して、それを踏まえた上での空海の言葉ですから、もちろん学ぼうとされることへの批判ではありません。あくまでも私自身への戒め(もちろん、最澄さんには及びもしませんが)としてです。 ましてや「信修」は、通俗的な意味での「○○教に入信」でなく、法を体得するがための実践的行動というように理解されてはいかがでしょうか。 まあ、自分自身がそうでもないのに高説を垂れていたら、梵天帝釈四天王、八大金剛から「自分を差し置いて偉そうなことを言うな!!」と冥罰を受けるでしょうから、本当にこれをもって退場します。 失礼しました
- lightgrid
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再びNo.19です。現在の上座部部教による大乗仏教に対する見方を、下記のサイトでも特に次のページをご覧下さい。 p://www.j-theravada.net/kogi/kogi8.html No.27、第4~5行中の誤記訂正:「それは、哲学的考察として論理当然の帰結です。」→「それは、哲学的考察として論理的な当然の帰結です。」
- lightgrid
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No.19です。 私は、質問者様による、法華経と末法思想の矛盾性の提起には(哲学的に)意味がない、と主張をしています。その根拠として、大乗仏教が成立過程において別々の人間たちよって創作されたという歴史的事実(創作の事実)を説明したのです。それは、哲学的考察として論理当然の帰結です。 上座部仏教を理解するため、また、現在の上座部仏教が大乗仏教をどのように見ているかを理解するために、次のサイトをご覧下さい。大乗非仏説は、決して19世紀の遺物の、過去の遺物ではありません。 http://www.j-theravada.net/kogi/index.html 空海も阿含経が宝法であると記していたようです。さすが空海ですね。 真言宗でも、内部の学僧たちが独自に大乗仏教が仏教でない、ということを突き止めたが、公にされなかったようです。真言宗の学僧もレベルが高いですね。 プロのお坊さんたちは教団や自分の生活がかかっていますから、立場でしか考えられないのでしょう。 世界的にも、宗教・学問の世界で、大乗仏教は仏教とは見られていないようです。 論争するつもりはありません。
お礼
「法華経と末法思想の矛盾性の提起には(哲学的に)意味がない」については、ご指摘のとおり哲学的に意味は無いですし、上座部にとっても意味は無いと了解しました。法華宗系にとっては意味があると思うので、ここで聞いています。私は彼らの気持ち(or論理)を知りたいのです。 上座部と大乗仏教の優劣については、ここのテーマではないので止めましょう。別の質問を立てていただければ、私も見に行って勉強したいと思います。
- yuhkoh
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なんだか宗論のようになってきた様相ですが、末法思想については、法(ダルマ)自体が消滅するというものではなくて、修行者や衆生の機根が劣化してくるということを象徴的に表した事柄だと思います。 そこに法華経の場合だと、久遠の釈迦を説くことで、ダルマは歴史上の釈尊の「発明」に非ず、永遠不変の真理にして、釈尊はそれを「発見」された故に、「釈迦如来」であると位置づけたと思います。 末法についても、それをどのように捉えるかによって大小・三乗(聞声・縁覚・菩薩)・難易・顕密の差異が生じるのでしょう。 私は真言ですから、弘法大師の『※秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』より「第四唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)」の一節にある <“末法の世では正しい修行は難しい”とされる。しかし末法に戒定慧の備わった行者が存在しないかというと、そうではない。 例えば、雪の中で松柏が枯れないように、炎の中に火鼠(火に住むという想像上の鼠)がいるように、水の中で竜やスッポンが生きているように 「これをもつてこれを観れば、同じ者ありといふといへども、また和せざる者あり、これに由(よ)つていはば、時に濁濫なりといへども、何ぞその人なからん」> と、時代の流れでダルマが滅びるという「末法観」を批判し、釈尊在世を遙かに過ぎた現在、自身はどのように修行すべきかという「末法観」を取ります。 それと、質問者さんの意図に反して「上座部」を取り上げている回答者さんがいますが、失礼ながらその行間の節々や言葉尻に、逆に「上座部」の品位を汚しているように見て取れます。 なぜならば、19世紀にタイムスリップしたかのようなカビの生えた大乗・密教批判。それと上座部といってもそれは近代合理主義哲学にそった最近作られた近代人好みの「上座部」、いや「原始仏教」観。 それこそ、自覚宗教ともいえる釈尊の教えを、イエスやムハンマドのような啓示宗教と同列化し、釈尊の神格化を批判しながら、自身が釈尊を神格化していると捉えましたがいかがですか。 釈尊以後は仏は現れない。行者はあくまでも阿羅漢までであり、慈悲行は仏陀でなければ行えないとする考えに対して、一切衆生は成仏の可能性があり、自身の修行と衆生済度を打ち立てたのが大乗であり、数多くの仏も法の顕現であり、同時に衆生の成仏の可能性を表したもので、それを「大乗は仏陀になれないとする教えだ」など、的外れな批判(いや誹謗か)。 大乗経典が“後世の創作”とのことですが、ではその上座部と信じている内容も、近代哲学者の創作に沿った「原始仏教観」かもしれませんよ。 閑話休題 さて、回答内容もだんだんに、それぞれの宗義に基づく末法観のような雰囲気であり、自身もそんな回答をしているので、ここでとどめますが、最後に空海が最澄に送った一節を自戒の念として終わりとします。 「口に信修を唱ふてども、心則ち嫌退するは、頭(はじめ)有つて尾(をはり)無し。言つて而も行ぜ不(ざ)れば、信修の如くして信修と為るに足ら不」 現代訳:口でいくら信仰し修行をするといっても、それを嫌がる気持ちでは、頭があって尾がないようなものだ。口頭だけで実践がなければ、信じ修行するように見えて、本当の信修ではない。(仏教を経典の解釈など、知識として学ぼうとしても、その真意は分からない) ※『秘蔵宝鑰』…弘法大師による、いわゆる比較宗教論。人間の修行の段階を10に分けて(十住心)、それぞれを各宗派の経論に配当する。前段階を批判しつつ論は展開されながらも、同時にすべての住心は法身大日如来の顕現(ダルマの表れ)とする。 異生羝羊心…動物的な本能 愚童持斎心…世間の道徳 嬰童無畏心…宗教心の芽生え 唯蘊無我心…個体存在の実在の否定:聞声 抜業因種心…一切を因縁の現れとする:縁覚 他縁大乗心…心の働きのみを実在とする:法相 覚心不生心…存在を否定し、一切を空とする:三論 一通無為心…現象はすべて清浄とする:天台 極無自性心…一切自身は定まった性はない:華厳 秘密荘厳心…自身の内にある法を悟り、あらゆる価値を認める:真言
お礼
回答ありがとうございます。 末法が、法(ダルマ)や釈尊について述べたものでなく、「修行者や衆生の機根が劣化」について述べたものとして了解しました。 先にも述べましたが、宗派の優劣についてはこの場ではなく、新たな質問を立てて、疑問を解消していただければと思います。 「仏教を経典の解釈など、知識として学ぼうとしても、その真意は分からない」については、仏教信者はそういうのが当然であろうし、ANo.23のように違う見方もあります。私としては、仏教の教えが全く自分に無関係とは思っていませんが、今のところ入信するつもりはありません。知識を学ぶだけでも、全く学ばないよりは"まし"として、暖かく見ていただけないでしょうか。
質問者様へ。 とりあえず、私の知る限り、インドと中国ではかなり末法思想の流行度や用い方に温度差があったのは確実です。個々の人がどうであったかは多少の意見の相違があるとしても、こういう説が流行するのは大集経流行以降です。これがかなり流行して、そういう流れのもとに末法思想の勃興があるわけで、だからすべての論者がこれを引用しています。宗派を越えて流行したことの証です。 浄土教信者の人が、龍樹の難易二道判として教えてくれていますが、別に本人はこの部分には末法思想と易行を結んではいません。中国人の感性であらたに、易行と「末法思想における」念仏を結んだのです。その際、重要な語句や概念を持ち込んでいます。読み込みはあるかもしれませんが、少なくとも文面ではつながっていないし、まして強調もされてないのです。
- takeru123
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私は子供の頃、親が創価学会員で、日蓮正宗の教えを勉強させられました。 日蓮は正に質問者さまのご説明の通り、釈迦入滅後の2千年説を取り、1052年から末法に入ったと思っていたようです。そして、末法の世になって、正法がすたれたので、天変地異や飢饉が頻繁に起きたのだと、子供の頃から教えられました。 これは、昔は釈迦の入滅は紀元前948年と思われていて、そこから単純に正法1000年、像法1000年を足したら、1052年から末法になるからです。 しかし、ご存知の通り、現在は歴史的な研究が進んで、釈迦の没年は早くても、紀元前480年あたりだとされています。 釈迦 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6 これだと末法に入ったのは1520年で日本では戦国時代、日蓮の生きた鎌倉時代はまだ像法時代です。 私はこのことを中学時代に知り、学会員の方に質問しましたが、誰からもちゃんとした答えはいただけませんでした。(その他、大乗非仏説について質問しても、「そんなのあり得ない」で終わりでした。) ちょっと、ずれた答えかも知れませんが、ご参考まで。
お礼
回答ありがとうございます。 学会員の中に、大乗非仏説を解さない人がいるのは薄々わかってましたが、あらためて確認できました。創価学会や大乗非仏説について私なりの考えはあるのですが、終わらない議論になってしまうので、この場では止めましょう。
本の読み方についても批判されて?いるのかもしれませんので、一応決めつけはできないということだけは触れておきます。 ただ、特に最初ですが、どうも自分よりバカに教えるという書き方をされている気がします。あんまり根拠無く決めつけられても困るのですが。凡夫というわりには、高飛車です・・。 ので、細かく書くことはしません。能動的・主体的とおっしゃり、読み込めとご教示くださるが、それも一方の見方であり、私個人的には宗門の学にしばられた読み方と人口に膾炙した論拠しかもってこれない読み方しかできないのを没個性的で非能動的だと思っています。法華法門でも、文底と言います。あなたは、あれについていけますかね? 多分ついていけないでしょう。解釈そのものが宗教だからです。完全な客観性などありはしない、それは分かっています。でも、そうした文底解釈を離れた立場もあるということは分かるでしょう。自分や衆生の自発的機根の問題を末法と捉えるのであれば、それは自由です。間違っているとは言いませんし、言っていません。ただし解釈からもたらされた部分が大きいと、そう言っただけです。 熱心なキリスト教徒より、正確な聖書理解はいくらでもありえます。でも、その正確は、キリスト教徒にとっては違うかもしれません。 そういう意味では、他の人がどう言おうと私は私なりに能動的ですね。でもそれは私の勝手な見方。能動の定義で変わること、視点で変わることを絶対視して教えることはありません。これを宗教はしばしば破るのですが・・。
お礼
いろいろと有益な意見をありがとうございます。 宗門の学にしばられた読み方が没個性的で非能動的というのは、無宗教の私にとって心強いです。「視点で変わることを絶対視しない」というのは、私のお礼文の中でも気をつけていることであり、全く賛成です。
それと誤解のないようにかいておきますが、私はいかなる信仰も否定していません。それはこのサイトでも一貫しています。またそれがあるので、私個人の特定の信仰を書いたこともありません。 信仰を持つ方が、自分の読み方で読むことは否定していませんが、浄土教徒にとって受容できないからと言って、他の読み方を否定されることは受容できません。
お礼
回答ありがとうございます。 道元は末法を方便として捉えていたと理解しました。 私の当初の質問には全部答えが出ましたが、異説が出てくる可能性も鑑み、回答が枯れてくるまで質問は開いたままにしておきます。