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V‐edとV‐ing

分詞などで、進行を表すVingが能動や行為の主体性を示し、完了のVedが受動を表すようになった由来は何ですか?完了や進行形で表す必要性が見えないと言うか、他のものでこれら主客のニュアンスを何故表現しないのか…と考えています。助動詞のWillやShallのように、宗教的な背景をからダイレクトに説明できるものですか。

みんなの回答

noname#27172
noname#27172
回答No.3

ラテン語では 受動形というのがありました。でも、ラテン語の子孫であるフランス語やスペイン語も 英語のbe動詞に相当する言葉+過去分詞で 受動態を作ります。英語の祖先である 古代ゲルマン語もラテン語と同じように受動形があったと考えられます。こういうのを平行進化と言います。ただ、ラテン語でも時制によっては受動形がなく、それを表すために 英語のbe動詞に当たる言葉+過去分詞で受動態を表現していましたが、次第に受動形自体が消滅してしまいました。 進行形というのも 英語と同じゲルマン語派のドイツ語には存在しませんが、スペイン語やイタリア語には存在します。 いずれにしろ、宗教とはあまり関係ないと思いますけど。

nolia
質問者

お礼

 なるほで、ラテン系の言葉までさかのぼるとかなり由来は古そうだとわかりました。  ちょっと脱線させて頂くと、平行進化とは興味をそそられるコトバです。言語と生物学のanalogyというものを感じさせられてなかなかロマンチックですね。  私が宗教との関わりを疑ったのは、VingとVedに“する”・“される”関係が成り立っているからです。  キリスト教のせいか、やたら西洋の言葉は“するもの”・“されるもの”がはっきりしていると思います。例えば、創造主(神様):被造物(人間や世界)、主体:客体、subject:object…といった言わば、作動体と受容体の関係がしっかり存在してますよね。  と、謂えども勝手に私が思っただけの事なので…  でも曖昧な質問内容の補足の機会を頂きました。  どうも! 

  • ponkiejp
  • ベストアンサー率25% (86/344)
回答No.2

進行形のVing 能動や行為の主体性を示すのは当然として、完了形のVed が受動を表すようになったというより、Ved つまり過去分詞は元々状態を表す形容詞的な意味を持っていたと考えられます。 例えば、He has injured his leg.(彼は脚に怪我をしてしまった)という今の完了形の文章は、昔は、He has his leg injured.(彼は怪我をしている状態の脚を持っている)という言い方をしていたものが、長い間に状態を表す形容詞的な形が完了を表す形に変化して語順が変わり、have +過去分詞の形になって、have が動詞から助動詞に変わっていった、と考えられます。 質問の意味がいまいちわかりにくいので、こんな説明でいいものかどうかわかりませんが。

nolia
質問者

補足

「進行形のVing 能動や行為の主体性を示すのは当然として、完了形のVed が受動を表すようになったというより、Ved つまり過去分詞は元々状態を表す形容詞的な意味を持っていたと考えられます」  私もこの事を“当然”と思いたいので、もう一度聞いても宜しいですか?  勝手な私の連想なのですが、  “今”している行い→勿論それをしている人の行為以外誰のものでもない→よし現在の意味合いを出して進行形にしよう→能動・主体の分詞の出来あがり  “するもの“の行為があれば、”されるもの”もなくては!→では、ほかの人間(客体)のその行為に対する状態はどう表そうか?→そうだ、主客の行為がVingで示されている→ならばここでは時制をずらしてVedを使おう→こちらの分詞も出来あがり  と、VingとVedの分詞たちはできたのですか?私が言葉を作る立場にあったらこうするかもしれないと独り善がりな考え方をしてしまいました。  漠然とした質問でごめんなさい。

  • kmomo29
  • ベストアンサー率21% (9/42)
回答No.1

「完了や進行形で表す必要性が見えないと言うか、他のものでこれら主客のニュアンスを何故表現しないのか…と考えています。」 具体的に他のもので表現する実例を挙げてください。 彼は今夕食を食べている。という文は He is eating dinner now. 以外にそのニュアンスを伝える実例がありますか。

nolia
質問者

補足

形容詞的用法でいってみると、よくあるような an exciting game excited fans というものです。  ここではgameがfansをexciteさせる、あるいはfansはgameによってexciteさせられている、という関係があります。  なぜV-ingは使役(能動)的で、v-edは受身的なものを示すのですか。  全く起源も構造も異なる日本語との比較は避けたかったのですが、古文の助動詞などを例に挙げてみますと、受身の助動詞“る“は完了の意味を持ちませんし、使役の”さす”や”しむ”は存続や行為の進行のニュアンスがありません。  なのになぜ英語では…?ということなのです。  下手な説明ですみません。