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法華経
http://okwave.jp/qa2649476.html 上記にのNo.16にある内容なのですが、、、 >「法華経」も釈尊の死後に、弟子達が作った教典です。 釈尊が説いたものではありません。 と、あります。 1.「法華経」は、釈尊の説いた教えではないのでしょうか? 確かに、釈尊滅後、国や弟子達により、経典の結集が行われたというのが、現時点での一般的な認識だとは思うのです。 もし、釈尊が説いた教えではないとし、それを証明できるものがあるのなら、それは世の中を覆す大変な事だと思うのです。 中国の天台に学び、法華経を日本に持ち帰った伝教。その伝教大師の開山の比叡山延暦寺。そして、国中にある天台宗系のお寺は全て、有りもしない教えを民衆に教えてきた事になってしまうでしょうし、比叡山で修行し、開宗した宗祖を持つ宗派も多い事でしょう。 本当のところは、どうなのでしょうか?
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#2・4です。 御礼有り難うございました。 自分よりもこの分野に詳しい方はおられるはずなのですが、何度も御邪魔して、いいのかな・・・? 御礼の部分に引用された部分は、自分の個人的な心証です。自分はどちらかと言うと信仰というより、仏教の「思想の流れ」に興味をもっていて、浅くなめるように概説書を読んだ程度ですが。 ただ、仏教の思想の流れを追っていくと、『「非仏説」こそが大乗の誇りであり、証であり、看板なのだ』というのは大ハズレではないと思っています。 詳しくは、機会があれば、前回挙げた書籍を紐解いていただければと思いますが・・・ 上座部仏教(大乗仏教側からいうところの「小乗仏教」)と、大乗仏教の大きな違いは、人はお釈迦様と同じ境地に至ることができるのか否かという点と、その考え方の違いから生じる「真理の普遍性」に対する考え方の違いという点の2点だと思っています。 ものすごく端折って言うと、(法華経でも主要なテーマになっていると思いますが)大乗仏教は人は皆、お釈迦様と同じ境地に至る可能性をもつ(仏になれる)と考えています。 対して上座部仏教は、お釈迦様が説いた教えは真理であるが、お釈迦様だからこそ悟ることができたのであって、他の人々は限りなく近づくことはできても、お釈迦様と同じ境地にはなれないと考えていました。「仏」はお釈迦様で、(過去仏が想定されたり、お釈迦様の前世が演出されているものの)基本的には「お釈迦様が説いた教え」=「仏教」でした。 大乗仏教の興隆という流れは、どういう発想で、どういう人々が参画して生み出されたのか、必ずしも明らかではありませんし、ひとつの要因のみで生み出されたものではないと考えられています。 ただ、上座部系の僧侶たちが、お釈迦様が説いた教えを真理だと奉じて研究・分析に勤しんでいるのに、その境地には至ることができないと考えていることに対して、疑問や不満を抱いていた勢力がいたことは確かだと思いますし、そういう人々(僧侶も一般信者も含む勢力)が、ある種の革新運動として大乗仏教興隆という流れを作り出したということは言えるだろうと思います。 そして、その仏教革新の流れを支える基盤として、おそらくは「この人はお釈迦様と同じ境地に至った」と思える人(たぶん僧侶)が複数いたのではないかと考えられます。そういう「お釈迦様と同じ境地に至った(=仏になった)」人々と、その人々を信奉する信者たちがいくつかのグループを作って、初期の大乗経典(般若経典類・法華経・華厳経・浄土三部経等)を製作していった、というのが思想史上から見た流れになると把握しています。 法華経の製作時期は紀元1世紀以降3世紀までぐらいと考えられており、お釈迦様が亡くなってから300年以上後だと考えられています。 しかしながら、大乗仏教は、人は誰でもお釈迦様と同じ境地になれる(仏になれる・普遍の真理は誰でも悟れる)と考えていましたから、法華経の製作時期や、お釈迦様本人が説いたものでないという事実は、大乗仏教徒にはたいした問題ではないわけです。 むしろ、お釈迦様本人がが説いていないけれど、お釈迦様の教えを実践・体得して同じ境地に至った人物がいるということ、そしてその境地や体得した事柄を「仏説」に仮託して経典に著したということが、お釈迦様以外の者も仏になれるという証であり、大乗の到達点・主張であり、さらにはその主張を根底とした菩薩道や他者救済の思想(←大乗の看板)の原点だと捉えています。 そこから『「非仏説(お釈迦様本人が説いていないこと)」こそが大乗の誇りであり、証であり、看板なのだと。』と考えるわけです。 なんだか、えらく長くなってしまい、すみませんです。では。
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- les-min
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#2です。 御礼有り難うございました。 ひとつの知識として、仏教の「思想史」に触れていただくのも良いかと思います。 法華経を含む大乗経典はすべて仏説に仮託された創作ではありますが、「お釈迦様が説いていない」という事実によって、経典やその教えの価値が下がるというものではなく、別に世の中が覆るような騒ぎにもならない、という点もお解かりいただけると、個人的には喜ばしいと感じています。(信仰上はともかくとして、思想史上では、経典はお釈迦様の教えをリアルタイムで伝えたものではない、と言う点は常識であり、すでに十分一般的な事柄なので。) あまり多く書籍を読んでいるわけでないので、他にも好著はたくさんあるのでしょうけど・・・ 網羅的でわかりやすいものに、中村元・他著『バウッダ 仏教』(小学館)。中国の教相判釈や日本の大乗非仏説論争にも触れながら、大乗仏教を概観する、金岡秀友著『大乗仏教 その行動と思想』(評論社)。仏教だけでなく、インド全般・全時代の思想史を扱う、早島鏡正・他著『インド思想史』(東京大学出版会)あたりが良いかなと思いました。では。
お礼
再度、ご回答いただきまして、ありがとうございます。 一昨年度より、「法華経」を勉強し始めまして、今年よりもう一段進めて勉強を始めるところでした。中村元先生の著作なども視野に入れていましたので、改めてアドバイスをいただいたものについては、目を通したいと思います。 私は、天台宗の檀家の家に生まれ育ち、現在、創価学会の壮年部員として信仰を続けています。幼稚園がお寺さん経営のものだったせいか、「お釈迦様」については誕生を祝う行事などもありましたし、その後も別段疑いも無く過ごしてきまして、昨年位に「法華経」は釈尊滅後に弟子が経典の結集を行ったということを知りました。 中国の天台をはじめ、日本天台宗の祖伝教大師は「法華経」を基に開宗していると思いますし、日蓮大聖人は御書の中で、「教主釈尊」と多くにわたり記しています。 そういった中で、「釈尊が説いたものではない」と言われてしまうと、『法華経』とは一体何ぞや??という疑問が生じます。 この機会ですから、少し時間をかけて自分なりに研鑽をしてみたいと思います。 色々とありがとうございます。 また、回答者様が前回の回答で、、、 >。「非仏説」こそが大乗の誇りであり、証であり、看板なのだと。 と言われている意味を、簡単に解説いただけるとありがたいと思います。宜しくお願いいたします。
- lv4u
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その質問にNo.2で回答しているものです。 >「法華経」も釈尊の死後に、弟子達が作った教典です。 釈尊が説いたものではありません。 このようにNo.16さんが回答されてますが、そのとうりだと思っています。 釈尊の思想としては大きくは4つあると思います。 1.八正道の思想(中道の教え等) 2.六波羅蜜多の思想(救済と菩薩・如来への道) 3.空の思想(色即是空など) 4.縁起の法 いずれも、教えは幾何学の証明みたいに論理的にされていて、「仏教の教えだから文系」と思うのですが実際の印象としては理系的な教えに感じます。また、釈尊は菩提樹の下で悟ったあと、「この世」から「あの世」まで、銀河を超えて宇宙全体を認識されたようです。その時「私の悟った内容は難しすぎて、誰も理解できないだろうから、このまま悟りの幸福の中で死んでいこう」と、食事を取るまいと考えたとき、神々から「その悟った法を説いてください。多くの衆生のために」という梵天勧請があって、初転法輪(伝道開始)となったわけです。 ですので、釈尊の悟りを弟子が理解・マスターできなかったのも仕方なく、そして時代が下り、国をまたいで伝わっていくうちに、イロイロと分派し、自分たちで判る(理解した、考えた)経典や教えを新たに作っていったわけです。 キリスト教では、4世紀後半のカルタゴ教会会議において正式に承認されたものを新約聖書として正典に定めました。その後は、他国言語への翻訳ミスがあったかもしれませんが、神父が勝手に改変したり、新約聖書に外典とされる書簡を追加することは基本的には許されていないと思います。 でも、仏教では釈尊死後数百年たっても、そのような取り決めはなかったようです。つまりキリスト教の聖書がきっちりと管理された上水道の水だとすると、仏教の経典はゴミや汚水や死体や流れ込みほうだいのガンジス川のようなものでしょう。釈尊が述べなかったことのみならず、教えと正反対のことまで入っています。 例えば「○○を唱えれば救われる」という教えは、「反省無し」「自己責任認めず」であり、釈尊の「縁起の法」に反しています。でも、「宗教が麻薬であろうと、苦しんでいる人を一時的にでも救いたい、苦しみを取って楽にしてあげたい」という思いから出た教えであり、釈尊の「救済」の精神を伝えていると思います。 ちなみに、「禅」は、釈尊が悟る以前、修行中の水準のものであり、それゆえ「不立文字」って言いますけど、「教え」が無いのです。「悟り」を垣間見た・悟りの雰囲気だけ味わったって感じですね。でも、日本文化形成に果たした役割は大きいですね。 ところで、最近流行のバラバラ殺人事件の原因を聞くと、「やっぱり難解かもしれないけど、仏教の元祖である釈尊の教えが必要なんでは?」なんて思うこのごろです。
お礼
早速のご回答、ありがとうございます。 私の過去に於いては、「仏教=釈尊が説いたもの」という概念が、覆される事なく続いておりました。 仏教を信奉する者として、過去に色々な教義書なども目を通してきましたが、全てにおいて肯定されておりました。 先の質問に対する、No.16の回答にて初めて初めて否定され、疑って今回の質問をいたしました。 今回の私なりの答えを出すためにも、もう少しお時間をいただきたいと思います。 また、貴方様のご回答を裏付ける参考文献等ございましたならば、是非とも、ご紹介いただきたいと思います。
- les-min
- ベストアンサー率41% (269/644)
こんばんは。。 おそらくは、多くの有意義なご回答が寄せられるご質問なのではないかと思いますし、ご専門の方のたくさんおられると思うので、少々先回り気味に。 「法華経」を含む大乗経典は断じて、お釈迦様の説いたものではありません。 ただ、お釈迦様が説いたか否かというのは、大乗仏教の立場からすると、さほど問題ではありません。むしろ「非仏説」(お釈迦様が説いていない)経典であるからこそ、「大乗」なのだと言えると思っています。「非仏説」こそが大乗の誇りであり、証であり、看板なのだと。 法華経を信奉する方々のすべてではありませんが、一部にはお経をすべてお釈迦様の説いたものとお考えになっておられる方を見受けます。 「信仰上の事実」というものが、「実際上(歴史上)の事実」とかけ離れていることはよくありますし、それ自体は非難されるべきことではありません。古今東西そういう事例は山ほどあるでしょう。 お経をすべてお釈迦様の説いた事柄の記録と信じること自体を、どうこう言うつもりは、まったくありません。 ただ、常々残念に思います。「大乗は、非仏説であるからこそ大乗なのに・・・」と思ってしまうのです。 原始仏教至上主義的な考え方、お経をすべて仏説と考える方々、思想信条は個的なもので、その人がそれで良ければそれで良いもので、歴史的経緯というものと、信仰とは別個のものだとは思うのですが、残念だな、もったいないな、とは思います。 もしも本当に疑念をお持ちになったなら、その機縁を生かしていただきたいな、いろんな方の、いろんなご見解を見聞きしていただきたいな、というのが個人的な想いではあります。 回答になってませんが・・・失礼しました。では。
お礼
早速のご回答、ありがとうございます。 私の過去に於いては、「仏教=釈尊が説いたもの」という概念が、覆される事なく続いておりました。 仏教を信奉する者として、過去に色々な教義書なども目を通してきましたが、全てにおいて肯定されておりました。 先の質問に対する、No.16の回答にて初めて初めて否定され、疑って今回の質問をいたしました。 今回の私なりの答えを出すためにも、もう少しお時間をいただきたいと思います。 また、貴方様のご回答を裏付ける参考文献等ございましたならば、是非とも、ご紹介いただきたいと思います。
- 6dou_rinne
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法華経に限らず大乗仏教の経典はすべてシャカが説いたものではなく、あとで教義が広がってつくられたものです。さもそも仏教は絶対神がいるわけではないので、シャカ以外の仏陀もたくさんいて、そういう仏陀が説いたという教典もたくさんあります。 シャカの説いた完全な内容はいまではわかりませんが、阿含経のなかに断片が残っているくらいだと考えられています。
お礼
早速のご回答、ありがとうございます。 私の過去に於いては、「仏教=釈尊が説いたもの」という概念が、覆される事なく続いておりました。 仏教を信奉する者として、過去に色々な教義書なども目を通してきましたが、全てにおいて肯定されておりました。 先の質問に対する、No.16の回答にて初めて初めて否定され、疑って今回の質問をいたしました。 今回の私なりの答えを出すためにも、もう少しお時間をいただきたいと思います。 また、貴方様のご回答を裏付ける参考文献等ございましたならば、是非とも、ご紹介いただきたいと思います。
お礼
お礼が遅れてしまい、申し訳ございません。 なるほど、よく理解できました。ありがとうございます。 また、機会がありましたら、質問をさせていただきますので、宜しくお願いいたします。皆様、ありがとうございました。